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Title <論説>日本中世の手形 : 新見荘の割符について Author(s) 佐藤, 泰弘 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (2013), 96(5): 615-649 Issue Date 2013-09-30 URL https://doi.org/10.14989/shirin_96_615 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title <論説>日本中世の手形 : 新見荘の割符について

Author(s) 佐藤, 泰弘

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (2013),96(5): 615-649

Issue Date 2013-09-30

URL https://doi.org/10.14989/shirin_96_615

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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日本中世の手形

一新見荘の割符について一

日本申世の手形(佐藤)

【要約】 一五世紀の日本では割符と呼ばれる手形が用いられていた。本稿は、備中国新見荘から京都の東寺に送られた割符を詳細

に検討し、割符に関する理解を更新した。まず割符の様式について。割符は小さい紙に書かれ、金額や日付の部分に印もしくは判

がある。これと同様の印・判は返抄と呼ばれる=世紀の受領証にも見える。これらの印・判は文書の真正さを示すものであり、

割符の印・判を割印・符丁であると解釈する通説は成り立たない。つぎに割符の機能について。割符は銭を元の所持者から第三者

に移転するために用いられた。割符は畿内の問屋もしくは商人によって発行され、商人が地方で商品を買い付ける資金を入手する

ために用いられた。商人は割符と引き替えに、荘園から京都に送られる年貢銭を入手した。一方、商人から割符を入手した荘園の

管理者は、割符を京都の領主に送り、領主は指定された問屋で割符を換金した。銭の所有者を位置付けることにより、割符の取引

に関与した人々の立場と役割を従来よりも簡明に説明した。つぎに割符と商品輸送の関係について。従来の研究によると、ある割

符の換金に充当される資金は、商人がその割符と引き替えに得た銭で購入して京都に運送した商品の売却代金である。しかし、そ

れとは別に、商品の輸送と売却に関係なく、問屋が管理する商人の資産が割符の換金に充当されることがあり、これが問屋との取

引が安定した規模の大きい商人が採用した割符の運用方法であった。           史林九六巻五号 二〇一三年九月

は じ め に

割符(さいふ)は、一四・一五世紀の日本で用いられた一種の手形である。地方の荘園から京都の領主に年貢銭を送付

(615)1

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するに際し、現物の銭貨(懸銭)を送る代わりに割符を送付し、畿内で割符を換金して見銭を取得することが行われてい

た。 

                                            ①

 割符に関する研究は~九九〇年代から急速に進展した。その蟷矢となったのが桜井英治氏の研究である。桜井氏は、一

枚一〇貫文という定額の割符が存在すること、紙幣のように流通する割符があること、割符に割印が用いられていること

など興味深い論点を提示した。ついで宇佐見隆之氏は、「かわし文雷」割符と「預かり文言」割符という割符の様式的な

                                         ②

違いに注目し、現代の小切手や約束手形との対比から、桜井氏を批判的に継承して研究を深めた。

 二〇〇六年には耕田芳雄・早島大祐・伊藤啓介ら三尊の研究が立て続けに発表された。辰田氏は割符の裏付に注目し、

                               ③

地方から運ばれた商品の売却代金が割符の換金に宛てられることを論じた。早島氏は、割符に加えられた割印や符丁に注

                                     ④

目し、地方から中央へ輸送される見銭と割符との対応関係という観点から論を展開した。伊藤氏は辰田氏と同じく、地方

から中央へ送られる商品に注目し、割印・符丁を活用して割符と船荷とが対応することを論じた。さらに商品を売却した

                                      ⑤

代価を支払いに充てる割符と、中央に担保された銭を支払いに充てる割符の存在を示した。その後、井上正夫氏が割印・

                       ⑥

符丁を用いた割符の運用の革新性について論じている。

 このように割符の研究は大きく進展した。しかし精緻な論が展開するほどに、割符に即した基礎的研究が必要であるよ

うに感じられる。そこで本稿では、諸研究を踏まえつつ、割符の基礎的な事実を確認してみたい。

 割符の正文は残されていないが、備中国新見荘から領家の東寺に送られた割符の案文が六通あり、割符の遣り取りに関

            ⑦

する史料も多数残されている。従来の研究は新見荘の割符を主な検討対象としてきた。そこで本稿でも新見荘の割符を取

り上げることにする。

 新見荘は備中国の山間部、現在の岡山県新見市に相当する荘園である。代表的な中世荘園の一つとして荘園史研究にお

       ⑧

ける蓄積は分厚い。新見荘は後白河院が建立した最勝光院の所領の一つであり、地頭方・領家方に下地中分されていた。

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日本中世の手形(佐藤)

最勝光院が衰微したのち、後醍醐天皇の時に東寺に最勝光煮方の供僧が設けられ、最勝光院領も東寺へ寄進された。室町

期に東寺が領有していたのは領家方であり、武家代宮が置かれた。しかし荘家からの強い働きかけもあって、寛正年間に

武家代官を止め、寺僧を代署とする直書代宮となる。寛正三年(~四六二)八月五日に祐清が直濡代官として入部し所務

                                ⑨

を行った。しかし血清は翌年八月二五日に殺害されてしまう。その後、三智と呼ばれる現地の荘官(公文・田所・惣追捕

使)は新たな代官の派遣を求めながら、年貢の収納と特進に努めた。祐清や三職が寺家と遣り取りした各種の文書が残さ

れ、最勝光山方の会議録である評定引付にも記事が散見する。六通の割符案について検討する前に、黒黒による割符の運

用を検討しておきたい。

①桜井「割符に関する考察」(㎎日本中世の経済構造㎞岩波書店、一九

 九六年、発表は~九九五年)。なお古典的な研究としては、三浦周行

 門為替手形の起源」(㎎法制史の研究』岩波轡店、一九一九年)、豊田

 武門為替取引の発生」(『豊田武著作集』第二巻中世日本の商業、吉規

 弘文館、一九八二年。発表一九三七年)。中田蕪「徳川時代の為替手

 形文言について」(『法制史論集』第三巻上、岩波書店、一九四三年。

 発表一九三九年)がある。

②宇佐見「割符考」(『日本中世の流通と商業㎞吉川弘文館、一九九九

 年)。

③門田「年貢送進手段としての割符について」(㎎室町・戦国期備中国

 新見荘の研究』日本史史料研究会、二〇 工年。発表は二〇〇六年)。

④早島門割符と遠隔地交通」(『首都の経済と竈町幕府』吉川弘文館、

 二〇〇山ハ年)。

⑥伊藤「割符のしくみと為替・流通・金融」(『史林』八九土二、二〇

 〇六年)。

⑥井上「割符のしくみとその革新性」(『史学雑誌』 二〇-八、二〇

 一一年)。

⑦新見荘に関する史料は、瀬戸内海総合研究会編『備中国新見庄史

 料㎞(圃書刊行会、~九五二年)および岡山県史編纂委員本編『岡山

 県史(二〇)家わけ史料㎞(岡山県、一九八六年)に収載されている。

 本稿では両書から引贋した出典表記として、『備中国新見庄史料聴は

 史料、㎎岡山県史㎞は県史と略記し、史料番号または頁数を記す。

⑧杉山博『庄園解体過程の研究瞳(東京大学出版会、一九五九年)、辰

 田芳雄『中世東寺領荘園の支配と在地臨(校倉書房、二〇〇三年)、辰

 田芳雄『室町・戦国期備中国望見荘の研究㎞前掲など。

⑨ 田田芳雄「直務代官祐清の所務の内実」(『室町・戦国期備中国新見

 荘の研究』前掲。発表は二〇〇三年)。

3 (617)

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祐清の割符

4 (618)

                                  ①

 直務代官の祐清は、【表1】に示したように五圓に亘って年貢を進上している。特産晶の漆・紙・蝋のほか樹齢を送る

こともあったが、割符による年貢銭の進上は一〇枚つまり一〇〇貫文におよぶ。このうち寛正三年(一四六二)=月か

ら~二月にかけて送付された七枚については史料上の記事が豊かであり、割符の特徴を読み取ることができる。そこで概

略を説明しつつ必要な史料を提示する。

                              ②

 祐清は~一月~日、 人の申間に割符四枚を持たせて東寺に送った。この時は備前・播磨で「徳政蜂起」という情況で

                    ③

あったが、割符は=月一六日に東寺に届いた。東寺では道忠に割符を持たせて、広瀬で「割符付」つまり裏付を行った。

その後、広瀬と尼崎で二枚つつ、割符と引き替えに見銭を受け取っている。この「割符取」のため広瀬には道忠が遣わさ

れた。尼崎の使者は了蔵であったと考えられる。銭の使途を記した支配状が、広瀬分は~一月二〇日に、尼崎分は二九日

                             ④

に作られている。そこには換金の経費が以下のように記されている。

  a 六十文、道忠、広瀬エ割符付候時根物

       (道忠V船賃以下、

   百五十文、同、割符取之時

         門指三人狼物

   百文、銭ノ駄賃  五十文、鵯森蔵口就銭事也

 b 五百文、アマカ崎割符取入足  廿文、了蔵酒直

 割符は無事に換金されたが、東寺は京都での支払を求めていたため、広瀬や尼崎で見銭を受け取るのは不満であった。

揚銭を運送する手間と費用に止まらず、路次の安全も心配であったのではなかろうか。東寺は一一月二八日の書下におい

                   ⑤

て、割符には煩いがあると祐清に伝えている。

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日本中世の手形(佐藤)

【表1】祐清による割符の進上

発送日 京着日 所要日数 送付品目 典 拠

1 寛正3年11月lB 11月16日 15日 割符4枚 史料219・県史1138頁

E 11月14日 11月25日 11日 調符1・漆大桶1桶 史料220・県史1139頁

斑 ユ2月13日 12月25日 12日 割符2・紙9束 史料225・県史1139頁

Iv 寛正4年2月22日 3月2日 10B 割符2・紙7・漆小山1 史料228・県史l140頁

V 6月21日 閏6月1日 10日 割符1・見目5貫・蝋1斤 史料234・県史1143頁

  c 先立御年貢割符、あまか崎・山崎なと二去て、種々塁砦候。さ候問、公平多入て候。於向後者、如

   此煩なる割符を給候て、非分の入足をは国より可有無沙汰候之由、可申旨候。

                          ⑥

 この間、祐清は=月一四日にも割符を進上しており、東寺は二八日の書下でその請取を送っ

  ⑦

ている。この割符は京都で支払われることになったのであろう。

 d 御年貢銭拾貫文割符運上、御目甫嶺也。侃請取、別番進之候。

 祐清は一二月;一日の注進状で、新たに二〇貫文分の割符を送った。=月一日に送った割符

                               ⑧

について弁明し、今回の割符については問題ないことを伝えている。

                                   (渡)

  e 先度割符、山疇ひろせ大もんし屋にて、うら付を仕候て、京都にて料足可度由申候ほとこ、取進候

   処、あまか綺なとまて煩敷説ける。曲事候。以後ハ心得申候。此割符ハ山騎ひろせにて、うら付仕

   湿て、京にて料足強度候。万一ひろせにて銭度候ハんと申候ハ・、割符屋より京まて、たちんにて

   付候へと、堅可被仰候。為其、割符ぬしのぞへ状のほせ申候。たちんの事ハ、国の割符ぬし、ひろ

   せのさいふ屋へ可立よし申候。

 この=一月=二日に送った割符は二五日に薄着したが、最勝光男方評定引付の二七日条には次

         ⑨

のように見えている。

 f 自新見庄、人夫一人、昨夕参着候。侃弐拾貫文、以割符運送之。又料紙九東、同町上之。三三割符、

   来年正□十□裏付也。早足嘉事、衆儀之通、載一紙、渡公文之了。

 以上から分かることは、従来の研究が指摘していることもあるが、次の通りである。

 第一に、支配状には広瀬での「割符付」と「割符取」、尼崎での「割符取」の経費が計上され

ている(史料ab)。尼崎分に割符付が見えないのは、山崎広瀬の大文字屋でそれも含めた四通の5 (619)

