Title 院政期の陰陽道 Citation 53(2): 139-170 …...院政期の陰陽道(村山)...

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Title <論説>院政期の陰陽道 Author(s) 村山, 修一 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1970), 53(2): 139-170 Issue Date 1970-03-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_53_139 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title <論説>院政期の陰陽道

Author(s) 村山, 修一

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1970),53(2): 139-170

Issue Date 1970-03-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_53_139

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

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院政期の陰陽道

【要約】 宮廷陰陽道の欄熟時代ともいうべき院政期の陰陽道はめまぐるしい政局の推移とたび重なる芙災、それに末法思想による

社会不安を背景とし、院政の気まぐれで物ずきな奮修性に影響されて極端にまで煩雑化俗信化の度を加えつつ社会の関心を高めて

行った。一方、賀茂安倍両家の地位の固定化に伴い、無能な官僚陰陽師が多い中で、陰陽道的ムードの高まりから両家以外にも斯

道の名士が相ついであらわれ、これに刺戟されて両家でも若干のすぐれた人材は出たのであった。同時に陰陽道関係の著作も新た

に専門象や一般知識人の手で生み出され、これがまた様々の論議の種となったが、律令機構の一環としての陰陽寮は衰退の一途を

辿りつつ変貌しゅき、宮廷陰陽家達はより広く一般社会を対象とした新たな活動の方向を見出さざるをえなくなったのである。

                                      史林 五三巻二号 一九七〇年三月

院政期の陰陽道(村山)

欄 宮廷陰陽道の三熱時代

 私はさきに発表した「宮廷陰陽道の成立」(『延喜天暦時代

の研究』所収)の中で、院政期以前における平安時代の陰陽

道を、祥瑞災異両現象の比較を手がかひとして三期に分ち、

第一期は平城朝より淳和朝まで、第二期は仁明朝より宇多

朝まで、第三期は醍醐朝より後三条朝までとし、第…期は

前代よりつづく律令的陰陽道の時代、第三期は藤原貴族に

奉仕するいわゆる宮廷陰陽道成立の時代、第二期は第一期

より第三期への過渡的時代としてこれを把握したのであっ

た。院政期の陰陽道はこめ第三期のあとをうけるもので平

安時代陰陽道の第四期ともいうべく、ここでは白河・鳥羽・

後白河の三院政期を含み、本質的には宮廷陰陽道の延長に

すぎないが、院政の奢移的恣意的な傾向は陰陽道の迷信化

にさらに輪をかけ、一方政局のめまぐるしい変転と末法思

想の影響下、未来に不安を抱く貴族多く、おのずからト占

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に頼ろうとして陰陽道への関心は一段と高められた時代で

ある。また武家の進出に伴い、公家の独占的教養の如くみ

られた陰陽道は次第に下層社会へも拡大の傾向をあらわし

たが、武家はより実際的にこれをうけとめ、みずからの実

力をさらに権威づけ、あるいは一層の自信をつけるための

手段として、公家よりは実利的にこれを利用した。その「

端は拙稿「関東陰陽道の成立」(『史林』第四九巻第四号)にもふ

れたところである。こうしていわゆる平安時代第四期の陰

陽道はその迷信性児術性を極度にまで高め、かつその形式

的儀礼的煩雑さをも最大限に展嗣した点で宮廷陰陽道の欄

熟時代ないし完成時代ともいえるであろう。

 以上は院政期の陰陽道を考えるにあたっての大まかな見

通しであるが、これを裏付けるべき史料にいたってはなお

全般的に乏しきをまぬがれず、将来}層の蒐集が望まれる

のである。

二 災異思想の新傾向

 まずわれわれの考察は改元の問題から入ってゆく。祥瑞

改元が第二期で姿を消し、以後専ら災異改元に移ったこと

2

1

1

脚獅M二文澗;il光宇醍朱村冷円花一三後後後f麦臼堀鳥崇近後二六高安後[三

脚租・・徳撚孝鍵1制、雛鹸条麟転河河,、繭臨条鱒縮徳3・ 14 10 8・rJ 2.s 18 7 3.r. lo 11 s s.i 2. 3 2 4.i 4.s sLl iT, ’s“J, dllg 2:#.2J,3.1 .6,:i 2Li ’3’ ill, 2Lg 2’j, 2TS dl:, 2.1 iirg

        院政期における各歴代の一元号平均継続年数表

(年数)

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院政期の陰陽道(村山)

はすでに上掲拙稿において指摘した通りであるが、一方、

改元の頻度についても注意しなければならない。そこで各

歴代について一元号の継続年数が平均どれ位かを平安初期

より後鳥羽院政末までの間をとってグラフで表示してみた。

(在位年数を改元の度数で割った数の表示である。)これでみる

と第一、第二期は平城・文徳・光孝三天皇以外はすべて一

元号平均七年以上となっている。平城・光孝は在位が短か

ったのでここには論外とし、文徳天皇のみは特殊事情があ

って例外的に一元号の平均年数が少なくなっていることに

注目したい。これは前代仁明朝に承和の変があり、藤原氏

は強引に文徳の即位をおしすすめた手前、この天皇の聖徳

讃美を盛んに行ない、祥瑞改元を頻繁にし、世の非難をそ

らそうとしたためである。そんなわけで全般的に第一・第

二両面は改元ムードはそれ程はげしくはなかった。然るに

第三期に入ると藤原氏専制の確立と併行して=兀号の継続

年数は平均が著しく短くなり、三年から五年あたりが普通

になる。改元を頻繁にして藤原氏は世人の不満をそらそう

とした。ところが院庁政権が出現してくると改元はさらに

上皇の気まぐれな意志に左右され、一元号継続の平均年数

三年前後をこえるものはなくなった結果、堀河在位中、改

元すること七度で一天皇在位中の最高の改元度数として新

記録をつくるに至り、二条天皇は在位七年間に五度の改元

をみるはげしさとなった。かくて継続年数が実質的には一

年ないし二年にすぎない元号の数が第一期には文徳のただ

一つ、第三期には冷泉一、円融二、花山一、一条二、(この

うち冷泉・花山は在位年数が短いため実は論外とすべきものであ

る)であったものが、院政期に入ると元号の短命常態化し、

白河・後白河・後鳥羽の三天皇が院政をされる前の時期を

除き、他の天皇治世では短命元号絹つぎ、堀河・.二条では

五、近衛・土御門では三、鳥羽・広徳・高倉では二、六条

・安徳・順徳では一を数える。さながら改元の遊戯化する

傾向をみる。

 仁平四(二五四)年十月、久寿と改元するにあたり、鳥

羽法皇は新元号には「治」の字を用いるなと指示し(『台記』

久寿元、+、ご十八)、藤原宗能は故白河法皇の命により「徳」

の字を用いてはならないと発言していて元号名撰定にも上

皇の趣好が反映したことをしる。承安五(二七五)年七月

二十八日、安元元年と改められるにあたり、九条兼実は

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  詳言未レ得昌其癖輔癒画賛時尤可レ有昌改元↓而依 関自被v申停

