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熱帯雨林の人魚イアーラの図像学 ──『オデュッセイア』、『ウズ・ルジアダス』から『マクナイーマ』へ

熱帯雨林の人魚イアーラの図像学 ──『オデュッセイア』、『ウズ・ルジアダス』から『マクナイーマ』へ

福嶋 伸洋*

イアーラ/オラーヴォ・ビラッキ

川に棲むように わたしの裡に棲むひとりの美しい女 近寄りがたい 稀なる女が銀の綿のように湧く 泡のなか金の長い髪に 冷たい体を持ったイアーラが。

睡蓮のあいだで わたしは彼女に恋しのぞき見るそして彼女は 澄んだ波の揺れる鏡から潤んだ碧の瞳で わたしを見つめ白く柔らかい胸を 差し出す。

わたしの胸は逸る 恋人たる者の熱き想いへ至上の栄光を求めての 自棄へと傲りと悦びとに狂いつつ 彼女を抱きしめようと……。

だがわたしの腕のなかで 幻影は煙と消える。水マンイ・ダグア

の精は 憐れみの声を漏らし死せる真珠たる 泡のなかに消え去る。

『詩集』(一八八八年)より 1

ブラジルの子どもなら誰でも知っているコミック作家、マウリシオ・ヂ・ソウザが、インディオの伝説を描いたシリーズの一作『イアーラ』(二〇一〇年)のなかで、アマゾンの川に棲む水の精イアーラは、アンデルセンのおとぎ話を元にしたディズニー映画『リトル・マーメイド』(一九八九年)の主人公、アリエルを思わせる姿で描かれている。長い髪を持ち、乳房を貝殻で隠し、下半身は魚─。ただし、アリエルが、緑の鱗、白い肌、赤い髪で、胸には紫の二枚貝を当てているのに対し、マウリシオの人

イアーラ

魚は、インディオの生まれ変わりだからだろうか、黄色の鱗、褐色の肌、黒い髪で、胸には(なぜそれなのかはわからないが)二枚の赤いヒトデのようなものを当てている〔図 1〕。その物語は次のようなものである。インディオの若く美しい娘イアーラはある日、未知の土地へ

1 Olavo Bilac, Poesias, Rio de Janeiro, Francisco Alves, 1967, p.290.

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福嶋 伸洋

赴く。途上、時を忘れて川で魚たちと遊び、野宿する羽目になる。翌日、二匹の豹に襲われて川に逃げ込むと、人

セレイア

魚に姿を変える。イアーラは以来、その川で美しい歌で訪れるものを魅了している。その誘惑に陥った者は正気を失うという。……マウリシオのイアーラの容姿は、広く流布しているものに近いが、唯一の姿というわけではない。

たとえばこの十年ほど前にストゥーヂオ・ノベウ社が刊行したトニ・ブランダォン作の絵本『イアーラ』(一九九八年)の画家デニーズィ・ホシャエウは水の精イアーラを、淡い青緑の肌、黒い髪、そして人間の二本の足を持ったものとして描いた〔図 2〕。あとで見るように、このような姿でイアーラを想像したのも彼女ひとりというわけではない。この熱帯雨林の人魚イアーラについて、たとえばルイス・ダ・カマラ・カスクードの『ブラジル

民俗辞典』(一九五四年)は、「イアーラ」は「水マンイ・ダグア

の精」の慣習的かつ文学的な別称であるとし、「水マンイ・ダグア

の精」の項目で次のように説明している。「ブラジル全土で、ヨーロッパのセイレーンは水マンイ・ダグア

の精として知られ、肌は白く金髪で、半身は魚で、恋人の男を惹きつけるために歌い、その恋人は彼女に水底まで付いていこうとして溺れて死ぬ。形

モルフォロジー

態学から言えば、この神話はヨーロッパ、環大西洋圏に属するものである」2。その根拠のひとつは、「インディオは、その神話観において、あらゆるものの起源である母

マンイ

なるものシスに、愛欲の誘惑を認めることはできなかったはずである」こと。さらに、こう述べられる。「二百年に渡るブラジル・インディオの記録文書には、この物語の始めの部分しか残されていない。飢え、獰猛で、むさぼり喰うために殺す男

オーメン・ダグア

の水の精イプピアーラと、大蛇ムボイアスーで、宇宙観の痕跡は残してはいるが、現代の水

マンイ・ダグア

の精とはきわめて異なる」。十九世紀以降、この伝説の存在は、オラーヴォ・ビラッキのような象徴主義詩人から、マリオ・ヂ・

図 1 マウリシオ・ヂ・ソウザ『イアーラ』挿画(2010年)