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                            ⑩

割符に裏付を行ったからであろう。すでに論じられているように、裏付の後に支払が行われること、支払は裏付と同じ場

所で行われるとは限らないことが分かる。なおこの経費は「割符付」「割符取」のため東寺が使者を派遣した経費であり、

裏付・支払において大文字屋側への手数料は発生していない。広瀬では「船賃以下、割符取候時、門指三人根物」と「銭

ノ駄賃」が別個に計上されているが、尼崎では「アマカ崎割符取入足」に一括されている。遠方のため、尼崎の経費は広

瀬の倍額であった。

 第二に、国の「割符魅しと広瀬の「捌符屋」が見える(史料e)。割符主は備中で満面に割符を渡した人物であり、翻門

屋である山崎広瀬の大文字屋は割符に裏付をして支払を手配している。割符主が書状で割符屋に自らの意向を伝えている

ように、割符の取り扱いは両者の問で取り決められている。一一月一日と 二月=二日の割符はともに広瀬大文字屋が関

与した割符であると考えられ、=月一四日の二通も同じである可能性が高い。

 第三に、=月一日の割符(史料e「先度割符」)は、祐清と割符主との間では山崎広瀬の大文字屋で「うら付け」をし

        (渡)

て京都で「料足可度」との約束ができていたものの、実際には「あまか崎・山崎」で換金された。割符主は正確な換金

場所を知らなかったのである。割符主が京都での支払を「申候ほとに」祐清が割符を取り進めていることから、換金場所

は口頭で伝えられただけであり、割符の文面には記されていなかったと考えられる。

 第四に、一二月=二日の割符(史料e「此割符」)について、割符主は京都での支払を指示する再三を送る一方で、広瀬

で支払われる場合についても想定している。このことから、京都での支払は大文字屋への依頼にすぎず、支払場所は大文

字屋が決めたことが分かる。割符主は裏付や支払に立ち会う必要もなく、支払は大文字屋の主導性が強い。

                                (渡)

 第五に、割符の支払手続を大文字屋が主導したとしても、割符主が「零度料足」と雷っているように(史料e)、支払に

は割符主の資産が当てられたはずである。また割符主の意向によって発生する駄賃も大文字屋が負担したとは考えがたい。

これらのことから大文字屋は、備中にいる割符・王に代わって、割符の支払や駄賃の支弁に当てるために割符主の資産を管

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日本中世の手形(佐藤)

豪していたと考えられる。この割符主は商品を買い付けるため備中に下向した商人であろう。割符主が上京することを考

えていないのは、買い付けを終えていないからではなかろうか。

 割符主と大文字屋の旦ハ体的な関係は、割符主が大文字屋に資産を預託していること、割符主が備中で購入した商品を大

文字屋が荷受して売却することなど、継続的な取引関係が想定される。そのような取引関係を前提として大文字屋の管理

する割符主の資産が割符の支払に当てられるのであろう。また支払場所が尼崎・広瀬・京都など一様でないことからは、

大文字屋が複数の割符主つまり商人と取引していたこと、彼らの売上を融通して割符の支払に当てていたことが推定でき

⑪る。割符主が割符の支払場所を知らないことも、このような大文字屋の取引関係を前提にすれば理解しやすい。

 第六に、割符には裏付の期日が記されていた可能性が高い。=一月一三日の割符が到着した時の引付には「来年正□十

口裏付也」と記されている(史料f)。文字の欠損は「来年正月十日裏付也」と補うことができる。京着したばかりなので、

裏付期日が書かれていたのは割符か割符主の副状のどちらかが想定できるが、副状が常に送られるとは限らず、割符に記

されていたのではなかろうか。

 このように祐清が送った割符について興味深い特徴を読み取ることができる。また、現存する割符案には大文字屋の割

符も一一通含まれている。章を改め割符案について検討しよう。

 ①表では注進状の日付を割符の発送日と見なした。京着の日付は注進  行を加えた。

 状の端裏書や評定引付によるが、明確な記載がない場合は引付に記事

 が見える臼を便宜的に京正日とした。

②〔寛正三年〕=月一日祐清注進状(史官二九・県史=四署。

③「最勝光撃方評定引付」寛正三年号月 七日条(県史八三二、一

 一三八頁)。

④寛正三年二月二〇日達見荘年貢銭支配状(県史一〇四ε、寛正

 三年 一月二九日新見三年寺銭支配状(県史一〇四三)。なおaは改

⑤〔寛正三年〕二月二八日東寺公文所書下案(史登=三・県史一

 一四六)。史料。では文字の抹消・修正を略した。

⑥〔寛正三年〕=月~四日祐清注進状(史三三〇・県史=〇七)。

⑦〔寛正三年〕=月二八日東寺公文所書下案(史料一=一二・県史一

 一四六)。

⑧〔寛正三年〕一二月;百祐清注進状(史料二二五・県史九〇六)。

⑨「最勝光院方評定引付」寛正三年=月二七日条(県史八二三、一

7 (621)

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 =二九頁)。

⑩中田讐徳川時代の為替手形文言について扁前掲ほか。

⑪大文字鷹が他の割符屡や商人と取引しており、それを割符の支払に

当てたとも考えられる。これを桜井「割符に関する考察」前掲(二五

六頁)は債権の回収として論じており、そのような場合もあったと思

われる。

8 (622)

二 割符の様式

1 穴通の割符案

 新見荘から東寺に送られた割符のうち、応仁二年目一四六八)正月一〇日に届いた割符一通、三月=日の四通、七月

八日の一通は、東寺で作られた案文が残されている。この六通の割符は【表2】に示すように、文正二年(一四六七)二

                                             ①

月から応仁二年(一四六八)三月までに発行されたものである。本稿ではこれらを割符A~Fと表記する。割符の発行順

序と新見荘からの発送された順序は必ずしも一致しない。そこで文正・応仁初年の年貢進上について【表3】に概略を示

した。

                                                  ②

 割符の案文には印判などに関する特徴的な注記がある。従来の研究は、その注記から捌印や符丁の存在を読み取り、割

符の運用について議論を展開してきた。しかし案文から正文の様式を復元する作業は、必ずしも十全ではないように思う。

そこで本章では、割印や符丁という解釈を離れて、案文に付された注記から正文の様式を復元的に検討する。

                                                    ③

 六通の割符が東寺に届けられたのはA、BCDE、Fの三回に分かれており、案文は各回ごとに作られたと考えられる。

また六通の様式は、AE、BC、DFと二通つつ三様式に分かれる。BCは同じ様式で同時に作られた案文であるが、A

EとDFは同様式ながら案文の作成無期が異なっている。そのため正文における印判などの様態を含めて様式を案文から

推定する場合、案文の作成者による情報の取捨選択や正確さが同じとは限らないことに留意しておく必要がある。以下、

DF、AE、BCの順で検討する。

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日本中世の手形(佐藤)

【表2】割符案一覧

割符の日付 発送の日付(所要月数) 京着(所要日数) 総月数

  い年10月3日 二郎四郎割符解 鰹 ”雫雫 , 一一一 一 一一■ 一一噛 7 P早一齢一一 一 一一 一 一一一一 醇 謄常「 P一一 一 一醒一 一曽■

カ正2年2月7日 大文字屋助年割符

応仁元年12月18日(2.5)曽櫓 P P 一醒一 一 一冒■ 一週需停P一一一一 一 一 一冒・ ” 悸 卿

梵m2年2月ユ2日(ユ2) @3月1ユ日(28) @ユ3C 文正2年2月7日 大文字下馴年割符 応仁2年2月12日(12) 3月ll日(28) 王3

D 応仁元年12月28日 常俊割符 応仁2年2月12日(1。5) 3月11日(28) 2.5

E ね年正月20日 二郎四郎割符 応仁2年2月12日(1) 3月1旧(28) L5胃 ”一一 一 一一■ 一 一 一■ 回 曽鵬 輔 , ,雫一一一 一 一 一一 一曽噛 暫 鰹 悸早F 一一一 一 一一■ 曽曹¶ ” 「 , 一 一一一 ■一曽髄 簡 P「 一一 一一一■ 一 一 一冒輔 脚 P 一一

F 応仁2年3月16日 常俊割符 (未詳)   (一) 7月8日(一〉 3.5

*文正2年3月5日に応仁に改元。Aのい年は応仁元年, Eのね年は応仁2年。

【表3】新見荘からの割符運上

年 月 日

(M66)

寛正7年2月3日文正元年3月2日

    12月3日

12月29日

(1467)

文正2年2月7日応仁元年3月6日

      28日

    4月1日

      6日

    6月2日

      22目

    10月3日

    12月18日

目     28日(1468)

応仁2年正月10日

      11目

      12日

      18日

 20日 20日2月12日

3月11日

  13日

  16H

7月8日

デ塾毒 項 〔典拠〕

若莱夫丸到来。料足300疋・bl 3束5帖 〔引付 県史827}

夫丸参着。割符1・蝋11斤 〔引付 県史827}

漿符2・tWIO束・漆大桶1 〔引付 県史827}

  割符取に際して支払人が逐電する

割符5・公事需5束・中折番3束 〔引付 県史827〕

番は盗難。割符4っは京都の支払人が逐電し,1つは翌年正月6目に換金

割符BC 大文宇屋2月26日注進状で割符を進上

割符7つの注進状を披露 麟付

〔弓【イ寸12日条

 琴裂史828〕

   〔引付

県史828〕

割符7つの裏付が終わり請取を発行    県史828〕

実相寺・宝:厳院が割符(3月28B到来分か)について訴訟 〔引付 県史828〕

代官乗観房祐成が上洛(5月29酵U着)し,去年年貢20貫余を運上

                            〔弓1イ寸  り早」史828〕

山崎割符を取りに門指5人を遣わす(6月2日の20貫か) 〔引{寸 県史828〕

割符A 二郎四則

初穂分に割符1つ(割符A)を進上 〔三白注進状新見318県史916〕

割符D 常俊

罰符1つ鋼来 〔所要日数21日〕 〔引付 県史829)

劇符の換金に道楽を堺に遣わす(路銭300文を下行) 〔引付県史829〕

割符の案文を作り正文を道仲に渡す 〔害粥AT引付11日条 県史829〕

道仲が堺割符の換金について報告 〔引付県史829〕

  淀の者に「カワシ」て20日に六角室町で銭を受け取る手配をする

割符の換金が成功したことを伝える 〔増祐轡下新見323県懸117}

二目E 二郎四二

割符換金の成功をうけ割符4つ(謝符BCDE)を進上 〔三一注進状新見324県史42ア〕

割符4つ到来(広瀬2・堺2)〔所要二二28日〕 〔引付 県史829〕

大文宇歴と裏付の交渉 〔引付県史829〕

割符F 常俊

堺割符1つ(割符Fか)到来 〔引付 県史829〕

*寛正7年2月28日に文正に改元,文iE 2年3月5日に応仁に改元。

9 (623)