  扁止之↓今無為無事之時改元柳橡之喩勲

と評している(『玉葉』承安五、七、二±一})。関白基房のいさめ

によって一たん思い止った改元をまた後白河上皇はむしか

えし何も事がないのに改元するのは柳線のようなものだと

酒席は非難した。柳線の意味がはっきりしないが、何の役

にも立たぬ比喩らしい。とにかくこの折は強いて「癒瘡な

らびに天下閑かならざるにより」との斗出がつけられた。

 そこで即位改元以外の場合につき改元理由を院政期につ

いて一瞥すると、第一は三合厄、辛酉革命といった陰陽道

の周期的災厄説にもとつくもの、いわゆる「天行」の災異、

第二は星の異常な運行や彗星出現のような天文の災異、第

三は疫病流行、以上三つが主となっていて、その他風水

害.早越・飢鱒・地震・火災・兵革などは少数である。こ

れを災異改元が常態化した第二期と比較すると、第一、第

二の理由ともおよそ二倍にふえたが、第三の理由に至って

は四倍以上のふえ方である。第二期では疫疾流行によるも

のより、火災による改元の方がずっと多かったのが、第三

期では逆になった。別段それは火災が第三期に減ったから

ではない。つまり改元理由となる災異の認定に三つのケー

スが主な慣例となったのであってそこに院政期改元の新七

い傾向が雪景される。

 改元の根拠となる災異に対して一般の災異にはどのよう

な傾向があらわれているか。それには主観の最も入り易い

怪異(物怪)と天変をとりあげるのが適当であろう。まず

怪異の殆んどは宮廷関係か、然らずんば社寺における出来

事で、なかんずく神社関係が首位を占める。神社の中では

伊勢神宮が大半で賀茂社もやや多い。怪異の内容は取るに

たらぬ此二細な現象であるが、例えば伊勢神宮は久安年聞

(=四五一五〇)だけをとってみても次のような報告があ

げられる。

久安元、土、三四

 同+二、+三

  久同書安  一同九六 h  

同主八三院三厩北の毛美木枯朽し倒る

別宮三宮瑞垣御門内爾面三三残らず悉く垂

れ二つ

御輿宿西楠の枝一三折回つ

慢気宮御婆社内蝦二匹水底にあり云々

二宮正殿その他の建物の葺萱巻檜皮が群集

の烏仁より食い抜かる

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院政期の陰陽道(村山)