2 Luís da Câmara Cascudo, Dicionário do folclore brasileiro, São Paulo, Global Editora, 4a edição, 2001, p. 348.

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熱帯雨林の人魚イアーラの図像学──『オデュッセイア』、『ウズ・ルジアダス』から『マクナイーマ』へ

アンドラーヂのようなヨーロッパ・アヴァンギャルドの影響を受けたモダニスト作家、さらにはマウリシオ・ヂ・ソウザのような多くの読者を持つ絵本作家に至るまで、ブラジルのさまざまな書き手たちの創作欲をかき立ててきた。ビラッキのイアーラは、長い髪は金、潤んだ瞳は碧、柔かい胸は白と、ヨーロッパの女性を思わ

せる姿で描写されている(ただし碧ヴェルヂ

は、彼の物語詩《エメラルドを探求する者》に現れる宝石の色であり、ソネット《ブラジル》で「あらゆる自然のなかでももっとも美しい花」と讃えられる「碧の地」ブラジルの色ではあるが)。半身が魚であるとは言明されていないが、人間の身体に関しては、ルイス・ダ・カマラ・カスクードが書いている通りの特徴を備えていると言える。一方、たとえば、マリオ・ヂ・アンドラーヂの小説『マクナイーマ』(一九二八年)では、イアーラ(ウイアーラ)は、明らかにインディオの女性として描かれている。「そしてウイアーラは、また踊りながら近づいてきました。彼女の美しいことと言ったら……! 赤みがかった褐色の肌は、まるでお陽さまの顔のよう、そして夜に周りを囲まれて暮らす昼のように、香

グラウーナ

雨鳥の翼を思わせる黒くて短い髪が顔を取り巻いていました」3。マクナイーマを艶かしい踊りで誘惑したウイアーラは、(その様子は描写されないが)水底でマクナイーマに襲いかかり、足や指や耳や鼻を引きちぎる。これをひとつのきっかけにマクナイーマは地上の世界を儚んで空に昇り、大熊座となる。……カヴァウカンチ・プロエンサは、マリオのウイアーラの容姿に、ジョゼ・ヂ・アレンカールの小

説『イラセーマ』の女主人公イラセーマの描写が影を落としていることを指摘している。「イラセーマは、香

グラウーナ

雨鳥の翼よりも黒い髪の、蜜の唇を持つ乙女で」……4。アレンカールのこの小説が、ポルトガル人植民者の青年とインディオの無垢な少女の悲恋を描く、インディオにいわば西洋の夢想を投影する小説であるのと同様に、マリオの小説も、イアーラにインディオの特徴を与えて夢想を投影し〈誘惑〉の寓

アレゴリー

意とすることで、同じインディオ幻想に浸っていると言える。いずれにしても、オラーヴォ・ビラッキのソネットやマリオ・ヂ・アンドラーヂの小説のように、イアーラが現れる、かつ文学史に確たる名を留める作品において、イアーラの下半身がどんな形に

図 2 トニ・ブランダォン『イアーラ』挿画(1998年、絵はデニーズィ・ホシャエウ)

3 Mário de Andrade, Macunaíma ― o herói sem nenhum caráter, Belo Horizonte, Livraria Garnier, 2001, p. 155.4 M. Cavalcanti Proença, Roteiro de Macunaíma, Rio de Janeiro, Civilização Brasileira, 1969, p. 279.

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なっているのかはっきり描かれていないことには注目しておいてよい。そのなかで、二〇世紀ブラジルでもっとも偉大な小説のひとつ『大いなる奥地』の作者ジョアン・ギマランイス・ホーザの、最初の著書である詩集『マグマ』(一九三六年)に収められた詩《イアーラ》は、例外のひとつである。そこでは、「腰から上は少女の姿/腰から下はトゥクナレー」と、はっきりと半人半魚の姿が言い表されている(トゥクナレーとは、黄色い体に黒い縞模様、尾ひれの付け根に黒い斑があるアマゾンの淡水魚)。とはいえ、刊行当時、周りの人びとから高い評価を受けたというこの詩集を、のちの大作家は気に入ってはいなかったようで、生前は再度刊行することもなく、ほとんどの読者はこの詩の存在すら知らなかった。インディオが伝えるこのイアーラはしだいに、ヨーロッパの神話や伝説に属する、上半身は人間

