Title 平安期の垣内 : 開発と領有 Citation 65(3): 357-402...

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Title <論説>平安期の垣内 : 開発と領有 Author(s) 水野, 章二 Citation 史林 (1982), 65(3): 357-402 Issue Date 1982-05-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_65_357 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 平安期の垣内 : 開発と領有

    Author(s) 水野, 章二

    Citation 史林 (1982), 65(3): 357-402

    Issue Date 1982-05-01

    URL https://doi.org/10.14989/shirin_65_357

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 平安期の垣内

    1開発と領有i

    立早

    【要約】 垣眼カキは、本来特定個人が他者の侵犯を許さない、自らに属する空間を生み出す手段であった。この垣で周囲と区画さ

    れた地が垣内1ーカキウチ、カイトである。伊勢や大和の諸事例からは、垣内が条里制地割の縁辺の段丘・扇状地や自然堤防、山間

    部に位置し、当時において、国家的・公的な支配の対象とならない畠地・家地として開発されたものであることが明らかである。

    垣内は農民的性格の強いものであったが、一一・二世紀には、畠地子収奪・在家役賦課を通じて上級支配権が打ち立てられてゆく。

    また条件によっては治田化することもあった。このような動きの中で、垣内は言葉・表記の上からも、実体の面からも分化・多様

    化してゆくのである。                              史林六五巻三号 一九八二年五月

    は じ め に

    平安期の垣内(水野)

     垣内は様々な変化を遂げながら、現在においてなおその生命を保ち続けている。言葉としては、カイト・ケ:ト・カイ

    チ・カイツ・カイド・カキウチ・カケウチ・カキナイ・カクチ・コーチなどとして、ほぼ全国にわたって分布しているの

    であり、その意味内容もごく狭い地域にも幾通りもの使い方があるという。また「垣内」という漢字以外に、さまざまな

             ①

    宛字が行なわれている。歴史的にも『万葉集』以下の文献・文書に多くその語を見出すことができる。このような垣内に

                                              ②

    関して、地理学・民俗学・歴史学などの諸分野において、多数の研究が積み重ねられてきた。小川琢治氏が、大和盆地に

    31 (357)

  •                        ③

    多く見られる環濠をめぐらした集落を、 「壇通式村落」と命名して以来、地理学においては主として集落研究との関わり

    の中で垣内が論及されてきた。それに対し、柳田国男氏を中核として進められ、直江広治氏に至る民俗学的な垣内研究で

    は、むしろ開発との関係が重視されている。直江琉は現在各地に残る垣内の意味内容が、e地域結合・⇔部落の共有山林

    ・⇔同族集団・⑳屋敷の 部・㈲一区画の屋敷地・㈹屋号・㈹区画された一団の耕地・㈹一区画の原野・㈹地字名に分類

    されることなどから、 「耕地並びに附属草地(緑肥採取のため、あるいは将来の開墾予定地として)を囲んだ新開墾の一

    区画が、垣内とよばれるものの原初形態」とされる。このような地理学や民俗学の垣内研究に対し、歴史学は積極的に対

    応してきたとは言い難い。各個別研究に即して適宜言及されることは多くても、垣内そのものを全面的にとりあげて考察

    した研究は、管見の限りでは見当らない。このような状況でありながらも、近年においては、中世社会の成立とかかわっ

    て垣内に重要な意義が賦与されている。

     まず河音能平民は、垣内を農奴的農民・一般農民の「家地」とされ、垣内を収奪・集積することは、王朝国家体制内に

                                         ④

    おいて農奴主階級が敵対的土地所有を実現する唯一の合法的な道であったと評価された。義江彰夫氏も垣内を家地との関

                        ⑤

    係でとらえ、在家役を誤想垣内の収奪とされる。これらの視点は、垣内を領主的土地所有の形成過程に位置づけようとす

    るものと言えよう。一方、戸田芳実氏はコ○世紀末ごろを境として、田刀を『田堵』と書きかえ、堵一三の文字を統一

    的に使用するようになったのは、公領・荘園の基幹的農民が(在地領主をふくめて)、『垣内』を定住の核とし講成単位と

    して、初期中世村落を形成した歴史とその景観によるもの」であり、「卵編垣で区画された農民屋敷地・園・垣内は、居

                                       ⑥

    住と経営のトリデとして強い所有権をもち、一種の聖域としての不可侵性をもつ」と述べられている。この戸田説に基づ

                                                        ⑦

    いて、畿内周辺における基幹的な農民がはっきりと区画されたイエ・ヤケを一般的にもつ段階が考えられているのである。

    続いて注目すべき研究を発表されたのが黒田日出男氏である。氏は伊賀国黒田庄の事例から、一一世紀末・一二世紀初に

    垣内が、居垣内とその他の垣内に分離・区別されるようになり、=一世紀前半に居垣内にかわって居内・内という表現・

    32 (358)

  • 平安期の垣内(水野)

    記載が現れると理解され、これは国衙の公郷在家支配の開始によると共に、田堵層・一般農民層の屋敷地所有の発展とイ

                             ⑧

    エの形成が進行していることを示す、と結論された。ここにおいては、垣内は農民の個別経営、イエの成立・確立と直結

    する問題としてとらえなおされている。このように、中世成立期に史料的に多くその姿を現わす垣内は、家地・屋敷地・

    イエとして、あるいは領主的土地所有の面から、あるいは農民的な個別経営の面から、その歴史的意義が検討されてきた。

    しかし疑問とせねばならないのは、史料的には畠地や田地が垣内とされている事例が圧倒的に多いことである。これらの

    田畠を屋敷内に包摂されたものか、あるいは屋敷の延長と認識されたものとのみ考えてよいのであろうか。なによりも、

                ロ

    この時期の垣内一般を、家地・屋敷地・イエとしてとらえるこれまでの見解自体、けっして十分な論証を経たものとは雷

    えないのである。本稿においては、中世成立期における垣内の歴史的意義を解明していくにあたり、まず最初に、「垣内」

    という語・書葉が有した本来的意味・内容およびその変化を考察することにする。次いで、垣内の歴史具体的諸事例の分

    析を行ない、垣内の性格を明らかにしていきたい。その中で地理学や民俗学における垣内研究との接点も見出していける

    であろう。

                                 6

    ① 直江広治「垣内の研究」 (申果京教育大学文学部紀要『史学研究』1

     …九五八年)

    ② 垣内の研究史については、直江前掲論文に適確なまとめがなされて

     いる。

    ③『近畿地方の土地と住罠』一九一五年

    ④  「日本封建国家の成立をめぐる二つの階級」(『中世封建制成立史論』

     一九七一年)

    ⑤  「忍目期中・世村落の形成」(『講座日本史臨2一九七〇年)

    ⑥ 「律令制からの解放」(『日本民衆の歴史2土一揆と内乱』一九七五

     年)

    ⑦ 吉田孝「律令制と村落」(『岩波講座日本歴史古代3』一九七六年)、

     同「ヤケに関する基礎的考察」 (『古代史論叢』中巻一九七八年)。他

     にイエと垣内に関連しては、飯沼賢司罵在家』と『在家役』の成立」

     (開歴史評論』鱗 一九八一年)がふれている。

    ⑧「中慢成立期における畠作の発展-伊賀国名張郡の『片畠』につい

     て一」 (『民衆史研究』17 …九七九年)。伊賀国黒鼠庄の垣内につい

     ては、入問田宣夫「黒田庄出作地帯における作手の成立と諸階層」

     (『文化』2913 一九六五年)も論及されている。

    33 (359)

  • 第一章 言葉としての垣内

    34 (360)

