Title ドイツ騎士修道会とプロイセン人 Citation 72(6): …...1 (823)...

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Title <論説>ドイツ騎士修道会とプロイセン人 Author(s) 佐々木, 博光 Citation 史林 (1989), 72(6): 823-858 Issue Date 1989-11-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_72_823 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title <論説>ドイツ騎士修道会とプロイセン人

Author(s) 佐々木, 博光

Citation 史林 (1989), 72(6): 823-858

Issue Date 1989-11-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_72_823

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

ドイツ騎士修道会とプロイセン人

佐 々 木 博 光

【要約】 中世、プロイセン地方に支配権を確立したドイツ騎士修道会の原住プロイセン人に対する支配は、強圧的かつ一方的な性

格のものであったという歴史学が、我国では中心的な位置を占めてきた。この傾向は西ドイツ史学界にも概ね該当するといってよ

い。これに対して、近年の実証研究は、支配的な見解に必ずしも整合しない個別事象を呈示してはいるものの、尚、全体としての

枠組を変更するには至っていないというのが現状である。そこで、本稿ではこれらの研究成果を踏まえ、さらに筆者の独自な調査

結果を交えて、強圧的・一方的な支配という歴史縁を再検討する。その結果、定説となっている歴史像に若干の修正を試みること

になる。                              史林七二巻六号 一九八九年一一月

ドイツ騎士修道会とプロイセン入(佐々木)

は じ め に

 最近の歴史学研究における著名な動向の一つとして、支配一華支配の関係を支配者から被支配者への一方的な作用と見

るのではなく、被支配者の自律的・主体的な営みの中に支配の契機に繋る要素を探り、支配が再生産されるメカニズムを

支配者と被支配者の相互関係の中で把握しようとする視角の存在を挙げることができる。筆者の携る西洋中世史研究にも

このような傾向は顕著であり、実り豊かな歴史像を墨示しつつあるように思える。

 しかるに特殊な事情から前述のアプローチを頑に拒み続けている地域も存在する。西洋中世最大の征服社会とされるド

イツ騎士修道会領プロイセンもその一つである。中世、バルト海沿岸のプロイセン地方は、バルト族、とりわけその一派

1 (823)

であるプロイセン人の定住地であった。一三世紀になるとドイツ騎士修道会を中心とする十字軍勢力による征服活動が進

められ、半世紀に及ぶ間歓的な戦闘の末、一二八○年頃にはドイツ騎士修道会が当地の支配権をほぼ手中に収めることに

なる。

                                  ヘ  ヘ  ヘ        ヘ  ヘ  へ

 その後約二五〇年に及んだ騎士修道会の原住プロイセン人に対する支配は、強圧的かつ一方的な性質のものであったと

                     ①

いう歴史像が我国では中心的な位置を占めてきた。この傾向は西ドイツ史学界にも概ね該当すると言えるであろう。R・

ヴ・ンスクスのように・この通説とな・ている理解に興味深い反証を提供しつづけている研究者もいる⑫彼の呈示する

個励事象も従来の定説を覆すには至っていないというのが現状なのである。

 この強圧的・一方的支配という見解が正当性を主張しえた背景には、大別すれば二つの事情が存在すると筆者は考える。

一つは現実の政治状況に占めるこのテーマの有する意味という、極めて同時代的な問題意識に発する拘束である。戦前の

                                                  ③

研究では、中世のドイツ騎士修道会の活動はドイツの東方政策を正当化するために美化されていたと言えるであろう。こ

の意味で敗戦はドイツ人の意識に重大な変更を迫った。勿論騎士修道会史研究も軌道修正を求められたことは言うまでも

ない。しかるに騎士修道会の活動を賛美する類の研究が完全に後を絶ったわけでもない。戦後は旧領土の請求という新た

                           ④

な要請に支えられつつ未だにその命脈を保持しているのである。このような認識に対する警鐘という意味で、前述の歴史

像が現代人の倫理観と強く結びついたものであることを見落すことはできない。

 ここで誤解を避けるために一言断っておきたい。筆者は征服という事実が存在したことを否定しようというのではない。

征服完了後の社会における支配11被支配関係の内実を問題にしたいのである。それは強圧的・一方的な支配が二五〇年も

の期間再生産されうるものなのかという筆者の素朴な黒海から発する問いなのである。

 強圧的・一方的な支配という定見を支える今一つの根拠として、史料状況の問題を挙げることができよう。支配11被支

配関係の性質を考察する際には、両者の接点になる場、さらにはその場に働く力学を解明することが不可欠となろう。し

2 (824)

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

かるにこの点の解明に資する史料の絶対数が根本的に不足しているのである。史料の不足が強圧的・一方的な支配という

印象を生み、この印象によって周囲に位置する他の史料も捌かれてきたと言える。だが、残存する史料は必ずしも前述の

歴史像を立証しているわけではない。さらに何よりもまず残存する史料から不可視な部分を推測・復元するのが歴史学の

正当な手続きなのではなかろうか。以上二つの理由から、強圧的・一方的な支配という歴史像は検討の余地が大きいと言

わざるをえない。

 では次に騎士修道会と原住プロイセン人の関係というテーマは、騎士修道会史研究の中でどのような位置を占めるべき

ものなのであろうか。このテーマは黒土修道会国家の職制史の一環を成すものである。プロイセンの騎士修道会国家の内

                                 ⑤

部構造に関しては、非常に立ち遅れた研究分野であることが指摘されて久しい。とりわけ原住プロイセン人に関する研究

                            ヘ  ヘ  へ

を通観して第一に気が付くのは、ドイツ人とプロイセン人という民族史的な構図を前提にしたものが大多数を占めるとい

                                       ⑥

う点である。強圧的な支配という歴史像もこの前提の上に成り立っていると言えるであろう。しかるに支配者たる騎士修

道会と在地のドイツ系移住者は決して一枚岩な存在ではなく、これを一章りに考えるのは少々議論が乱暴すぎると言わざ

るをえない。事実、一五世紀になって騎士修道会の支配を掘り崩すことになるシュテンデ運動は、圧倒的にドイツ系住民

           ⑦                                          ⑧

を主体とする運動であった。そしてこのような軋櫟の存在を一四世紀にも窺うことができるのである。このため支配者た

                                                へ  む  へ

る騎士修道会とプロイセン人・在地のドイツ人、さらには在地のプロイセン人とドイツ人という三者の関係を国構史のレ

ベルで位置付ける作業が要請されることになる。

 以上の研究史上の問題点をも踏まえて、本稿では騎士修道会の支配が比較的安定を保っていた一四世紀のプロイセン人

定住地に対する統治を分析し、それが強圧的・一方的な性質のものであったかどうかを再検討したいと思う。その際二つ

の社会層を考察の対象に選ぶ。 一つはラントの中間勢力とも呼ぶべき自由民、もう一つは騎士修道会直轄領内のプロイセ

ン人村落の農民である。検討の対象とする学説は二つ。一つは騎士修道会のラント支配はプ戸イセン自由民をも含む在地

3 (825)

の有力者を厳格に排除して成り立っており、原則としてプロイセン自由民がラントの行政に関与する道は閉ざされていた

     ⑨                                                       ⑭

という学説。もう一つはプ獅イセン農民が騎士修道会によって恣意的な収奪の対象とされていたという学説である。

① 阿部謹也『ドイツ中世後期の世界』未来社、一九七四年、一三〇・

 二〇二・三三七頁。

② 即ン<Φ肖色内霧噌昏乱薦馬き恥ミき盲ミ轟き§、逗勢§ミミ憾養ら鍔簿sN

 ミミミミ帖§睦σq§碧一”σq26G。¢

⑧戦前の研究動向の紹介としては、以下の文献を参照した。鵠■切oo。甲

 旨碧Pbミbミ誉ぎO蔵Q§鼠欝。げ2お。。一三』。。心-揺冷≦幽≦甘需7

 旨塁pbミOミミ毯、§瓢ミ恥ミ零、£鳶切〇二貯一㊤圃ρω.一書1。。8.

④ 一例を挙げるならば、ノ劃「.Q貸O剛二§。・貯σqO5Uすσq①ω〇三〇げけ一一畠Oω87

 一§σq自賃彗謬8貯冨①ユ一。冨鵠9gの9窪○巽σ9く①σq毒σq㌧§象ミ馬笥富

 Nミ騎畑ミミN恥施一Φαメω・αミふ蒔bσ・尚、この論文に関しては阿部氏が

 批判的に紹介しておられるので、併せて参照されたい。阿部謹也『歴

 史と叙述-社会史への道…』入文譲院、一九八五年。七一三一頁(初

 出は、「西ドイツの東方研究と西欧理念」『思想』岩波書店、四九五号、

 一九六五年、二八-四〇頁。)

⑥ 閑.≦①器押割、斜pOこQD.。。宅∴轟bコoo六一雪p湧①<o塁、Φ蒔。

 臼ω∪2房。9昌〇三〇ま一一回娼お葛。戸§篭ミ題§ミ笥ミ恥忘ミ碍§

 湊罵ト一り。。斜Qo幽親。。.(以後「厚肉と略す)

⑥阿部謹也『ドイツ中世後期の世界』未来社、一九七多年、二鳳七頁。

⑦堕しヴoo。犀旨碧詳9・pOこω藁OO.

⑧ 夕汐、前掲書、二八八一二九五貰。

⑨即幽囚鵠塁ひ寒ミ逡ぎミ馬や毯ミミ暁§賊b馬ミ恕遵。蔵§&ミミ寒、

 Ωαけ昏嶺。コ這鰹いoQ幽お騰.邦語文献としては、阿部、前掲譲、三三七

 頁。

⑩≦.○昌&盤b鳶晦ミ物§鴨§恥§ミ肉ミ§hミま9嚇鋤ミ黛ごミ§

 O腰§寒ミ一二ミ哩§噺9肘翫§きミミ謡切養矯ミ§寒薦ミミしb聖訓袋(9㍗

 憾§ら§Y累鍵σ年σq一㊤『伊OQ噛象’邦語文献としては、阿部、前掲書、

 一一〇二貰。

4 (826)