で下半身は魚という姿の人魚と同一視されてゆくが、これはそれゆえ、ひとりの創造者の着想に発するものではなく、言葉や絵を使って多くの人びとがさまざまな形で働かせる想像力、いわば集合的想像力が、近づいたり離れたりをくり返しながらひとつの線に収束していった結果だと言えるかもしれない。

イアーラ(抄)/ジョアン・ギマランイス・ホーザ

碧の波が成す丘々の 遥か奥底陽光が折れ 冷たい針となるところへあらゆるセイレーンたちが 海から 川から降りてゆく幻めいて 緩やかに 玻璃の幽霊のように海の女神アンピトリテの 真珠母でできた宮殿へと丸く窪んだ谷の 透き通った 碧の宮殿へと 深淵なす一角にあって 溢れる高杯のように森と藻の直中に 泡にまみれてまた 確固たる幾何模様を描く 珊瑚の庭園の直中に……。

海神ポセイドンの哨兵たる イルカたちのあいだを潜ってゆく 水中に解き放たれて 大きな藻のように溺死した若者をかつぎしなやかな砂浜の ウンディーネたちエルバ川の玉虫色の水の ニクスたちスント川のハフェフルたち ドン川のルサルカたち……。ローレライは瞳の琺瑯にライン川の二つの滴を湛えている……。勤勉なダナイデスたちが離れてゆくと群なすネレイデスたちは体にぴったりと合った スパンコールのドレスの鱗片を波打たせつつ 潜ってゆく……。

だがイアーラは来なかった……!だがイアーラは来ない……!

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熱帯雨林の人魚イアーラの図像学──『オデュッセイア』、『ウズ・ルジアダス』から『マクナイーマ』へ

イアーラには 血が通っているからイアーラには 肉体があるから赤い大地の少女の血が川の肥沃な水の魚の肉体が……。

ムイラキタンの碧の瞳を持つイアーラ腰から上は少女の姿腰から下はトゥクナレー……。眠りつつやってきた魚たちの王の息子と白いインディオの女カシナウアーとの娘……。

開けた河口のすぐうしろ潮ポロロッカ

津波という 猛々しい獣が悪魔たちを放つところに彼女は留まった おののきつつブラジルの女 土

タ プ イ ア

着の女 褐モ レ ー ナ

色の女気高いあまり他の女たちに侮られることを厭う……だが彼女に出逢うのはむずかしいこの大いなる大地が 縁なき夜に覆われ月と睡蓮が 伸びやかに花開くときのみわたしは彼女にキスすることができる裸で眠りに就いたかぼそく褐色の肌の脂で光る女オオオニバスの花の 深紅の貝殻のなか長いあいだ身を浸している香気と 月光とに……。

『マグマ』(一九三六年)より 5

イアーラの図アイコン

像がたどったこのような経緯は、『オデュッセイア』でやはり形姿への言及がないまま初めてその名が挙げられたセイレーン(のちのオウィディウスやヒュギーヌスの著作では、翼を持つことが言明されている)が、しだいにはっきりと、わたしたちがよく知るあの半人半魚の形を取るようになっていった経緯と似ているかもしれない。大英博物館に収蔵されているある古代ギリシアの壷では、船のマストに縛り付けられた英雄オ

デュッセウスを甘美な歌で誘惑するセイレーンたちは、猛禽の体に人間の女の頭が付いた(むしろ

5 João Guimarães Rosa, Magma, Rio de Janeiro, Editora Nova Fronteira, 1997, pp. 16-20.

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わたしたちがハルピュイアの名で知っているものを思わせる)怪物として描かれている〔図 3〕。ヴィクトリア朝時代の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、当時はまだそれほど知られていなかったこの壷の絵にもとづいて、《オデュッセウスとセイレーンたち》(一八九一年)で、セイレーンを鳥の怪物として描いている〔図 4〕。もっともこれは、セイレーンが半人半魚の姿で描かれることが多くなっていた当時、すでに例外に属する描き方だったという 6。ボルヘスは『幻獣辞典』で、セイレーンが現在想像されている人魚の姿になったのは、海神トリ

トーンとの混同によるものだと推測している。十六世紀末のシェイクスピアの戯曲には、すでにセイレーンと人

マーメイド

魚が同一視されていたことがうかがえる。「わたしはイルカの背に乗った人マーメイド

魚の声を耳にした/かくも甘く、響き高き呼気を発し/彼女の歌を聞いて、荒海さえも凪いだ」(『夏の夜の夢』)、また「うるわしき人

マーメイド

魚よ、おまえの音楽でわたしを誘惑するな/おまえの妹の涙でわたしを溺れさせようと」(『間違いの喜劇』)7。ポルトガル語文学では、その始源にあるとも言うべきルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・