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  図1 応仁2年3月16日常俊割符

*京都大学総合博物館所蔵教王護国寺文書

 割符DFは次のような文書である。割符Fを

示した。

D

【図1】に

かわし申料足の事

敷はん合拾貫文者

右之料足ハ、ゆハとの・物にて候を、かハし申候。なに

ときも此さいふ着て三ヶ日画一てこたゑ候へく候。回状

如件。 応仁元年亥十二月廿八日 常俊判

   いんはんあり

                 ひ

さかゑ二てハきたのしやうのひっちうやとこ五郎とのへ

と御たつねあるへく候。

 F かわし申候料足の事

    (圓合拾貫文者

   右側料足ハ、平田九郎さ衛門か物にて候を、かハし申候。なにときも此さい着候て三ヶ日過候てこたゑ申候へく候。伍状如件。

     応仁弐年子三月十六日 常俊判

      にて                 (五ヵ)

   さかい□きたのしやうのひっちうやのひご三郎殿と御たつね候へく候。

 この二通はともに常俊が発行したもので、様式も文面も類似している。Dは「いんはんあり」との注記が金額の上と日

付の次行に記されている。正文においては、金額と文末との二箇所に捺印されていたと考えられる。Fは金額の上部に印

影が写されており、この部分に捺印されていたことが分かる。Dが「いんはんあり」と注記し、Fが印影を模写している

ように、案文の書き方は異なる。しかし二通の割符が同一人物の手になることから、Dの印判とFの印影は同じ印である

10 (624)

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B本中世の手形(佐藤)

こと、Fの文末にもDと同じく捺印されていたことを推定してよいだろう。なお宋尾の一文は割符付の情報として付加さ

れたものであろう。

 割符AEは次のような文書である。

         (端裏書)

 A 「さかいにて御たつねあるへきところハきたのしやうひん中やのひこせつと御たつねあるへく候」

    (端轡)

    「新見ヨリノ割符ノ案 応仁二 正 十二扁

   かわし申候料足の事

    印判アリ

    ○合拾貫文

   右料足ハ、さかへ二郎四郎かわし申候。御うたかいなくやかて御こたへあるへく候。

    い十月三臼  口臼判

   ひご五郎殿

  E かわし申候料足の事

    合拾貫文者

   右料足ハ、さかへニ郎四郎かわし申候。やかて御こたへ候て可給候。

     ね正月廿日 ーー判

   ひご五郎殿へ可申候。

         (や)

   さかいひつ中臼ひご五郎とのへ ひつ中ii!

 割符AEは年号ではなく干支が記されており、これまで、割符Eは「ゐ」年と読まれてきた。しかし、この文字は欠損

                                                ④

により判読しづらいが、残画は「ね」である。つまりEは応仁二年「ね」年(一四六八)のものである。春里から名前を

読み取ることは難しい。しかし年を干支で表記していること、文面が共通していることから、同一人物が発行した割符と

11 (625)

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考えてよいだろう。干支の訂正によって、Aは応仁元年一〇月、Eは応仁二年正月となり、発行時期も近接する。Aは

「合拾貫文」の上部に圏点を付して「印判アリ」と注記しており、正文では額面部分に捺印されていたことが分かる。E

は印判に関する注記がないが、案文の作成者が異なるためであろう。Eの正文はAと同じく額面部分に捺印されていたと

考えられる。なお割符Eの宛所は不自然であり、宛所に「へ可申候」と書き足されたのではなかろうか。また末尾の一行

は早島氏が指摘するように切封上書が写されたのであろう。

 割符BCは次のような文書である。

                 くヨ判

  B (裏書)「来卯月十日上可申候。 オ詳判」

   あっかり申料足の事

    合拾貫文者

   右の御用とうハ、ひろせ大もんしやあっかり申候。此さいふ来三月中に付候て、京にて五ヶ臼すき上可申候。

              ひろせ 弥左衛門

      文正二年二月七日  助年判

     文字年号判アリ

  C (裏書)「来卯月十五日上可申候。 判水内」

   あっかり申料足の事

    合拾貫文者

   右の御嗣とうハ、ひろせ大もんしやあっかり申候。此さいふ来四月中すき御付候て、京にて五ヶ日すき上可申候。

              ひろせ 弥左衛門

      文正二年二月七臼  助年判

     文字年号判アリ

 助年が同日に発行したもので、文面も裏付期日を除き同じである。奥には「文字年号判アリ」と注記されている。これ

12 (626)

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                                        ⑤

を早島氏は「文字・年号・判アリ」つまり「文字・年号・花押が書かれている」と読んだ。しかしこの注記は「文字・年

号、判アリ」つまり「文字・年号には判がある」と読むのが自然である。これは正文において金額(○○貫文)と年号の

部分に「判」が据えられていることを示している。短い文字列の解釈を決めるのには困難がともなうが、BCの額面に判

があるならばDF・AEの印と対照的になることは、この解釈の妥当性を支持する。また両者の対照性が承認されれば、

DFの文末に捺された印は、BCのように、日付への捺印であると考えることができる。なお裏書は従来の研究が指摘す

るように、大文字屋による裏付である。

 以上、捌凝望の注記から、正文には額面や日付に印判もしくは判が加えられていたことを読み取ることができる。この

印判と判とは排他的に使用されている。割符には額面や年月日に捺印するか、加判するかという二つの作法があったこと

になる。ただし案文の注記から正文の実像を思い描くことは難しい。そこで、同じような捺印や判のある平安時代の文書

を参照したい。それは「文字年号判アリ」など注記の解釈を裏付けると思う。節を改めて検討する。

2 返抄と割符

次に示す史料9・hは、長保二年(~○○○)一

                            ⑥

一月二七日と長保二年一二月二日の東大寺燈油納所返抄である。

日本中世の手形(佐藤)

9

東大寺燈軸納所返抄 高市郡南郷  (裏)「高市南貞包上」

    『封臨「伍合」

 検納油参升、上人僧満慶

右燈油当年料、八多常茂所進、検納如件。故返抄。

          『封』

          廿七

      長保試年廿八日十一月

上座威儀師『英鳳幅    納所預堂達「禅因」

13 (627)

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 h 東大寺燈油納所返抄 高市郡南郷  (裏)「石安上 重松方

    検納燈油陸升事            高市南貞包上」

   右当年料、玉手安吉名所進、検納如件。故返抄。

           長保弐年十二月二日

   上座威儀師       預堂達「禅因」 ○「燈し印=穎あり

 史料9は写真を【図2】に示した。これは大和国高市郡の僧常置が納めた燈油三升五合を検納したもので、上座威儀師

英鳳と納所預堂達無因が署判を加えている。モノクロの図版では分かりづらいが、英鳳の草名は朱書であり、「参升「野

合ピと「長保試年十一月」に重ねて書かれた「封」の文字も朱書である。禅因が作った返抄に、英鳳が自身の草名と

「封」字を加えたものと考えられる。

 史料hは史料9と同じ燈油納所の返抄であるが、禅因のみが署撰している。英鳳の署判はなく、朱印が文字の書かれた

部分を覆うように捺されている(三列二進)。この印は印文が「燈」一文字であり、寺家の印ではなく燈油納所の印であ

      ⑦                                             ⑧

ると考えられる。また全面に捺印していることは令制の文書が全面に捺印したことを継承している。

 この二通も含め長保年間の燈油納所返抄が一二通が残されており、収納額・日付の二箇所に「封」と朱書されたものと

全面に捺印されたものとに二分される。燈油納所は英鳳のもとで禅因が収納を担当したが、返抄には二つの様式が使われ

  ⑨

ていた。

 この二つの様式については、封物の返抄について定めた斉衡三年(八五六)六月五日と貞観~○年(八六八)六月二八B

          ⑩

の太政官符が参考になる。諸国が貴族・寺院など封家に納める封物は規定額が小分けにして進上され、封家は収納の都度

に捺印した返抄を発給することになっていた。しかし封家では、収納の時に仮の受領証を発行し、完納した後に正式な受

領証を発行しており、二重の受領証によって種々の混乱が生じた。そのため斉衡三年(八五六)に太政官は、仮の受領証

14 (628)

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日本中世の手形(佐藤)

に捺印することで正式な文書とし、受領証を二重に発行することを止めるように命じた。しかし封家の印に関する規定が

なかったため、捺印は徹底しなかった。そこで貞観一〇年(八六八)に朝廷は諸家印の規格を定め、印の使用を励行した。

 斉衡三年の官符では、仮の受領証が「白紙日収」「裏布借収」、正式の受領証が「捺印日収」と呼ばれている。日収とい

うのは、納めた日ごとの領収書という意味である。「白紙日収」とは無印の日収、「丹封借収」は史料9のように「封」と

                                      ⑪

朱書したものである。「丹封」は封家の収納担当者が無印を暉って加えたのであろうが、「借収」と呼ばれるように、仮の

                                             ⑫

ものでしかなかった。これに対し「捺印日収」は印を捺した日収であり、これが正式の受領証となった。また貞観一〇年

の官符には「印之客用、実在盲信。公私歯黒、息出嫌疑」とあり、捺印の目的は正式な文書であることを証するためであ

った。日収が真正な返抄であることを示すために捺印されたのである。

 燈油納所返抄にみえる二つの様式は、斉衡三年官符にみえる「丹封」と「捺印」に相当する。斉衡の官符は「白紙日

収」も「丹封借収」も排除するものであった。しかし燈油納所では「丹封」が「捺印」とともに使われている。そして丹

封は、斉衡・貞観の官符によると仮のものでしかないが、燈油納所では必ずしもそうとは言えない。史料9hからは、英

図2 長保2年11月27日東大寺燈油納

   所返抄

 *国立歴史民俗博物館水木文書

鳳がいれば丹封を加え、英鳳が不在の時に朱印

を捺していることが分かる。ともに禅因が日下

に署名しており、捺印は禅因によると考えられ

る。禅因が印を管理しており、英鳳が不在の場

合、聡慧による丹封の代わりに捺印しているの

である。両者の身分を考えると丹封が上位の様

式であり、捺印は丹封を代替する下位の様式で

ある。しかしそれは担当者の問題であって、返

15 (629)

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抄自体に仮か正規かという違いがあるわけではない。返抄の真正さという点において丹封と捺印は同格である。