     まず平安期を中心に、史料上垣内あるいはそれと実体を同じくするものの諸表現・表記を整理しながら、垣内という言

    葉の本来的な意味を検討していこう。

                                  ①

     「垣内しの最も古い事例としては、 『万葉集』をあげることができる。 『万葉集』において、 「垣内」と表現されるも

    のは、花木の植えられた家・宅の垣の内や、麻が栽培されたり、田が作られたりしている垣の内を示している。この垣に

    関してであるが、木村徳国馬によると、 「垣が記・紀の特定のイエの記述に関連しては、語として見えることすくなかっ

                             ②

    た(記一件・紀三件)が、言外には、つねにひびいていた」のであり、 『播磨国風土記』揖保郡条には、 「家内谷 即是

    香山之谷 形浮葉廻 故號家内谷」とも見えていることを考えるならば、古代において家・宅(ただし社会の上層部の

         ③

    みが持ち得た)が垣で区画されたものとイメージされていたことは間違いのないところであろう。一方『日本霊異記』に

                                        ④

    は、麦が二尺ばかりのびている離(マガキ)で囲まれた一町ほどの畠が描かれており、 『万葉集』の事例とともに、特定

    の耕地が垣で区画される場合があったこともまた確実である。問題はこの垣で区画することの意味である。国文学の渡辺

    昭五民は、記・紀の歌謡に見える「八重垣」・「柴垣」等を「聖域を標す神樹と柴によって張りめぐらせた霊域であり、そ

    の垣内で神霊であるべきその代理執行者の男と、神の託宣を受けるべき聖女によって行われる婚購の儀式の揚」で、 「幾

    重にも張りめぐらされた垣は、浄と穣の、貴と賎の、境界であり、論理や倫理を超越した人間でなければ侵すことのでき

                     ⑤        、、         、、

    ない禁忌地帯」・「聖域」と解されている。反正の丹比柴簾宮や崇峻の倉橋柴垣宮のように、垣を宮号とする宮が存在する

                       ⑥

    こともあわせて注意されねばならないだろう。また、臣連理造国造村山が所有する私的隷属民である「部曲」の古訓は、

             ⑦                  ⑧               ⑨

    「カキノタミ」・「カキ」であり、区画され限定された民あるいは編結構成された民の意とされているが、この場合の「カ

                               ⑩

    キ」は垣であり、垣内のカキに同じと考えられているのである。古代においては壇は家・宅などの単なる付属物だったの

  • 平安期の垣内(水野)

    ではなく、家・宅の他に特定の耕地や、場合によっては人間をも他と区別・分離するものだったのである。本来は聖域を

    示したとも考えられる垣は、特定個人が他者の侵犯を許さない、自らに属する空間を生み出す手段であったと考えられる。

    このような垣による分割・領有の展開と拡散の中に、平安朝の垣内は位置づけられねばならないだろう。次の史料を見て

    いただきたい。

      下総国香取社敷地内二俣村壷齋事

       在御燈料荒野壼所事 平朝臣(花押)

                                           (利力)

      右件所者、錐当神領内、三十□年之間成牧之地、無段歩見畠、而前神主大中臣知房募彼地口物、為進毎夜之御燈、慨微力、廻治術、

                           ⑪

      又固堀垣、相語百姓等、可令耕作之由、所被申請也、 (以下略)

     この大中臣知房は、安元元(一一七五)年八月に香取宮司(神主)に載せられた人物であるから、これは平安末から鎌倉初

             ⑫

    期のことと考えてよい。すなわち荒野を見繕化するにあたって「堀・垣」が固められるのである。平安末になっても、周

    囲と区別・分離して領有を実現するにあたって、垣の機能が保持されているのである。

                                                      ⑬

     では次に平安期の垣内の諸用例を見て行こう。 『平安遺文』に見える垣内の用例を示したのが、表一である。これらの

    具体的なあり方については次章以下で検討することとして、ここでは垣内という語・言葉の表記・記載について論を進め

    ていく。まずこの=○ほどの事例において、漢字による表記としては「垣内」が圧倒的に多いことを指摘せねばならな

    い。例外としては「垣土」(表一133)一例のみである。そこで問題は漢字の表記としてはほとんど分化していない「垣内」

    が、当時どのように読まれていたかである。平安期のさほど多くはない仮名書きの事例からは、 「かきうち」(表一138

    ・餅)、「かき内」(92)と「かいと」(54・77)・「カイト」(39)・「かいつ」(62)の二系列(便宜的にカキウチ系とカイト系と

    呼ぶ)に分類することが可能である(端裏書・異筆等を除いたとしても成立する)。それでは表一の38と54とを見ていただ

    きたい。両者は同じ大和国左京八条四坊七坪辰巳角の嶋垣内に関するものであるが、一方では「しまのかきうち」、他方

    35 (361)

  • 表1平

    安期

    の垣

    醐19回Qり4 5678901234     11111 15ハ07 11Ω◎9012 11229會

    文書

    名}

    年号

    i平打

    文1所

    在i地

    目1

    記載

    事頂

    }黍果

    河内

    警護

    寺資

    財帳写

    承和十一(844)

    11一

    補248

    (河

    内国

    石月

    郡)

    寺所

    領山

    地庄

    垣内

    二段

    五十

    歩問

    (樋

    爪)

    垣内

    百歩

    ×

    紀伊国在田郡司解

    仁寿

    四(

    854)1-

    115

    紀傍園在編郡

    新田

    垣内

    幡田

    七十

    二歩

    垣内

    幡田

    単蹄

    一段

    ×

    河内

    国観

    心寺

    縁起資

    財帳

    元慶

    七(

    883)1-

    174

    但馬

    国養

    父郡

    畠奉

    納燈

    料十

    七条

    七融

    田里

    十九

    大垣

    地三

    段四

    十歩

    某寺

    資財

    帳写

    延慰

    頃9-

    4559

    山城

    岡綴

    喜郡

    畠二

    十一

    条荒

    船里

    十三

    坪四

    段目

    田原

    下薗

    垣内

    研勢

    国近

    長谷

    寺資財

    帳天

    暦七

    (953)

    1-265

    伊勢

    圏多

    気・

    ?郡墾

    田・

    畠四

    疋田

    里十

    九坪

    垣内

    一処

    ,他

    太政

    官牒

    天徳

    四(

    960)1-

    275

    美濃

    罵厚

    見郡

    北限

    朴垣

    太政

    宮翻

    案,

    他天元三(980)

    2-

    318

    大;

    和国

    宇智

    郡田

    ・畠

    高栗

    栖牧

    地河

    南三

    条五

    里十

    五坪

    垣内

    二段

    ,他

    ○×

    検非違使励磁宣案

    長保元(999)

    2-384

    紀伊

    国伊

    都郡

    宅宅

    垣内

    丑寅

    角令

    住[

    コ従

    考内

    蔵正

    山城

    国禅

    定寺

    田畠

    流記

    帳〃王(1001)

    2-

    4G8

    山城

    岡綴

    喜郡

    畠沙弥観画壇内畠一町二段,他

    ×

    筑前

    国観

    世音

    寺薄闇

    長元八(1035)

    2-

    538

    筑前

    国御

    笠郡

    力畠

    →田

    市町

    垣内

    二段

    寂楽寺宝蔵物紛失状

    案長久三(1042)

    10一

    補167

    紀伊

    国事

    田郡

    田力

    所領

    田地

     小

    中壇

    内四

    段在

    中垣

    内五

    段×

    山城

    国乙

    訓郡

    訓解

    〃五(1044)

    2-

    618

    山域

    国乙

    訓郡

    田竹

    田 

    二十

    七坪

    七段

    (垣

    内五

    段東

    二段

    )○

    紀伊

    国某

    郡収

    納米進

    未勘

    文永承四(1049)

    3-672

    紀伊国名草郡

    門前

    垣内

     辛

    海村

    垣内

    ,他

    田口

    代武

    田晶

    売券

    〃七(1052)

    3-694

    安芸

    國高

    田郡

    畠山

    私領

    田畠

     末

    恒垣

    内三

    段 

    円高

    垣内

    六段

    ×

    散位

    藤原

    実遠

    所領譲

    状案

    天喜瞑(1056)

    3-763

    伊賀

    国伊

    賀・

    q郡田畠

    先祖

    相伝

    所領

     高

    垣垣

    内七

    段,

    他×P

    葛木

    枝包

    私領

    田畠

    注文

    康平元(1058)

    3-

    901

    安芸

    国高

    田郡

    畠私

    領畠

    水田

     念

    智垣

    内二

    段他

    ×

    興福

    寺大

    和国

    雑役

    免坪

    付帳

    延久二(1070)

    9-4639・

    40大和國城上郡

    公田

    畠東

    辺骨

    内二

    段×

    〃ク

    〃〃

     添

    下郡

    公団(畠)

    高田

    垣内

    一段

    稲葉

    垣内

    一段

    ,他

    ×

    〃ク

    〃〃

     葛

    上郡

    公田

    畠新開松見垣内二段:京極垣内二段,他

    ×

    〃〃

    〃〃

    公田畠・

    s輸免

    田床

    垣内

    一反

    和田

    垣内

    一反

    小,

    他○

    太政

    官牒

    ク燭(1072)

    3-1G83

    紀伊

    国那

    賀郡

    田免

    除官

    物地

    利 

    寺垣

    内二

    段 

    木津

    垣内

    北南

    三段

    ×

    僧慶

    縁家

    地売

    券〃五(1073)

    3-1095

    大和

    国添

    ま二

    郡家

    地家

    地一

    段百

    二十

    歩 

    字小

    角垣

    内○

    薬師

    寺念

    仏堂

    牒承保二(1075)

    3一一1111

    〃 

    平群

    郡畠

    燈油料畠 垣内二段 垣内四段

    伊賀

    顯名

    張郡

    司注

    進状

    案〃

    3-1116

    伊賀

    国名

    張郡

    剛力

    国領 施工Fヨ

    垣内五段苧五畝桑二’百本他

    X

    山村

    姉子

    解承繕四(1080)

    10一

    補18

    大和国添上郡

    鼠相

    俵所

    領 

    大窪

    垣内

    一処

    在林

    ,他

    X

    (。q

    閨Bっ)㊤oっ

  • (歯嶺)痙懸e

    345678901234 222222233333 567890123456789 3333344444444             44

    大和

    国崇

    敬面

    安芸

    国高

    田郡

    司解

        11

    伊賀

    国司

    庁宣

        !!