6 ピーター・トリッピ『J・W・ウォーターハウス』曽根原美保訳、ファイドン、二〇〇六年、一〇七頁。7 次の文献の「mermaid」の項を参照。アド・フリース『イメージ・シンボル事典』山下主一郎他訳、大修館書店、一九八四年。訳は引用者による。

図 3 大英博物館収蔵の古代ギリシアの壷の線画(A. C. 490年頃)

図 4 J・W・ウォーターハウス《オデュッセウスとセイレーンたち》(1891年)

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ルジアダス』(一五七二年)にすでに「セイレーン」が現れている(ただし、現在「人魚」を指す一般名詞となっている「sereia」とは綴りが異なり、大文字で始まる「Sirena」で、女神テテュスに仕える愛の島のニンフたちのひとりの固有名である)。この叙事詩の最後から二つめに当たる第九の詩で、アジアへの航路の発見という偉業を成し遂げ、

帰途についているヴァスコ・ダ・ガマに率いられたポルトガル人航海士たちに、彼らの守護神たる女神ウェヌスは、長い辛苦を絶えぬいたことへの報いを与えようと考え、色とりどりの花々や緑の草木に飾り立てられ、女神テテュスに統べられた美しいニンフたちが棲み、純金と玻璃とで造られた宮殿にはふんだんに食べ物と飲み物とがある「愛の島」を、大西洋上に用意する。島に降り立った英雄たちは、裸で沐浴しているニンフたちに気付いて彼女らを追いかける。ニンフたちはあわてて逃げ惑う振りをするが、ウェヌスの命に従ったクピドの矢に射られているため、すぐに英雄たちの手に落ちる。カモンイスの筆はこの、いわば「異教的な」状景を、控えめながらもためらいなく描いている。

ああ、なんとむさぼるような接くち

吻づけ

がなんと甘い啜り泣きが聞こえたことか、森のなかで。なんと優しい愛撫が交わされ、貞潔を尊ぶための怒りがなんと歓ばしい笑みにかわったことか。この日、昼前と昼さがり、若者とニンフとのあいだにさらにあったこと、ウェヌスが歓びを与えて燃えあがらせたそのことは、想像するより、軀で知るほうがよい。それが無理なら頭を使うがいい 8。

このあと第十の詩で、インド沿岸の征服や東南アジアでの戦役など、ポルトガル人航海士たちが未来に成し遂げるだろう偉業を、かつて耳にしたプロテウスの予言の記憶として未来時制で語るのが、美しい声を持つニンフ「セイレーン」だった。そこで列挙される「未来」の偉業は、カモンイスが叙事詩をものした時点ではすでに「過去」の確定事実となっているものであり、これは語りの手法としても興味深いが、このようにセイレーンが神がかった「英知」を有しているのは、ホメロスやキケロの文学にカモンイスが精通していた証拠でもあるだろう。ホメロスのセイレーンたちは、「わたしたちはすべてのことを知っている」と歌っていたし、キケロは、そのような英知が約束されていたのでなければオデュッセウスほどの英雄の心を乱すことはできなかったはずだ、としているからである 9。『ウズ・ルジアダス』に現れる愛の島の状景を描いた、十八世紀末の画家ヴィエイラ・ポルトゥエンセの油彩《愛の島のヴァスコ・ダ・ガマ》や、ポルトガル国立図書館に収蔵されている、一九〇〇年頃のものと推測される版画《愛の島でヴァスコ・ダ・ガマを迎える水

のン

精フ

テテュス》〔図5〕では、テテュスも他のニンフたちも人間の足を持った女として描かれており、セイレーンの名が後代のわたしたちに想像させる人魚の姿は見られない。とはいえ、カモンイスの「セイレーン」(と他のニンフたち)が、ホメロスからは甘い歌声による

8 ルイス・デ・カモンイス『ウズ・ルジアダス』池上岺夫訳、白水社、二〇〇〇年、二五二頁。9 ヴィック・ド・ドンデ『人魚伝説』荒俣宏監修、創元社、一九九三年、二五頁。