 斉衡・貞観の官符が想定する捺印は封家の印であり、東大寺では「東大寺印」「造東大印」がそれに当たる。燈油納所

返抄の丹封・捺印は九世紀の様式を継承しつつも、封家の印ではなく納所の印が使用されている。燈油納所の返抄は、九

                                      ⑬

世紀の返抄の様式を継承しながらも、それとは異なる独自の性格を持っているのである。

 以上のような燈油納所返抄に関する知見をもとに割符を見ると、返抄の丹封・捺印と割符の判・印判とが照応すること

が分かる。・

 まず燈油納所返抄における丹封は割符における判に対応している。返抄の収納額・日付の二箇所に加えられた「封」の

朱書を文章で表現すれば、割符BCの「文字年号判アリ」という注記になる。割符の「判」が朱書か墨書かは未詳であり、

どのような文字が書かれたのかも明らかではない。しかし、返抄と割符とは額面・日付に判を加えることにおいて様式的

に相同である。「文字年号判アリ」が額面と日付の加判を示していることは、確かな裏付けを得たことになる。

 返抄との対照は割符の割印説にも疑問を投げかける。割符の印も、割印ではなく、返抄のような一般的な捺印ではなか

ろうか。割印説の論拠は、割符Fに写された印影の形態、およびそれを『教王護国寺文書騙が「割印篤・難文「圓」」と

        ⑭

注記したことである。確かに印影の写しは割印のようにも見える。しかしこの印影は、楕円形の下部が「合」と重なって

見づらかったため、上部だけを写したのではなかろうか。もし割印であれば料紙の中程に捺すのは不自然であり、料紙の

端に捺すのではなかろうか。また割符Dは二箇所に印判があり、割印を二箇所に捺すことも考えづらい。合文の文字数も、

                                   ⑮

朱印か黒印かも未詳であるが、割符の印は通常の捺印と考えるのが妥当であろう。

 以上、燈油納所返抄と対照することによって、割符案の注記は額面や日付における捺印や加判を示すものであることが

明らかになった。この捺印や加判の役割は、返抄の場合と同様に、その割符が真正な文書であることを示すためである。

割符には他の文書や帳簿と付き合わせるための割印や符丁があるわけではない。したがって符丁や割印を前提とした諸説

16 (630)

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は、個々に批判するまでもなく、成立しない。

日本中世の手形(佐藤)

①六通の割符案は以下の通り、東寺否合文書および教則護国寺文書で

 ある。またBCは一紙に写されている。

 A 東寺百合文書せ七一

 B 東寺百合文書サ一七三(~) 影写本サニ六九-七二

 C 東寺百合文書サ一七三(二)

 D 東寺百合文書サ一七三(三)

 E 東寺百合文書サ一七三(四)

 F 教王護国寺文書}七八巻二(六1}七九〇)

②桜井「割符に関する考察」前掲(二四七・二六七頁)、早島門割符

 と遠隔地交通」前掲(=一・一=ハ・一一七頁)。

③桜井氏は割符BCが応仁二年三月に届いた四通のうちに含まれる可

 能性を示したうえで、応仁元年三月に届いた七通のうちであると考え

 ている(桜井「割符に関する考察」前掲、二六八頁)。しかし宇佐見

 氏も論じるように、案文の残され方から考えて、応仁二年三月の四通

 に含まれると考えるのが妥当である(一佐黒門割田考」前掲、二五一

 頁)。

④京都大学文学部古文書室架蔵の写真帳により確認した。

⑤早島「割符と遠隔地交通」前掲(~=ハ頁)。なお桜井「翻符に関

 する考察」前掲(二六七頁註⑳)は「何らかのメモ」と理解している。

⑥史料9は国立歴史民俗博物館所蔵水木文書(『平安遺文』四五入七)、

 史料hは水木筈夫所蔵文書(『平安遺文㎞四五八八)。ともにカラー図

 版が、国立歴史民俗博物館編・発行『収集家一〇〇年の軌跡 水木コ

 レクションのすべて㎞(一九九八年目に掲載されている。同書による

 と長保二年~~月二七日燈油納所返抄は聖母囚・九㎝、横一一二一㎝

 である。なお9hともに合点を略した。

⑦門燈」印はほぼ一寸四方である。

⑧平安時代後期の太政官符では首部の一癖と署判部の二顯に限られた

 ものも知られており、窟符においてすら全面に捺印する作法が失われ

 る(荻野三七彦「印章扁『大百科事二二平凡社。吉川真司「外印請印

 考」『律令窟僚制の研究臨塙書房、一九九八年、発表は 九九五年)。

 返抄は捺印しなくなる。東大寺文書に見えるご一世紀の返抄は、例え

 ば平治元年七月 一日東大寺仏聖米返抄(『平安遺文』三〇〇二)の

 ように、捺印も丹封もない白紙である。白紙については中野栄夫

 門「白紙」についてし(井上光貞博士還暦記念会編『古代史論叢蜘中巻、

 吉期弘文館、~九七八年)参照。

⑨ 一二通の燈油納所返抄のうち残り一〇通は門平安遺文㎞三九六・三

 九七・三九八・三九九・四五八六・圏九一四・四〇〇・四〇一・四五

 九七・四〇七である。

⑩斉衡三年六月五日太政官符(『類聚三代格隔=一⊥三)、貞観一〇

 年六月二八日太政官符盆類聚三代格睡一七-七二)。

⑪返抄の日付・額面に封を加える積極的な理由は、返抄の作成過程か

 ら推測することができる。斉衡三年六月五日太政官符(『類聚三代格㎞

 ~二⊥~二)によると、返抄には少なくとも一名の家司が署判して捺

 印することになっていた。しかし返抄を収納の現場で作成し、その都

 度に家司の署判を得るのは手間が掛かって実用的ではない。そこで額

 面・日付および宛所を空欄にした返抄を作成し、あらかじめ家司の署

 判を得ておき、収納の場で収納担当者が額面・日付や宛所を書き入れ

 たと考えられる。その際、特に重要な額面・B付については、収納の

 担当者が丹封を囲えたのであろう。このような便法が九世紀には行わ

 れており、それが官符に見える「丹封借収」の実態であろう。そこで

(631)17

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 生まれた半平・日付に丹封を加える作法が、様式となって継承された

 のであろう。例えば東大寺返抄には三網の位署書があり、実際に署判

 が加えられたものがある。一一世紀の返抄は全く署判のないものもあ

 って形骸化しているが、本来は、三綱が署判したはずである。この点、

 かつて朝尾直弘氏より得たご教示にヒントを得た。

⑫返抄制疫については北條秀樹門文書行政より見たる国司受領化」

 (欄日本古代國家の地方支配』吉川弘文館、工○○○年。発表は一九

 七五年)参照。

⑬燈油納所返抄のほか長保元年から四年に東大寺が発給した返抄が四

 五通知られている。白米・利稲など大和国が納める済物に対する返抄

 である。差出所は束大寺・造策大寺・白米納所・納米所など 様では

 ないが、英書(のち大威儀師〉のもとで大饗達明円が米や稲の収納を

 担当している(佐藤泰弘「東大寺の組織と財政」『日本中世の黎明撫

 京都大学学術出版会、二〇〇一年。発表は一九九七年)。原本調査が

 必要であるが、一部例外を除き、収納額・日付の二箇所に「封」と朱

 書されたものと匹田に捺印されたものとに分かれる。長保二年 二月

 一六日東大等返抄(内閣文庫所蔵『平安陰文』四五九一)には朱書・

 捺印の両方が加えられているが、それ以外では朱書と捺印は重複しな

 い。長保三年閏一二月一九日東大寺返抄(水木筈夫所蔵文書噸平安遺

 文蜘四五九三)は、英鳳が墨書で署判し、印文未詳の印を捺している

 (国立歴史民俗博物館編『収集家一〇〇年の軌跡 水木コレクション

 のすべて』前掲、六一一頁)。また東大寺返抄・造東大寺返抄では「東

 大寺印偏「東大之印」など寺家の印が捺されたものもある。英鳳以外

 の三綱の位署がある場合は寺家の印を用いる傾向にあるが、例外も多

 い。長保年間の返抄については捺印の規則性を明らかにすることが課

 題として残されている。なお白米の収納は白米納所返抄・東大等納米

 所返抄・東大寺返抄があるが、燈油の返抄は燈油納所に限られている。

 門燈」印の存在とも合わせて、東大専では燈油の収納組織の自立性が

 高かったのではなかろうか。これは油倉の成立に関係するかもしれな

 い。なお印の機能について論旨の曖昧な点は高橋贔明氏・野田泰三氏

 のご教示により改めた。

⑭赤絵俊秀編『教王護国寺文書㎞第六巻(二九二頁)。桜井「割符に

 関する考察」前掲(二四七頁)。

⑮返抄と割符の捺印は、印の顯数が異なっており、丹封・加判のよう

 には相同とは言えない。しかし返抄の捺印は旧来の作法に従っている

 だけである。実例は知られていないが、全面的に捺印する作法が失わ

 れれば、丹封の代わりにそれと同じ位鷺に捺印することが想定できる。

 なお印の管理は機関の印か個人の印かで異なり、今後の検討課題であ

 る。また割符の鶴印説は成り立たないが、割印の使用それ自体は検討

 すべき課題である。

(632)18

三割符の機能

霊 三種類の割符

前章では割符の様式的特徴について検討した。つづいて本章では、割符A~Fの内容を三つの様式ごとに検討する。そ

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日本中世の手形(佐藤)

の際、割符によって誰の銭が支払われるのかに留意したい。手形を決済するときに重要なのは誰の資金が支払に充当され

                                  ①

るかである。そこで本稿では、割符の支払に当てる銭を所持する人物を銭主と呼ぶ。

 割符BCは、広瀬大文字屋の助年が某の銭を預かり、京都で期日を定めて支払うことを約束した文書である。この銭を

預けた人物が銭主である。捌符の文面は、積年と塔主との一一者間における預託関係として完結している。しかし従来の研

究が指摘するように、預けた人物の名前が明記されていないため、割符を持参する第三者が大文字屋の預かる銭主の見銭

を取得することができる。割符BCは持参人払の手形として用いられ、銭主の資産を第三者に移転する機能を果たすので

ある。

 この割符BCに見える大文字屋は、五年前の寛正三年(一四六二)に祐清が送った捌符を取り扱った割符屋である。第

~章では大文字屋が割符の支払において主導的な立場に立っていたことを述べた。それは、割符BCを大文字屋が発行し

ていること、割符に見える固有名詞が大文字屋だけであることに合致する。ただし祐清の送った割符が支払場所を記して

いなかったと考えられるのに対し、割符BCは京都での支払を明記している。これらは新見荘から東寺へ送金するため、

                                   ②

京都での支払を求める東寺の意向に沿って作られた特別な割符であった可能性が高い。逆に警えば、祐清の送った割符は、

割符BCから支払地の指定を削除したものではなかっただろうか。

 また祐清の割符に裏付期日が記されていたと推測したが、割符BCには他の四通と異なり、裏付期日の指定がある。裏

                                                  ③

付は一箇月後・二箇月後に指定されている。裏付の期日が厳格であったことは、東寺領若狭国太良風の事例から分かる。

太良荘の代官は現地で割符主から割符を買って送付したが、東寺は換金を急いで期日前に裏付を求めた。しかし裏付が拒

否されたため東寺は割符を太良荘に返却し、割符主が東寺と支払期限を交渉するため上洛している。なお割符に裏付期日

が記されることは、割符屋が複数の割符主と取引していることを考えれば理解できる。割符屋は割符を発行する際、一度

に多額の支払を求められることを回避するため、裏付期Bを振り分けていたのであろう。このように期日以前には裏付は

19 (633)

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できない。しかし期日になれば裏付を経て預けた銭が払い戻されるのであり、論理的には銭が大文字屋に担保されている