    五師

    某処

    分状

    大宰

    府公

    文所

    勘注

    大宰

    府下

    文案

    伊賀

    国湯

    船村

    田坪

    付注

    文案

    僧長

    草処

    分状

    中京〔]垣内売券

    東大

    寺政

    所下

    伊賀

    国黒

    田荘

    刀届

    出請

    瀬踏

    脳髄

    大安

    寺権

    上座

    長川

    畠売

      

     〃

      

      

    畠講

    取状

    大和

    国撃

    墜田

    本行

    山辺

    延末

    牛馬

    漸進

    僧樹

    果売

    二二

    院往

    僧解

    僧寂闘作手畠潮

    イ曽某f/

    F手田売券

    弘福

    寺僧

    彦印

    僧園

    掘削

    地処

    分状

    法隆

    専五

    師慶

    舜処

    分状

    兼温

    品光

    時論

    田勘注

    大宅

    姉子

    畠売

    永保二(1082)

    応徳

    二=

    二(

    1085)

      

    !!

    寛治元(1087)

    ク 

    ニ(1088)

    〃 

     三

    (1089)

    寛治三(1089)

      

      

    ク永長二(1097)

    康和三(1101)

    嘉承元(1106)

      

    1!

    ク 

    ニ(1107)

      

    !1

      

    1!

    〃征(1108)

      

    11

    天仁二(1109)

    天永二(1111)

    永久二(1114)

      

    ク永久四(1116)

    {呆安二(1121

    ク 三≡三(1122

    〃四(1123)

    大治四(1129)

    4-

    1192

    4-

    1230

    9-

    4649

    4-

    1257

    4-

    1262

    4-

    1269

    4-

    1277

    4-

    1278

    4-

    1284

    4-

    1374

    10一一補28

    4-1666

    4-1667

    4-

    1679

    4-1682

    4-1683

    4-168

    6

    4-1687

    10-496

    4

    4-174

    6

    5-181

    2

    5-181

    3

    5-186

    2

    5-192

    2

    5-

    1967

    5-199

    9

    5-212

    6

    傍勢

    圏安

    西郡

    安芸

    国高

    田郡

      1!

    伊賀

    国名

    張郡

      1!

    筑前

    国上

    座郡

      

    ク伊

    賀圏

    阿閑

    大和

    郡平

    群郡

    紀伊

    国電

    田郡

    伊賀

    国名

    張郡

    大和

    国添

    上郡

      

    11

      

    1!

    伊賀

    國名

    張郡

      

    大和

    国平

    群郡

      

    1一

      !!

     〃 高市郡

     ク 平群郡

      

    〃 

      

    和泉

    国和

    泉郡

    大和

    国添

    上郡

    田畠照隠畠畠鋤”田畠

      畠   桑

    田畠

     !

    1

     宅地力

     畠

     1!

     田

     畠

     一!

     畠

     畠

     畠

    家地

    =鼠

     畠畠

    官省符寺領 十五条八蔚旧里六垣内田五段百歩

    先祖

    相伝

    所領

    畠 

    字螢

    屋垣

    先祖

    根俵

    所領

    畠 

    朝日

    垣内

    八段

    藪田

    字河

    原田

    所領畠桑 由好垣内 有犬丸垣内,他

    所領

    垣内

     領

    主進

    退

    上庭園内畠一段百二十歩縁辺

    相論

    桑垣

    領知

    桑垣

    同(

    便副

    道)

    垣内

    三段

     土

    合才

    二反

    軍伝

    領掌

    轟二

    段百

    二十

    歩 

    林垣

    先祖

    網出

    処 

    中南

    北垣

    土壱

    先祖

    自伝

    領所

    作手

     国

    寅居

    垣内

    七段

    (田

    二段

    畠五

    段)

    ,他

    先祖絹伝継手 国貞居垣内七段(田二段畠五段),

    他私宅#垣内倉  tpaE物

    相伝

    所領

     左

    京八

    条四

    坊七

    坪辰

    巳角

     嶋

    垣内

    三段

    端裏

    「大

    安寺

    嶋垣

    内聾

    しま

    のか

    きう

    ち」

    永作

    手五

    条五

    里四

    坪内

    五段

    目筆

    「カ

    イト

    シリ

    イフ

    私財

    畠五

    段 

    在矢

    川条

    一切

    西古

    垣内

    畠五段 矢川条一一切西古碧垣内

    私領

    患 

    八条

    九里

    二十

    五・

    六両

    坪内

    三段

    字中

    塩内

    ,他作

    手畠

    工段

     八

    条八

    里三

    十五

    坪異

    筆「

    垣内

    作手

    田畠

    八条

    九里

    二十

    七坪

    畠宇

    長田

    垣内

    二段

    寺領田畠 六坪二段六十歩井畠字亀石垣内,他

    所領家地,所領畠八条九里三十四坪内林垣内三段

    年来

    所領

     田

    罐r細

    目二

    段字

    横路

    南垣

    内北

    辺私

    地,

    他切開

    下人

    垣内

    橿伝

    所領

    左京

    八条

    四坊

    七坪

    辰巳

     嶋

    垣内

    三段

    ○××

    ×

    ×○×××oo× ×○○○○○×o

    (。っ

    ?。っ)ト○っ

  • 副文

    書名

    年別鞍酬所

    硝地

    目[

    記載

    事項

    1嚢果

    01 民UFOJr2

    534戸067 【DドOPDFO 585901 ρUρ062004【0ρ0 6ρ0ハ0ハ0 678Q》0123

    (り67777

    豊前

    国八

    幡宇

    佐宮

    検狡

    珍友

    成解

    宇佐

    宮公

    文所

    問注

    日記

    豊受

    太神

    宮権

    禰宜

    度会

    某田

    地売

    券総覚

    賢畠

    買券

     !

    1 1米

    請取

    差義

    国入

    状案

    伊賀

    毒矢

    河申

    村夏

    見公

    畠取

    牽己伊網田JII荘検注卑長

    秦四

    子団

    地売

    法隆

    寺金

    光院

    燈油

    鼠注

    文案

    豊前岡秦国門解

    山城

    国笠

    概荘

    検国帳

    大中

    臣道

    衡処

    分状

    豊前

    国八

    幡宇

    佐宮

    公文

    所問

    注記

    僧行

    円出

    挙米

    借状

    東大

    寺牒

    美濃

    圏茜

    部荘

    儘人

    申文

    大和

    閾平

    田荘

    内検

    坂.ヒ仲国宛行状案

    法印

    某書

    平行

    兼私

    領譲

    山崎

    仲子

    田畠

    処分

    清原

    友次

    畠売

    嵯峨

    木守

    藤井

    延集解

      一1

    〃 

    五(1130

    1!ク

      

    !!

    天承二(1132)

    長承三(1134)

    保延元(1135)

    〃 

     二

    (11

    36)

    1!

      

    !1

      

    !1

    かん

    らく

    二 

    (私

    年号

    保延三三(113

    7)

    〃四(1138)

    永治元(1141)

    〃 

     二

    (11

    42)

    久安四(1148)

    〃五(1149)

    〃六(1150)

    仁平ニニ(115

    2)

    ク 

    三≡三(115

    3)

    久寿霊(1156)

    保元

    元(

    ク)

    5-212

    7

    5-215

    8

    5-217

    1

    5-217

    3

    5-217

    4

    5-221

    6

    5-230

    3

    5-233

    6

    5-234

    1

    5-234

    4

    5-235

    8

    5-235

    9

    10-

    4998

    5-236

    0

    5-238

    3

    6-245

    2

    6-246

    9

    6-265

    2

    10一

    補76

    6-269

    3

    11一

    補323

    6-277

    6

    9-474

    9

    6-284

    1

    豊前

    園宇

    佐郡

      

    伊勢

    国三

    重郡

    大和国樹上郡

      

    ク ク 平群郡

    伊賀

    国名

    張郡

    紀伊

    國那

    賀郡

    大和園山辺郡

     ク 平群郡

    豊前

    国宇

    佐郡

    山城

    国相

    楽郡

    伊勢

    豊前

    国宇

    佐郡

    伊賀

    国名

    張郡

    i美濃闘厚見郡

      