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〈誘惑〉を受け継ぎ、のちに現れる人マーメイド

魚たちからは官能美による〈誘惑〉を先取りしていることには注目しておきたい(ただし、カモンイスのセイレーンだけは〈破滅〉とは無縁である)。当時の文学教養の構成を勘案すれば、十六世紀以後ブラジルで記録文学を残した書き手たちが、近代ポルトガル語を確立したとされる叙事詩『ウズ・ルジアダス』に現れるセイレーンについて何も知らなかったと考えることはむずかしい。それゆえ、インディオの伝説として伝えられてきたイアーラが、(ルイス・ダ・カマラ・カスクードが考えたように)ヨーロッパのセイレーンの形

モルフォロジック

態学的な等価物であるとまでは言わないとしても、そこから何らかの影響を受けた可能性を否定することはできないはずである。

碧の石にまつわる伝説(抄)/エンリケッタ・リズボーア

……フェルナン・ヂーアスよ フェルナン・ヂーアスよウイアーラを眠らせてやりなさい!部族の生命はウイアーラの大いなる眠りのなか。ウイアーラの大いなる眠りは彼女の髪に棲む。水から成るその髪は

図 5 作者不詳《愛の島でヴァスコ・ダ・ガマを迎える水ニ

のン

精フ

テテュス》(1900年頃)

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碧の石になった。……満月の夜々白く美しい ウイアーラが歌うときその縁取りを成すのは波打つ髪何人もの勇敢な戦士が彼女のためにみずから命を捨てた。そのときマカシェーラが慎しみ深くながら 行動を起こしウイアーラを眠りに就かせた見張りを付け石のごとき眠りに。

汝ら 彼女の眠りを見張る者たちよ武器を手放すのだ!ああ! 歌は隠され美しさは盗まれたが彼女の髪は輝いている碧エメラルド

玉の 生気あふれる光で!戦士となって 勇敢にふるまってのち永遠の眠りに就くウイアーラの碧の腕のなかで!……

『母なる月』(一九五二年)より 10

十九世紀後半、ヴィクトリア朝時代のイギリスを中心として、人魚は画家たちのお気に入りのモチーフとなるが、これに先立ってハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『人魚姫』(一八三七年)の出版があることは銘記しておかなければならない(ただし、H・P・ポールによる最初の英語訳が刊行されるのは一八七二年)。この流行の先駆けとも言うべき作品のひとつが、一八五八年に完成したフレデリック・レイトン

の《漁師とセイレーン》〔図 6〕である。画家のパリ滞在中にオペラ歌手G・H・マリオの求めに応じて描かれたこの作品は、ゲーテの、一七七七年あるいは翌年に書かれた、ローレライ伝説としても知られる民間伝承に現れる、漁師を誘惑し水中で命を奪う人魚をモチーフとする詩《漁師》にもとづくものである 11。レイトンのセイレーンは、S字にうねる体の曲線をあらわに示す姿勢で、すでに意識もないように見える漁師にぴったりと抱きつき、海に引き込もうとしている。二つの三つ編みにまとめられた長く豊かなブロンドには真珠と珊瑚の髪飾りを付け、腿の付け根やや下あたりから、脚は緑青色の

10 Henriqueta Lisboa, Obras completas, São Paulo, Duas Cidades, 1985, pp. 214-216.11 谷田博幸『フレデリック・レイトン』トレヴィル、一九九五年、八頁。

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鱗の尾ひれに変わってゆく。蛇のように細くなったその尾の先もまた、漁師の足にしっかりと巻き付いている。あからさまに磔刑のポーズを取る漁師に託して描かれているのが、「人々の魂を漁るキリスト教

信仰(漁師)が異教と官能(セイレーン)の誘惑を斥けようと葛藤する 12」ところであることは疑いを容れないが、この時代、アカデミーの保守派が依然として裸体画の不道徳性を口にしていたこと、ひいては人魚のようなモチーフが裸体を描く口

プレテクスト

実になっていたことを思い併せれば、レイトンがこの絵で描こうとしていたのはむしろ「異教」すなわち官能の勝利だったのではないかと思えるほど、ヴィクトリア女王が「ヴェロネーゼを思わせる」と讃えた画家の筆は、闊達に、怖れ知らずに動いているように見える。一八四九年にローマで生まれ、同地で幼少期を過ごしたのち、ロンドンに移り住んだ画家ジョン・

ウィリアム・ウォーターハウスは、すでにふれたように、一八九一年の《オデュッセウスとセイレーン》で、セイレーンを鳥の怪物の姿で描いた。一方、翌年の《人

マーメイド

魚》と題された習作に描かれた、長い栗色の髪を櫛で梳く女は、膝やや上から魚の体になっている。これにもとづいて制作された一九〇〇年の《人

マーメイド

魚》〔図 7〕では、光沢を放つなめらかな鱗が、前面では、豊かな髪に隠れてはいるが、脚の付け根あたりまでを被い、背面では、臀部や腰回りまでを被っている。そして最初のセイレーンから十年後、一九〇一年に制作されたやや小ぶりの作品《セイレーン》〔図