第篇章プロイセン自由民

 1 「無権利の民」という神話

 バルト海沿岸地域の伝道政策に関する包括的な研究を行ったF・ブランケによれぽ、プロイセン人の抵抗は一二七四年

                                                        ①

に最終的に鎮圧され、以後彼らは騎士修道会の支配下で「無権利の民」象Φお。簿一。器寓舘。。Φとされるに至った。この

「無権利の罠」という概念がいかなる法的・社会的状況を指すものなのか、ブランケ自身が明確に定義しているわけでは

ない。だが一般にこの概念から想起されるのは厳しい隷農の状態である。そして我国のドイツ騎士修道会史研究も、概ね

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

                  ②

このブランケの説を受容してきたと言える。

 しかるにブランケ説に対してはすでにH・パッツェが批判を試みている。パッツェは特許状医聖臼①暮①によって騎士

修道会から種々の権利を保証されたプロイセン人の存在に着目し、抵抗の最中も騎士修道会のために奉仕したプロイセン

                     ③

人は、後に特権を賦与されたと主張したのである。だが彼も反抗した者たちの後の境遇には何ら言及してはいない。結局

のところパッツェはブランケ説に一部修正を加えたにすぎず、従って大多数のプμイセン人は「無権利の民」と称される

隷属状態に陥ったという歴史像が根強く定着してきたのである。パッツェ説を図式化すると次のようになるであろう。征

服完了後のプロイセン人の境遇は、征服の途上で個々のプロイセン人が騎士修道会に示した態度の差で決定された。そし

てこの図式的な把握が従来の定見であったと言える。そこでまず我々はパッツェの依拠する特許状の内容を分析すること

によって、前述の支配的な学説の有効性を検証することから始めたいと思う。その際問題点の析出を容易にするため、特

                                             ④

許状に含まれる雑多な権利や義務に関する考察は避け、形式的な文言に注属して議論を進めることにする。

 騎士修道会がプロイセン人に交付した特許状を年代順に配置してみると、以下の特徴が見出せる。まず、プロイセン人

の二度目の大規模な抵抗が勃発した一二六〇年代に騎士修道会が発行した一群の特許状には、必ず次のような一文が記載

されているのである。

                                   ⑤

   全土が背教の渦中にあった時期に、彼が我が修道会に行った誠実なる奉仕がゆえに

この種の特許状の存在は従来の定見に有力な根拠を与えてきた。だがこれに該当しない事例も見られる。例えば一二六七

年四月付けの特許状には赦免の意図を示す次のような一文が記載されているのである。

                                          ⑥

   背教の時期に彼らがとった信仰からの離反に関し、我々は彼らと彼らの子孫に完全なる赦しを与える。

                                ⑦

また、一二八○年八月一日付けの特許状にもこれと同じ一文が含まれている。E・マシュケは、この二つの事例は比較的

                                 ⑧

早い時期に抵抗をやめ、騎士修道会側についた者たちであろうと推測している。マシュケの解釈の適否を判定する材料は

5 (827)

ない。だが、抵抗で指導的な役割を果した人物を出した家が後もラントの有力家系にとどまっている事例ならば、他にも

       ⑨

拾うことができる。さらに征服完了前後に交付された特許状には、註⑥に示したような一文はもはや影を潜めていること

に気が付く。つまり特許状を詳細に再検討してみると、パッツェの予示する図式的な把握とは必ずしも符号しない点が検

出できるのである。

 だが、征服完了後のプロイセン人の境遇に関する定説に根拠を与えたものは、個別の特許状の存在だけではなかった。

初期の会士ぺータ!ーフォソーードゥスブルク℃①肩摩く○目○器げξσqが遺した年代記には、騎士修道会がプロイセン人にと

った処遇に関する一節が設けられている。

      へ  ぬ  ヘ  ヘ  へ

   祖先がノビレース家系出自の多くの新改三者がプロイセンにはいる。しかし、彼らは信仰とキジストの信者に対して犯した罪ゆ

     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  め  ヘ                                   へ  あ  ヘ  ヘ  ヘ  コ  ヘ                                                           ヘ  へ

  えに、イグノビレースに位置付けられた。逆に両親はイグノビレ!スであっても、信仰と会士に示した忠実なる奉仕ゆえに自由を

          ⑩

  与えられる者もいた(傍点筆者)。

この箇所の解釈は一見すると従来の通説を裏付けているように思える。実際ヴェンスクスによればこの記述は図式的な把

                 ⑪

握を補強する重要な証拠と見られてきた。つまりイグノビレースが「無権利の民」と考えられたわけである。だが別の箇

所には次のような一文も存在する。

           へ  ぬ  カ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ            へ  ぬ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ            ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  カ  ら            ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

   優れた功績によってイグノビリタースが高貴なノビリタースに、またセルウィトゥースが至当なリベルタースに上昇することも

    ⑫

  あった(傍点筆者)。

「無権利の民」と呼ばれるに相応しい状態はセルウィトゥースであろう。その対立概念として存在するのはりベルタンス

であり、ここでもやはりイグノビリタースの対立概念はノビリタースである。この部分から判明するのは、二つが年代記

作者の念頭には別の次元の問題として浮かんでいるということである。二つの次元がどのようにオーバi-ーラップしてい

るかを見極めるのは難しいが、以下の三通りの可能性が考えられるのではなかろうか。ωノビリタースとイグノビリター

6 (828)

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

ス、その下にリベルタースとセルゥィトゥース。㈱ノビリタースとイグノビリタース、イグノビリタースの中にリベルタ

ースとセルウィトゥース。㈹リベルタースとセルウィトゥース、リベル五二スの中にノビリタースとイグノビリタース。

以上三つの選択肢のうちのどれを選ぶとしても、イグノビリタースとセルウィトゥースを完全な等号で結ぶことはできな

い。結局、この年代記も従来の定説を支持するものとはなりえないことになる。

 以上の検討から、プロイセン人の境遇に関する図式的な理解は根拠が薄弱であることが判明した。M・バーレイも述べ

ているように、騎士修道会の原住プロイセン人に対する対応は極めて複雑であり、新しい支配者は彼らの社会的地位に応

                 ⑬

じて多様な政策を展開していたのである。それでは次に、プロイセン人は騎士修道会支配下でどのような社会層として把

握されていたのであろうか。ドゥスブルクの年代記からは幾つかの社会層が存在したことが想像できるが、この記述だけ

に頼って社会層を抽出するのは無理が大きいと言わざるをえない。そこで次に社会経済史の成果を援用しながら、騎士修

道会支配下におけるプロイセン人の諸社会層の考察を進めたいと思う。その際、主としてH・ヴンダーの行った地域史研

             ⑭

究の成果を利用することにする。

 彼女はクリストブルク地区という騎士修道会にとって重要性の高い地区囚○諺叶醇臥を研究対象に選び、社会層の抽出

という点では騎士修道会の租税台帳である『大貢租帳簿』を使い、そこに現れるカテゴリーを指標として分析を進める。

それによれば、プロイセン人は大別すると大自由民σqδゆ①鳴おδ・小自由民肛Φ言Φ閏器δという二つの社会層、さらに

村落U&という居住単位で掌握されてい砺・ここで畠民と村落の農民を隔てているの黒黒修道会に対する負担の内

容である。自由民が主として軍役義務を履行したのに対し、農民は主に貢納・賦役といった農業に関わる負担を行ってい

⑯た。 

では次に大自由民と小自由民を隔てていたものは何であったのか。『大貢租帳簿』から判明するのは両カテゴリーに属

する自由民の人数だけであり、両カテゴリーの特徴に関する叙述は全く欠如している。ヴンダーは『プロイセン史料集』

7 (829)

「     ノ

)KT,MEMEL

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     (.      ’N..,

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\ノ”初T・地羅・        □聖堂参事会直轄領        E]司孝女直轄令頁

          1400年頃のプロイセン

H. Boockmann, Der Deutsche Orden, 1981 Mttnchen.

を使って該当地区の自由民に交付された特許状の内

容を分析し、さらにそれを自由民の数と照合するこ

とによって自由民を類別する際の特徴を抽出してい

る。ヴンダーによれぽ、小自由民はプロイセン人農

民とほぼ同一規模の所領を保持したにすぎず、経営

形態の面でも農民とほとんど変るところのない存在

であった。ただし彼らは特許状によって騎士修道会

から所領を保証されていた点、また農業賦役ではな

く軍役や築城賦役を義務付けられていた点で、法的

                  ⑰

に農民とは区別すべき社会層を形成していた。しか

しながら小自由民を農民とは隔絶した一つの確固た

る社会層と見るべきではない。定住史の視角から眺

めると、小自由民の所領がプロイセン人農民の村落

内に散在している場合が見受けられる。これはプロ

イセン人農民が解放され、小自由民に上昇したもの

だと考えるべきであろう。ヴンダ1が作製した『ク

リストブルク地区の債務台帳』には、プロイセン人

農民が解放金を支払い、自由を買い取った例が少な

          ⑱

からず見出せるのである。

8 (830)

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o    o

ドイツ騎=ヒ修道会とプロイセン人(佐々木)

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   ぎ甲  。験募      茎   髪.乙   窪 。爺 。 。 .t,一

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・脱。

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鰍。、

        プロイセンの古部族

EL. Carsten,Tlte Ovigins of Pfitssia, 1954 Oxford.

ンダ…はこの三層構造の起源はすでに騎士修道会時代にも存在したと考えている

に二つの種類が認められる点を挙げている。さらにこれを個別の特許状と照合することで、

社会層を識別する幾つかの特徴を呈示している。それを要約すると大自由民は、

クルム法又はそれに準ずるプロイセン法に基づき、上・下級両裁判権を享受するグループと、

領を有し、クルム法又はプロイセン法に基づき、下級裁判権だけを所有するか、

に類別できる。ブランデンブルク・バルが両地区に関して同様な手法で研究を行ったグッ

                    ⑳

の之ほとんど変わらない社会層を抽出している。

 これに対して大自由民は比較的大規模な所領の

経営者であった。そして享受する特権の面でも小

自由民とは明らかに異なる存在であった。彼らは

一部の例外を除けば、ほとんどが騎士修道会から

自らの所領に付随する裁判権を授与されていたの

である。

 ヴンダーはさらにこの大自由民層内部に二つの

グループが存在したと主張している。騎士修道会

の統治下では大・小自由民という二層構造で把握

されていた社会層が、騎士修道会の解体後侯国時

代になると、貴族諺α①押国審菌暮Φ・大自由民・

小自由民という三層構造に変化するのである。ヴ

   ⑲

    。その根拠として彼女は大自由民の軍役

         彼女は大自由民内部の二つの

    @約一五-一〇〇フーフェの所領を有し、

          ⑤約六-一五フーフェの所

    もしくは裁判権を全く持たないグループ

        ダートも、ヴンダ!が確定した

9 (831)

 二人も確認しているように、適用された法の種類から、小自由民層は圧倒的にプロイセン人によって構成されていたこ

     ⑫                                                      ㊧

とが判明する。そしてやはり法の種類から解ることだが、大自由民層にもプロイセン人が含まれているのである。以上の

検討から、騎士修道会支配下のプロイセン人社会には四つう社会層が確認できることになる。大自由民@・大自由民⑮・

小自由民・農民の四つである。

 では、以上の社会層に関する分析から、我々は騎士修道会支配の性格について、何らかの指摘をなしうるであろうか。

ヴェンスクスは、すでに挙げたような反抗中の離反に対する赦免の例、さらには身分的に解放されて小自由民に上昇を遂

げたプ戸イセン人がいた事実を積極的に評価し、征服完了後騎士修道会がプロイセン人に講じた措置は寛大なものであっ

       ⑳

たと主張している。だが彼の立論はいささか単純すぎると言わざるをえない。確かに彼の挙げている例は史料的に十分な

根拠を主張しうるものである。しかるに赦免を受けたから史料として遺ったのであり、赦免されなけれぼ史料は遣らない

と考えることもできる。同様に、身分的に上昇したから特許状で保証する必要があったのであり、身分的な下落を保証す

るのに特許状が発行されたとは考え難い。ここで我々は現存する史料の証言能力を一方的に過大評価するのは碧しむべき

であろう。とりわけヴェンスクスの見解は、問題の所在を不透明にする恐れがあり、看過できないのである。結局のとこ

ろ社会層に関する分析だけでは、支配の性格を規定するには不十分なことを認めざるをえない。

 本節ではプロイセン人社会内部の諸社会層を検出できた。プロイセン人は「無権利の民」と化したわけではなく、特許

状で権利を保証される者もいたのである。彼ら自由民は軍役の負担者であると同時に、プロイセン人定住地の統治の上で

も重要な役割を担っていた。次節以下で我々は、プロイセン自由民の令制史上に占めた地位を明らかにすることにより、

騎士修道会支配の性格を規定する上で重要な一側面と取り組むことになる。

①労国p三(ρ90国馨。。畠。一曾品ω智冒。母弓》①島①”日冴餓。営(お81

 お録)bNミ嵜らミミ渇ミミ、魯§題逡ミhミ馬職8一り鱒Q。”ω・も。Q。.