    ④

ことになる。

 割符DFは同じ様式である。そこで以下では割符Dに即して、具体的な人名を用いて説明する。この割符は常俊がゆは

殿の銭を「かわし」、割符の提示により三日後に支払うことを約束したものである。その解釈は先行研究において分かれ

                                            ⑥

ている。桜井氏は、常俊がゆは殿に割符を発行し、ゆは殿が割符を新見荘にもたらしたと理解している。伊藤氏は、常俊

                           ⑥

が割符を発行してゆは殿の銭を薪見荘に「かわし」たと論じる。桜井説では、常俊がゆは殿から銭を受け取って割符を発

行することになり、常俊がゆは殿の銭を預かることと同じである。そのため「かわす」が「預かる偏と同じ行為となり、

「かわす」の特徴が分からない。また銭を預けたゆは殿の名前が記されることは、第三者が受取人となる割符には相応し

くない。伊藤説は穏当に見えるが、ゆは殿が常俊の荷を畿内に運漕し、その売却代金が割符の換金に充当されることを想

定している。ゆは殿を運漕人とする理解は、割印説・符丁説に依拠しており、成り立たない。

 この割符Dは、割符を提示した人物にゆは殿の銭を支払うことを常俊が約束したと解釈するのが最も自然である。ゆは

殿は銭主であり、この割符は、匿名の第三者にゆは殿の銭を取得する権利を付与した文書である。換書すれば、常俊が銭

                                        ⑦

主の銭を第三者に移転しているのである。この移転という行為は「かわす」の語感に相応しい。

 また割符の提示から三日後に支払うことを約束していることにも注意したい。捌符はいつ提示してもよく、提示から支

                                            ⑧

払までの期問も短い。このことは、支払に当てるゆは殿の銭を常俊が確保していることを意味している。常俊はゆは殿の

代理人として資産を管理・運用していると考えることができる。ただし実際にゆは殿の銭を保管しているのは、劇符の提

示先に指定された備申屋である。

 割符AEは日下の署判が判然としないが、先にも述べたように、文言や様式の共通性から、同一人物が発行したと考え

るのが妥当であろう。発行者が彦五郎に料足の支払いを依頼する書状である。

20 (634)

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日本中世の手形(佐藤)

 この割符では「右料足ハ、さかへ二郎四郎かわし申候」の解釈が問題となる。桜井氏は割符の発行者が銭を「二郎四郎

          ⑨

にかわした」と解釈する。つまり二郎四郎が銭を受け取るのである。これに対し伊藤忠は、割符に受取人の名前が書かれ

                            ⑩

るのは不自然であることを指摘し、「二郎四郎がかわした」とする。ただし伊藤説は二郎四郎を荷物の運漕人と位置付け

ており、先のDFと同じ解釈上の難点がある。

 この「一一郎四郎かわし申候」という一節は、伊藤氏と同じく、「二郎四郎がかわした」と解釈するのが自然である。二

郎四郎が彦五郎に預けてある銭の取得権を第三者つまり割符の持参人に付与したと理解するのである。ただし宇佐見氏に

                                            ⑪

よって、割符Aの署判は二郎四郎とは読めないと指摘されており、署判者を二郎四郎とするのは難しい。しかし発行者が

二郎四郎本人でなくとも、二郎四郎から銭の運用を任された人物、いわば代官であると考えれば問題ない。二郎四郎は銭

主であり、割符の発行者が二郎四郎の代理入である。そして備中屋の彦五郎が二郎四郎の資産を保管しているのである。

捌符AEは、割符DFと同じように、発行者が斎主の銭を第三者に移転するための文書なのである。

 またこの割符は「やかて御こたへあるへく候偏と記し、割符の提示で即座に支払うことを求めている。これも割符DF

と同じく、換金に宛てる見銭が担保されていることを示している。

 以上、割符の文面に即して解釈を施してきた。三種類の割符はそれぞれに個性的であるが、二つに大別できる。}つは

割符BCのように、割符の発行者が銭主の資金を預かって発行するもので、「預かり型」割符である。もう~つは割符A

                                       ⑫

DEFのように、発行者が銭主の資金を第三者に移転するもので、「かわし型」割符である。この二つの型は、共通して

匿名の人物が一人だけ想定されている。割符BCでは年助が料足を「預かり」申した相手であり、割符AE・割符DFで

は常俊や某が料足を「かわし」申した相手である。この匿名の者が割符の所持者となり、支払を受けるのである。「預か

り型」割符である割符BCでは、忌避が匿名となることによって、二者間の文書が第三者にも開かれることになる。一方、

「かわし型」割符は当初から三者間の関係を想定し、第三者を匿名としているのである。このように「預かり型扁と「か

21 (635)

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わし型」は、二者間の文書か三者間の文書かという点が異なっているが、そのうち一名が匿名となることで資金を移転す

                   ⑬

る手形として機能する点では共通している。この匿名の人物が書き込まれていることが割符の特色である。

22 (636)

2 割 符 主

 前節では、割符の文面から読み取れることに即して、その範囲内において論理的に、割符の特徴を検討した。本節では

「割符主」に注目して検討を進めたい。桜井・宇佐見両氏は割符主が振出人を指す場合と支払人を指す場合とがあること

                      ⑭

を論じ、井上氏は支払人に近い理解を示している。

 新見荘の史料には「割符主」という言葉が二箇所に見える。その一つは寛正三年(一四六二)一二月一三日の祐清注進

状である(前掲史料e)。第~章で検討したように、大文字屋は割符主の資産を管理し、それを割符の換金や駄賃の支払に

                                               ⑮

当てるのであろう。大文字麗は重要な役割を果たしているが、黒々主は資産の所膚者つまり銭主である。

 新見荘の史料におけるもう一つの「割符主」に関する記事は、最勝光馬方評定引付の応仁二年(一四六八)正月一八日

   ⑯

条である。

               (堺>

 i 新見ヨリノ割符、龍門、和泉境へ持下、色々廻了簡、淀ノ者ニカワシ、来廿日可進納之。但無体、明日+九日可納之。六角室町へ

                     (ママ)    リ割符主

   来尋ヘキ由、申旨披露之。次境へ下候時、  ニテ既可及生涯程ノ事アリケ鍾盤。次。境ヨリ本中へ罷越候間、其マテ罷越、割

                                                割

   符ヲ付、料足請取。伍入ヲ三人雇、罷向候問、十疋出口。又両日逗留十一、根物十疋入ル。又境ヨリ京マテノ符賃四百文、以上

   六百文入選由申。条々披露之処、可惜致了簡、事ヲト・ケ中脳条、神妙也。傍粉骨分廿疋耳翼海草、衆儀治定了。

 この史料は割符Aの換金に関するものであり「かわし型」割符の運用例である。割符Aを換金するために賢聖が和泉国

堺に下ったところ、割符主が和泉国府中に出かけていたため、割符主を追いかけて裏付をしてもらい、換金した。道仲が

「境ヨリ京マテノ割符賃」を請求していることから、見直の受け取りは府中ではなく堺の備中屋で行われたと考えられる。

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日本中世の手形(佐藤)

①大文字屋が商人(銭主)から銭を預かり割符を発行

 する

②商人が新見荘に割符を渡して銭を得る

③新見荘が東寺へ割符を送る

④東寺が大文字麗に割符を提示して銭を受け取る

 (大文字屋が預かった商人(三主)の銭を割符の

 持参人に支払う)

[新見荘]」靴[璽]

舗↑②↓㌦職↑④↓舗

=[錘]  割符

商人(銭主)

【図3】預かり型割符の取引(BC)

①銭主が騰中屋に銭を預け,運用を商人に委託する

②商人が新見荘から銭を得て,翻符を発行する

③新見荘が東寺へ割符を送る

④東寺が備中屋に割符を提示して銭を受け取る

 (備中麗が預った銭主の銭を割符の持参人に支払う)

[新見荘]」…塑一[i藝ヨ

舗↑②↓職職↑④↓舗

商 人 備中屋

銭 主

【図4】かわし型謝符の取引(DF・AE)

割符Aには堺北荘の備中屋の彦五郎(ひこせつ)を訪ねるようにと

の指示があり、道仲は備中屋に赴いたはずである。この場合、割符

主は備中屋彦五郎と二郎四郎の二通りの可能性があるが、割符の発

行に関与しておらず資産を管理しているだけの彦五郎を割符主と呼

ぶのは相応しくない。裏付をした割符主は銭主の二郎四郎であると

考えるのが妥当である。銭主の二郎四郎にとっても、代理人が発給

した割符を換金する前に確認するのが安全ではなかろうか。

 従来の概究は割符の運用における割符主の役割に注目し、振出人

や支払人として説明を加えてきた。確かに割符主の現れ方は史料e

と史料iとで異なっている。史料eでは割符主が備中国にいて薪見

荘に割符をもたらし、史料iでは割符主が畿内にいて割符に裏付を

している。しかしこの違いは「預かり型」と「かわし型」で割符主

の現れ方が異なっているだけであり、銭主という観点を導入すれば

統一的に理解できるのだ。史料が僅かであるうえに推測に頼るとこ

ろもあるが、割符主は銭主の呼称であると考えるのが良い。

 以上のことから、割符は割符主の資産を割き取って別の人物に移

                       ⑰

転ずるための文書であると定義することができるだろう。本節の最

後に割符の取引を【図3・4一に示す。

23 (637)

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3 割符の淵源

 前章・本章で検討した捌符の様式・機能に関する知見をもとに、本節では割符の起源について考察を試みたい。

 =世紀には現物を授受する代わりに返抄や下文を手形のように用いることがあった。例えば大蔵省が料物の下行に用

                                             ⑱

いる切下文や、東大寺が参物の仮受領証として発給する仮納返抄は、手形として用いられることもあった。桜井英治氏は

                        ⑲

返抄・下文と割符とが別系統であることを論じているが、それは妥当であろうか。

 割符には「預かり型」と「かわし型」があることに注意したい。文面を見るならば、「預かり型」割符は預状であり、

受取状という点において返抄と共通している。また燈油納所返抄のように、一一世紀の返抄には一五世紀の割符と様式的

な共通点を持つものがある。ただし燈油納所返抄は単純な返抄であり、手形的に用いられたものではない。しかし仮納返

抄が手形として用いられたように、返抄は手形として機能する可能性を潜在的に持っている。=世紀の返抄と一五世紀

の捌符との間には機能的かつ様式的な共通性が存在している。

 一方「かわし型」割符のうち割符AEは彦五郎に支払を依頼しており、支払の指示という点で下文と共通している。ま

た割符DFは支払を約束しており、現実には翻符を提示された人物(具体的には彦五郎)に対する支払の指示書として用い

られているが、将来の自己に対する支払の指示である。下文について見れば、例えば、『雑筆要語』に載せる結解の雛形

                  ⑳

では「替玉」に「下文」が用いられている。割符のような加判・捺印を下文に確認することはできないが、下文を「かわ

                   ㊤

し型」割符の淵源の一つに求めてよいだろう。

 割符に「預かり型」「かわし型」の二つがあることは、割符の起源が単~ではないことを示している。返抄・下文を手

形として用いることのなかから、手形の機能に相応しい様式が生み出され、割符と呼ばれるようになったと考えてよいだ

ろう。返抄・下文から割符までの間を埋める必要があるものの、そこには様式上・機能上の影響関係と一定の様式に収敏

24 (638)