       久

同 同 同 安

       E-1

七、

@九

八、

@二、

八、

�{

Z

+二

A鰯

同  +二、蓋

久安四、 六、 三

  久同 安

  喚

同三

同薔

豊弘治御器御倉鐙折る

御厨子羽蟻あらわる

豊受一三三殿千木一枝折る

別宮一重二一吊御被湿損し御殿の棟差檜皮

葺萱など破損す

豊受宮当祭由貴御鰻三三比奈志が獣類のた

め積さる

豊三宮御所荒亡艮角外にある榎木の三方の

枝折れ落つ

酒殿匙自ら折れ立つ

豊受宮御覧御飯上潮に御座の下に蟻生ず

すなわち建物や樹木の損傷・異常ならびに動物の行動に関

するものが中心で、些細な現象を一々とりあげて怪異を濫

造し、上奏は日常茶飯事の観を呈した。しかしこれは一面、

朝廷の神社に対する経済的な保護が困難となりつつある事

情を反映し、朝廷の関心を高めようとする神社側の意図を

も物語っているとみられよう。

 怪異にいくつかの新しい例が生じつつあったことも見逃

しえないところで、その有名なものの一つに鶴(鶴)と称

する怪鳥があげられる。「ぬえどり」の名は『古事記』『万

葉集』にも繊ており、シナでは…薙に近い種類と解され、わ

が国では泉あるいは「とらつぐみ」といわれるが、もとも

と鳥類は一般に祥瑞に利用されたこと、 『類聚国史』をみ

ても明かな如く、それは鳥の珍しい色や形が対象となった

からである。一方鳴声・群集の習性など生理生態的な方面

になると古代人が不可解とするところ多く、凶事の予兆と

受取る気持が平安初期より高まりつつあり、中期になると

祥瑞ムードの凋落につれ、生活の周囲に怪異の象徴を求め

る気風が強くなり、鳥の不可解な生理生態現象が関心の中

心におかれた結果、ことに鶴の鳴声の不愉快な感じから、

鳥に対する怪異思想は鶴に集中し、末法思想の広まりに伴

う一般民衆の不安な気持も手伝って院政期遂に蠕の怪物的

観念は定着するに至った。永久三年(=日義)七月京都市

中に鶴出現し、住民達に不安を与えたため、上皇は陰陽師

に占いの勘文を奉らしめ、それによって対策を講ぜられた

(『

E芥抄』)。 『徒然草』(二百十段)は

  ある真言書の中に、喚子鳥なく時、招魂の法をばおこなふ次

  第あり

とのべており、中世行なわれたこのような密教的児術作法

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も院政期に起ったのではあるまいかと思う。関白藤原忠実

は土御門第で内女房が一昨日夜、南方に鶴の声をきいたと

の話に驚き、参内して白河上皇に奏し御触を行わしめてい

る。御占の趣は御薬事というのであった(『殿暦』天永二、九、

十)。また藤原館長は払暁、鶴の声をきき安倍老親に占わ

せたところ、吉であった(『台記』康治三、四、二+五)。吉の占

いは珍しいことである。しかしその後深更にもきくことが

あり、この際の占いは口舌と火を思しむべしとあったが、

康治三年は鶴しきりに鳴いて聞いた人も多く、頼長が泰親

に占いを命じた日にも里親は七人の別人からその吉凶をた

ずねられる程であった(『台記』康治三、六、+八)。都ばかりで

なく伊勢神宮でも鶴を見付けたと注進に及んでいる(『本朝

世紀』仁平二、二、九)。

 『平家物語』は有名な源三位頼政の鶴退治諏をのせ、近

衛天皇ばかりでなく、堀河天皇のときにも鶴が出現して源

墨家が玉体を守護し、二条天皇も鶴に悩まされて頼政再度

の手柄を立てたとしている。この三天皇とも上皇の指示に

より幼年ないし少年にして即位され、蒲柳の質と拝される

から、鶴の怪異思想流行に伴い、夜中の御悩の原因をこれ

に結びつけ、武士に天皇護持の演技をさせられたのであろ

う。天皇以外、上皇その他の皇族が鶴におびえ悩んだとい

う話は聞かないから、結局かような出来事は一面、擁立し

た幼少の天皇に対する上皇の神経質な保護意識過剰を示す

ものともいえる。頼政が射落した怪鳥の正体は

     むくろ

  頭は猿、躯は狸、尾は蛇、手足は虎の如くにて鳴く声鶴にぞ

  似たりける

とあって鶴に似た別の怪物であったわけで、鶴の怪物視は

すでに鶴の実体をぬけ出た新たな怪物の想像的形成へすす

んでいたことを示している。そのほか怪異の新しい三野化

現象としては藤原氏に関係の深い「多武峯鳴動」 「春日山

怪異」 「興福寺境内への鹿侵入」などがしられる。

 こうした時代でも多少の祥瑞は報告されているので、一

茎に置花の蓮が生じたという嘉例は鳥羽離宮や法勝寺から

度々上奏をみる。しかし一般に祥瑞の報告は歓迎されなか

ったらしく、安倍泰親が九条三戸に語った話(『玉葉』嘉応元、

四、+)に、,二条天皇のとき、天文博士安倍広賢が慶雲立つ

旨を上奏し勧賞を蒙った。泰親はこれに対して慶雲は聖代

のときのことである。また孝行の天子のときにいうべきこ

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院政期の陰陽道(村山)

とである。いま今上は賢主であるが、至孝の儀に欠くると

ころがあり、慶雲の上奏はふさわしくないと評した。間も

なく広賢は死んだと。以上が泰親の話である。けだし二条

天皇が後白河上皇と合わず、上皇の意見に屡々反平した次

第は周知のところであるが、天皇を聖主とする考えは摂関

時代には理念として必要であっても上皇が事実上天皇に代

る地位に立たれた時代には最早必要ではなくなったのであ

る。

三 天変の多様化と論争の盛観

 さて怪異についで多く報告される天変はいままでになく

多様さを増した。彗星・流星・客星・太白星・榮惑星・易

星・層雲・赤気・白虹の出現、日蝕∵月蝕や天体相互の接

近(これを相犯すという)など天文異変の報告は活澄かつ多

様である。これは政変内乱そのほかの大事件が相ついだ結

果、そうした現象を何等かの形で象徴的に説明しようとし

て知識入が些細な天文の動きにも神経を即したからである。

これは安倍泰親もいった(『玉葉』安元三、五、七)ように、「古

来示昌天変一顕二各藩↓其例多」とする思想が前提になって

いたからである。例えば榮惑星が青黛に入った歳には平治

の乱や京都の大火が起り、火星が歳星を犯した歳には平清

盛のク…デターがあり、太白星が下灘を犯した歳には義仲

が木曾に起って越後の城助茂を破り平氏に衝撃を与えたと

されるのである。また『玉葉』によると元暦二(二八五)

         しゅうぎ

年正月五日、巽方に量尤旗があらわれたが、ζの歳平氏は

遂に壇浦に滅亡したのである。 『平家物語』では量尤気の

あらわれたのを治承二(二七八)年正月のこととしている。

すなわち、

  七日の日彗星東方に出づ、蜜三三とも申す、又赤気共申す、

  十八日光を益す

あってこのあとは唐革門院御産の記事になつでいる。 『玉

葉』(元暦二、正、+二)は治承元年二年とつづきこのような天

変があらわれたとのべているから、 『平家物語』の治承二

年量魍魎出現は事実と考えられるが、この書物の性質上、

天変を記すことは何等かの歴史的事件を予兆する意味を含

んでいるのが普通であるから、はっきりと文章上ではのべ

ていないにしても、多分は建礼門院御産、つまり理智親王

(安徳天皇)御誕生との関連を示唆している協のと解すべ

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きであろう。安徳天皇御誕生のとき、すでに天皇の運命に

暗い影がさしていたことを予兆する現象として、后御産の

       こしき

とき御殿の棟より甑を転がし落す慣例あり、皇子の場合は

南へ皇女の場合は北へ落すことになっていたのに誤って北

へ落しあわてて南へ落し直した笑い草をあげ、

  今度御産に笑止数多あり……其々不思議どもの有けるを、其

  時は何とも覚ざりけれ共、後には思合する事共は多かりけり

と説明しており、恐らくお産の直前掃蕩気が出現したこと

も同様な意味に考えられていたのであろう。この「量尤」

とは、むかしシナの黄帝のとき、兵乱を好む諸侯としてし

られた人物で、転じて兵乱の前兆を示す悪星を量気層(旗)

とよび、彗星に似て後が曲ると解せられている。元暦二年

は正月の始めから東方に赤袋が観測され、安倍泰親の子季

弘・泰茂・業俊らは広物であると上奏し、安倍時晴・晴光

らば客気である、つまり主たる運気でなく一時的にあらわ

れる運気であると主張したが、これに対して安倍広基・同

資元らは量尤気であってその占いもっとも重く、「除レ旧布

レ新劇也」と鞠耀した。換言すれば近く平氏亡び源氏の天

下に統一されるとの予測的な時局に天変を結びつけたので、

事実当時はすでに多くの知識人はそうした政局の見透しに

立っていたのである。かようなわけでこの三つの意見の対

立は注目すべきものであった。九条髭面は厳器を召して今

回の天変は星の形をしたものがないのにどうして彗星と主

張するかときくと、次のように彼は答えた。治承元年二年

の彗星といわれたものも星の形をしていなかった。このと

き泰親が彗星をみたのに対して季弘は貴尤気であると判断

し父と争論になった。そこで泰親は天に祈りを捧げて審判

を求め、閻違っていた方には天罰を下されんことを請うた。

間もなく季弘は重病にかかり命が危くなったので、泰親は

祭文を書いて天をまつり季弘の命ごいをして病気はかろう

じて平評した。これで泰親の彗星説の正しいことが証明さ

れた。だがら彗星は星の形をしているかどうかで判定する

のではない。 『宋書天文志』にも雲気を以て力星と称すと

あって気を星とよぶには根拠がある。以上の泰茂の説明に

対して兼営はそうかもしれぬが、元来星の形をしているの

が彗星で星の形をしていないのが量尤気ということになつ9

ている。然るに星の体をなさずとも彗星とよぶなら貴尤気

との区別はどこにあるかと追求すると、両者は同体異名で

8 (146),

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院政期の陰陽道(村山)