② 阿部、前掲書、=二〇頁。

③峯℃馨Nρ∪曾津δα響く80訂冨け9円σq〈自冒葺。這お、智鳶さ袋偽誉

10 (832)

ドイツ騎=ヒ修道会とプロイセン人(佐々木)

誌黛O塁き詩ミ馬ミ剛馬ミー命馬9ミO無§ミ鶏ミ§ミ防ざ一〇窃。。陶。っ.①ρ(以下

 ㍉Q旨δと略す。)

④ 特許状の内容に旨しては次の文献を参照されたい。山田作男『プロ

 イセン史研究序説隔風間書房、一九八二年、八二一九一頁。

(回

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2異邦人の会士

騎士修道会から特許状で所領を保証され、

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   グッダートの算定では、大自由民と小自由昆の分岐点は五フーフェ、

 大自由民厨内部の分岐点は一〇フーフェとなっている。≦.Ωロα量け、

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その代償に軍役奉仕を義務付けられたのが自由民である。騎士修道会がプ口

11 (833)

イセン自由畏に交付した彩しい数の特許状は、従来は確固たる支持基盤を創出しようとする騎士修道会の意図の現われと

       ①

考えられてきたがA逆に騎士修道会が在地の有力者を早い時期に掌握したことを示す史料と見ることも可能であろう。こ

れらプロイセン自由民は騎士修道会の国王にも関与していたのである。彼らは主にプロイセン人定住地の統治で重要な役

割を果していた。

 戦後の地域史研究の成果によって、プロイセン人定住地とドイツ人移住者の定住地が地理的に離れた位置に存在したと

いう事実が確認されている。さらに両定住地は行政面でも異なる機関の監督下に置かれていた。プロイセン人定住地はカ

ンマーアムト諸ρ臼BΦ雷日け、ドイツ人定住地はヴァルトアムト≦-㊤δ㊤B什と呼ばれる役所によって管轄されていたので

 ②

ある。各地区は複数のカンマーアムトとヴァルトアムトによって構成されており、これらが騎士修道会の行政機構の末端

を形成していた。そしてカンマーアムトの長官は管理人目似医旨曾曾と呼ばれ、彼を補佐する副管理人¢馨①詩似BB霞霞

                                                ③

以下の役職同様、一五世紀以前にはほぼ例外なく該当地域のプロイセン自由民から騎士修這会が選出していた。

 カンマーアムトの担う最も重要な任務は管轄地域の治安維持であった。だが原住プロイセン人に対する裁判権はほぼ例

外なく騎士修道会が留保しており、管理人自身には判決を下す権限はなかった。裁判集会がカンマーアムトで開催される

場合でも、最終的に判決を下すのは騎士修道会の地区監督囚。毒言♪<oσqげであり、管理人は彼を補佐したにすぎなかっ

④た。その他の業務として、裁判集会の開廷日には軍役負担者の審査も行われていた。またカンマーアムトは徴税の単位で

                                               ⑤

もあり、、管轄区域内のプロイセン人村落の貢納はカンマーアムトを通じて騎士修道会の館に納入されていた。つまり騎士

修道会はラントの原住プロイセン人と直に接触する末端の行政職にプロイセン自由民を起用していたのである。

 では次にこれらプロイセン自由民は何らかの形で職務に対する褒賞を与えられたのであろうか。ヴンダーによれば管理

人は生涯その職につき、カソマーアムトに属する五ハーケンを馬丁免除という形で得ていた。そしてそこからあがる収入

          ⑥

が管理人の給与となった。つまり騎士修道会は彼らに在職期間中少なからぬ収入を保証していたのである。さらに勤務に

12 (834)

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

                       ⑦

対する報酬として世襲領を授与される場合も見られる。騎士修道会は一四世紀中葉までは主としてこの職に小自由民層を

登用していた。それ以後は地域の有力な大自由民家系によって世襲化される傾向が強まるが、この職を通じて自らの社会

              ⑧

的地位を向上させた例も見られる。つまりカンマーアムトの業務に関与したプ牌イセソ自由民は、他のプロイセン人より

も良好な待遇・地位を期待できたのである。

 ラント民との接点に当る下級職にプロイセン自由民が起用された例ならば、我々は他にも拾うことができる。その一つ

に通訳U9日Φ宮。げ①さ日○転義がある。各館の地区監督を初めとする要職には必ず一人は通訳が付いており、この職には

                           ⑨

職務の性質上プロイセン自由民が起用されていたと考えられる。ヴンダーが分析対象としたクリストブルク地区では、一

                                                    ⑭

五世紀中葉になっても小自由民の集会が召集される場合、騎士修道会の行政官の決定事項は通訳を介して伝達されている。

このようにドイツ語の普及が遅れていたことを考えるならば、通訳という役職の重要性も高かったことが推測できる。こ

                                   ⑪

の職で騎士修道会に奉仕した者の中にも退職後免租で所領を授与される例が見られ、さらにこの職を経てプロイセン内部

                     ⑫

の一司教区の司教に昇格した人物もいるのである。

 また我々はヴィティンゲ≦隷謬σq①の存在を挙げることもできよう。このヴィティンゲと総称されるプロイセン人の担

った業務に関して、定見は未だに得られていない。同様に彼らがどのような社会層に属する人々であったのかという点に

関しても見解は一様ではない。その原因はヴィティンゲという呼称を有する人々の社会的出自や業務が地域によって多様

であったことに求められる。例えばザムラントでは彼らは最上層のプロイセン人に属したのに対し、クリストブルク地区

                    ⑬

では小自由民層の一部を成していたにすぎない。また職務という点でも、ザムラントでは彼らは館の業務に奉仕する正規

の奉公人の中に数えられていたのに対し、マリエンブルクでは主に軍事業務に携っていたのである。前者は会士の担う館

の様々な業務を補佐し、奉公人を監督する最下層の指揮者としての地位を占めており、食事の際にも専用のテーブルを用

意されていた。また後者は築城や歩哨勤務の際に地域のプロイセン自由民を監督する役目を負っており、戦時には独自の

13 (835)

            ⑭

部隊を指揮して戦いに赴いた。

 以上ヴィティンゲの多様性を説明してきたが、そこには一つの共通点も見出せる。つまりヴィティンゲなる呼称をもつ

プ輝イセン人も、ラント民と騎士修道会の接点に当る職務を担当していたという点である。そしてやはり彼らも奉仕に対

する見返りを得ている。ヴンダーによれば、騎士修道会は毎年彼らに専用の衣服と遠征費用を支給している。さらに彼ら

                      ⑮

の奉仕に対して免租所領が授与される場合もあった。また=一九九年置月一〇日付でケーニヒスベルクの地区監督は、合

                                             ⑯

計八八名に上るプロイセン自由民の奉仕を讃え、これを後世に伝えるという国的で名簿を作成している。名簿の中で彼ら

                                                     ⑰

はヴィティンゲと総称されており、彼らにも職務遂行の報酬として後に免租所領が与えられる場合が見られるのである。

 以上プ臣イセン自由民が担った職務ーカンマ!アムトの管理人・通訳・ヴィティンゲーを分析してきた。そこから

以下の結論が導き出せる。まず第一にプロイセン人定住地の統治に関与したのがプロイセン自由民であったという点であ

る。この事実は視点を変えるならば、騎士修道会が早期に在地の有力者の掌握に成功したことの例証と見ることもできよ

う。次にこれらの職務の遂行に対する報酬として免租所領が授与された点も見逃せない。つまり騎士修道会と在地のプロ

イセン自由民の関係は一概に片務的なものとは見なせず、むしろかなり双務的性格の強い関係であったと言えるのである。

 しかるに免租所領を授与されたという事実は一つの重要な問題を示唆している。騎士修道会の財産は会士の共有財産と

                             ⑱

見なされ、個々の会士が分与されることは原則上考えられなかった。実際騎士修道会支配の末期に至るまで会士による財

           ⑲

産の私物化は認められない。従って前述の三つの職務についたプロイセン自由民は、正式な会士として騎士修道会に採用

されていたわけではないのである。では、プロイセン人が騎士修道会の会士として、行政の中枢で活動する可能性は閉ざ

されていたのであろうか。この点に関してはヴェンスクスが極めて興味深い事実を掘り起している。彼はJ・フォイクト

             ⑳

が作製した会士の名簿を使用し、主として会士の家名を追跡調査することにより、一三・四世紀を通じて合計三五名のプ

ロイセン自由民出自の会士が存在したことを明らかにした。それによれぽ、地区監督クラスの要職に就任している者も珍

14 (836)

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

                                             ⑳

しくはなく、さらにプロイセンで要職を歴任した末に、教皇庁駐在の使節として活躍した人物もいたのである。

 ヴェンスクスの提供した事例は十分根拠を主張しうるものであり、現在では西ドイツ・ポーランド両国の学界ともこれ

を承認していると言える・問題はこの妻をどのように評価すべきかとい、つ点に懸・ているようであ物・つまりこのよう

な事象を例外的な現象と見なした上で、騎士修道会の閉鎖性を主張するのか、それともこの事実を閉鎖性という定説に対

する重大な反証として答えるのか、論争の焦点はそこに移っていると言える。次節ではこの論争に関与している二人の研

究者の見解を批判的に吟味することにより、現段階における一定の解答を呈示したいと思う。

①鍔≦ゴ鵠儒①さp.pO‘ψ一同心■

②阿部謹也「ドイツ騎士修道会史研究の現段階ω」『商学討究』第一九

巻、第一号、一九六八年、一二〇頁。

③甲≦塁9さ空pOこω■◎。湘南「

④ 菊.≦①コω犀葛㌧po.○こω.bδ昏Q。凸窃O.

⑤菊.芝。自評易、①σ。aρOo.目窪曾

⑥出.≦邑95p錯ρ”ω■。。Φ。

⑦即。≦㊦ロω『蚤掌。.pOこの■トニお.

⑧幻芝2ω閥鴇℃Φげ。鼠2ω.も。ω心■

⑨即≦窪・。ざρ。9aρω.も。紹∴團由.≦自9さp帥.O.㌧ψ。。9

⑩客≦毒審ジ。σ。apω■二。。曾

⑭、メ§’ト“。㌧累鉾二一。Qっ.ω駆。心h.