8〕に現れている、竪琴を脇に抱えて岩に座し、溺れる漁師を物憂げに見つめる、あどけない美しさを湛えた少女の姿で描かれたセイレーン(これも北ヨーロッパの民間伝承の人魚を思わせる)は、

図 6 フレデリック・レイトン《漁師とセイレーン》(1858年)

図 7 J・W・ウォーターハウス《人マーメイド

魚》(1900年)

12 前掲書、八頁。

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脛あたりまでは人間の足で、その下に鱗をまとい爪先のみが尾ひれになった、文字通りの人魚である─下半身をめぐるこの細

マイナー・チェンジ

部の変更が何を意味しうるかは、ドイツの画家・彫刻家マックス・クリンガーの《セイレーン》(一八九五年)〔図 9〕に明らかであるように思える。ウォーターハウスは、オフィーリアやシャルロット姫(テニソンの物語詩の主人公)といった水

辺に佇む女、水の精のナイアスやニンフといった水に身を浸す女を、生涯にわたって好んで描いた。なかでも、アカデミー入会を視野に入れて描かれたという、睡

ニンフェイア

蓮の浮かぶ沼で、七人の裸の女たちが壮健な青年ヒュラースへ誘惑のまなざしを送る、一八九六年の大作《ヒュラースとニンフたち》〔図10〕で、水という元

エレメント

素が孕む官能美に画家が与え得た象りは、ノヴァーリスの小説の一節を思い出させる。

図 8 J・W・ウォーターハウス《セイレーン》(1901年)

図 9 マックス・クリンガー《セイレーン》(1895年)

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「ひそかな官能の歓びと手を結ぼうと、ほしいままな想いが次々と胸の内にわきおこり、いまだ目にしたこともない影像が新たに浮かんできたかと思うとまた溶けあうように消えていった。だがいつしかそれが肉眼にもとらえられる生きものの姿となって青年の肌をつつみこんだ。四大元素のひとつ、やさしい水がまわりじゅうからふくよかな乳房となってまつわりついてきたのだ。たゆたう池の水は、じつはなよやかな娘たちの溶液で、それが青年の体にふれる瞬間、本来の姿に変じるかのようであった」13。ウォーターハウスが、ギリシアの壷にもとづいた(オウィディウスの記述とも一致する)「正統」

な鳥の姿のセイレーンを棄て、「俗説」にある人魚の姿のそれを選んだのは、アンデルセンの人魚姫やフレデリック・レイトンの絵から遅ればせの影響を受けたため、また、エドワード・バーン=ジョーンズ《海の深さ》(一八八七年)、ジョン・コリアー《陸の赤子》(一八九九年)といった同時代の図像から影響を受けたためだったのかもしれない。いずれにしても、一九〇一年の人魚のセイレーンが湛えるに至った静かな官能美が、醜怪な鳥のセイレーンからではなく、一八九六年の、あどけない面差しでヒュラースを蠱惑するあのニンフたちから引き継がれたものだということは明らかだろう。

イアーラの歌は聞こえない/エウカナアン・フェハース

イアーラの歌は聞こえない聞こえるのは 鳥の啼く声

イアーラの歌は聞こえない聞こえるのは 舟の静まり

図 10 J・W・ウォーターハウス《ヒュラースとニンフたち》(1896年)

13 ノヴァーリス『青い花』青山隆夫訳、岩波文庫、一九八九年、一七頁。

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イアーラの歌は聞こえない聞こえるのは 蛙のざわめき

イアーラの歌は聞こえない聞こえるのは 弓の静まり矢は かたわらで眠る聞こえるのは 沼地の静まり

静まり街から車がなくなったような

でもイアーラの歌は聞こえない聞こえるのは静まり 大きく広がった静まり

それがイアーラの歌?『イアーラの詩』(二〇〇八年)より 14

ここでヴィクトリア朝時代に(とりわけウォーターハウスによって)描かれたセイレーンたちの姿を概観するという作業は、人魚の図像史をたどり直すことのみを意味するわけではない。ピーター・トリッピによれば、ウォーターハウスは、《ヒュラースとニンフたち》を描く際に、