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日本中世の手形(佐藤)

               ⑫

する作用が働いているのであろう。

 また返抄と割符の料紙にも注意したい。燈油納所返抄は切紙に書かれていた。割符は正文が残らないために料紙の形態

を推測するのが難しい。しかし割符は数行しか書かれておらず、切紙であった可能性が高い。この推測が妥当であれば、

                                            ⑬

切紙に捺印もしくは加判された文書として、燈油納所返抄と割符の様式は更に近いものになる。

 蔓物を下行する下文にも切紙を用いることがあったと考えられる。例えば長保二年(一〇〇〇)正月五日に朝廷が冷泉

                                         ⑭

嫁御回国の布施料を貸した時、冷泉院別当に「短冊」を渡して料物の授受を行っている。この「短冊」は美濃国司が進上

した元日禄悪騒の下文であった可能性が高い。万寿四年(一9毛)一二月二八日に上東門院が道長の四七日目法会を営

                                  ⑮

んだ際、布施の絹糸の上に「八木短冊扁と思われる「文」が置かれていた。法会の場に布施として米を置く代わりに、米

の「短冊」を置いたのである。この短冊は米の下行を命じる下文ではなかろうか。この二例から、切紙に書かれた下文を

手形として用いる場合があったことがわかる。

                   ⑯

 仮納返抄にも切紙に書かれたものがあり、手形として用いられる文書に切紙を用いたと考えることもできる。しかし料

物下行の下文や出物納入の返抄は切紙に書くことが多かったのであろう。切紙に書いた下文・返抄の中に手形として用い

                                                   ⑳

られるものが現れ、捺印・加判を使用する作法とともに、料紙の使い方も割符に継承されたのではなかろうか。

①中世における「銭憲」は借銭における貸主のことである。割符を貸

 借関係の一形態として説明することは可能であるが、本稿は割符を貸

 借関係で説宿するものではない。通常の貸借閃係を含めた、中世の諸

 取引の検討は改めて行いたい。

②宇佐見「割符考」前掲(二四一頁)が「オーダーメイド的な割符」

 と評したことは妥当である。

③応永一八年画一〇月七日太良荘代官朝賢注進状(工専百合文書し八

目)。本文では「就其候てハ、今度進上仕候割符三之内二下給候。聴

彼割符主之方へ付候て、さひそく仕候処二、鰭此仁、上洛蘇州問、京

都へ罷皇典ハ・、御寺へ参申候て、さひふの主眼を盗癖露盤て、早々

御料足進上申候ハんと堅申候間、知此重注進申碇虫。此仁料足の日眼

おさし申候ハ・、入お御こし隔て、料足おめし候へく候。無沙汰者あ

るましく候」と述べ、追而書には「彼割符の白眼者、一思菊月十日、

一口同十二日前さし申て候に、御心ミしかく御沙汰候て、彼さいふを

25 (639)

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 御下候とて、さいふぬし、めんぼくなく候よし申候」と記す。この史’

 料は田田「年貢再進手段としての割符について」前掲により紹介・検

 討されており、割符主が在国していることも、期日を定めていること

 も、大文字麗の割符と同じである。ただし散田氏は割符主が荷物を京

 都に運上したと想定するが、割符主は裏付の交渉に上洛しただけであ

 り、荷物の運送を伴っているとは限らない。

④大文字屋が預かった資産を運用するか否かは、割符とは別の問題で

 ある。

⑤桜井「割符に関する考察扁前掲(二四八頁)。

⑥伊藤門割符のしくみと為替・流通・金融扁前掲(五八頁)。伊藤氏

 の説明は難解な部分があるが、本文のように理解した。

⑦「かわす」は振替と表現することもできるが、振替という行為もま

 た語彙史の検討の対象となるため、移転と表現しておく。

⑧この点においても、罰符と船荷の対応関係を想定する伊藤説は、運

 漕という不安定な要因が介入することになり、支払の約束と翻蠕を来

 す。

⑨桜井「翻符に関する考察駄前掲。

⑩伊藤「割符のしくみと為替・流通・金融扁前掲。

⑪宇佐見「割符考扁前掲。

⑫「かわし型扁罰符は厳密には二つに分かれる。宇佐見氏が現代の小

 切手と約束手形を例に説明したように、罰符AEは支払いを備中屋に

 依頼するものであり、割符DFは発行者が支払いを約束するものであ

 る。この違いは、銭主と発行者の関係で理解することが可能ではなか

 ろうか。割符DFの常俊とゆは殿の関係よりも、割符AEの発行者と

 二郎四郎の関係が親密である。割符AEの発行者は盟主の代官とも言

 うべき立場にあるため、備中屋に銭の支払いを指示することができる。

 一方、捌符DFの発行者である常俊は、貫主の銭を預かっているため、

 自身が支払いを約束することになったのではなかろうか。

⑬門預かり型」割符は判が、「かわし型」割符には印判が用いられてい

 る。この対応関係に意味があるかどうかは、今後の検討課題としたい。

⑭聖書門割符に関する考察」箭掲(二五二頁)、字佐見「割符考」前

 掲(二二九頁二一五〇頁註⑱)、井上「割符のしくみとその革新性」

 前掲(五~頁・山ハ一門貝註⑮)。

⑮この「国の割符ぬし」と同じく割符主が在国している事例が応永一

 八年閏一〇月七日太良荘代官朝賢注進状(東寺百合文書し八二)に見

 える。本章註③参照。

⑯「最勝光二方評定引付」応仁工年正月~八日条(県史=七七頁)。

⑰割符は、二つの型があるように、様式を示す言葉ではなく、機能に

 即した呼称である。割符の語義について、山田町氏より「割き取る

 符」ではないかとのご教示を得た。この自賛」は下達文書を意味する

 「符」ではなく、「護符」の門符」ではなかろうか。なお保立道久

 「切物と切銭」(㎎三浦古文化㎞五三、 九九三年)も参照。また符を

 「おしてふみ」と訓む問題については、山本崇「オシテフミ考」(奈

 良文化財研究所編・発行欄文化財論叢㎞W、二〇一二年)参照。

⑬ 佐藤「国家財政・徴税と商業」(欄日本中世の黎明㎞前掲、発表は 

 九九三年)。研究史についてもこの論文を参照。

⑲桜井「日本中世における貨幣と信用について致『歴史学研究幅七〇

 三、 九九七年)。

⑳『雑筆要撃隔には「十石張質料、ム丸講、十二月一日御下文」とみ

 える(噸続群書類従』第一一習習)。なお替米の専論として品治重忠

 「替米について扁(『東京都立大学法学会雑誌㎞四四-一、二〇〇三

 年)を参照。

⑳天喜三年=月~日東大寺牒(京都大学所蔵文書、㎎平安遺文㎞七

 三七)は近江国司に封物の下符を求めたものであるが、額面に封と朱

(640)26

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 書されている。この文書は督促状であり下行を命じる下文ではないが、

 返抄以外にも丹封が用いられたことが分かる。下文の実例は残されて

 いないが、返抄と類似した作法があったのではなかろうか。

⑫ 門預かり型」割符に加判があり、「かわし型」罰符には捺印されてい

 ることは、返抄と下文という起源の違いに対応しているのかもしれな

 い。そのうえで、似通った様式に収轍したと考えることができるだろ

 、つ。

⑬ 割符が、東大寺返抄(仮納返抄)のような寺家の返抄ではなく、納

 所返抄と様式的相同性を持っていることは、割符を利用する人々と納

 所の担い手との継承性を意味している。これは納所預のような人々が

 中世の金融・商業に関与するようになるという想定(佐藤「國家財

 政・徴税と商業」前掲)を支持する。

⑳ 『権記睡長保二年正月五日条。

⑳ 噸小右記㎞万寿四年一工月二八日条。

⑱ 仮納返抄の料紙には竪紙も切紙も使われている。

⑳ 一一世紀の返抄・下文と 五世紀の割符には時間の隔たりが大きい。

 しかし保立「切物と切銭」(前掲)が一三世紀における切銭の使馬を

 明らかにしており、手銭の運用には手形の使用が想定される。返抄・

 下文が手形として用いられながら、割符と呼ばれる機能に特化し収敏

 する過程を史料の空白期に求めることができるのではなかろうか。

四 割符の発行と決済

t 割符の発行

日本中世の手形(佐藤)

 前章までの検討を踏まえて、割符の発行や決済における割符主や割符屋の動きについて検討を加える。辰田・伊藤両氏

が論じるように、割符は年貢進上のために発行されるのではなく、第一義的には商人が買い付け資金を獲得するために発

行される。本節では六通の割符案を「預かり型」「かわし型」という二つの型に分け、割符の発行を割符主つまり聖主の

行動形態と関連づけて考えてみたい。

  「預かり型」割符は割符践みずからが商人として地方に赴く場合に用いられた。従来の当盤でも割符BCは畿内で発行

                    ①

され備中に持ち込まれたと理解されている。

  「かわし型」割符は割符主の代理人が発行しているが、代理人が商人として地方に下って割符を発行したのか、畿内に

いる代理人が地方に下向する商人に発行したのか、確定するのが難しい。これは割符の発行場所の問題に止まらず、商人

27 (641)

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が地方において割符を発行したかどうかという事柄に関わる。

                          ②

 桜井氏は割符ADEFも畿内で発行されたと考えているが、その論拠は支払地が堺であることなどであり十分ではない。

早島氏は割符Eに追記された差出書に「ひつ中」と記されていることから備中での発行を指摘するが、この「ひつ中」が

                 ③

差出人の所在地を意味するとは限らない。伊藤氏は新見荘の三悪が割符の取得を予期できたことを根拠として割符発行者

                                 ④

が備中に滞在していたと論じており、新見荘の実情を検討しても蓋然性が高い。そうであれば、割符主の代理人である常

                                              ⑥

俊らが商人として備中に下向し、そこで割符を発行して資金を調達し、商品を買い付けたということになる。

 このような理解は、伊藤氏が論じるように、割符が複数の黒々の手を介して都鄙を流通したとする桜井説と対立する。

                                     ⑥

割符の流通を否定することはできないものの、それは限定的であったのではなかろうか。

2

割符の決済と商品運漕

28 (642)

 割符運用の基底に商品運漕があるという上田・伊藤両氏の認識は正しい。しかし一回ごとの商晶運漕と割符の支払とが

対応するという理解には必ずしも賛同できない。すでに述べたように、割符AE・DF・BCは支払資金が準備されてお

り、一回ごとの商品運漕に応じて支払われるわけではない。

 しかしその一方、荷物と連動して支払われる割符も確かに存在する。寛正五年(一四六四)二月に本位田家憲は二五

                                    ⑦

貫文を進上するため、一〇貫文の割符を二つ、五貫文の割符(半割符)を一つ送った。これについて東寺は次のように新

       ⑧

見荘に伝えている。

抑御年貢廿五貫文割符、運送目出塁。但此内半割符者、

右被纏響釜文箏叢出候へ義

本主峯津国二様。又荷も未京着頚回、裏付を不沙汰候。今度之便宜二御左

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B本中世の手形(佐藤)