⑫菊■乏。霧ざρppρo。.ω切㊤■

⑬鍔を琶α①さ96・ρいω.二心.

3 閉鎖化か、閉鎖性か

三五名の異邦人の会士の存在を積極的に評価し、

⑭℃■O■⇔瓢g⑦pb鳶番曳§N燥§偽§のOミ§逐§§℃§§§、閑α竃

一㊤①9ω。二鈎

⑮簿≦昌民Φ門る』.9ω。=蒔。

⑯、メ8■卜紳寄“謡。。.ω■愈。。臨.

⑰ 山照、前掲書、八三頁。

⑱即≦。琶窮。。る』噛Oこω.ωb。αh

⑲阿部、前掲書、四〇五頁。

⑳いく。おρミ§§6。§媛織ミ穿ミ日暮§Oミ§目詰ミミ§い麟α三αq曽

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⑳即≦§亀αH(易、pε。’O‘QQ.G。。。?ωG。Q。顧

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 一ヨ摩。ち呂冨&㌧ミミ鷺腰、ミ§ミ零ぎト§§碇禽。ミもミ馬誌ト一㊤。。窃㌧

 ω.=㊤や

これが騎士修道会の閉鎖性という定見に対する重要な反証となりうる

15 (837)

と考える研究者として、当の事実の発掘者であるヴェンスクスの名を挙げることができる。彼の見解を簡潔に要約するな

                                     ①

らば、騎士修道会は閉鎖的だったのではなく、閉鎖化したのだということになるであろう。実際騎士修道会の会則にはド

                        ②

イッ人以外の者を拒絶するという旨を示す条項は含まれず、このような制約が初めて出現したのは一五世紀初頭になって

         ③

からのことなのである。

 この時期になって騎士修道会の閉鎖化を語る文書が現われた原因は、一般に当時の社会経済史上の変動と結び付けて理

解されている。一四世紀ヨーニヅパを見舞った農業危機は地代収入に依存する領主層に少なからぬ打撃を与えた。特に小

領主層の蒙った損害は甚大で、彼らの中には次・三男を騎士修道会に送り出すことによって窮地を脱しようとした者もい

    ④

たのである。このような状況の進展は会士の出自の変化を辿ることによって一層明瞭になる。初期の会土は家人鼠貯や

                ⑤                                    ⑥

ω3鼠巴窪出自の者が大半を占めていたが、一四世紀末になると下級貴族家系出身の会士が急増するのである。この時期の

ドイツ騎士修道会に言及している文献の中には、しぼしば「ドイツ下級貴族の救貧院」αΦω震8Φ昌9αΦおαΦ暮ω。財①触舜甑9

                     ⑦

ω℃唱導く滋く険Φづ夢巴仲といった記述が登場するが、それも会士の出自を見る限りは肯捲けるところなのである。会士の出

                                     ⑧

自の変化に伴って、新採用者の身分や出身地に関する審査も厳格に行われるようになった。

 以上の社会経済史の成果を援用しながら、ヴェンスクスは騎士修道会が閉鎖化する以前の一三・四世紀には、プ戸イセ

ン人家系出身の会士がかなりいたであろうという結論を打ち出している。つまり彼は名簿の中で洗礼名しか記載されてい

                               ⑨

ない者の中にも、プロイセン人が含まれていると推測していることになる。確かにヴェンスクスの見解は一見すると説得

力があるように思える。だが社会経済史上の定見を自己の主張に接思する彼の論法は、いささか短絡関すぎるという印象

                                       ⑩

も否定できない。結局彼の導き出す結論は、あくまでも推論の域を出るものではないのである。

 一方閉鎖性を主張する研究者の代表として、転部謹也氏を挙げることができる。氏の主張を要約すれば概ね次のように

なるであろう。茂はヴェンスクスの発掘した事例を認めばするものの、それを初期の例外的な現象として処理し、原則的

16 (838)

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

                                    ⑪

にプμイセン人が会士として採用される可能性は存在しなかったと主張しておられる。

 だが氏の論点にも不備な点を感じずにはいられない。もしある団体の閉鎖性や排他性といった問題を扱うのであれば、

もう一つ別の要因が介在すると考えられるからである。つまり採用者の人数以外に入会を志願する者がどの程度いたのか

という点、さらに志願者が少ない場合にはその原因を究明することも必要になるはずである。しかるに現在までの研究成

果からは、これらの問題に直接解答を与えることはできない。

 そこで注目したいのがドイツ系移住者の動向である。プロイセンには原住のプロイセン人以外に、ドイツ各地から移住

してきた人々もいた。彼ら移住者の社会も、概ねプロイセン人社会の場合と同様な社会層で構成されていた。そして彼ら

の中の自由民にも騎士修道会の会士として活動する者がいたが、ヴェソスクスの指摘するところでは、やはりそれは極め

              ⑫

て少数にとどまっているのである。だが少数ながらもこのような会士がいたことから、志願が事実上不可能であったとは

考え難い。むしろ、志願者の数自体がそもそも少なかったと考えるべきであろう。では次に我々は、騎士修道会による排

除以外のいかなる原因をそこに想定しうるであろうか。

 従来のドイツ騎士修道会史研究では、次の点は君過されていたように思えるのであるが、騎士修道会の会士になるため

には捨て去らねばならないものも小さくはなかった。それは俗人としての価値観に他ならない。この俗人的な価値観の放

棄が、少なくとも原則上は入会のための前提条件であった。結局、このような価値観の溝にこそ、移住者が入会志願を差

し控えた最大の原因があると考えられるのである。

 一方、プpイセン自由民の場合、越えなければならない溝は移住者の場合よりも一層深かったに違いない。少なくとも

征服後暫くは、新しい支配者に対するルサンチマンも小さくはなかったと思われるからである。従って、入会を求めるプ

臣イセン自由民が、騎士修道会の館に殺到した光景を想像するのは難しい。結局、一見すると閉鎖的に見える騎士修道会

の組織も、それはこの団体が異分子を積極的に排除したからではなく、むしろそれはこの団体の持つ生来の体質によると

17 (839)

〔ge 1〕 クルム司教区の聖裳参事会員・司激の出身地別内訳(1264-1466年)

14名

 4

2

1

1

総 数

聖堂参事会員出身で,激

皇庁の認可を受けた者

プロイセン出:身者

帝鼠出身者

出身不明

\陣鯵事韻総数(名前の判る者) 119名

プロイセン出:身者 33

帝国出身者 16

シェレージエン出身者 6

ポーランド出身者 3

出身不明 61

K.G6rski, Studia i szhiceβdβ勿6ωPadesttva Ith’2ytiacleiego,01sztyn 1986・より筆潜作製。

ころが大きいのである。

 そこで、俗人的な規範を保持しながらも、ラントの行政にある程度参与しうる余地

として、プロイセン自由民には前節で取り挙げた三つの職が残されていた。そしてこ

rれらの行政職に就任した者は少なからぬ報酬を期待でき、さらにプロイセン人社会の

中で一段高い地位を享受しえたのである。無論それで彼らのルサンチマンが完全に解

消されたわけではないが、両者の安定的な関係の持続が、徐々にプ戸イセン自由民の

意識に変化をもたらしたことも事実である。こうして騎士修道会は原住のプロイセン

人有力者を自らの支配下で再編成することに成功し、それが騎士修道会によるラント

支配成功の重要な一因になったのである。

 これまでの議論で我々が主として扱ってきたのは、会士の中でも行政職を担う騎士

修道士田ヰ禽げ把幽窪であり、騎士修道会にはこの他に聖職業務に携る司祭修道士

℃鼠①。。話Hσ議αΦHもいた。この司祭修道士に関して、ポーランドの史家K・グルスキが

極めて興味深い報告をもたらしている。教皇グレゴリウス9世○器σqo昌窃H×.の勅

書によって、プロイセンにはクルム囚巳日・ポメサニエン℃o罵Φのρ巳Φ昌・エルムラン

ト厨目蓋げ⇔α・ザムラントω9Bげ巳の四司教区が設置された。これらの司教区では、

最初は独自に司教を選出していたが、騎士修道会はザムラント・ポメサニエン・クル

ムの聖堂参事会を自らの会士で満たすことに成功し、結局司教も会士の中から出すご

          ⑬

とができるようになった。騎士修道会統治下で一応独立を保つことができたエルムラ

 ント司教区では、聖職者の大部分が現地出身者で占められていたという指摘が古くか

18 (840)

ドイツ紅土修道会とプロイセン人(佐々木)

    ⑭

らあったが、グルスキは騎士修道会に併合されて以降のクルム司教区の司教・聖堂参事会員の出身地を調査し、表1に示

                  ⑮

したような結果を報告しているのである。

 一見すると、司教や聖堂参事会員は圧倒的に現地出身者で固められていたような印象を受ける。実際、H・ブックマン

                                                         ⑯

はこの結果に依拠して、司教や聖堂参事会の直轄領は原住プロイセン人によって運営されていたと主張しているのである。

だがブックマンの指摘は次の二点で支持し難い。グルスキ自身断っているように、彼の使用する現地出身者というターム

                            ⑰

は必ずしも古京プロイセン人だけを指しているわけではない。さらに聖堂参事会員に関する限り、六一名という出身不明

者(洗礼名のみ判る者)の帰趨次第で、出身地別内訳の比重が大きく変化することも予想されるからである。以上の二点

を考慮しなけれぼならないものの、やはり現地出身者が司祭修道士として重土修道会に採用され、司教や聖堂参事会の直

轄領の統治に参与する可能性もあったという事実は動かし難い。これも騎士修道会の閉鎖性という定見に対する重大な反

証となりうるであろう。

①塑≦窪三葉Mp費○.、ψω。。?。。ωり。

② 国.自曽の〇三【ρb§§⇔ぎ塩押ミN蹄§§妹。ミ8}.§詳しd二二Ωo鐸。ωぴの嶺

 一り刈Pψ心O∴閑.同。話8郎8び∪ミb恥ミ肋もぎO臓§詰§蕊峯無ミ§器き

 しごOロ鵠一㊤08ω。bo一幽ートっ一圃●

③国■≦。霧片葛.㊤.餌.○こω’ω。。り.

④ 図◆鼠器。乞(ρP㊤.○こω。一りq顧

⑤会士の出自が解明されたことは、戦後のドイツ騎士修道会史研究に

 おける最大の成果と評伽されている。ここでは詳述するゆとりはない

 ので、この方面の研究に関する学界展望として、以下の文献を参照さ

 れたい。出.じ口oooぎ謬2μジP卑○;oり.G。Q。ム9

⑥ρ頃①σqoさb鳶b恥ミ恥審ミ§蕊ぎ§}§周§旨§帖謡§いき融解馬袋ミ

 肉蔑ミ多寡開。ロ。。δコN一〇α◎◎Mω.=OI一ミ噸W国.寓霧〇三(ρp鉾OこoQ●縁.