    大和国広瀬郡

    紀伊

    国伊

    都郡

    安芸

    國佐

    東郡

    大和

    国宇

    陀郡

    山城

    国葛

    野郡

    騒ク田畠

    〃躍品   力

    畠畠田貌畠田居住所

     田

    畠 力

    ・田畠田

    古狸田畠小城垣一一段

    大木填一処 小城垣一一段,二

    河親

    父御

    領 

    在三

    重郡

    河後

    郷専

    当則

    □居

    住垣

    買伝

    所領

    堅地

     左

    京八

    条西

    坊七

    坪辰

    巳角

     嶋

    垣内

    三段

    嶋垣

    内 

    鼠三

    段端

    裏「

    しま

    のか

    いと

    新施

    入田

    畠敷

    地西

    北仲

    垣内

    合三

    木屋

    比垣

    内喪

    一段

    損半

    得小

    ,他

    黒川

    大垣

    内八

    段頓

    田作

    ,他

    先祖

    相俵

    所領

    董段

    十工

    条七

    里六

    坪西

    畔本

     裏

    「此

    垣内自西三段」

    脚継金光院三昧燈油料畠十一条五黒二十三・二十

    六坪

    六段

    豊寓

    垣内

    領票

    田畠

    一段

    小城

    田屋

    垣内

    一段

    井尻

    垣内

    一段

    小,

    竹光

    いか

    いつ

    照段

    五,

    国房

    いか

    いつ

    三段

    五,

    藩一

    段字

    小城

    差置

    質券

    田一

    段矢

    川十

    八切

    西東

    字竹

    壇内

    北限

    朴垣

    #小

    厚見

    小路

    朴垣

     朴

    垣内

    別当

    居住

    所 

    石原

    垣内

    十一

    条五

    里二

    十二

    坪 

    同西

    垣内

    五段

    (二

    十七

    ・二

    十八・三十一坪内)

    先祖

    相伝

    所領

    字山

    本垣

    内一

    町之

    内田

    三段

    垣内

    者,

    凡不

    可及

    沙汰

    置畳

    之私

    領重

    光垣

    内五

    段束

    垣内

    一町

    ,他

    先祖

    粗伝

    所領

     田

    一段

    小放

    光寺

    垣内

    ,他

    先祖

    相伝

    所領

    寺垣

    内之

    東垣

    一処

    左大

    隠殿

    女房

    筑前

    局山

    庄垣

    内,

    在作

    田二

    X××oXXooX××X×○○××××

    (δ。っ)oD盾チ

  • (臨嶺)理韓e罧

    45678901234567890123 77777788888888889999 949596979899100

    豊前

    國八

    幡宇

    佐宮御

    装束

    所検

    校大神貞安解

    大中

    三士

    賢息

    地処

    分;EJこ

    由印

    璽笠

    置荘

    検ILI

    藤原

    仲予

    家地

    田建

    1譲状

    大和

    国小

    束荘

    名名

    坪付

    僧覚

    永田

    地売

    券案

    ・大

    中臣

    某畠

    地去

    渡状

    僧居

    組申

    僧定

    信畠

    田売

    :香取祉大禰宜火中

    臣某

    譲状

    僧浄

    実垣

    内処

    分状

    某畠

    地売

    豊前

    国漆

    嶋枝

    末屋敷

    譲状

    紀伊

    國藤

    原忠

    村田

    畠処

    分状

    大和国高向嫡子

    畠売

    近江

    国大

    番舎

    人僧良

    命解

    藤原

    中子

    注進

    僧観

    慶垣

    内処

    分状

    大山行貞田畠充文

    阿保

    行宗

    田地

    荒野

    譲状

    旧習

    荘地

    子注

    進状

    大江

    正影

    藤原

    因次

    贔地

    売券

    盤前

    国仲

    津尾

    寺座

    主神

    智解

    平助

    遠田

    畠等

    処分

    状案

    清原

    三子

    鶏群

    売券

    佐伯

    三子

    田地

    売券

        (畠)

      〃

    〃 二(11

    57)

      ク

    ク 

    三三

    (1158)

    平治元(1159)

      

    〃永暦ご(1161)

      

    〃永暦三(1162)

     い

     の

    応保二(1162)

    ク 三≡三(1163

    永万二(1166)

      

    〃仁

    安元

    (〃

    ク ニ(11

    67)

      

    〃ク 三≡:(1168

      

      

    〃嘉応元(1169)

    〃 

    二二

    (117G)

      

    〃承安元(1171)

    〃 二(11

    72)

    治承元(1177)

    〃二(1178)

      

    6-2855

    6-2874

    6-2879

    6-2966

    6-2991

    6-3039

    7-3145

    7-3151

    7-3168

    7-3223

    1G一補

    IO1

    7-3377

    7-338

    2

    7-340

    7

    7-344

    2

    9-481

    9

    7-347

    7

    10一補

    109

    7-348

    4

    7-351

    7

    7-355

    4

    7-356

    0

    7-357

    8

    10-

    5056

    8-381

    2

    9-488

    0

    8-382

    3

    豊前

    国宇

    佐郡

    伊勢

    国度

    会郡

    山城

    国柑

    楽郡

    大弓

    闘園

    城下

    大湘

    国広

    瀬郡

     〃

     添

    上郡

    伊勢

    国度

    会郡

    大和岡平群郡

    紀伊

    国那

    賀郡

    下総

    国香

    取郡

    紀研

    国在

    田郡

    伊勢

    國度

    会郡

    豊前

    國宇

    佐郡

    紀伊

    国儀

    }都

    大和

    国平

    群郡

    近江

    菌液

    上東

    紀伊国是田郡

     ク 伊都郡

     〃 那賀郡

    大和

    国宇

    智郡

    伊賀

    国名

    張郡

    豊前

    国宇

    佐郡

    大和国宇陀郡

     ク 添上郡

     畠

     昂

     ll日

    家地

    (田畠)

     田

     畠

     畠

     畠

     畠山地

     畠

    屋敷

    田贔

     畠

     畠

     畠

    田地

    荒野

    ・・曄鵯・

    先祖

    相伝

    田畠

     畠

    一段

    宇大

    木垣

    伝領

    承継

     百

    八十

    歩 

    上宇

    羽西

    村宇

    太良

    壇二

    段内

    小垣

    内一

    段奥

    壇内

    一段

    六十

    先祖

    相俵

    私領

    東郷

    十六

    条三

    三里

    二・

    三坪

    三段

    小 

    端蔓

    「さ

    いか

    わの

    かい

    と」

    十三

    条三

    誕十

    五坪

    一段

    小 

    小垣

    内他

    年来

    私領

     田

    一段

    字大

    垣内

    海地

    百八

    十歩

     在

    上宇

    羽西

    村内

    字太

    良垣

    器日

    粕畠

     三

    段 

    代田

    垣内

    梢伝

    領掌

    地一

    段 

    三把

    谷西

    岡未

    垣内

    西ハ

    朝畠

    一処

     字

    大根

    地西

    方畠

    御年

    代有

    垣地

    先祖

    相伝

    地 

    中南

    垣内

    一処

    故親

    父所

    領百

    八一

    卜塗

    上宇

    羽西

    村内

    太良

    垣二

    段内

    屋志き一所 字佐加垣

    先祖相伝所領 垣内七段内田三段垣四段,他

    相伝

    所領

    畠 

    一段

     豊

    国垣

    内八

    条九

    里二

    十七

    居住

    垣内

    之畠

     押

    今北

    垣内

    於五

    聞者

    ,藤

    原中

    子買

    取畢

    相伝

    私領

     西

    垣内

    一所

    相伝

    領地

     畠

    一段

    小 

    板や

    かき

    内,

    先祖

    椙伝

    之私

    領野

    田原

    南柄

    (垣

    力)

    内端

    裏「

    野田

    原南

    垣内

    久晴

    三升

    上殿

    垣内

     守

    行五

    升枯

    垣内

    ,他

    先祖相債所領 撰賀垣内畠一段 替渡

    先来

    相伝

    之領

    地 

    所領

    畠一

    段 

    在中

    村条

    字垣

    燈油料田畠 三段玉垣内田 二段字上津垣,他

    先祖

    相伝

    私領

     一

    処田

    畠字

    辻桓

    (垣

    )内

    ,他

    所領

    一処

    寺垣

    内玉

    東畠

    先祖

    相伝

    私領

     三

    段左

    京八

    条四

    坊七

    坪辰

    巳角

    字嶋

    垣内

    ×××○○××××××××○××××××○

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    ×

    40 (366)