一八九四年にロンドンで展示されたイタリアの画家G・A・サルトーリオの《セイレーン、あるいは緑の深淵》(一八九二年)〔図 11〕を参考にしていたかもしれないという 15。二つの絵に共通するものとしては、水のなかに裸身を浸し誘惑する女(ニンフ/セイレーン)、惹き付けられる若者(ヒュラース/漁師)、そして若者の足場となっている水に浮かぶもの(睡蓮/小舟)などを挙げることができるだろうか。ただ、ピーター・トリッピの推測が正しかったとしても、構図、人数、背景などの点でウォーターハウスがみずからの創意を大きく挟んでいることは否定できず、このため《ヒュ

図 11 G・A・サルトーリオ《セイレーン、あるいは緑の深淵》(1892年)

14 Eucanaã Ferraz, Poemas da Iara, Rio de Janeiro, Lingua Geral Livros, 2008.15 ピーター・トリッピ『J・W・ウォーターハウス』、前掲書、一四八頁。

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ラースとニンフたち》はあくまで独自の作品になっていると言える。イアーラの系譜を探求するわたしたちにとって興味深いのは、アマゾン川河口の街ベレン出身の

画家テオドーロ・ブラーガの一九二九年の作品《イアーラの誘惑》〔図 12〕が、水中の女の仰向けの姿勢、褐色の肌の若者が(ほぼ)全裸であること、その足場(オオオニバス/小舟)の規模、他の背景を欠いていること、といった点で、ウォーターハウスの《ヒュラースとニンフたち》以上にサルトーリオの《緑の深淵》に酷似していることである 16。このような「影響」があったのか否かを実証するためには精緻な調査が必要だろうが、一八九九

年から一九〇六年までパリに滞在し、アカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランに師事したというテオドーロ・ブラーガの経歴を考えれば、可能性は開かれている。また、《緑の深淵》が着想の源ではなかったとしても、このブラジル人画家がパリ留学のあいだ、レイトンやウォーターハウス、ジョン・コリアーやハーバート・ドレイパーといった画家たちの人魚の絵を知る機会をまったく持たず、それゆえ、のちに熱帯雨林の水の精イアーラを描く際にそれらを思い浮かべることもなかった、と考えることもむずかしいだろう。水中で若者を誘惑する妖精、というモチーフにおいて十九世紀末のヨーロッパ絵画の流行に倣い

つつ、魚の下半身という食傷された感もある意匠はあえて斥けているブラーガの水イ ア ー ラ

の精はしかし、水底に沈んだまま、両足を折り畳んで体を堅く閉じ、好奇心を示しつつもまだ恐る恐るオオオニバスから顔を出しているだけの少年に気付いてさえいないかのように、まなざしをあらぬ方に向けて

図 12 テオドーロ・ブラーガ《イアーラの誘惑》(1929年)

16 次の論文でアンドレ・コッツィは、テオドーロ・ブラーガ《イアーラの誘惑》とジョン・エヴァレット・ミレー《オフィーリア》との類似に言及しているが、彼がもしサルトーリオの絵を知っていたらそうは書かなかったかもしれない。 André Cozzi, ““Fascinação de Iara” ― o nacional e o feminino na pintura de � eodoro Braga” em: 19&20, Rio de Janeiro, v. II, n. 2, abr., 2007.

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熱帯雨林の人魚イアーラの図像学──『オデュッセイア』、『ウズ・ルジアダス』から『マクナイーマ』へ

いる。サルトーリオの人魚が、水面に浮かんで身をくねらせ、腕を開いて胸をあらわに差し出して、すでに舟から身を乗り出している若者にまなざしをしっかりと絡ませているのと比べると、ブラーガの作品は、〈誘惑〉の寓

アレゴリー

意として同等の力を持ってはいず、中途半端で終わっている。中途半端、というのは、ブラーガの水

イ ア ー ラ

の精は、破滅へ至ることが明白でありながらその魅惑に抗うことができないほど妖艶な魔物になりきれていないだけでなく、インディオの少年やオオオニバスといった、あからさまにアマゾンを喚起させる背景にもかかわらず、肌は白く、面立ちもヨーロッパ風で、インディオ風の女にもなりきれていないからである。このインディオというモチーフは、十九世紀後半から二〇世紀前半にかけて、ブラジルの文人の