⑦り日頃。犀ヨ㊤量㌧切①ヨ①鱒霞σq睾N霞ωo隠巴αqoω。三。げ陣ぽ9撃図7

 ho話。げ儲コσqユ①ωUo三。。oげ。昌○邑。閂μρ韓象ミ跳さ寓置潮噛↑匿ミ%9お露堕

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⑧ 晦。零親〇三(ρ 僧.勲○遣ω“心恥一ゆ窃∴ 穴.男。話跨O口け⑦さ 鐸餌.○こω。

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⑨多毛魯ω胃易吻ppOこω.ωω?ωω。。’

⑩螢猿鍵σqb』。ρo。.這O.

⑭ 阿部、前掲書、三〇一頁・三 七頁。

⑫”.≦①邑2ω㌧鈍曾ρQQ・も。。。。。.

⑬阿部、前掲書、一二〇頁。

⑭阿部、前掲論文、一二五頁。

⑮客O曾の5寒§額焼恥簿馬g賊§ξ§㌔ミぎき斜ミ遷臨§ミ禽p19 (841)

 ○一。。N¢昌HOc。①㌧oQ.置N

⑯国.しd。。。需ヨ睾詳騨』.O二ω」鴇h.

⑰開■O曾ω答四』.P堕二圃・

2e (842)

第二章プロイセン農民

 一 プロイセン人村落

 本章ではプロイセン農民に対する騎士修道会の支配の性質を吟味する。すでに前章で指摘したように、プロイセン人定

住地とドイツ人定住地は地理的に離れた位置に存在した。そして、騎士修道会は在地のプロイセン自由民を掌握し、プロ

イセン人定住地を直接統治する管理人の職に彼らを起用していたのである。そこで次に、以下のような問題が生じるであ

ろう。騎士修道会はカソマーアムト内のプロイセン農民を効率よく搾取するために、プロイセン自由民と双務的な関係を

結んで、彼らを体制内に取り込んだのかという疑問である。このような疑問が生じる背景にはそれなりの理由がある。従

                                             ①

来の一般的な理解に従えば、プロイセン農民は不定量の過重な負担を課されたと言われるからである。従って、騎士修道

会支配の性格を規定するためには、プロイセン農民の置かれた境遇を検討することが重要な意義を持つことになる。そこ

でまず、プロイセン村の統治システムから明らかにしていきたいと思う。

 本章で考察の対象としているのは、騎士修道会直轄領内のプロイセン村である。この種のプロイセン村は騎士修道会に

とって少なからぬ意義を有していた。全土の総面積に占めるプロイセン村の総面積の正確な比率を算識するのは難しいが、

比較的史料に恵まれており、このような算定が可能な地区もある。表豆に示したように、ブランデンブルク・バルが地区

では一四二六年の段階で、騎土修道会の直轄領は地区の総面積の五八・一%を占めており、その中でプロイセン村の占め

              ②

る比率は=・六%に上っている。これはドイツ村の四〇%に次ぐ数字であり、このことから騎士修道会にとってプロイ

セン村の意義が決して小さくなかったことが解る。さらに、プロイセンではドイツからの農民の入植が本格化するのは、

                     ③

平和が確保された一四世紀以降のことなのである。従って、それ以前乃至その初期に会士の給養を支えたのはプ採イセン

村であったと思われる。このためプロイセン農民が既墾地から追放されることはなかったと考えられている。ドイツ村が

                              ④

以前森林や低湿地であった地域に集中していることからもそれは判る。つまりプロイセン農民は以前の定住地に留まるこ

とができたのである。では次に、騎士修道会によっていかなる統治の仕組みが新たに導入されたのであろうか。

 既に前章で明らかにしたように、騎士修道会の地域行政の末端にあって、プロイセン村を統轄していたのはカンマーア

ムトであった。一五から四五に及ぶ地理的なまとまりのあるプロイセン村が、一つのカンマーアムトによって監督されて

ドイツ騎士修道会とプμイセン人(佐々木)

① 1426年,

       衷H

ブランデンブルク・バルが地区の全領域の内訳

%モルゲソMorgen

フ・…フェ

 Hufe

58ユ225751騎=ヒ修道会Orden

12.219%1194づ、自 越ヨ民 K:leine Freie

L2

28,5

⊥覇

122祭Pfarrer司

287工私 領 主

private Grundherren

② 1426年,ブランデンブルク・バルが地区の騎士修道会直轄領の

 内訳

%モルゲンMorgen

フーフェ 1rfufe

L818Yg181直営地Ordensvorwerke

11.6151149プロイセン村Zinshaken

1,1OO

112ゲルトナー村   Garten der Ordensgtirtner

40.023S3949ドイツ村Zinshufen

3,622358市St琶dte都

おり、さらにカンマーアムトの管轄区域内

にはプロイセン自由民が支配する所領も散

在していた。カンマーアムトの長官である

管理人の主たる任務は徴税や軍役の監督で

あった。また裁判集会がカソマーアムトで

開催される際に、地区監督を補佐するのも

         ⑥

管理人の仕事であった。つまり、プロイセ

ン農民の法・経済生活にとって、カンマー

アムトが極めて重要な単位であったことが

判る。では次に、カンマーアムト内の個々

の村落という単位は、いかなる意義を有し

ていたのであろうか。残念ながらプロイセ

ン村に関する文書史料は乏しく、また定住

21 (843)

地理学・考古学といった視角からの分析も活発であるとはいえず、プロイセン村の機能に関しては十分な解明がなされて

いないというのが現状である。そこで以下の考察では、幾つかの見解を吟味することによって現段階までの研究の到達点

を明らかにし、以後本稿での課題とすべき間題点を析出するよう努めたいと思う。

 プロイセン村に関する議論の焦点は、この小さな定住地が共同体としての諸機能を備えていたかという点にあった。R・

プリューミッケは、この間題に確実な解答を与えるのは難しいと断るものの、シュタロストω$円。。。けと呼ばれる役職の存

在に注目し、プロイセン村はこの長老を頂点として一種のゲマインデを形成していたと主張する。さらに彼は、プロイセ

ン人に関する法史料である『プロイセン人の法』甘鎚℃白亜①⇔o窪Bを取り挙げ、そこにしばしば登場する村落内の団体

σq

@8Φ言Φ営Φ営。山。誌Φという表現に着目し、この団体が共有財産の管理等の業務に携っていた点を証拠として挙げて

 ⑥

いる。『プロイセン人の法』に関しては、プリューミッケより前にH・プレーンが言及しており、シュ戸戸スト制度を含

                                 ⑦

むこの法の諸条項は、プロイセン全土に通用するものであったと主張していた。だがヴェンスクスが明らかにしているよ

                                          ⑧

うに、『プロイセン人の法』は一髪世紀中葉に完成したポメサニエン人の警告書にすぎないのである。ポメサニエン地方

                                  ⑨

は他の地域と違い、ポーランド法の影響を早くから受けていたと考えられている。従って、古プロイセンの部族領域の中

                                            ⑩

で、ポーランドに起源を持つドルフーシュタロスト制度が普及していたのはこの地方だけだったのである。プリューミッ

                                             ⑪

ケ自身、自らが研究対象に選んだザムラントでは、シュタロスト制度が普及していなかった点を認めている。

 しかるに、以上の点は確認するものの、やはりヴェンスクスもカンマーアムト内の村落という単位が、一定の意義と機

能を備えるものであったと見ている。その際彼は共同体規制の強い諸活動に注目する。例えば共有地の利用や地代の納入

                   ⑫

等は村落を単位として行なわれているのである。つまり彼の論法に従うならぼ、共同体規制の強い諸活動が存在するとこ

ろに、共同体が存在しなかったとは考えられないということになる。では、これらの活動を実施する村落内部の機構につ

いて、ヴェンスクスは一体どのように考えているのであろうか。確かにプロイセン村には村落の長らしき役職が見当らな

22 (844)

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

かった点は彼も認めるものの、村落規模が小さかったために、種々の業務を取り扱う際に村人の寄合で十分に用を足せた

と推測している・シ・タインはプ。イセン人葎地に関して村肇会の存在を否定している晦・ヴ・ンスクスによれぽ・

                         ⑭

共同の問題を扱うのに集会以外の方法は考え難いのである。

 以上で我々は、主として法的な視角からプロイセン村の構造にアブ揖iチしている研究を整理した。それ以外に、プ戸

イセン村の経済構造に光を当てた研究もある。ヴンダーは、クリストブルク地区の農民債務帳を使い、プロイセン村に見

られる志野農民以外の労働力の存在を明らかにしている。彼女の分類に従うならぼ、それらはω農業の補助労働力、②手

工業者、③労役提供者という三つのグループに分けることができる。そして彼女はドイツ村の場合との比較から以下の事

実を突き止めている。まず第一に、プロイセン村では村人の需要に応じる②のグループの人々が、ドイツ村のそれに比べ

て圧倒的に少なく、しかもドイツ村には必ずいる仕立屋や靴屋が見られない。さらに、②に比して騎士修道会の労働力で

ある③の層は著しく多く、このことがプβイセソ村の性格を如実に示していると彼女は主張する。つまり、プロイセン村

の全構造は法的諸制度から貢納の額、更に社会構造に至るまでもっぱら騎士修道会の関心に沿って作られており、プロイ

                                  ⑮

セン村の法・経済生活の中には自立性のかけらも認められないと断じるのである。

 我々は以上でプロイセン村の共同体機能に関する諸見解を概観した。研究者によって共同体という概念に付与している

意味に相違が認められ、一律に整理するのは容易ではないが、我々は村落像を以下のように見定めることができるであろ

う。プロイセン村が法的権限を有する共同体であったとは見なし難い。地域によってはシュタロスト制度が普及している

場合も見られるが、このシュタロストも、ドイツ村の村長が持っていたような村人に対する下級裁判権を有してはおらず、

                        ⑯

法的には他のプロイセン農民と全く同等な存在であった。しかるに、プロイセン村はやはり一定の共同体機能を備えてい

た。この機能がどの程度の自立性を示すものかという閥題については判断を下すことはできないが、村落という単位がプ

ロイセン農罠にとって重要な生活の場であったことは間違いない。

23 (845)

 ところで、プロイセン村の自立性という問題以外でも、ヴンダーの見解には検討課題とすべき問題点が含まれている。

つまり、プロイセン村が示す特徴の起源を、彼女が騎士修道会の政策意図の中に見ているという点である。しかしながら

このような結論を導き出すのであれば、騎士修道会支配下におけるプロイセン村の法・経済構造を解明するだけでは不十

分と言わざるをえない。なぜなら、起源を騎士修道会の政策意図に求めるからには、騎士修道会の支配というモメントが

加わる前後における状況の変化を追跡することが必要になると考えられるからである。次節で我々は、個々のプロイセン

農畏の境遇を検討することによって、

 ① 晦部、前掲露、二〇二頁。

 ②≦噛O巨匿辞p9.○くω.冨αh■

 ⑧ 山田、前掲書、一五九一一六〇頁。

 ④ 即.斗。旨し・ドoqユい費㊤.Oこω.ω0ρ

 ⑤ 菊.♂〈①pω詳器”oσo降◎ρoα’貿。◎歯窃心。

 ⑥戸℃憲8置ハpNミミ遷純ミぎ§

この課題に取り組みたいと思う。

             寄.魯.覇ミ蝿§恥

翫ミ電ミ代目ミぼ§防§ミ恥罫§Qミ§静い。首覧αqドリ這㌧ω.