    では「しまのかいと」と記されている。ただ両者共に端裏に記されたものなので、平安期の読みそのものと即断すること

    は直しまねばならないが、少なくとも「垣内」が「カキウチ」とも「カイト」とも読まれ得たことは確認してよいであろ

    う。ここで表一に「何々垣」とあるものをもあげておいた理由を説明せねばならない。表一一75・80レ85の事例を見てい

    ただきたい。これらは大中臣正元が処分した伊勢園度会郡湯田腰上蓼藍西村の一八○歩の同一白地に関するものであるが、

    75

    ノおいては「上宇羽西村字太郎垣」、80では「上宇羽西村楽太郎垣内」、85では「上宇羽西村内太郎嫡〔となっている。

    すなわち太郎垣と太郎垣内とは岡一のものを指しているのである。この事実は「何肉垣」と史料上見えているものが、

                                            ⑭

    「何々垣内」と記されているものと同実体である場合のあることを示している。豊前・豊後などの平安・鎌倉期の泊地史

    料のほとんどは、「垣」として現れており、これも垣内の事例としてよい。また「垣地」については、但馬(表一13)・下

  • 総(83)に見えるのであるが、これは「垣」+「地」と考えられるのである。

                      ⑮

     では鎌倉前期まで対象を拡げてみよう。 『鎌倉遺文』一五巻文永一二(一二七四)年までに見える垣内史料は、ほぼ一四

                                         ⑯      ⑰

    ○あまりであるが、ここでも漢字の表記ではやはり「垣内」が多い。しかし「垣戸」や「唐土」が散見されるようになり、

    またその表われ方も平安期とは異った状況を想定せざるを得ない。同一文書中で梢枕した表記(「垣内」と「垣戸」、ある

    いは「垣内」と「垣土」)がなされるようになるのである。

    下長谷郷末弘名田数事

      合

    平安期の垣内(水野)

    中鳩萱反百四十歩 中嶋萱反半

    へ  へ

    垣土大     旧河大歩

    谷口戴値七十歩  居坂萱反六十歩

     ヘ  へ

    西垣内載反大   河部萱反昔歩

                ⑱

    葦原参百歩    已上本庄分

         (以下略、傍点筆者)

                            ⑲

     平安期にはすべて「垣内」であった大和にも「垣戸しの例が現れ、鎌倉期に入り表記が次第に分化・多様化しはじめた

    ことが確認されるのである。この分化・多様化をどう理解したらよいであろうか。

     前述したように、本来「カキ」は区別・分離し、ある特定個人に属する空間を表示したのであるが、 「カキウチ」およ

    び「カイト」という語は、この「カキ」に内を示す「ウチ」や、処・所の意の「ト」が接続した語で、同じ意味内容を持

    つものと考えてよい。一方面垣によって周囲と区画された家・宅や特定耕地等を表現する場合、漢字では「垣内」が一般

    的に用いられたため、 「垣内」は「カキゥチ」とも「カイト」とも結びつくようになったのであろう。したがって「カキ

    41 (367)

  • 11垣」だけでも、 「垣内」と同実体を示し得たのである。平安期において「カキウチ」・「カイト」はほとんどの場合「垣

    内」と漢字表記されたのであるが、鎌倉期に入り、 「カイト」は「垣内」の他に「垣戸」や「垣土」とも表記されるよう

    になり、除々に表記が分化・多様化していく。また「カキウチ」・「カイト」自身も、 「カクチ」・「カイッ」のように転早

    していくことになる。

     鎌倉期に入っての垣内表記の分化・多様化は、当然ながらその実体の変化を反映したものと考えられるのである。具体

    的には次章以下で述べることとなるが、それは何よりも、 「カキ穀垣」で区画することが、分割・領有を意味したという

    歴史的条件が、鎌倉期には大きく変化していったことを示しているのである。

    42 (368)

    ①『万葉集』で「壇内」が見えるのは穴例である。ここでは特に

     。小垣内(小垣内)の麻を引ぎ干し妹なねが作り着せけむ……(巻九

      一八○○)

     。……神名火の清き御田屋の垣内田(垣津田)の池の堤の百足らず…

      …(巻一三 三二一一三)

     に注意しておぎたい。蓑記は岩波古典文学大系に従った。()内は原

     蓑記を示す。他には巻八 一五〇三・巻一八 四〇七七・巻一九 四

     二〇七・同四二八七に「垣内」が詠まれている。また「垣内」とは見

     えてはいないが、 「柵越しに麦食むこうま」 (巻一四 三五 二七)の

     ように、柵(垣)をめぐらした謙譲の例も存在する。

    ②  『古代建築のイメージ』 (NHKブックス) 一九七九年

    ③ 吉田華氏は「奈良時代前後には、雀地首長ないし上層農民を除いて

     は、まだ明確な区画をもったイへ・ヤケは成立しておらず、  般饗民

     の住宅は、空間的にももう少し大きな共同体のなかに包摂されていた

     のではないか」とされている。 「律令制と村落」(前掲)

    ④中巻第一〇

    ⑤ 「古代歌謡発生の聖域・イチと『垣』と一海石榴市の歌垣をめぐっ

     て一」(『属学院大学日本文化研究所紀要』45 一九八○年)

    ⑥秋山日出雄氏は宮の構造における垣の隔離性に注目されている。

     「飛鳥の宮」(上田正昭編『日本古代文化の探求 都城』一九七六年)

    ⑦ 訓読を記す『日塞譲紀』写本のうち、書写年代の最も古いと見られ

     るのは寛平・延喜の頃と推定される岩綺本であるが、その皇極元年是

     歳条「部曲」は「カキノタミ」と訓されている。また大化二年正月甲

     子条「部曲」は「カキ」(北野本一院政期)が訓である。他の訓読は鎌

     倉以降のものであるため省略する。 「民部」も平安後期の訓では「カ

     キベ」・「カキ」とされている。訓読については岩波古典文学大系『日

     本書紀』によった。

    ⑧津田左右吉「大化改新の研究」(『日本上代史の研究』一九四七年)

    ⑨中田薫「我古典の『部』及び『縣』に就て」(『法論史論集』第三巻

     上 一九三三年)

    ⑩岩波古典文学大系『蔵本書紀臨皇極元年歳歳条頭注

    ⑭ 年不明一一俣村荒野開墾免許状断簡(『千葉県史料中世編香取幣串』旧

  •  源太祝融文警一二) この史料については、戸田氏が頒史的土地所有

     の面から検討を加えられている。 「在地領主舗の形成過程」(彌賑本領

     主制成立史の研究』一九六七年)

    ⑫福田豊彦「封建的領主制形成の一過程-下総国香取社の場合1」

     (安田元久編『貝本封建欄成立の諸前提』一九六〇年)

    ⑬後述するように「垣内」と同実体を示すと判断される「垣」も含め

     てある。記載事項欄には、垣内に関する権利内容等を示す語句・面積

     等を記入した。大和国宇智郡栄山寺領に関する一連の免除領田鰯史料

     は、韮本的には岡一の坪付によるものであるため、表一17で代表さ

     せた。

    ⑭表一i66の事例においても、「朴垣」と「朴垣内」が、実体として

     は同じものを表していることが明らかである。

    珍 紙数の都合等により、鎌倉期の垣内についての詳細は希薄を期すこ

     ととして、ここでは要点のみにとどめろ。

    ⑯ ①寛喜元(一二二九)年一二月一五日長谷郷内垣内田愚論状(『鎌倉

     遺文』三九〇九 以下『鎌倉遺文騙は「鎌」、『平安遺文』は「平」と

     略す)・②寛喜三(一二三一)年三月二五研僧良日田地処分状(「鎌」

     四一一四) ・③文暦二(一二三五)年五月一…日紀年下長谷郷末弘名

     端数注文案(「鎌」四七五入)

    ⑰建長三(コ一五一)年八月五日沙弥書信所領配分状案(「鎌」七三三

     五)

    ⑯註16③

    ⑲註16②

    第二章平安期の垣内

    平安期の垣内(水野)

     第一章では、垣内という語・言葉の本来的意味やその表記の変化等についての考察を行った。本章では、そこでの検討

    を念頭において、平安期における垣内の歴史具体的なあり方を考察していく。まず最初に平安期の垣内史料の地域的分布

               ①

    を見ておこう。史料の数は多い順に、大和三四例、紀伊一八例、伊賀一三例、伊勢一〇例、豊前八例、山城七例、安芸

    五例、美濃三例、筑前三例、河内・和泉・近江・倶馬・下総各一例、不明七例となる。畿内近国を中心に、かなりの広が

    りをもった分布を示しており、特定地域のみのものではないことは明らかである。時期的な分布についてはどうであろう

    か。表一に明瞭に示されているように、平安期全体では一一〇旧例にのぼる垣内史料も、一一世紀前半まではわずか一〇

    数例にすぎない。=世紀後半以降の垣内史料の急激な増加は、史料総数の増大を考慮に入れたとしても、やはり注意し

    ておかねばならないだろう。この史料の残り方自体が垣内の性格の一端を物語っているとも言えるからである。以下、垣

    43 (369)