あると答えた。兼実はこれ以上泰茂と論争するのは避けた

が、どうもよくわからない。ただしいま天下の情勢をみる

に彗星出現の天変でもまだ軽いと思われる程重大化してい

る。時局緊迫化の折の天変であるから、やはり彗星とみる

べきであろうか。むかし天喜四(一〇五六)年の天変に安倍

遺糞と中原師勝が論争し、前者は客気といい、後者は彗星

と主張して決せず、その後大極殿以下火災が起った(だか

ら後者の方が正しかった。)。およそ司天のことはその道の人

でも知りつくし難いのに、まして一般の者はわかる筈があ

ろうか。すべては今後の成行をみて是非をきめるべきであ

ろうかと日記『玉葉』に書いている。所詮上記の三説何れ

が正しいかは今後に起る事件によってはっきりするという.

事実の意見である。三平中、天変として最も重大なのは彗

星であるから、今後何か大窮鳥が起れば彗星説に軍配が上

る理窟である。事実この三月には遂に平氏は滅亡したから、

彗星説は正しいとされたにちがいない。こうして政局動揺

し、社会不安のつついた時代は天変叢出の温床となった感

がある。

四 新たな禁忌の続出

 以上院政下、政治の遊戯化と内乱や政局の動揺が災異報

告を激増せしめたことをみたが、これに伴い新たな陰陽道

的禁忌もまた次々となえ出され、その可否をめぐっての論

議が活澄化した。最もその代表的なのは金神の方忌であっ

て、根拠となった書物は『百薬暦文』といわれるが、果

してそれ以前の文献には出ていないのかどうか明かでない

(『

{朝世紀』承安三、~、;一)。仁安三(=六八)年六月二十

二日、大内裏修理と中和院新造のため、六条天皇が金神七

型方を避けて方違されることになったとき、陰陽冥加茂在

憲、同助安倍泰斗がいうには、金神の方忌は白河天皇在位

中清原定俊が『金神秘決暦』の示すところに従って上奏し

採用され、鳥羽天皇のときにも信俊が上申したが行なわれ

なかった。後白河天皇になって俊安・信盛両説が申出たが

陰陽道・紀伝道・明経道の諸博土の反対によりとりあげられ

なかった。次の二条天皇は俊安の上申をとりあげ、禁忌を行

なわれたので今回もこれに従いたいと、以上のようにのべ

ている。いままで反対してきた陰陽家がなぜ採用を提案し

9 (147)

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たのか不思議であるが、後白河上皇は採用の上奏を許さず、

紀伝・明経両道の博士達も金神忌はいわれなしと反対した。

公家達も唐の『新撰陰陽書』にはそんなことはのせていな

いし、わが国でも『保憲暦林』はこれをとり上げなかった。

白河天皇のとき一時採用せられたとはいえ陰陽家は習罪し

ていない。従ってそんなものをとりあげるべきでないとい

い、結局とり止めになった。しかし上述のようにこの場合

陰陽家の方から金神忌を積極的に提案したことは注目に舗

するのであって、この後も機会あるごとにその可否が論議

に上っていることは、可乏なる意見が根強く盛上りっつあ

る事情を物語る。しかもオーソドックスな立場からこれを

排撃してきた陰陽家が一転してこれを承認する態度に出た

のは、いたずらに旧い伝統を固執して新しい禁忌の流行に

立ちおくれるのが現実的に不利と考えたからであろう。か

くして金神忌不採用がとなえられながらも世俗の勢いに押

されて何時しか受入れられて行ったのであろう。南北朝頃

安倍茂流の紙園社務がつくったといわれる『憲盤内伝』な

る陰陽書は金神忌について詳述しており、この頃すでにこ

の俗信は一般化していたことを示している。

 白河上皇は金神忌のほかにも様々な禁忌を採用されてい

る。例えば二月四黛の祈念祭には二審より僧を忌むこと、

四月は灌仏の有無にかかわらず八日または九日以後僧尼を

忌む、宇佐使が立てられている間、天皇は精進であるが、伊

勢奉幣使が参向の間は魚食でもよい。そのほか此上細な種々

の禁忌を天皇や摂関に指示されたが、それらは忠実の日記

『殿暦』や『中外抄』からよく推察されよう。院政期以前

からあった四不出日(出行を忌む日)、八神朱雀日(移転を

忌む日)は賀茂家で採用せず、反対に五貧日(神を祭るを

忌む日)は安倍家で採用していなかったが、これらも次第

に広くとり上げられるようになってくる。これに対して四

七日及び子日にト占を忌むことは新しいもので天文博士安

倍晴道によれば四か日の先例は唐櫃四(一一〇二)年二月六

日にある(『本朝世紀隠久安三、三、八)。安倍家が主としてとな

えたものかもしれない。妊婦の家を造作しない禁忌は賀茂

銀鼠によれば文献にみえず単なる口伝であるが、院政期か

ら始まった(『長秋記』大治四、七、+一)。工月に門を造るを忌

むとの説も同様で(『中右記』長治元、四、+一)、安倍家のとな

えるところである。五月A屋根に菖蒲を葺くのは邪気撃撰

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院政期の陰陽道(村由)

の意であるが、聾をとった家は三年闘葺かず、新屋も三年

聞葺かないとの禁忌は「闘巷擬餌」(『山四一』仁安二、五、四)