⑦頴.勺冨ゴpN自ΩΦω。}凱9り3伽。同〉σq『震く㊦蹴p器話σq

尋窃6岩葛①コ℃㌔ミ逡ミ“9碍寒讐ミぴミ鵠§忌寒謎夢助§画悩“ミ博§ら騎暮§

 03ら遵筈ミ馬嵐3ド㊤O合ψ蒔邸一.

象凄乱日日蹴馬的画ミ職“唖

  り○。.

 〈O嵩 Oω学 ¢嵩O

⑧ 即.≦①ロωドβ6。㌔帥■費○こω■bo窃Oh。

⑨甲≦昌鳥。おppO‘oっ’。。卜。凸

⑩即≦①湯巨。。㌧p鉾9ω.N雪

@即℃峯ヨ惹β帥・p9ω●Φ。。■

⑫即嵩①ロωざ。・b6■○‘o。』O=■

⑭ 即ωけ㊦貯”b措9}§ミミ陽画§聖職ミ藁曳ミ器哺賢恥qミ嚇O騎慰§帖ら§鮪

 様ミさミ偽私話Q、ミ犠騎9§ミ恥思ミ馬“い旨為碁ミミミ騎き一り一Q。℃ω.蕊①■

⑭國.≦①ロ。。ざのる』■○こωb⑦刈◆

⑮踏■ぞβ&。さ㊤』’ρo。■鎗1㊤ω’

⑯国.≦§焦。び。σ①鼠辞ω.。。も。’

24 (846)

 2恣意か、慣習か

 前節で言及していたように、ヴンダーはプロイセン村の生活には自立性のかけらも認められないと主張していた。そし

て彼女は、その原因を騎士修道会の政策に求めているのである。この点を検証するのが次の我々の課題となる。しかるに

史料状況という制約があって、古プロイセン社会における村落の実像が得られない現状では、それは絶望的な状況に等し

い。そこで、本節では個々のプロイセン農民が置かれた境遇を検討することによって、騎士修道会の政策の一端を解明し

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

たいと思う。

 従来の研究では、プロイセン農民の置かれた境遇を評価する際に、入植したドイツ農民の権利が比較の対象として取り

挙げられるのが常であった。プロイセン農民とともに同一社会層を構成し、異質な民族集団に属するドイツ農民の境遇こ

そが、比較のために優れた材料を提供すると考えられたのは無理もない。そして比較の結果、プロイセン農民の劣った権

                  ①

利・過重な負担が強調されてきたと言える。

 ここで、従来の研究で半ば無条件に比較の対象に選定されたドイツ村に関して、若干の説明を付しておく必要があろう。

中世の東ドイツ植民運動によってドイツ人が移住した多くの領域同様、プロイセンでもドイツ村の建設はロカトール制と

呼ばれる独特な形態をとっている。これは領内に新しい村落を建設したいと考える領主が、在地の富裕者に村落建設を委

託する制度であり、領主から建設を請け負った人物が植民請負人い。閃葺9である。その際領主が村落建設文書属ρコ象Φ簿①

と呼ばれる特許状を請負人に付与するのが常で、請負人はこの特許状を提示して農民を募った。村落建設は特許状の規定

に沿って進められ、請負人は後に村長として村落内にとどまることになるのである。この種の植民村落が、プロイセンで

                        ②

は一四世紀中に約一四〇〇ヶ村に上ったと言われている。そして、すでに折にふれて言及してきたように、これらのドイ

ツ人が入植したのは森林や低湿地などの未墾地であり、植民はプロイセン農民の生活圏を脅かすような方法で行われては

いなかった。さらに、ドイツ村とプロイセン村は空間的に離れており、行政単位の上でも両村落は異なる統治機関の監督

                                           ③

下に置かれていたので、両集団間の交流はほとんど認められないという見解が定着しているのである。

 ここで筆者は、従来の典型的な分析視角に若干の疑問を呈示したい。既に言及したように、プロイセン農民の境遇を評

価する際には、入植したドイツ農民の状況が無条件に比較の対象として取り挙げられてきた。しかるに、ドイツ農民の境

遇は比較の対象として本当に適切なのであろうか。ドイツ村とプロイセン村は相互に閉鎖的な領域を形成しており、両集

団間の交流もほとんど認められない。であるならば、ドイツ農民と比べて劣った境遇にあるということが、プロイセン農

25 (847)

民にとって果して本当に重大な問題となりえたのであろうか。結局、ドイツ農民との比較から得られるのは、プロイセン

農民の境遇が劣っているように見えるという主観的評価でしかなく、それでは、プロイセン農民にとっての騎士修道会支

配の意味を掘り起したことにはならない。そこで本稿では、慣習という指標に沿って、古プロイセン社会における状況と

騎士修道会支配下における状況を比較検討することにしたい。では次に、ドイツ農民と比べて、プロイセン農民の権利は

いかなる点で劣っていたというのであろうか。

 ヴンダーやグッダートによれば、それは以下の四つの点に集約できる。①移動の自由の制限、②高価な死亡税、③プロ

                                        ④

イセン相続法に基づく所有権の弱さ、④ドイツ村の特許状に当る証書がないという四つである。次に、個々の事象の検討

に移るのであるが、その前に予め以下の点を断っておかねぼならない。最初に触れたように、古プロイセン社会の実情は

ほとんど解明がなされていない。特に社会経済史的な視角からのアプローチは、史料の制約もあって絶望的な状況に近い。

このため①・②の問題に関しては、慣習という指標に沿って妙析を進めることができない。そこで本稿では、文書史料か

ら比較的検証可能な③・④の闇題を重点的に取り挙げることにしたい。ただし①・②についても、今後の研究を進める際

の、何らかの指針を塁示しておく必要はあろう。

                                             ⑤

 ①ドイツ農民が少なくとも一五世紀以前には、無印約な移動の自由を享受したと言われているのに対し、プロイセン農

民は従来の領主のもとを離れる際には、一定額の金銭を支払わねばならなかった。確かにプロイセン農民はドイツ農民に

比して不利な条件を甘受していたことになるが、後世の完全な土地緊縛の状態に陥った農民とは異なっていた。つまり、

                                              ⑥

一定の条件を満足すれぼ移動も認められていたのである。ヴンダーはこの点を具体的な事例で説明している。②プロイセ

ン農民が死亡した場合、正当な相続人があれば、稲続税として動産の半分に上る死亡税を領主に納めなければならなかっ

⑦                                         ⑧

た。これは考えうる限りの高価な額であり、死亡税を課されなかったドイツ農罠とは対照的とさへ言える。

 これらの事象に評価を下す際、古プロイセン社会の実情を知る手掛りが乏しいことを考えるならば、やはり比較という

26 (848)

ドイツ騎士修道会とプロイセン入(佐々木)

手法が不可欠になる。しかるに、ここでもドイツ農罠は対象として適当ではない。なぜなら、植民に伴う危険や損害を考

                              ⑨

慮して、彼らには予め極めて有利な待遇が用意されていたからである。そもそも母国以上の好待遇を約束されなければ、

農民が移住を決意するとは考えられない。従って、入植したドイツ農民とプロイセン農民では、所与の条件があまりにも

懸け離れていると言える。では、他に比較の対象として相応しいものは全く考えられないのであろうか。間接的に古プ胃

イセン社会を復元する方法として、筆巻はリトゥアニア侯国における農民の境遇が近似値を提供してくれるのではないか

と考えている。リトゥアニア人はプロイセン人と同じバルト族に属し、一三世紀中葉には諸侯の一人によって一応の政治

                             ⑯

的統一がなされており、ドイツ人の進出を食い止めることができた。従って、リトゥアニア侯国ではバルト族固有の生活

慣習や社会慣行が、比較的良好な形で保存されていたことを期待しうるのである。この問題は今後の課題として留めたい

と思う。では次に③・④の検討に移る。

 ③一部の例外を除けば、ドイツ村にはクルム法、プロイセン村にはプ淳イセン法が適用された。この二種類の法の差異

が最も顕著に現れるのは、相続法に関する部分である。クルム法では受領者の息子も娘も血縁者も両性共相続権を認めら

                        ⑪

れ、夫婦の場舎は財産の均等分割相続も保証されていた。一方、プロイセン法では受領者が成人した息子を残さずに死亡

                                              ⑫

した場舎、その財産は騎士修道会のものとなり、妻や幼い子供は神の義に適うよう遇することとされている。プロイセン

法がクルム法と比して、極めて不利な相続法であったことは一闘瞭然である。

 さて、 =一四九年のクリストブルク条約には、相続権の問題に関する言及がある。この条約は、教皇庁使節の調停によ

って騎士修道会とプロイセン人の間に締結された講和条約であり、プロイセン人に極めて好待遇が保証されている点に特

   ⑬

徴がある。相続権もその}つで、改宗したプロイセン人は、相続資格者の枠が広い相続法を享受することになっていた。

そして、それに続く部分には、古プρイセソ社会の相続慣行に触れた記述が見出せる。

                                              ⑭

   彼らの説明するところでは、改宗すればただで継承した財産を、異教時代には唯一直系の息子だけが相続しえた。

27 (849)

従って、直系の患子による相続は、古プロイセン社会の相続慣行であったことが確認できる。次に、古プロイセン社会に

おける正当な相続人のない財産の帰趨に関しては、上位の権力者に帰属したと考えられる。このことは、プロイセン人が

新たな相続法における相続資格者がない中合、その財産が騎土修道会か当該領主のもとに帰属すべき点を承認しているこ

       ⑱

とから推定しうる。結局、極めて不利であると評価されてきたこの相続法も、慣習という指標に沿って解釈し直すなら、

古プロイセン社会の慣行に根差した相続法と評価しうるのである。

 ④既に述べたように、ドイツ村が例外なく特許状を保持しているのに対し、プロイセン村には稀な例外を除いてこの種の

証書が交付されることはなかった。W・ブリュンネックの言葉を借りるならば、この特許状には権利を生み出す力お。暮-

Φ旨窪σq窪ロΦ国雷津が備わっていた。このため、この証書を持たないプロイセン農民の権利基盤の弱さが指摘されている。

また、プ㍑イセン農民が騎士修道会から不定量の負担を課されたという見方も、特許状がないという事実と不可分な関係

にあるように思える。だが、この点に関しては、グッダートが興味深い指摘を行っている。新しく交付された特許状が権

利を生み出すとしても、だからといって、昔ながらの慣習法口びΦ降。ヨヨ9Φω○Φ≦oげ昌げ魚富お。算の存在が否定されるわけ

                                        ⑯

ではない。なぜなら、それはまさしく慣習法であって、新しく交付する必要がないからである。そして、グッダートは慣

習法の有無を探るために、プロイセン農民の負担を具体的に分析している。この問題は我々の視点にとって大変重要なの

で、次節で詳細な検討を試みる。ここでは特許状がないという事実を、本節の関心に沿って位置付けることにしたい。

 本節では、すでにロカトール制と呼ばれる村落建設様式に言及した。ドイツ村がこの証書を例外なく所有したのは、実

はこの特異な村落建設様式によるところが大きいのである。なぜなら、移住という空間的な流動性を導き出すためには、

特許状という可視的な保証が是非とも必要となったからである。逆に、移動が間題にならないプロイセン村の場合、特許

状の交付は不要であったことになる。ヴンダーは、プロイセン村に特許状が交付されなかったのは、騎士修道会がいつい

                                ⑰

かなる場合にも、彼らに対して征服者として振る舞ったからだと主張する。しかるに、彼女の主張を立証する証拠はない。

28 (85e)