あいだで大きな「争点」となるものだった(その淵源は十六世紀バロックにまで遡るが)。とりわけ、一九二二年以降、存在感を大きくしていく近

モ デ ル ニ ス タ

代主義者にとって、それはかつてのように「未開」「遅れ」の同義語であることを止め─あるいは、そうあり続けながらも同時に─、ブラジルという国の美質のひとつ、あるいはその核心となった。未来主義に触発されて書かれたオズヴァウヂ・ヂ・アンドラーヂの「食人マニフェスト」(一九二八

年)は、ブラジルが他文化の力を取り込んできたことを食人習俗に喩え、インディオを持ち上げた。同年に出版されたマリオ・ヂ・アンドラーヂの『マクナイーマ』は、ドイツの人類学者コッホ=

グリュンベルクの旅行記など、インディオに関する文献を読み込み、パロディ風に書き換えながら、インディオの青年マクナイーマに託してブラジル人の命運を描き出すことを試みた小説である。すでに見たように、マリオは、この小説のなかでインディオ風の水

マンイ・ダグア

の精ウイアーラを登場させているが、その姿は、インディオの女とポルトガル人植民者のいわば「ロマンティック・ラヴ」を書いたジョゼ・ヂ・アレンカールの小説の、女主人公イラセーマの描写から取られたものだった。一方で、この翌年、一九二九年に描かれた《イアーラの誘惑》で画家テオドーロ・ブラーガが下

敷きにしていたのは、オラーヴォ・ビラッキの、完全にヨーロッパ風の水イ ア ー ラ

の精だったかもしれない。「金の長い髪に、冷たい体を持ったイアーラ[…]そして彼女は、澄んだ波の揺れる鏡から/潤んだ碧の瞳で、わたしを見つめ/白く柔らかい胸を、差し出す」─ビラッキの詩がいまなお美しいとすれば、それはこの詩人の表白が、十九世紀末から響き出しているからである。一方でブラーガは、近

モデル ニ ズ モ

代主義という時流に棹さそうとしつつ、やや時代錯誤な世紀末趣味に傾いて失敗している。おそらくジョアン・ギマランイス・ホーザは、このような機微を感じ分けることに長けていたのだろう。その詩《イアーラ》は、セイレーンたちが「幻めいて、緩やかに、玻璃の幽霊のように」、海の女神の「真珠母でできた」「透き通った碧の宮殿」へ向かう、幽玄にして絢爛な光景で始まる。そこで「赤い大地の少女の血」と「肥沃な水の魚の肉体」を持ち、西の仲間たちに侮られることに脅えつつ、みずからの美に傲ってもいるイアーラは、近

モデル ニ ズ モ

代主義が見出したブラジルそのものの象徴としてのインディオの女でもある。この詩《イアーラ》を含む詩集『マグマ』を彼が再刊しなかったのは、パロディやアイロニー、

シニスムといった美学的カテゴリーが前景に出た、マヌエル・バンデイラ『放恣なリズム』(一九二四年)やカルロス・ドゥルモン・ヂ・アンドラーヂ『世界の感情』(一九三〇年)といった新しい流れのなかで、みずからの詩を流行遅れと感じたせいかもしれない。とはいえ、ギマランイス・ホーザの詩《イアーラ》が、象徴主義と近

モデル ニ ズ モ

代主義との時を超えた結婚とでも呼びたくなる絶妙の配分で成り立つ佳品であることは疑いを容れない。

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ベロリゾンチ出身の女性詩人、エンリケッタ・リズボーアの《碧の石にまつわる伝説》(一九五六年)では、イアーラはすでに、その成れの果ての姿であるエメラルドとしての実在にしか触れることのできない純粋な幻想である。この系譜は、リオの詩人エウカナアン・フェハースが子どもたちのために書いた二〇〇六年の詩絵本『イアーラの詩』で極に達している。イアーラの歌を聴き取ろうとする少年が聞き届けるのは「鳥の啼き声」や「沼地の静まり」などイアーラの不在を示す音のみだが、少年の夢想は、まさにそのような不在を実在の痕跡に他ならないものと取ることで養われる。イアーラはここで、心

イメージ

像の不在そのものの心イメージ

像となる、と言えるだろうか。ところで、イアーラの伝説には、水中に引き込まれた男が正気を失ったり喰い殺されたりすると

いうお決まりの結末の他に、声高に語り伝えられているものではないが、もオルタナティヴ・エンディング

うひとつの結末がある。それによれば、誘惑に落ちてイアーラと愛を交わした漁師は、不老不死となり、美しい人魚とともに水底で永遠に幸せに暮らしているのだという。イアーラの消息が決してわたしたちに伝わってくることがないのは、あるいはこのためなのかもしれない。


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