  • 内についてでき得る限り具体的に考察し、その歴史的意義を考えていくのであるが、紙数の都合等により、主要な考察対

    象を史料の内容や性格・分布等から伊勢の一部および大和とする。紀伊・伊賀・山城等については、別稿に譲ることとし

    たい。

     ①蓑一の集計にあたって、一通の文書に何ヵ所か垣内の事例が記され  

    史料が異なれば、それぞれ【例とみなした。

      ていても一例として計算した。また同一地であっても記載されている

             第騨節 俘勢国近長谷寺資財帳にみえる垣内

    44 (370)

     まず最初に、数少ない一一世紀前半までの垣内史料のうち、垣内の持つ性格を最もよく示すものとして天暦七(九五三)

    年伊勢国近長谷寺資財帳(表一一5)を取りあげる。近長谷寺は、松阪市の南、多気郡多気町長谷の山上に現存しており、

                                                        ①

    仁和元(八八五)年に在地豪族正六位上飯高宿禰諸氏(法名仏子観勝)が、内外の近親等に勧めて建立した地方私寺である。

    この資財帳は建立以来、飯高氏につながる人々によって近長谷寺に施入された堂舎・墾田・畠等を勘定し、後代の流記と

    したものであるが、その記載内容等についてはやや検討を要する。まず「本願施主子孫」や「在地加重署」などの署名部

    分は、「在名」・「在野」とあり、現存資財帳が案文であることは疑いのないところである。この資財帳は、天暦七(九五三)

    年に作成され、天徳二(九五八)年の郡判があるのであるが、文中に「荒木田有罪応和二年七月五日施入垣内戴塵」の記載

    が晃えており、応和二年(九六二)とは時期的に矛盾が生じる。原本調査の結果、この部分が追贈でないことも判明した。

    しかしところどころに

               「康保二二百歩也」

      十八条三菅生里廿一二・廿六坪治鼠段試値歩『建仁晶九坪一反』 (「 」自筆・『 』朱筆)

    のように異筆で、康保・長和・建仁(朱筆)各段階での地名・面積等の異同が記されていることを考えるならば、康保年

    間(九六四~八)には現存資財帳はすでに存在していたと判断されるのである。おそらく天暦七(九五二)年に資財帳の原本

  • が作成された後、応和二(九六二)年に至って新たに垣内が施入されたため、案文作成にあたって、それをも書き入れたの

    であろう。このように作成された案文は、少なくともニニ世紀初までは所領等のチェックにあたって異同が書き込まれ、

    実際的な機能を果していたと考えられるのである。したがってこの現存資財帳は原本に準ずるもので、一〇世紀の在地の

    状況を示す史料としてよい。

     資財帳にはすでに注目されているように、「本願主施入」(建立時における施入であろう)によるものから、応和二(九

                            ②

    六二)年までの「人々施入墾田」11治田および「畠」一垣内等についての、条里坪付・四至・輿入年月日・施入者名が記さ

    れている。垣内の一例を示そう。

      五相可里四坪垣内壷塵

       四至献騰舩晒栖囎灘細

      右垣内、寺家座主大法師泰俊延喜十五年正月十四日施入難願

     資財帳に見える馬入地は、多気・飯野・度会三郡にまたがっているが、大部分は多気郡、特にそのうちの一六条一七条

    平安期の垣内(水野)

    表3 多気郡一六条一七条東寺領    」【1合庄田表

    一六条二井内塁一三坪上国帖田一町

       〃   三〇坪一町

       箪疋田里四坪下国帖瞬一町

       〃   三四坪一町

       四疋田里四坪橋本町一一町

       〃    =二七坪太田一田丁

       〃   三型坪宅戸田一町

       五梢可里一〇坪一町

       ク   一一坪村早田一町

       六山田里三坪須具田一町

       〃   一〇坪下腹田~町

    一七条二心田里八坪桃原田一町

       〃   三〇坪庄山田一町

       〃   =一一坪一町

       ク   三六坪二反

    に多く集中している(表二)。また多気郡一六条一七条には、東寺によっ

                                  ③

    て川合庄田と主張される次のような水田が存在したことも知られている

    (表三)。以下=四条一七条に焦点をあてて論を進めて行くことにしたい。

                              ④

     地形と土地利用に注目してこの地域の条里を復原するならぼ、図一の

    ようになる。これから明らかなようにこの地域は櫛田川中流南岸の段丘

    面上に位置し、山麓から河岸に向かってゆるやかな傾斜を示しており、

    一〇度ほど西へ偏した条里制地割が明瞭に分布している。当然櫛田川の

    水は密漁には利用できず、山麓の湧水および小谷をせき止めた溜池が用

    45 (371)

  • 多気郡一六条一七条所領一覧

    西 北 備 考

    公田

    故伊勢大嶽藤原

    麻続広宗治又畠少在

    伊勢友高領地

    福田寺田

    子午畔

    子午畔

    僧泰俊領地

    治田

    斎宮寮前蟹田部門良治

    故藤助地

    頻(領)地

    宮守寺地・佐奈山審治田

    長谷治田

    公田

    長社・大畔

    道・藤原定光領地

    同寺垣内

    里幡社

    垣根

    百三段一

      田

      沢

      岡

      ・ 沼

    岡岡山歩公

    地噸隣経原山山

    前主帳武雄治田

    記細

    論田河

    麻続統令領地

    伊勢元範治・卯酉大道

    公田

    公田

    福田寺田

    櫛田河岸

    公田

    清水寺地

    櫛田河岸

    故相可藤判官忠助地

    長谷寺垣

    深溝

    櫛田河河岸

    大道・長谷領垣内

    大道

    中垣

    大溝

    公田

    岡・公田

    公田

    同人治

    公田

    溝林

    卯酉溝’

    公田治田

    故飯高常爽,延喜ご十二(922)年十一月六日施入

    多気郡検校麻続統令施入

    }鵬翫寛靴(895)年正肝三日SE入

    飯高豊子施入

    8・十七条の3は日置貴曾町子井口郡部薬円:丸,寛平七(895)年賦進

    9・13・14は故麻続在子,延喜十三(913)年五月二十七日進

    10・十七条の2・十七条の4は相可故大司大中臣良扶施入

    11・17前々斎宮寮大允菅済永珍,天慶二(939)年

    正月十三日細入

    土佐国鍮大中臣清光,天慶九(946)年四月八臼施入

    寺家座主大法蘭了泰俊,延喜d一五(915)年正月十匹1日

    施入

    藤原乙御,延喜十九(919)年二月二H施入

    伊勢後生,承平元(931)年正月十五日目入

    19・十七条の10は故物部康手延長二(924)年正月三目施入

    神麻続神部麻続員世,中臣部貞安延醤二十(92Q)年正月廿日施入

    仏子薬勝,天暦二(948)年中施入

    日山畠布町天暦三(949)年十一月六日施入

    飯高僧丸,延喜四(904)年二月十一日施入

    故大宰師宮御監伊勢包生,延喜十七(917)年八月二十一日施入

    本願主押入

    本願主施入

    故麻続孝志子,延轡五(905)年上寺家

    少網子給分,近長谷寺施入

    46 (372)

  • 平安期の垣内(水野)

    表2 近長谷寺資財帳

    嗣劇 条 里 坪 付 字 名 東 南

    12345678

    9

    10

    11

    12

    13

    14 i

    15

    16

    17

    18

    19

    20 1

    コ口寓1

    総則

    垣内力i

    垣内

    治田

    治罵,

    垣内

    垣内

    治田

    治田

    垣内

    垣内

    垣内

    垣内

    治田

    壇内

    十六条一当恵里十二・十三坪六段

      二井内里九坪 垣内一一処

      二井内鰐十六坪二段目粗汁

      二井内里十六坪二段

      三疋田黒五坪二段

      三疋田里八坪二段 字常供田田舎垣内

      三疋田里二十坪四段二百歩

      三疋田里相可林毒所一処

      四疋田里ご坪二段 師長佃

      四疋田里十七坪一段

      四疋田里十九坪垣内一処

      四疋田里十九坪垣rs一一処

      四疋国里十九・ご十坪一段

      四疋田里三十坪二段

      五相可里四坪垣内一処

      五相可里三十一坪垣内一処 字石出垣内

      五相可里三十一・三十二坪一処 居住仏子  仁増

      六山田黒陶・六坪垣内一処

      七新家里十九・三十坪三段

    条里不明 楓可止利苅垣内一処(五相可印行)