ドイツ騎士修道会とプPイUソ人(佐々木)

むしろ、プロイセン農民は、以前にも領主から特許状の交付を受ける慣行を持たなかったのであるから、特許状がないと

いうこと自体は、彼らの生活にとって重大な障害にはなりえなかったと考えるべきであろう。

 本節では、プロイセン農民が甘受したと言われる劣った権利を、慣習という指標に沿って再検討した。我々の分析は、

死亡税・移動制限という問題では解答を保留せざるをえなかったものの、特許状と相続法に関しては一定の成果を得るこ

とができた。つまり、従来劣った権利と評価されてきたものも、その起源はすでに古プロイセン社会の状況の中に存在し

たという点である。そして、意図的かどうかを判定するのは難しいが、騎士修道会はそれを踏襲したにすぎないのである。

①甲≦自伽⑦さp㊤.○‘o。・。。鱒1。。。。∴≦■○&母け㌧即pρ㌧ω.①Hふ蒔■

②ドイツ村に関してはさしあたり以下の文献を参照ざれたい。山田、

 前掲書、一五九-一八八頁。阿部、前掲書、一六〇1一九九買。

③阿部、前掲論文、一二〇頁。

④螢≦口巳⑦び9「pO二ω.。。NI。。心∴≦・Ω目&p戸帥.pρ”ω.謁や

⑤阿部、前掲書、一五三頁。

⑥蚕糞口民9ρ㊤.○こω.。。ω◆

⑦匿二塁9び。ぴ①&po。.。。ω臨.

⑧阿都、前掲書、一七八頁。

⑨阿都、前掲書、一五三頁。

⑩出」W8畠嵩雪pp』.○.”ψ鴇=.

⑪≦“Ωa&rppO‘ω.巽’

⑫即≦琶畠g9』.ρo。.。。G。胤.

⑩顕.貯誌ρタ。』.ρ、ω.忠よP

⑭.、ρ垢冥①臼。二百8℃三江σq養占算賃騨。8讐曽く曾毒甘8ヨ言℃㌣

 σq曽巳ω旨。p8げぎaω。。Φ論士a8び㊤鼻三ω富2。ω塗ざω誓。8ωω。おω.、、

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 註。ヨロ8℃鉱自讐きω9鼻葛賃¢α㊦〈9<碧葺50け8冨置目。σ霞ρ

 該ω=℃除器。℃三鉱ヨ≦仲pく。=轟ヨ。欝㊦ユ。一一蒼黒一民曾×・二簿

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⑯≦¶Ω邑費汁る.pO‘Q。.臼■

⑰軍≦章O。び㊤』’Pω「。。O,

3 プロイセン農民の負担

前節で我々は、騎士修道会が以前のプロイセン農民の社会慣行を踏襲していた側面が強かったことを突き止めた。

これ

29 (851)

は彼らの文化生活にもある程度該当する。騎士修道会は宗教の面でも、プpイセン農民の生活に積極的に関与することは

       ①

なかったのである。無論、異教徒の改宗事業は、名目上は騎士修道会にとって最も重要な任務であった。しかるに、実態

は理念とは程遠かった。例えば、ヴンダーが研究対象に選んだクリストブルク地区には、四六ヶ村のプロイセン村が確認

                                   ②

されているが、どの村にも教会が存在していた形跡はなく、従って司祭もいなかった。また、前述したクリストブルク条

                                                 ③

約では、すでにプ臣イセン人のための教会建設が企図されていたが、実現したのはその一部にすぎなかったのである。結

                                  ④

局、騎士修道会には伝道活動を推進するだけの意思も余裕もなかったのであろう。

 では、騎士修道会とプロイセン農民を結び付けていたものは、一体何なのか。無論、それはプロイセン農民の行なう様

々な負担に他ならない。本節では、プロイセン農民の課された負担に関して分析する。しかるに、ここでは前節で導入し

た慣習という指標は採用しえない。やはり古プロイセン社会における農民の負担の実態に関して、皆目見当がつかめない

からである。従って、我々は騎士修道会支配時代の、それも断片的な史料から、農民の負担の実態を復元していかざるを

えない。やはり、特許状で負担を明示されなかったプロイセン農民は、領主である騎士修道会によって恣意的な収奪の対

象とされていたのであろうか。ここでもヴンダーやグッダートの研究に依拠しながら、筆者の独自な調査結果を交えて分

析を進めることにしたい。

 プ潭イセン農民の最も飛下的な負担として、まず第一に農業賦役を挙げることができる。ドイツ農民の場合、一三三〇

                            ⑤

年代以前の特許状で賦役が課されている例が見当らないのに対して、プロイセン農民がこの負担を免れることはなかった

           ⑥

と言われているからである。さらに、農業賦役の有無は、プロイセン人社会内部で小自由民と農民を区別する重要な指標

    ⑦

でもあった。ところが、農業賦役の質・量といった側面を確定するには、史料が根本的に不足しているのである。グッダ

ートは、ブランデンブルク・バルが両地区において、例外的にプロイセン村に交付された特許状を分析し、賦役に関する

記述を抽出している。その一例には、プロイセン法に基づき、プ律イセン人としての賦役を果さねばならないという規定

30 (852)

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

が見られる。この場合の賦役は、ドイツ村の農民の賦役よりも重かったであろうとグッダートは見ている。さらに、具体

的に日数で賦役が示されている場合もある。そこでは彼らの行なう賦役は年三日となっており、これに対して騎士修道会

                 ③

から賃金が支給されることになっていた。これだけを見る限り、賦役は極めて少量であったと言える。そこで次に、これ

がハントフェステを所持していない一般のプロイセン村にも該当するのかという点が問題になる。

 プロイセン農民の賦役に関する史料は乏しい。従って、状況証拠の分析から判断を下さざるをえない。結論から先に述

                                                  ⑨

べると、賦役が量的に重い負担であったとは考えられないというのが、近年の地域史研究に共通する見解なのである。ブ

ランデンブルク・バルが両地区に関する所領の内訳を示した表豆からも判るように、騎士修道会直轄領に占めた直営地の

                               ⑩

比率は極めて小さい。これはプロイセン全土に当てはまる現象なのである。さらに、直営地には奉公人や雇傭労働力とい

った常置の労働力も存在したことを考え合わせるならば、プ戸イセン農民の賦役は補助的な役割を果したにすぎないと見

      ⑪

るべきであろう。賦役の質的な側面に関する研究動向もこれと一致している。各地域史研究者は文書史料に見られる賦役

に関する言及を分析し、それが特定の作業に限って徴収されていたことを突き止めているのである。グッダートによれば、

                                   ⑫

それは大麦や燕麦の栽培のために、土地の耕作が必要な時期にのみ徴収されていた。また、ヴンダーもプ戸イセソ農民の

                                       ⑬。

〔表高〕

軍役代納金}6%scot 7%d

十分の一山1

 小 麦  ライ麦

 大 麦=

 燕 麦

1 Scheffe1

1 Scheffe1

1 Scheffe1

1 Scheffe1

1-1. Wuncier, ebenda, S. 87.

負担が収穫作業に限って利用されていたことを明らかにしている 結局、近年の地域史研究で

は、賦役が恣意的な不定量の負担であったとは考え難いという方向で見解が一致していると言

 ⑭

える。

 次に、賦役とは違い、プロイセン農民の行なう軍役は過重な負担であったと言われている。

彼らの軍役は、リトゥアニア国境での築城作業やそのための準備に使用されていた。しかるに、

その都度徴発される労働力は数的に見ると限定されており、このためプロイセン農民は毎年長

                            ⑮

期間保有地を留守にしなければならないというわけではなかった。グッダートも、プロイセン

31 (853)

〔表y〕

k14-22(?)1 総額1戦人当り噸面   積 1173>Ei haken

軍役代納金131Sm.5,c。・一・d.1

 1 haken

6Y{f scot 7 d.

1.27

1.27

1.50

3.49

sch.

sch.

sch.

sch,

24」,fl last 20 sch.

24」.6 last 20 sch.

    1760 sch.

  4095k; sch.

税麦麦麦麦

一 イ

の小ラ大区

分十

1437 総  額

面 積1…2K・ha・・n

1単位面積当りの額

1 1 halcen

軍役代納金1 (?) (?)(?)

      註②

’17fぎ’§6i玉:▼‘

1.43 sch, 1

 1,46 sch.

 3.40 sch.

          註①

i 26 last 15 sch, l

i26 last 15 sch. i

   1612 sch.

 62 last 26 sch.

税白肌旗本

一 イ

の小ラ大燕

扮づ

単{立:1halcen =11.2 ha,1Scheffe1=1/60 L■、 st=:

1 t, 1 m.=4 f. = 24 scot=720 d.

註① 大貢租帳簿の記載では40 lastになっている

  が,これには自由民の納めるプフルークコルン  も含まれている。従って1414-22(~)年のプフ

  ルークコルンの総額を差し引いた値を示した。

 ②1437年には自由民のハーク’ンが増加している。

  この自由民のハーケンを合算すると総面積は  1206>9ハーケンになる。自由民もこの租税を課

  されていたので,実際の額はもう少し小さいは

  ずである。  P,G, Thie互en, a. a. O.,より筆書作製。

このように、軍役も不定量の負担とは見なし難いという方向で、近年の地域史研究は一致していると言える

然のことではあるが、軍役負担者は軍役代納金を支払う義務を免れたという点も付け加えておきたい

 さて、賦役や軍役を評価する際に地域史研究者が採用する分析手続きからは、次のような方法上の特色も指摘できるで

あろう。すなわち、負担が不定量か、定量かという問題に分析の焦点が集まっている点である。そして、プ只イセン農民

の貢納もまた、この観点に沿って分析が進められているのである。ヴンダーは『大貢租帳簿』の記述に従い、プロイセン

農民の単位面積(一ハーケン)当りの貢納額を蓑示(詩章)している。つまり、彼女は暗にプロイセン農民の貢納が定額で

              ⑱

あったことを認めていることになる。しかるに、ヴンダ!の拾い出した数値は単なる目安でしかない。なぜならぱ、実際

の貢納額は現物地代に関する限り、この数字を大幅に上回っているからである。ヴンダーが研究対象としたクリストブル

農民が果すべき軍役が正確に査定

されていた点を認めている。 一四

一九年の証書には、プロイセン農

民の中で軍役を提供しなけれぼな

らない人々に関する正確な報告が

ある。それによれば、すべての農

民がこの負担を義務付けられてい

たわけではない。『大貢租帳簿』

に従うならば、ブランデンブルク

地区全体で一五〇のプロイセン農

             ⑯

民の軍役が存在したことになる。

         。最後に、当

     ⑰。

32 (854)

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

総面程{  工257

バー・一ケン

単位面積当りの額

1437

類総

O.87

0.87

0.87

3,34

sch.

sch.

sch.

sch.