といわれ、人家の北西塗すなわち乾の角が入りくんでいる

のは忌むべきか九条兼実が安倍聖旨にきいたところ、俗説

でよりどころなし、忌むべからずといわれ(『玉葉』安元三、

五、七)、九月に屋を苺くべからずとの禁忌を賀茂済憲から

きいた兼実がこれを賀茂華実に糺すと、葺き始めは禁忌で

後程はよいと答え、安倍泰親・時晴らは忌む要なしとの意

見であった。要するに確たる根拠のないもので陰陽家の考

えは一定しなかったが、賀茂家はほぼこれを容認する方向

にあった。、これらの俗信は末法思想や政局不安を反映し、

恐らく志をえない下層の貴族や僧侶、生活の豊かでない知

識人がつくり出したものであるが、伝統になずみ沈滞し勝

ちな賀茂・安倍両家にとって時代の動きから取残されない

ためにはたとえ俗信と難も新しいものは積極的にとり入れ

てゆくことが得策と考えられたのである。

五賀茂安倍両家の人材

ここで改めて両陰陽家の人物につき考察をすすめよう。

道長を中心とする摂関全盛期に両家とも逸材を出して大い

に進出したが、陰陽頭は惟宗文高のような帰化人出身者や

巨勢孝秀のような旧族出身者によって占められていた。漸

く摂関全盛期の末頃になって頭を出すことが出来るように

なったので、天喜五(幅〇五七)年の安倍章親、治暦四(一

〇雄猫)年の賀茂道下あたりがその先駆とみられ、訓言の

のちは、その弟成平、その子光平と、専ら賀茂氏にうけつ

がれ世襲化するに至った。陰陽助は摂関家全盛期よりすで

に両家出身者が就任していたが、ときには大中臣為俊のよ

うな他氏も交っていた。しかし院政期に入っては両家が独

占し、多くの場合賀茂氏はやがて頭に昇進する慣例をつく

った。兼宮として賀茂氏には主計頭(助)・大炊頭.図書

頭・縫殿頭、安倍氏には主税頭・大膳大夫・掃部頭.雅楽

頭・大蔵大輔・内匠頭・大舎人頭などがみられ、地方富で

は殆んどが介橡の地位で、守は賀茂憲栄の備前権守.讃岐

権守をあげうるにすぎず、これらからうける経済的恩恵は

僅かなものにすぎなかったであろう。陰陽博士は両家ほぼ

対等に任じ、暦博士は賀茂氏独占、天文博士は殆んど安倍

氏で、長治の頃(二〇四)中原師遠、康治の頃(二四二)

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賀茂直憲が例外的にこれに任じた。漏刻博士は大中臣季清、

賀茂周憲・同憲成・安倍経明・雨晴綱、菅野季親、同弓長

など諸氏にわたっている。陰陽師としては両家のほか大中

臨・中原・惟宗・伴・大江諸氏が少数交っている。陰陽道

界の官僚体制はざっと以上のような勢力分野で漸時固定し

た。 

最初に賀茂氏として頭になった無言の父道平は.暦博士で

あったが、当時新羅国からもたらされた唐暦はまだ日本で

は知られなかったもので、たまたま道平のつくった暦と比

較されたところ月の大小一分の心違なく、道平は大いに面

目をほどこし、一方宿曜師証昭が造進した暦はこれと異っ

ていて無益なりとしりぞけられた(『春記』長暦三、閾+二、二十

八)。託言は寛治三(一〇八九)年十一月一日、日蝕あるべき

を上奏して当らなかったが、やはり口蝕の祈赫は行なわれ

ており、また嘉承元(=〇六)年七月、関白忠実が上表に

あたり、道言が二十九日を選んだのに対し、大江町房は関白

の本命日であるからよくないと横槍を入れたが、予定通り

行なわれたことなどを考え合わせると道言は公塚に絶大の

信頼をうけていたらしくみえる。その後、子光平が頭にな

ったが、嘉承二年十二月二十二日、七言は陰陽博±に任ぜら

れた。この人事は子の光平が父謡言の上に立つもので感心

しないと非難されており(『中右記』)、何等か事情があったら

しい。ついで頭になった家栄は保延二(=三四)年八月十

二伺七十一歳で袈したが、斯道の達人といわれた(『中右記』)。

『玉葉』(文治三、十一、 )は家栄に関して次のような記事を

のせている。九条兼実が文治三年十一月一日、陰陽師を集

めて興福寺棟上日次につき、先日賀茂海幕が同月二十九日

をよしとして選んだのに対し意見を求めた。賀茂宣憲や安

倍季弘らは丑日であるから琿りあり、それより二十三日は

青龍脇日であっても吉例が多いからこの方がよいとのべた。

在宣やその皆済憲は丑日を忌むのは典拠はあるにしても余

り採用しない慣例である。法勝寺阿弥陀堂をたてるとき道

言は禁忌を申立てたが許されなかったと。兼実は宣憲らに

対しべ 「末代の名士」であった家栄の撰述になる『雑書』

は白河上皇に献上され、天下の人々が用いているが、この

書には丑日の禁忌をのせていない。 一方青龍脇日は重禁の

うちに入っているがどうかと質問した。仁道らは答えて家

栄の『薬缶』にのせていることは必ずしもすべて用いられ

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院政期の陰陽道(村山)