    櫃倉社・岡

    伊勢友高領地

    伊勢醐雄治田・故碁勢大輔宅垣内

    12345678901

            1 1P2

    治N力

    治圏

    境内

    治田

    治田

    治田

    治田

    治田

    治田

    治田

    治田

    治田

    長谷寺治

    子午畔

    福田寺田

    園坂大道1溝

    十七条一一一i判田里二十四坪二段三百歩 字帝釈田

      一判田里二十七坪一段

      一瓢田里二十九・三十・三十一・三十二坪       大俣木首垣内一処

      一一判田里三十三坪二段 在山田寺前

      二判田里六坪一段

      三矢田里九坪一段

      三矢田里十坪二殺

      四少山里二十二坪百歩

      四皿山黒三十四・三十五坪一段半

    黙纒三↑勤三段

      五大朽里十二坪二段二首歩

      五大朽里二十一坪二段

    公田

    清水寺地

    長谷寺領地

    i

    l礒部寺治1故犬甘今生領地

    i公田

    礒慰書領地

    故飯高積子垣内礒部寺垣脚

    長社少副殿中垣

    中垣

    溝・岡

    小道・故根可大司大中臣垣内

    公田

    治田

    伊勢石範治

    積子処分林・taEC之処分林

    長谷寺魍

    魎岡

    岡田

    大溝

    溝・公田

    卯酉畔

    ダ晒畔

    大道

    公田

    卯酉路

    大目

    長谷寺治田

    故丹生松総宅

    細部寺治田

    公田

    大道

    大法師泰俊領

    礒部寺中垣

    大道

    谷口・溝

    富雰寺治

    岡林雰

    大溝

    小道・相模守藤原惟範朝臣治

    蓮少池堤

    卯酉畔

    諸氏之処分林

    田田

    治治

    47 (373)

  • 塵H 瞳戦蓼ーメ冷一ゆ冷冷悔膚覇璽

    〉”嶋S薗冴

    ロσ韓皆S薗冴

    Ω野島藷

    U”囲》曲冴

    搬轡》岐冴

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    (幣) 一繕竪驚購埴禽蛛汁歎び幽妙鐸謹砲酵却e胃可海 臼獅四C詩。 該

    ”購髄随冴

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    ⑪掛瞭強三砂陪田S尉酎C浄燕

    ▲曾薗乱曲銭貸灘叢誹ン厳冴(蜜)㊦一首C葎菊

    。聯誌盤藩旛鯉恥黒9曇

    48 (374)

    水源となるのであり、資財帳の一七条三矢田里九坪一反治田の四至「南限些少池堤」からも、当時における山麓の溜池の

    存在が確認できるのである。九世紀末から一〇世紀前半にかけて近長谷寺に施入された垣内は、山麓部の一筆を除き、他

    は段丘先端部に位置することになる。用水源から離れ、灌概条件に恵まれないため、託言として開発されたと推定できよ

    ㍉フ。

  • 平安期の垣内(水野)

     蔵入墾田の多くは、山麓や小谷に、一部が段丘面上に位置する。湧水や溜池の造成による開田と判断されるのである。

    それに対し、段丘面中央部には、東寺領川合庄田といわれている田や公田が卓越する。条里制地割施行とそれに伴なう灌

    概条件の整備が、庄田・公田の存在を許し、その周辺部に墾田・畠地が開かれていった様相をこれから読み取ることがで

    きよう。

     ここで注意せねばならないのは、一筆ではあるが、流入垣内の中に、五相可里三丁二坪一慮のように「居住仏子仁増」

                                          ⑤

    と記され、居住事実が示されている例があることである。また四諦記載からは、 「宅垣内」の存在も確認されるのである。

    しかしこれまでの研究のように垣内を家地・屋敷地と考えることが可能であろうか。近長谷寺資財帳においては、居住事

    実を伴なう垣内の例は極めて少数にすぎず、圧倒的多数は畠地をその内容としているのであり、家地・屋敷地を垣内と岡

    義、あるいはその前提と解することは無理と言わねばなるまい。一〇世紀の近長谷寺資財帳に見える垣内とは、条里制地

    割に示される既開発地の縁辺に、開発によって生れた空間であり、その多くは畠地であるが、場合によっては居住地(一

    「宅垣内」)ともなり得るものである。それは水田化の遅れた地に立地し、それぞれコ庭しとして分割・領有され、導入

    される小規模な空間である。同じ開発地でも、墾田・治田が国衙の土地台帳に登録されて、租税官物徴収の対象となるの

    に対し、垣内は公的・国家的な支配の鮒象となっていない地である。屯照制的な性格が強いと言われている日本の班田制

    では、水田は律令国家の強力な規制下に置かれ、墾田永年私財法によって保証されるようになった墾田の田主権にしても、

    三年間耕作しなければ失ってしまう不安定な権利にすぎなかったのに対し、園地・宅地は国家の規制の枠外に放置されて

             ⑥                                           ⑦

    いたと考えられている。心地や家地に対する国衙の支配は、この段階ではまだ成立していないのである。

     このような垣内も条件によっては治田化される。近長谷寺資財帳に冤える一六条三疋田里八坪二段の治田は

      四至離舘寺田凝鍛畔宇常供田田舎垣内者

    と記されてい麺・漏壷からは・周囲に「公田」や「福田寺田」が立地することが示されてお裂用水の便があ・たため・

    49 (375)

  • 垣内を治田化したのであろう。この場合には、水田を内容とする垣内が出現するのであるが、法的には治田と認定され、

    国家的支配の下に組み込まれていくと考えられる。

    50 (376>

    ① 近長谷寺に関しては、西口順子「九・十世紀における地方豪族の私

     寺」(『仏激史学』八一1 一九六三年)が詳しい。資財帳については、

     吉田晶「平安山の開発に関する二・三の問題」(『史林臨48…6 一九

     穴五年)・戸田芳実「律令制下の『宅』の変動」(前掲書)などがふれ

     ている。

    ② 「畠」であって、垣内と明記されていないものは「十六条三疋田婁

     廿坪四段二二歩」だけである。度会郡には「地」三筆が存しているが、

     墾田・畠との関係は不明である。

    ③「平」五入・七六・…三八・二二二・三四二等。『平安遺文』~巻

     に収められている東寺領川含・大国庄関係史料の多くは、一一挫紀に

     成願寺と相論を重ねた頃に作成されたとおぼしき偽文書であるといわ

     れている。竹内理王「律令財政の新展開-村井康彦著『古代国家解体

     過程の研究』1」(『古代から中世へ』下 ~九七八年)しかし後述す

     るように当該地には閉瞭な条翼制地割が広がっており、近長谷寺資財

     帳からも近くの坪に「公田」等が存在していたことを確認できる。少

     なくとも一〇世紀には、東寺が領有権を主張する坪に水田が開かれて

     いたとして間違いないであろう。

    ④多気郡至愚に関しては、すでに谷岡武雄「櫛田川中・下流域の条里」

     (藤岡謙二郎編『河谷の歴史地理』~九五八年)があり、条は北の海

     岸から南へ、黒は薦の郡境から東へ進むこと、坪並は条黒の南西隅に

     始まり南東隅に終わろ連続式であることなどが閣らかにされ、復原図

     が作成されている。しかし一六条一七条に関しては、 「三疋暗」・「四

     疋田」等の大字名や小字名「十曾(ジュウソウ∀翻=一ごなどの地名を

     手がかりに、 一六条の三・四・五里を決定されたにとどまっていた。

    当時の土地利用と地形とを矛盾なく一致させるには、図一に示した復

     原以外にないであろう。資財帳の「十六条四疋田里十九坪垣内壼嘘」

     および「十六粂五相可里卦一坪垣内平庭」の北境は「河」・「櫛田河岸」

     であるが、復原図からもそれは明らかである。また施入治田・垣内の、

     四至記載(「物部寺中垣」・「礒部寺垣内」等)からは、一六条六山田翁

     五坪付近に「礒霊寺」の存在が推定できるのであるが、当該地には小

     字「礒部寺」が遺存している。しかし聖心条のプランをそのまま西へ

     延長し、一当葱里二一井内里の界線を引くならば、資財帳の記載や川

     合庄田の位置に矛盾が起こる。二井内里一二坪にある一町の川合庄田

     は山の上にくるし、一当恵里=丁三坪にある治国六段の北鏡は「櫛

     田河」であるはずなのに、やはり山の中に来てしまうのである。四至

     詑載や土地利用を満足するように復原するならば、~当恵毘・二井内

     里は、三疋田里以下と二町分北へずれて接続したと考えるより他はな

     い。このようなプランにしなくては、地形により一六条の北側に若干

     の条里空白地が生じてしまうからであろう。

    ⑤ 「宅垣内」が晃えるのは、多気郡一六条二井内里一六坪治田二段二

     百歩の四壁の「故伊勢大輔…宅垣内じ、 度会郡田辺郷里条金尾地一庭の

     四至の「真神部安士口広壇内」など。

    ⑥弥永貞三「律令鰯的土地最悪」(㎞、臼本古代社会縫済史研究』~九八

     ○年)・吉照孝「公地公災について」 (鋸馴日本古代史論集』一九七二

     年)・梅田康夫「律令制社会の園宅地所有について」(服藤弘司・小山

     貞夫編『法と権力の史的考察』一九七七年)