   18 last

  {

   iio sch.

18 last 10 sch.

   70 last

〔表V〕

①バルが地区1414-22( ? ) 総面積 1482Y5

ハー Pン

総額陣位醸当風軍役代納金137・m・5・c・ 6 sc.

1.33

1.33

1.33

4.00

sch.

sch.

sch.

sch.

{33 last

-3 sch.

1973 sch.

5930 scll.

十分の一丁

  小 麦

  ライ麦

  火 麦

  燕 麦

② ブランデンブルク地区

総面程量  1330

ハー Pン陣醸当り噸

3 sc. 13 d.

1437

額総

ユ90m

O.90

0.90

0.90

6.02

sch.

sch.

sch.

sch.

20 last

20 last

20 last

8000 sch.

総面積 1298ハーケン

単位面積当りの額

3 sc. 25 d.

1417

額総

208m軍役代納金

1.36

1a27

1.00

8,01

sch.

sch.

sch.

sch,

  29渥1ast

27 la$t 10 sch,

  1304 sch.

 10400 sch.

税麦麦麦炎

一 イ

の小ラ大難

扮U」

P.G. Thielen, a. a. O.,より筆者作製。

ク地区に関して、『大貢租帳簿』に記された総貢納

額から、単位面積当りの額を筆者が独自に算出した

のが表Wである。結果は、この二つの年で貢納額に

さほど大きな変動は認められないのである。従って、

…数十は異なるものの、筆者の調査結果は、プロイセ

ン農罠の貢納が定額であったというヴソダーの見解

を支持するものとなろう。

 一方、グッダートはプロイセン農民の貢納に関し

て、極めて微妙な立場を表晩している。すでに言及

したように、彼の課題は、特許状が交付されなかっ

たプロイセン村の統治にも、慣習法が支配していた

ことを証明する点にあった。彼も、ヴソダーの指摘

に依拠しながら、貢納が定額であったことを暗に認

 ⑲

める。しかしながら、彼は最終的な結論を下す段階

では、次のように締め括っているのである。

   「騎士修道会の貢祖ハーケンが負担する現物地代に

  は一定の制限があったが、その規模を考えると重い

  負担であった。プロイセン農民はドイツ農民と比べ

  て土地に対する権利は弱く、行なわねばならない負

33 (855)

    、、・、             ⑳

  担も恣意的に引き上げられた(傍点筆者)。」

では、グッダートが研究対象に選んだブランデンブルク・バルが両地区のプロイセン採血の貢納額は、一体どの程度だっ

たのであろうか。やはり筆者が独自に、両地区の総構納額を単位面積当りの額に換詳したのが表Vである。それによると、

両地区ではこの二年で貢納額に変動が認められ、一四三七年の額が大幅に減少しているのが判る。つまり、この両地区に

関する断片的な史料から復元しうるのは、プロイセン農民の貢納が不定量の負担であったという結論に他ならない。

 ブランデンブルク・バルが両地区に関する分析結果を見る限り、ヴンダーの見解は成り立たない。しかるに、ここで最

終的な判定を下す前に、従来の地域史研究の分析視角を今一度見直しておきたい。以上の考察からも判るように、ヴソダ

i、グッダートは共に、プロイセン農民の貢納が不定量か、定額かという問題を最も重要な指標に据えている。その際二

人の思考の背景には、貢納が定額であることが、農民にとって有利な条件になるという暗黙の了解が見え隠れしている。

しかるに、答えはそれほど単純に割り切れるものなのであろうか。貢納は年毎の作柄に微妙に左右される負担である。に

もかかわらず、これが作柄とは無関係に毎年一定だとすれば、それは本当に農民にとって有利な条件と言えるのであろう

か。我々の目に不定量と映る貢納額の変動も、作柄を加味した結果なのかもしれない。特にグッダートのように、そこか

ら一歩進んで騎士修道会支配の性格を問題にするのであれば、この点を是非とも解明しなければならない。換言するなら

ぼ、支配と被支配の接点となる場、さらにその場に働く力学を分析することが必要となるのである。この場という問題に

関しては、すでに言及した裁判集会が想起される。プロイセンにおいて、原住プロイセン人の参加する裁判集会の存在が

報告されているのは、クリストブルク地区と古部族領域のザムラントという二つの地域のみである。クリストブルク地区

                             ⑳

の裁判集会は該当地区のプロイセン自由民の参加する集会であった。一方、ザムラントではカンマーアムトがその単位と

                                ⑫

なっており、そこには早い時期から農民の代表も姿を見せているのである。このザムラントに見られるタイプの裁判集会

の普及度、さらにそこで行なわれていた審議の内容を確定するのは難しい。そこで我々は、様々な状況証拠からこの点に

34 (856)

ドイツ騎士修道会とプロイセン人(佐々木)

アブ痺iチしてきたのである。

 既に言及したように、貢納額の評価については、定量か不定量かという差を指摘するだけでは不十分なのである。実際、

表Vに示したブランデンブルク・バルが両地区の貢納額の変動からは、漸縮部の隣接する二つの地区で、貢納額の推移に

ある程度の相関関係を認めることができるのである。以上の分析より、プロイセン儲君の行なう負担には、一定のルール

らしきものが存在したことを看取しうる。そして、そこに騎士修道会支配が定着しえた要因を求めるべきであろう。さら

に、支配の定着が、プヌイセン農民の中に徐々にではあるが、庇護民としての意識を培ったことも事実なのである。

①墾じd冨三内p鉾pOこω.ω。。■

② 出.≦煽=ユ①詳Pρ.○こω■QQO.

③多≦。霧搾易蟻騨.pO■、ω.G。刈?。。りO.

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⑥多≦①窃犀易や費pO‘ω.卜。⑦。。.

⑦労.毒①蕊蒼6・㌧9①民2QQ凸畠ρ

⑧乏’○盆9戸p鉗○‘ω.ざh幽

⑨墨じdoo。に旨器員臣①<o暑。井。儀①ωU㊦暮ω9。ロOa2巴一円勺お午

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霞マノく怨ロα05劉ρ・○こω陰Hbo一h.

河.タδP凸。ズ¢G像》PPOこの.卜◎蒔OIひこαω¶

 我々は、ラント内部のプロイセン人定住地に対するドイツ騎士修道会の支配構造を検討した。本稿での考察によって、

強圧的・一方的な支配という定説に、一定の修正を施すことができたと思う。まず第一に、騎士修道会は、ラントの原住

35 (857)

プロイセン人と直に接触する下級の行政職に、少なくとも一五世紀以前は、ほぼ例外なくプロイセン自由民を起用してい

たという点である。そして、両者は免租所領の授受によって双務的な関係で結ばれていた。さらに、彼らプロイセン自由

民には、騎士修道会の正規の会士としてラント行政の中枢で活動する可能性も閉ざされてはいなかった。このように、騎

士修道会は自らの支配下で、以前のラントの有力者を再編成することに成功したのである。次に、プロイセン定住地内の

直轄領の農民に対して、騎士修道会はその生活慣習や祉会慣行に極立った干渉を加えてはおらず、彼らの行った負担に関

する断片的な史料からは、そこに一定のルールが支配していたのを認めることもできる。つまり、騎士修道会は末端の村落

支配において、征服に伴い生ずるであろうと予測されるドラスティックな変化を、比較的小さなものに留めているのである。

 騎士修道会は、征服に伴う矛盾を隠蔽しようと努めていたように見える。そして、それはある程度成功を収めたと言え

                                                    ①

る。騎士修道会支配が衰退・崩壊へと向かう一五・六世紀に、プロイセン人が騎士修道会支配の存続を謀って示した態度

の中に、我々はそのことを看取しうるのである。勿論、この点を強調するためには、騎士修道会と在地のドイツ人、さら

に原住プロイセン人と在地のドイツ人の関係を明らかにしなければならないことは書うまでもないが、安定した支配のも

とで、騎士修道会と原住プロイセン人の関係は、初期の征服からある程度の「契約」関係に移行したと主張することはで

きよう。

 こう考えてくると、騎士修道会の原住プロイセン人に対する支配の性質は、強圧的・一方的というよりはむしろ極めて

巧妙であったように思える。これが騎士修道会によって予め意図されていたものかどうかを判定するのは難しい。しかる

                  ②

に、最盛期ですら一、○○○名程度の会士による統治に、おそらくこれ以外の方法はありえなかったのであろう。

 ①戸≦⑦霧岸器、9.pρ」の.ω$や          窺韓。ミ魯ミNミ跨壽臓S念弘。。G。押QQ■おω.

 ② ζ■8α℃℃9どσ⑦『二〇β冨07①菊向算。円oa①旨馨コ(一良ooo薮嵩αo勺吋。自ゆ。冨ρ            (京都大

室井方) 36 (858)

Der Deutsche Orden und die PreuBen

von

SAsAKI Hiromitsu

  Nach der Ublichen Auffassung der japanischen Forschung herrschte

der Deutsche Orden im Mittelalter Uber die PreuBen mit starker Hand.

Die meisten Forschungen in der BRD vertreten die gleiche Ansicht.

  Jttngere Spezialforschungen sind jedoch nicht immer dieser Meinung.

Trotzdem bleibt der allgemeine Rahmen wie bisher unverandert. lch

m6chte daher, beruhend auf diesen Forschungsergebnissen und meinen

eigen Untersuchungen, die herrschende Auffassung Uberprttfen und

versuchen einige Verbesserungen an der herrschenden Auffassung anzu-

bringen.

             幼os伽辮αづand 7わブ。..

Rice-tax and the Development of the Ancient Capital of Kyoto

TERAucHI Hiroshi

  During the g th and 10 th centuries, the chの,o tax system declined and

the shozei, the prinie local tax, which had been amassed previously, caine

to be utilized. Accordingly, the rice represented by the shoaei began to

play an important part in the area・ of national finance. Heretofore the

shoxei has oniy been considered as a supplemen.t of the chの,o。 However,

1 believe that the importance of the shozei must be justly recognizdd.

From this point of view, the shozei was the characteristic element of the

evolution of the ritsuryo finaricial system during・ the 9 th and 10 th cen-

turies and a significant stage一 leading to the formation of the medieval

financial systeM. ln this article, 1 tried to reconsider the・feyoshinmai in

relation to the development of to7’o (ca’stle toWn) from this perspective.

  During the 8 th century, the rice collected as tax by the governing

body in Kyoto (layoshinmai) was required only as foodstuff for the gove-

rnment othcials (leanjin) and public laborers (efeitei). Accordingly this

was not a great arnount of rice. However, during the 9 th and 10 th

(994)