 一〇貫文の割符二枚に裏付を終え、東寺は請取を出した。しかし半割符は本主が摂津国におり荷物も京都に届いていな

                                              ⑨

いために裏付されなかった。荷物の忠心を待つことになったものの、翌年になっても割符屋で問答している。この半割符

は商晶運漕に連動して支払われる割符であった。一方、一〇貫文の割符は割符主が別であったか、荷物を待たずに支払の

できる割符だったと推測される。

 一五世紀には、支払資金が準備された割符と、商品運漕を待って決済される割符とが併存して用いられていた。A~F

の割符案は前者の事例であり、後者に用いられた割符は残されていない。しかし一回ごとに決済する場合、史料一の「本

主面津国二候。重荷も未京着候」という情況からは、本主つまり割符主が荷物に付き添っていると考えられる。その割符

は「預かり型」が適している。

 運漕の遅延や荷物の未着が違割符の原因になるとすれば、運漕と連動した割符は安定性を欠く。それに対し、商品運漕

と連動しない割符は安定性が高かった。例えば割符BCは予定より一年以上も遅れて大文字屋に届けられたため違割符に

                           ⑩

なりそうになったが、裏付期日の交渉によって支払われている。この安定性の違いは、定額割符と半割符という割符の違

いにも対応し、さらに商人の活動形態にも照応しているのではなかろうか。

 割符によって資金を得た商人は、買い付けた晶々を畿内で売却し、その代金が商人の資産に加わり、その一部が割符の

支払に充当される。支払用の見銭が担保されている割符と、商品の運漕を待って支払われる割符との違いは、商人の資力

によるとも、商慣習の違いによるとも考えられる。小規模な商人は運漕ごとに割符を発行して支払を終える方が安全であ

り、大規模な商人は運漕によらず支払用の追銭を準備しておく方が合理的である。

 また割符主と割符屋の問で一回の運漕ごとに決済するのか、=疋の期間における複数の運漕を一括して決済するのかに

                 ⑪

よって、割符の取り扱いは変わってくる。資金力が豊かで割符屋との取引が安定している割符主は一枚一〇貫文の定額割

符を使用するのが合理的な運用ができるが、そうでない割符主は資力に応じた額面の割符を一回ごとに決済せざるを得な

29 (643)

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                                                   ⑫

い。定額ではない割符は、半割符のほか、寛正五年(一四六四)九月一一一日本位田家盛書状に三貫文の割符が見えている。

定額割符であることが割符の信用を高め、定額割符を発行できることが商人の信用を高めた可能性がある。

 多様な商人や商業の形態が想定できるのであるが、割符の決済における二つの在り方は商人の二つの範型として理解で

         ⑬

きるのではなかろうか。

 二つの支払方法について、割符の初期の史料であり、建武元年(一三三四)と推測されている新見荘代官の華甲の書状

       ⑭

に触れておきたい。この書状から伊藤氏は、商品を売却した代価を支払いに充てる割符と中央に担保された銭を支払いに

                 ⑮

充てる割符とがあることを明らかにした。それは、~五世紀と同様の割符運用の二形態が、一四世紀前半には存在してい

たことを示している。割符の運用がさらに鎌倉期にまで遡ることは確実であろう。ただし明了書状には大文字屋・備中屋

のような割符屋の存在が見えない。

 割符の運用においては、商人とともに、割符の発行や裏付・換金という周面に現れる大文字屋や換金を担当する備申屋

の存在が重要である。寛正五年に違割符となった半割符について東寺が割符屋で問答したのは、割符屋が荷物についても

知りうる立場にあったからである。この割符屋は荷受を担っていたはずである。大文字屋が荷受をしていたことは第一章

で推定したが、備中屋も荷受を行っていたのではなかろうか。割符屋は割符主の資産を保管するとともに、商品の荷受や

保管も行っていたと考えられる。つまり割符屋は問丸でもあった。『庭訓往来』には「訳註借上・習々替銭・浦々問丸、

        (勝)                ⑯

以誓言進上之、任升載運送之」との一節が見える。一つの実体が問丸・替銭・借上という三つの機能を組み合わせなが

               ⑰

ら、港湾に存在していたのであろう。それを前提として、南北朝期から室町期にかけて、替銭と問丸の機能を統合して割

符屋が成立するのではなかろうか。

30 (644)

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日本中世の手形(佐藤)

3 割符の経費

 第~章で見たように翻符は換金の手数料が計上されていない。では割符の発行についてはどうだろうか。桜井氏は、史

                                    ⑱

料に見える「夫賃」「割符賃」から割符の発行に手数料がかかったことを論じている。しかしその理解は適切であろうか。

 まず本幕について検討する。寛正五年(一四六四) 一月二四日本位田家盛年貢銭送状は、割符三つ(二五貫文)を送っ

                                            ⑲

たものであるが、…割の「夫チン」を加え、二七貫五〇〇文分の年貢納入に相当することを述べている。このうち半割符

は違割符となり、東寺は二〇貫文を受け取った。ところが寛正五年一二月九日東寺書下案では、一旦は夫賃を計上しなが

ら削除している(史料一)。東寺の側では夫子を認めていないのである。一方、文正元年(一四六六)分の新見荘年貢算用

                     ⑳

状では割符ごとに一割の「チン」を計上している。この「チン」も夫賃であろう。割符の夫子については、荘園側と東寺

側とで認識の相違があった。

 一般に、年貢として種々の物品を運送するには運費が必要である。それは荘園領主の収入にはならないが、必要経費と

して荘園が納入した年貢額に含まれる。割符の夫賃も、割符を運ぶ経費と考えて問題はない。しかし割符は東寺への使者

や京上夫が持参することが多く、見銭の輸送と異なり、割符の送付に書賃は不要である。新見荘にとって一割の夫賃つま

り年貢運送費は京島年貢から控除された在地留保分となるが、東寺にとっては納められる年貢総額がその分だけ減少する

ことになる。東寺が夫賃を認めたとは考えがたい。

 次に割符賃について検討する。応仁二年(一四六八)正月=日、東寺は割符Aに裏付をするため、道仲に路銭三〇〇

           ⑫

文を下行して堺に遣わした。~入日に道仲は裏付・換金の結果を報告した(史料i)。道仲は受け取った見銭を淀の者にか

わし、京都六角で見銭を受け取るよう手配した。道仲は東寺に対し、三人を雇った経費一〇〇文(一〇疋)、逗留の下物と

して一〇〇文、「境ヨリ京マテノ割符賃」四〇〇文の計装〇〇文を要求したが、東寺の下行は「粉骨分」二〇〇文のみで

31 (645)

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あった。この「割符賃」は東寺が支出を認めていないことから、道仲の負担した費用ではなく、割符の夫賃として遵仲が

請求したものではなかろうか。

 割符に関する経費には、割符の発行・取得および支払における手数料が現れてこない。割符で腰銭を調達する側にも、

割符で見銭を送金する側にも、双方に便宜のある取引手段であるため、割符は手数料を要しないのである。桜井氏が論じ

                             ⑳

た「中立的機能」は割符に本質的なものではなかろうか。

①割符BCは桜井氏・宇佐見氏・率諸氏・伊藤氏ともに広瀬で発行さ

 れ備中に持ち込まれたと考えている。なお宇佐見氏は備中で発行され

 た可能性を考慮している。

②桜井「割符に関する考察」前掲(二四九頁)。

③早島「割符と遠上地交通」前掲(=二頁)。

④伊藤「割符のしくみと為替・流通・金融」前掲(五七頁)。ただし

 東寺と新見荘の問を文轡が往来する日数を幽65えると、割符が畿内で発

 行された可能性は残されている。

⑤備中で割符を発行したのであれば、常俊らは印を携帯していたこと

 になる。印の保管・携帯という点から割符の発行場所を推測できるか

 もしれない。この点は今後の検討課題である。

⑥伊藤「割符のしくみと為替・流通・金融」前掲。なお新見荘の三職

 が堺の舗符を用いたのは、応仁の乱により政情が緊迫するなかで、備

 中が細川氏の領国であり、堺も細川氏と関係があったからではなかろ

 うか。

⑦〔寛正五年〕=月二四日本位田家盛年貢等送状(県史四一一)。

⑧〔寛正五年〕=一月九日東寺公文所書下土代(本位田宛。史料二九

 〇・県史四一三)。なお〔寛正五年〕一二月九日東寺公文所書下土代

 (三廻宛。史料二九丁県史四一四)も参照。

⑨〔寛正六年〕東寺公文所嘗下土代(史料二九二・県史五九二〉。

⑩「最勝光建方評定引付」応仁二年三月;百条(県史=八○頁)

 に門新見庄ヨリノ割符、広瀬大文字麗申云、姫ヶ目バカリ有御延引者、

 可裏付仕。不然者可進放状之由申之旨、致披露之処、廿日バカリトモ

 被問答、裏付ヲサせラルヘキ由、衆儀治定了」とある。

⑪個々の割符が商品の運漕と対応していなくとも、商品の買付・売却

 の状況によっては支払に当てる見銭が足りなくなることもありうるだ

 ろう。また割符屋と割符主の間では、平安時代の封物納入において国

 司と封主との決済に用いられたような事解が作られていたはずである。

 割符主が割符屋に依頼した駄賃は、結解に立録することで処理された

 のであろう。また鋼符屋は複数の割符主と同時並行的に取引をしてい

 るはずであり、罰符主の集団が罰符屋を構成していると見なすことも

 できるだろう。また「土倉方一衆」のように割符屋が集団として取引

 網を形作っていた可能性は高い。

⑫〔寛正五年〕九月二一B本位田家盛書状(史料工入○・県史四〇〇)。

 定額ではない割符は薪見荘以外でも見えている。井原今朝男「東国荘

 園の替銭・替麦史料」(『日本中世債務史の研究幽東京大学出版会、二

 〇=年。発表は~九八七年)を参照。

⑬祐清の前に新見荘に下向した国使の腫物も年買の京進に鶴符を用い

32 (646)

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 たが、寛正二年(一四六一)には門京さいふなく候て、ひやうこさい

 ふおとり進上申候偏と述べている(〔寛正二年〕~○月一〇日了蔵書

 状、東寺百合文書サー八六、県史三四六)。堺の備中屋を除くと、換

 金場所は京都・山崎・尼崎・兵庫など瀬戸内から淀川水系における交

 通の拠点であり、その商業的連関の中に大文字屋も含まれていたと考

 えられる。劇符の二類型である「預かり型」と門かわし型」は、大文

 字屋と備中屋という割符屋の違いに止まらず、淀川水系と堺との商慣

 習の違いを反映している可能性がないだろうか。

⑭六月二五日明了書状(百合ルニニ、県史八○)。年代比定は網野

 「貨幣と資本」(『網野善彦著作集ご島岩波書店、二〇〇七年。発表

 は一九九四年)による。

⑮ 伊藤「割符のしくみと為替・流通・金融」前掲。

⑯噸新日本古典文学大系座訓往来・句双紙㎞(岩波轡店、一九九六

 年)。なお釈文については佐藤泰弘「庭訓往来、三百年の誤読し(『日

 本史研究』五三〇、二〇〇六年)を参照。

⑰佐藤泰弘「借上の予備的考察」(『甲南大学紀要文学編』一二四、二

 〇〇二年目。

⑬ 桜井「割符に関する考察」前掲(二五七・二五八頁)。桜井氏は夫

 賃を割符取次人等の収益と解釈している。

⑲〔寛正五年前=月二四日本位田家盛年貢等送状(史料二八八・県

 史四一一)。

⑳ 応仁元年五月一八日新見荘文正元年年買算葉状(県史二一三)。こ

 の算用状に計上された「罰符取酒直」二〇〇文は、割符を取得するた

 めに働いた新見荘関係者への振る舞いであろう。少なくとも割符の発

 行や取次の手数料であるとは考え難い。

㊧ 「最拙膀光院方評{疋引付」応仁竺一な†正口月一 一n口条(旧爪史一  七∴ハ智貝)。

⑫ 桜井「劇符に関する考察偏前掲(二六一頁)。割符は利息付替銭と

 も異なっており、純粋に資金を移転できる方法であった。なお大文字

 屋や備中崖は見銭・荷物の保管および売却において収益を得ていたの

 ではなかろうか。

お わ り に

日本中世の手形(佐藤)