  • 平安期の垣内(水野)

    ⑦ 木村茂光「中世成立期における遺作の性格と領有関係」(『二本写研

     究』一八〇 一九七七年)によれば、一〇世紀末・一一世紀初頭に畠地

     をめぐる国衙ボ庄園領主-農民間の闘争が開始されるが、謡曲的に掌

     握されるのは延久庄園整理令が画期となるとのことである。本稿は畠

     地支配に関しては、木村論文に多く依拠している。公領・庄園で農民

     住居を掌握し、これに在家役を課するようになるのは、一一世紀宋・

     一二世紀初以降のことである。戸田「国衙領の名と在家について」

     (前掲書)

    ⑧本来は施主飯高氏の農業経営施設としての田舎(田家)の建つ敷地

    であったのが、治田化恋れ、近長谷寺の常供田にあてられたものと理

    解されている(戸田註1論文)。施入墾田の中にはもう}筆治田化され

    た垣内が存在する。

     最勝鼠垣内辰巳新開田壷段余熱

      塁離撮

     霜解、故僧朝仁存日開発寺垣内、今請作坂上有実、在戯文

    とあるのがそれであるが、近長谷寺寺山の南の山口に位澱し、山の谷

    水で灌慨したと推定される(戸田譲1論文)。

              第二節大和国の垣内

     従来の垣内研究において、最も重要なフィ…ルドとなってきたのが大和である。平安期に限っても最も史料に恵まれて

    いるのが大和であり、しかも多様な史料が残され、一国全体の分布をもある程度確定できる唯一の地域である。分析にあ

    たっては、まず垣内の立地と分布について

     O 興福寺雑役免庄園(表一117)

     ◎ 左京八条四坊七坪嶋垣内(表一i37・38・49・53・54・姻)

    を中心に考察レ、垣内の立地条件とそれの示す意味を明らかにする。eは盆地部の条里潮地割の縁辺や山間に垣内が位託

    した場合であるのに対し、⇔は条里制地割内部に垣内が見出される例である。史料の数からは、eが垣内立地の一般的傾

    向を示していると言える。次いで

     〔U 宇智郡栄山寺領(表一i7)

     ⇔ 平群郡法隆寺周辺(表一i20・32・42・43・44・46・47・55・59●81.88●魏)

    の事例から、垣内をめぐる領主支配の展開を解明して行きたい。eは一〇・=世紀、⇔は=・一二世紀が考察の中心

    51 (377)

  • 大和国垣内分布図図2

    MiN、3へ\_ノに..t..一(

     。。

    灘態

    ①宇智郡栄山寺傾 (7) ()内は表1番号②城上郡馬前庄  (17)③添上郡y}r/山庄   (〃)

    ④葛上郡西菓子庄 (〃)⑤ 〃 今木庄   (〃)

    ⑥添上郡五条五里一坪小角垣内  (19)

    ⑦平群郡法隆寺周辺(20・32・42・43・44・46          47●55・59り81・88・ユ02)

    ⑧添上郡楊生郷簑川村 (22)⑨左京八条四坊七坪嶋垣内(37・38・49・53・54・100)

    ⑩添上郡五条五里四坪カイトシリ (39)

    ⑪高市郡弘福寺周辺  (45)⑫山辺郡一二条七里六坪  (58)⑬広瀬郡一一条五里二七・二八・三一・Pt(67)⑭宇陀郡笠閻郷寺垣内〔位置不明〕(72・99)

    ⑮城下郡一六条三里二・三坪さいかわのかいと(70

    ⑯広瀬郡一三条三里一五坪小垣内(78)⑰添上郡河上大垣内〔位置不明〕(79)⑱宇智郡豊井庄〔位置不明〕(94).⑲添上郡一条七里二四坪山田西垣内(101)⑳添上郡水間郷房垣内〔位置不明〕(112)

         糎鯉

    悪L一一〇等高線は100m間隔 色地は沖積平野部を示す

    ,澄.

    15.

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    52 (378)

  • 平安期の垣内(水野)

    となる。これらを含めて、大和全体の垣内史料のうち、比定可能な事例については、図二に示したQ

     一、垣内の立地と分布

      e 興福等雑役免庄園

     延久二(一〇七Q)年九月二〇日興福国大和国雑役免坪付帳(表一117)には、大和国の一五一庄;二五七町九反余の不輸

    免田・雑役免田について、庄園ごとにその面積・坪付等が書き上げられている。これによって大和国における興福寺領の

    全貌をうかがい知ることができるのであるが、その中に垣内と記された坪が散見されるのである。興福寺領という枠内で

    はあるが、広く大和全体にまたがる寺領であることを考えるならば、坪付帳に見える垣内のあり方から、一一世紀後半段

    階の大和における垣内立地の傾向を明らかにすることができるであろう。

     垣内が坪付に表われているのは、一五一庄のうちの次の四庄である。

      イ、城上郡岡前庄五町二反六十歩

         不輸免田畠二町五反

         公園愚二町七反六十歩

        常楽会免田二町五段(坪付略)

        公田畠二町七反六十ト

                               (三黒)

         廿四条二塁八草叢廿ト 十九≧牧田五反大  (中略) 七浪本二反大 東田岡本二反 一石栗三反半 東出垣内二反

     城上郡岡前述は不輸免田畠(常楽会免田)および公照畠あわせて出町二段六十歩という小面積の庄で、各坪は散在傾向

    を示す。また坪名には「迫」・「翼翼岡本」といった表記が見られ、盆地部の統一的な条里制地帯とは違った条件の地域で

    あることがうかがえる。城上郡二四条に関しては、現在のところ条里の復原は完成されておらず、現地比定は断念せざる

                                             ①

    を得ないが、二三条から判断して桜井市街東南の鳥見山周辺であることはまず動かないであろう。盆地部とはやや異なる

    53 (379)

  • 岡前罪の坪付は、このような地形的条件によるものなのである。駅前庄における垣内は、盆地部の条里制地割縁辺部に位

    置する二段の公田畠をその内容とする。

      ロ、添下郡鷹山庄田畠四町七段百八十ト 公田也

          上用丸一協働 中用丸一段 砂谷上切一段  (中略) 大北窪半 高田垣内一段 稲葉垣内一段 同誌垣内一段半 高田

          北三段百八十ト  (中略) 前田一段百八十ト 古川一段百八十歩 黒沢垣内三段 中屋垣内三段  (以下略)

     添下郡鷹山庄は地名から現在の生駒市高山町に比定することができる。坪付帳に見える字名と一致するかなりの小字名

    (大北・稲葉・前田他)が現存し、当時四町七段百八十歩にすぎない田畠が、富雄川開深谷沿いの広い範囲に散在してい

    た事実が判明する。坪付帳に条里表記がないのも当然なのである。鷹山庄における垣内は、生駒山中に散在する、一~三

    段の小規模な公田(畠)の一存在形態である。

      ハ、葛上郡西菓子庄廿二丁七段百十ト 公田畠也

               (帯三条)                                                   、 、 (勢点簗考)

          (中略) 八里一i一反 二i一反大 三i二反 十五…一反大 骨九i二反 措一一六十ト 新開松見眼中二反 京越

          垣内二反法延垣内大佐伯壇内大・棟堂垣内二反 小都垣内一反鵤田垣内二反小板屋内六十ト 青垣内一反檜垣

          内一反 保馬垣内一反小 坂本堂大 酒部垣内二反 同歯へ六十ト 佐太垣内大  (以下略)

     葛上郡顧葉子庄は、現在の御所市街菓部、櫛歯のあたりに疎に広がる庄園である。この地は葛城山東麓の扇状地であり、

    河川の浸食が進んだ複雑な地形を慨し、条里制地割も山寄りの地帯でははっきりしない。この庄における垣内の存在形態

    で最も注園されるのは、三三条八里(櫛羅東部、早目にかけての地)にかなりの数の垣内が集中していることであろう。

    すなわち条里制地割の明瞭な比較的平坦な地域には検出されず、かなりの傾斜を示す山寄りの地域にのみ垣内は立地して

    いるのである。その中には「新開松見垣内二反」のように、新開とされているものも見られる。この地域は全体に公田畠

                                                       ②

    が卓越しているのであるが、これらの垣内群より西(白蔓寄り)には、史料からは公田島の存在は確認できず、新開とい

    54 (38e)

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