ているとは限らない。賀茂家の先祖である光栄の天元頃

(九七八)の露文には丑日を忌むべきことがのせられている。

両日とも禁忌である以上、実例を調べて吉例の多い方(す

なわち青龍脇臼)を選ぶべきである。在寮ら反論して光栄

の岩崩にあっても必ずしも後世踏襲するとは限らず、丑日

の如きは中古以来禁忌になっていないので家栄もこれに従

ってのせなかったのであると。こうして争論容易に決せず、

結局吉例の多い日を選ぶことになって二十三日にきまった

が、要するに散々議論の末、禁忌それ自体の問題は骨抜き

になってしまったのである。それはともかく家栄はすぐれ

た陰陽家として評価せられ、 『雑書』なるものを編纂し白

河上皇に如して以来、この書は多くの人々の指針となって

きたことをしる。それだけに同じ賀茂氏の中にも家栄の権

威に従う人と反質する人があった。

 賀茂氏は光栄の子守道に陳経・道平の悪子あり、これよ

り二系統に分れ、道平の系統は道言・黄平、道言の子守憲・

光平、成平の子宗憲・宗憲の子在憲及び宣憲と相ついで皆

頭にすすんだのに対し、陳経の系統は孫家栄、さらにその

子憲栄の二人出ずるに及んで漸く頭の地位をえたので、主

流は道平の系統に帰したようである。なお『続群書類従』

本賀茂氏系図によると憲栄は家栄の子と衡平の孫とに二人

あるが、肩書からみて同一人物と思われ、恐らく家栄の子

とする方が正しいであろう。

 家栄のあと宗憲・守憲・憲栄・在職と賀茂氏が頭を継承

したのち、珍しく安倍氏から血色が頭に任ぜられた。賀茂

氏独占体制の中へ割込む位の人物であるから泰親の逸材で

あることが塗せられ、そうでなくてもその占験すぐれた次

第は周知のところである。彼は晴明の嫡流で五代の孫、父

は泰長で陰陽博士であった。若い頃安倍兼時と晴明の領地

祭庭を争って敗れたことがある(『長秋記』長承元、五、+五)。

康治二(一一璽二)年の頃土佐介従五位斜走計助、久安の頃

雅楽頭にすすんだが、それとともに次第に頭角をあらわし、

藤原頼長は屡々彼を召してト占を求めた。康治二年十一月

十日、頼長はその息菖蒲丸の着袴の日を選ばしめたところ、

男親は二十八日をよしとし、憲栄これに反対して二十一、

工十二日をよしと主張した。その根拠についての詳しいこ

とはわからぬが、頼長両者を判じて泰親に理ありとした。

憲栄閉口して泰親のため嘲笑せられた(『台記』)。同年十二月

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三日、頼長は泰山府君を祭ろうとして七日に延引したが、

当臼は雪が降った。泰親は同行し川、原で祈請したところ、

雲止み天晴れたので頼長大いによろこび泰親に衣を与えた。

さらに久安二(こ四六)年五月三日、泰運の符術により長

年合わなかった人に会えたとて彼に宝剣一腰と褒賞状を贈

った。同じ頃直書憎憎が周礼疏摺本を所有するときき、こ

れを手に入れようとして酋長は泰親に入手可能か否か占わ

しめ、その使者となる人をも占わせた。その結果清原頼業

を使者とすれば必ず手に入ると占い、それにもとづき頼業

をして信憲に調わしめ摺本を手本及び他の書物と交換して

所有することが出来たので、頼長大いに感服して泰親に手

本一巻を与えた。久安四(=四八)年七月十九日、頼長は

鳥羽法皇のお供をして法勝寺へ行ったとき、法皇の御前で

の雑談に、泰親の占験すぐれた話が出た。同年三月二十九

日、三園感神院火災の際、頼長はひそかに泰親にこの吉凶

を占わしめたところ、六月壬徳日(この干支の支の方に誤り

があるようである)、内裏に火災ありと断じたが、果して同

月工十六日壬子に内裏は炎上した。陰陽書には占十のうち

七あたれば神とするが、継親の場合七、八が適中し、まさ

に上古に恥ぢざる名手であると。かくて頼長は男親に絶大

な信頼をよせ、娘の入内や内覧の宣下に気を揉む余り、そ

の成否についても泰親の占いを屡々求めており、泰親とし

ても苦しい立場にあったものと思われる。

 『平家物語』も泰親についての挿話二、三をのせている。

天台座主明雲を占ってこれ程の名僧が上に日月を並べて下

に雲ある法名をつけたのは解せぬと彼の洗い運命を予言し

た話、治承三(コ七九)年十}月七日夜の地震にあわてて

参内、涙を流して事変の火急を訴えた話はなかんずく有名

で、後老はやがて起った清盛のクーデター、法皇鳥羽町幽

閉の予兆とみられ、

  泰親は……天文は淵源を窮め瑞兆掌を指すが如し、…事も違

  はざりければ指神子とそ申ける、雷の落懸りたりしか共、雷

  火の為に狩衣の袖は焼ながら其身は慈も織りけり、上代にも

  宋代にも有がたかりし泰親なり

と『平家物語』は激賞している。落雷のことは『早早抄』

承安四(二七四)年六月二十工日田に、誤写親朝臣宅に落

                   いたち

っとあって事実らしい。法皇鳥羽殿幽閉中、馳が多数走り

騒ぐことあり、その有様を泰親にしらせて占わせられたと

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院政期の陰陽道(村山)