 本稿が明らかにしたのは割符の様式と機能の基本的な事柄である。限られた史料による考察であるが、割符の運用や割

符屋の活動は一荘園を超えた事象であり、当該期における信用取引の一般的な様相を垣間見ることができる。

 これまでの諸研究が商品運漕に注目したことは正しい。しかし符丁説・割印説によって一箇の割符と一回忌運漕を厳密

に対応させたため、割符の運用や商人の活動に関する理解が複雑化し硬直化してしまった。商品の運漕が割符の運用を基

底で支えていることは、個々の割符に特定の商品が対応していることを必ずしも意味しないのだ。

 割符が機能する前提には、地方から中央へと年貢銭が定期的に進上されること、その継続が予期できることが必要であ

33 (647)

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る。それと並行し、割符と引き替えに得た見銭によって商人が地方で商品を買い付け、それを畿内に送って販売するとい

う動きがある。年貢銭の京進と商品の京進の二つが割符を存立させているのである。なかでも荘園年貢の京進は制度化・

構造化されたものであり、割符の運用は荘園制によって担保されていると言ってもよい。このことは伊藤氏が的確に論じ

                ①

ており、新たに付け加えることはない。しかし大情況の理解のみでは論理的に演繹される範囲に止まっている。

 見銭に注目すれば、割符の使用が見銭の都鄙間流通を抑制していることが分かる。見銭が都鄙を流通していることは確

かであり、割符による価値の移転と見銭の流通によるものとの定量的な検討も容易ではない。しかし割符を用いることで

地方の銭は地方に滞留し、畿内の銭は畿内に滞留する。つまり曾池は地方・首都の一定の経済圏の内部で流通し、見銭の

流通圏が生まれることになる。それは畿内のような一定の経済圏を活動の場とする商人が存在することでもある。

 東寺が割符による年貢京進を求めている理由は、この銭の流通圏がもたらす貨幣の地域性に関係しているのではないだ

ろうか。例えば備中圏と畿内では流通している見銭の種類・品質や、一興の銭緕に用いられる銭種や枚数が同じとは限ら

ない。物品としての銭は、備中で通用するものが京では嫌われるかもしれず、備中の一貫が京の一貫として通用するとは

限らない。その場合、割符による年貢の送金は、銭の物品性を捨象して純粋に価値を移転する手段として、有効かつ安全

な方法である。また割符を用いることによって、銭を動かす必要性が少なくなる。これは埋納銭の問題とも関連するだろ

、つ。

 割符に見える小さな違いに注目することにより、商人や割符屋の実態および商慣習の違いについて検討する手掛かりを

得ることもできる。商人の規模によって割符の運用にも違いがあり、大規模な商人ほど割符を安定的に運用できる。割符

屋も多くの商人と取引をするほどに効率的で合理的な運営が可能になる。山崎広瀬の大文字屋は淀川水系に取引網を持っ

ている。堺の備中屋は、納屋衆の前身に当たるのであろうが、大文字屋の取引相手には含まれていないようである。東

国・北陸との取引で活躍する割符屋もあっただろう。

34 (648)

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 割符の使用が確認できる史料は}四・一五世紀のものである。しかし価値基準が現物貨幣か銭貨かという違いも重要で

あるが、信用取引の継続的な進展を重視すべきではなかろうか。信用取引の手段は、返抄・下文から割符を経て近世の手

形へと形を変えながらも継続し深化していくと考えられる。換雷すれば、割符屋を営む人々と彼らの経営手法は、平安時

代の納所から問丸・借上・替銭を経て生まれ、近世の初期豪商へと続くのであろう。

 この}五世紀から前後の時代を見通した時、そこから逆にこの時期を照射した時、どのような光景が浮かび上がるだろ

うか。

 ①伊藤「割符のしくみと為替・流通・金融」前掲。なお荘園制の解体  割符に限定して考察したため、室町期の流通に関する諸研究を十分に

  によって劇符を運用する基盤が失われるとしても、一五世紀の慣行が     検討できていない。この点は今後の課題としたい。

  一六世紀に継承されたのか否かを検討すべきであろう。なお本稿では

門付記】 校正に際し、品治重忠「替銭と割符」

   ており、参照していただきたい。

(『

@学会雑誌』四六-一、二〇〇五年)に気付いた。中世の替銭・割符を幅広く検討し

(甲南大学文学部歴史文化学科教授)

日本中世の手形(佐藤)

35 (649)

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    Medieval Japanese Promissory Notes:

Regarding the Sai u of the Niimi-no-sh6 Estate

by

SATO Yasuhiro

  When local estates(駒δ伽荘園)sent money to landlords(ησ3肋領主)in

Ky6to during the 14th and 15th century in Japan, a variety of promissory

notes or bills of exchange, called a sα肋割符,was used. There are few

primary sources dealing with the sazfu, but in documents which have ended

up iB T6ji-Temple we can find some manuscript copies of 15th-century sazfu

sent from the Niimi-no-sh6 estate in the province of Bitcha to T5ji in Kyoto

and letters and records written by those who dealt with them. Many

scholars have examined these documents, and in their arguments they have

reached the following consensus.

  First, ehe sazifu were used by merchants in the capital area to obtain

money in local areas. The merchaRts received money iR exchange for the

sazfu aRd purchased goods in local areas to seRd and sell in the capital area.

  Second, the sai z{, which was exchanged for money, and the goods, which

were bought with the money, had a one-to-one correspondence. So when the

satlfu was cashed, the proceeds of those goods were allotted.

  Third, because sai u and goods were exchanged on a one-to-one basis, to

make that equivalence evident, tally impressions and individual stamps,

known as wari ’in #1印and fuche符丁, were recorded on the 3α顔.

  As a result of detailed examination of the sazfu of Niimi-no-sh6, 1 clarify in

this paper that the first point is sound but the second cannot be applied to

all sazfu and thus the third point is unsustainab}e.

  First, a sazfu was written on a smail piece of paper that contaiRed the

amount of money and the date of iss疑e over which a stamp(ill印)or a kind

of signature(han判)were imprinted. Because these stamps and signatures

were considered tally impressions and individual stamps in previous scholar-

ship, it was hypothesized that sazifu and goods had a one-to-one correspond-

ence, aRd the use of the sa2fu was exp}ained as a complex process. However,

this argurnent is unsustainable. Compared with the similar stamps and

( 742 )

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signatures which are seen in the llth century receipts cal}ed加π3勿返抄,

those of saiju were not taily impressions and individual stamps but imprint-

ed simply to attested the authenticity of sazfu.

  Next, the sazfu was used to transfer money from the original holder lnto

the hands of a third party. ln regard to the place and function of the people

involved iR the saz:fa trade, previous scholarship was confused, but this study

succeeds in clearly explaiRing the use of the saz:f7u based on a correct reading

of the historical sources. There were two cases in wkich sazfu were employ-

ed depending on the relatioRship between the possessor of the money and

the merchant who used the sazfu. The first case was when the possessor of

the money was a merchaRt. The merchant would deposit money with a toiya

問屋(akind of warehousemaB and additionally a wholesaler)in the cap量tal

reg圭on, receive aεσ珈from the todya, and then in exchange for the sazfu

obtaiRed money to purchase goods locally. The second case was when the

merchant and the possessor of the money were not the same person. A

inerchant who was entrusted with money by the owner who wanted to use

the funds would圭ssue a 3σ吻in a}ocality, and recelve money to purchase

goods. The common element in both cases圭s that in exchange for 3α顔the

merchant received the tribute money(nengersen年貢銭)to be sent to the

capital from estates in a local areas. The managers of the estate who

received a sazfu would send the sazifu to the land}ord (2 ytishu) in the capitaL

The ryo-sltu who received the sazfu exchaRged it at the tolya for money. ln

the first case, it would be the toiya at which the merchant had deposited

money, and in the second case, the merchant who issued the sazfa specified

the toiya who held on deposit the money of the owner.

  Next, 1 deal with the relationship between the satlfu and transport of goods.

In earlier studies it was not realized that the manner of use of a sazifu varied

according to the size of the merchants’ operations. For that reason, the funds

allotted for the payment of a certain sazfu were uRderstood as the proceeds

of goods that had been bought wlth the money obtalned in exchange for the

sazfu. ln fact, there were some satfu whose use was just as described above,

but this was the case of small-scale merchaRts. ln the case of large-scale

merckants, the assets managed by the toiya were ailotted for the exckange

of satfu regardless of the state of the shipment or sale of the goods. WheR

vlewed forma}ly, the role of the owner of the money was different in two

cases. However, when viewed as a practical matter, iR both cases these were

regular transactions in which the toiya stored and sold the goods sent from

local areas by the merchant, and it was the toiya that processed the

( 741 )

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exchange of money for sai u as part of a transaction.

             Fishing by the Medieval Katata Estate,

as Seen from the Standpoint of Lake Biwa’s Natural Environrnent

by

SANO Shizuyo

  Katata estate in the province of Omi is well known as having been a

mikuriya, a specially designated estate to provide resources, of Kamo Shrine,

but there has been debate about how to assess its fishing ln the early medie-

val period. ln previous scholarship there were some who took the position

that saw it as a community wkh special privileges to fish freely in Lake

Biwa, but an opposing view held that such prlvileges had not been estabiish-

ed in the early medieval period and that the Katata fishermen constituted

instead a rather weak group. GiveR the limited number of historlcal sources,

in order to understand the reality of fishing during the medieval period, we

must deepen our interpretation of written sources in light of natural condi-

tioRs. RegardiRg the natural conditions of Lalie Biwa in particular, there is

one aspect unlike those of any other body of water in Japan: because it is an

ancient lake with a history of over 4 million years, there are eRdemic species

that evolved uniquely there aRd that were important objects of fishing. ln

addition, as it has a depth that reaches 100 meters as a resu}t of it having

been created by several geological faults, the various features of the lake

bottom became importaRt locations for endemic livelihoods. Having

considered the geological features of Lake Biwa and the ecological behavior

of varieties fish iRhabiting the lake in this fashion, 1 attempt in this paper to

reproduce the technological stages of fishiRg in each age and make clear the

position of Katata estate in terms of medieval fishing.

  In this paper 1 use the fishing disputes between medieval Katata and the

estates of Otowa and Sugaura as objects of analysis, and reproduce the

fishing technology possessed the Katata fishermen from the types of fish

caught and the fishing season. As a result, 1 realized the key to understand-

ing the fishing at Katata in medieval times was the fishing technology that

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