ころ、 「今三日が中の御悦、並に御影」との勘文を上った。

三日が中の御悦とは間もなく清盛が法皇の幽閉を解いて都

へ還御申し上げたことであり、御字とはついで以仁王が挙

兵された事件であった。政局や天災めまぐるしく交錯する

時代にあたって六親の勘がするどく動いたことを物語るの

であろう。九条兼実も泰親を重く用い、常に召してト占を

命じ、また種々の話をさせた。あるときの昔語りに次のよ

うなのがあった。後三条天皇のころ、泰親の祖父有行と中

原師平が秋に起った天変について論争をした。有理はこれ

を騎陣将軍の中に客星があらわれたといったのに対し、師

説は客星でなく将軍の付属物であると主張したもので天皇

は師平の方を正しいと判断された(以上は『玉葉』の記事で

あるが、『覚禅抄』には次の如くある。師平は鎮星の変といった

のに対して有行は辰星の変としたが、天皇は「辰星早く没して夜

初めて長し」との詩の句をあげ、秋に辰星の変はないとて師平の

勝とされた。有行によれば辰星に二種あり、天皇の意味される辰

星ではなかった)。有行大いに怒り、いま三日のうち天下に

大変があろうと申した。果して弾くもなく天皇崩ぜられた。

これは師平の僻事を現説とされた黙りである。また二条天

皇のとき師業が天皇に星のことをお教えした。泰親これを

きいて大いに驚き師説は星の観測をしたことがないのに敢

てそのようなことをすれば各をうけるだろうといったとこ

ろ、その夜学業は死んでしまった。また一、族の安倍広賢が

二条天皇に慶雲を奏し泰親の反対にあったのち忽ち命を失

った次第は既述した。広賢の子善業は彗星(土星)が動か

ぬ星で月を侵すことはないと誤ったことをのべたため省を

被って死んだ等々(呈葉』嘉応元、四、+)。泰親は陰陽道を深

く究めないものがみだりに専門家のように振舞うと天道の

罰をうけるものだと拙きびしく批判している。

 安元二(二七六)年十月二十五日には兼実に対し去る八

月、太白星が右執法皇を犯して以来天変絶えず、また近頃

火星が太微中に入ってまだ留っている。これは右大臣たる

兼実の重き慎みで黒門の法を修せらるべきであるとすすめ

た。翌年二月十日には災惑星が太微に入る天変を報告し平

治の乱の時のほかかような天変はなかった。恐らく天下に

大事が出来するであろうと予言した。その後も天変しきり

で泰親はじめ陰陽家の兼実邸への注進しげく修法行事もそ

れにつれてはげしくなった。治承四(二八○)年福原遷都

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にあたり、同地に皇居造営ならびに遷都につき方忌の必要

性が問題になり、幽霊は禁忌すべし、ただし清盛が邸を造

営しのち他へ移ったあと皇居に転用される形をとればよい

と答え、その子季弘は桓武天皇が長岡京から平安京への遷

幸は王相方を犯したわけであるのに禁忌はなかったから今

圓もその必要なしと答え、泰親にきびしく叱責されて、そ

れでは父の命に従いますとその主張を変えたので人々から

非難された。これから推しても泰親は自僑が強く異説には

きびしい態度をとり、ことにそれが自分の息子であっては

「屡我慢がならなかったのである。嗣年立「月二十四日、

泰親は兼実の召により参上していうには、今月のうちに天

変十度も起っている。恐らく清盛ら平氏にとって大事が生

ずるであろう。また天下に大葬送があるであろう。このこ

とは他人に口外なさるなと(『玉葉鮎治承四、十 、二十四)。恰

も以仁王の挙兵につづき近江・美濃の源氏蜂起し東国の形

勢不穏をつげ、福原の都も再び京へ還されることがきまり、

天下の政局は大きく動こうとするときであった。十工月十

四日兼実は清盛の気力が衰えたとの風評をさいていだ。三

親のト占は翌年工月、清盛の逝去によって的中した形とな

ったが、前年十二月二十三日、外記大夫中原師景も兼実に

対して天変により大喪兵革ありと予言しており、形勢切迫

は誰しも感ぜられるところであった。養和元(二八一)年

八二十日泰親また天変を示し、羅文のさすところ、当時の

天下滅亡いま両三日のうちにありと兼実に告げた。翌寿永

元年四月二十六日賀茂在憲のあとをうけて安倍氏として珍

しく陰陽頭になったが、兼実は「是礼意也」といっている

ように名人の誉高い彼の就任は極めて当然とされたのであ

る。しかし当時彼はすでに高齢に達していたと思われ、寿

永二年正月十六日後白河上皇のお供をして日吉社参をした

記事を最後として文献上から姿を消すのである。そうして

同年十月九日には賀茂宣憲が頭になっているからそれまで

に世を去ったのであろう。あれだけ信頼し平素面上を近づ

けていた兼実の日記にその死が記されてないのは何として

も不思議であるが、しかしこの頃は他の陰陽師のことも

『玉葉』には殆んど出てこない。木曾義仲の入京、平氏の

西走、範式・義経の上洛と義仲の戦死というめまぐるしい

政局の大変転で京都は混乱に陥り、選曲もト占を求めるど

ころではなかったかもしれない。

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院政期の陰陽道(村山)

 帯親のあとをついだ宣憲は兼実によると、 「錐レ無二名誉ハ

依昌重代衰老巴被二辞任扁歎」という有様で(『玉葉』寿永二、+、

九)単に年功で頭にすすんだにすぎない。そればかりでな

く兼実が「宣憲自レ本尾籠之人也」と評し(『玉葉』文治三、六、

+二)、あるいは「素不覚之人意……不レ足レ言置」と潜る程

(『

ハ葉鼓文治一二、+二、二+)失策の多い人物であった。賀茂氏

に人材がなかったことを察せしめるに足るであろう。

 以上頭に上った陰陽家について一瞥したが、それ以外に

も根直な人材が出ており、追啓の子泰茂は写実によると、

園城寺長吏公顕僧正の病毒を天適地府祭や泰山府君祭を修

して空し、 「末世之珍重、一道之名誉也」と賞揚せられ

(『

ハ葉』元暦ご、正、十二)、兼実は瞑々彼を召して泰山府葵祭

を営んでいる。平氏壇浦に滅亡後、海底に沈んだ宝剣が容

易に見つからず、朝廷では陰陽寮に発見の可能性の有無を

占わしめた。泰茂は宝剣は龍宮に計ったか他州へ流れたか

を占ったところ、その何れでもない。沈んだ場所から五町

以内を探索すれば必ず発見出来る。今日より三十五日以内

か、そうでなければ来年二月節中までに可能と勘申した。

残念ながらその期待は裏切られたが、第一、潮流激しく潜

水術の発達しない時代に五色四方の探索自体が無理であっ

たろう。要望は文治四年五月十三日死去したが、兼実は

「稽古者也、道之陵夷可レ歎可レ惜」走読している(『玉葉』文

治四、五、+四)。同じく泰親の子季弘も「当時之名士」とい

われたが、賀茂海馬の三富宣も「於二当道一末代之名士也、

可[讃美扁」とその造暦をほめられた(『玉葉』文治元、十二、+七)。

六暦道と宿曜道

 暦道については院政期直前暦博士であった賀茂道平が回

暦と全く異らないものをつくって名声をあげたこと、すで

に既述した。康平二(一〇五九)年正月、達子師昭証の弟子

藤原長経が日蝕ありと上奏し、道平はなしと反対したとこ

ろ、蝕があらわれたので道平は面懸を失った。その後、家

栄・憲栄と麿博士をついだが、後者のとき康治二(一一四

三)年正月、卓立ありと注申し、算博士三善行康はなしと

主張した。朝廷では正月の節会を行うべきかどうか迷い、

その中で康平二(一〇五九)年の例により暦道は信ずるに足

らずという公家があり、果して蝕はあらわれず、算博士の

勝となった(『台輪』康治二、正、一)行康はまた保元元(一一五

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六)年十月、暦道の造進した暦について非難を加え、ため

に諸道にこの暦の検討を命ぜられているが、不備な点があ

ったのであろう(『百態抄』保元元、+、+八)康治二年十二月一

日にも日蝕ありと暦に注され、宿曜道も賛成したため種々

の御調薦、大般若転読あり、結局蝕なく暦道・宿曜道とも

に誤りであったが、蝕がなかったのは御客禧のききめであ

ると、巧みにごまかしている。嘉承元(二〇六)年十二月

一日、暦紅筆申の日蝕は宿墨師深算によって否定せられ、

事実無期で暦道は敗れた。久安二(=四六)年五月一日、

宿曜道は日蝕ありとしたが与論は認めず、事実なかったの

でこの時は珍しく滑道が勝った(『本朝世紀』久安二、五、一)。

承安.元(二七一)年正月、日蝕を暦道がとなえ、算道.宿

曜道は反対し、結局蝕をみずして暦道が敗北した。文治五

(=八九)年六月十五日、暦道は月蝕を勘奏したが算博士

行軍はなしと断じ、行衡の主張通りになって庭上は負けた。

以上のように多くの場合暦道は蝕の推定に誤りがあり、こ

れを以てしてもこの道の不振と一般人の不信は争えぬもの

であった。頭になった賀茂氏が主として任ずるだけに因習

にとらわれこの道に精進するものなく、すでに院政時代、

その権威は失われた形であった。従って算道や宿野道も遠

慮なく暦道を批判した。

 とくに宿曜道については関白忠実の『中外抄』に

  古人一宿曜ハ不用敷、御堂宇治殿ノ御宿曜ト魚文家ニ一日見

  也、又四条宮二我申云、御宿曜や候ひしと申上之時、仰云全

  不知、殿なとや御沙汰アリケム、我は不知と被羽しなり、又

  故一条殿も宿濯の沙汰せさせ給はざりき

とあって、摂関全盛期には宿曜道は問題にされていなかっ

たのである。大治四(二二九)年七月が大か小かをめぐっ

て宿曜師説箕と暦博士が争い、三善為事、宿醒師珍也らの

支持をえて源算が勝った(『長秋記』大治四、六、二)。 この頃隆

(徐)箕は唱道の月の大小に誤りを指摘しており(『中右記』

大治四、六、二)、関白忠実は宿曜師明算に自分の息子や息女

の宿曜について教えをうけている(『殿暦』康和五、二、九及び同、

+二、二+五)が、『尊卑分脈』によると良門流藤原氏出身の

園城寺の僧である。さらに嘉承元年十二月一日には前述の

ように日蝕の有無で暦道と争い、これに勝った深算がしら

れる。 『二念暦』によると師弟関係として仁統-能算

t明算一深鋒の相承が記されているところがら、寺門

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院政期の陰陽道(村山)

派における谷底師の一流をなしていたことがわかる.やや

下ると藤原頼長が泰親とともに信頼した宿雨師として大威

儀師寛救があり、康治三年五月工十九日入減縮は代って源

救が頼長の相談相手をした。この二人とも師弟の関係であ

ったと思われる。ついで九条兼実の許に出入した宿志師に

は清水寺辺に北斗隆王院なる寺を営んだ珍賀法橋(『玉葉』承

安四、十、二+五)や兼実のため虚空蔵・尊魔王等の像を造立

した珍善はじめ性一・兼一・慶算などがあげられる。さき

に求道との争いに自粛を支持した珍也の子が珍賀で、珍賀

の子が珍善、檀武平氏の出身で鎌倉中期には珍賀の孫珍誉

が出ており、すべて興福寺の僧であるから、この方は真言

密教にもとつく転語師である。慶算は寺門僧で醍醐源残串

身、性一・兼一については詳でないが師弟関係にあったの

ではなかろうか。総じてみれば宿曜道では園城寺の寺門派

が宮廷関係では最も大きな勢力を占めていたようである。

七 賀安両家以外の陰陽家

 暦学・宿婦道以外にも陰陽道や福徳に詳しい人々が多数

輩出し種々な異説俗信をもちこむことによってオーソドッ

クスな陰陽道をますます多様化煩雑化せしめたが、これは

院庁政権の無能をカバーするためにも好都合であった。院

政期の前には清原頼隆が出て盛んに新しい禁忌をもち出し

注目されたが、白河院政期にはその孫定俊が金神忌を強調

したこと既述の通りである。天養元(二四四)年二月十四

日、頼長の求めにより、今年甲子革令に当るや否や勘申し

た信俊は定俊の子、同年語長の易の勉強相手をした定安は

定俊の孫にあたる。何れも陰陽道の造詣が深かったのであ

ろう。九条兼実は屡々清原頼業を召しており、寿永元二

一八二)年工月十七日越は火星が歳星を犯し、治承三年清

盛クーデター事件の際と同様の天変であるとの報告をうけ

た(『玉葉』)。同年九月二十七日また頼業が訪れた際は平宗盛

の滅亡近きにありと予言している。高倉天皇の侍読をもつ

とめた学者であって、天文にも造詣のあったことがしられ

る。兼実も息子良通のため頼業をして『左伝』などを講ぜ

しめている(『玉葉』元暦二、四、二九)。中原氏も白河院政期に

師遠あり、その子三三及び師元、一族の基広らも学識をも

ってきこえたが、清原氏程、陰陽天文にはげしく異説を主

張しなかったようである。碩学大江匡房は独自に隠笠をた

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て勘文を上り(『水左記』承保四、二、十三)、あるいは関白の上

表にあたって本命臼ゆえよろしからずといままでにない禁

忌を主張するなど(『申右記』嘉承元、七、二十五)陰陽道に一見

識をそなえ、ことに関白師通の信頼をうけ人の運命判断に

すぐれた才があった(拙稿「大江匡房について」・『西田先生頸寿記念

日本古代史論叢b。そのほか頼長の許に集った藤原成佐・同友

業・同通憲(僑西)も学者としてきこえ陰陽・天文に精通

した。とくに通憲の博学多識については種々の挿話が伝え

られている。あらわすところの『通憲入道蔵書目録』は多

少疑義ありとはいえ、漢書を主とし次に掲げるような陰陽

天文にわたる多数の文献を含む蔵書の構成は通憲の学識の

特色をほぼ物語っているといえよう。

周 易 一 部

周易注疏経「部

五周周裸参易 副

易 集

易 略

易 音

志義例注象

七一二二二十十巻巻腰巻巻巻巻

抱  朴  曇

天 文 要録

論    衡

金神方忌勘文

易六日七分抄

類聚諸道勘文

天天太太黄天文文一一一’:’f「

    太文勘書勘要_一

草一文抄法抄

易命期注私記

天地瑞祥志

一一 謐�巻巻一一巻  II  第第  三四  1映}険

一t一一一 l結三三巻巻

すなわち漢土の書籍に重点がおかれ、わが国人の著作は勘

文類を除いてそれほど目ぼしいものはなさそうである。通

憲は早く自分の顔に剣難の相を発見し、これを漏れんがた

め出家したといわれ、平治の乱起るに先立ち白虹日をつら

ぬく天変をみて兵乱を予知し、自己の所領へ奔った話は周

細で泌る。しかし遂に億最後を全う出来ず、不幸自己の古

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院政期の陰陽道(村山)

いが適中した。けだし清原・中原・大江はじめ藤原氏の支

流など下層貴族は停滞した摂関体制に反識し、院庁政権の

恣意的で物ずきな性格に乗じて公家的伝統をゆさぶり摂関

家を始めとする宮廷人の注目をひくことに新たな存在の意

義を見出そうとした。それには陰陽道的な分野への進出が

最も容易かつ無難な方法であった。しかも通憲の如きはこ

の方法により自己の轡憤をかなり発散させえたのみならず、

かえってみずからの才智に災されて自滅した。

 そうした時代に、一見あたかも下層貴族出身の学者と同

様にみえる行ぎ方をした変った上層貴族があった。いうま

でもなく藤原頼長で自己の才気にまかせ非常な熱意をもっ

て漢籍経書の勉学にいそしみ、わけても陰陽道に深く没頭

した。康治二年十月ハ頼長は明年甲子革令に当り廟堂で朝

儀が行われるので、これについて学びたいと船佐に云った

ところ、これは易より出た説であるから易を学ばねば理解

出来ぬと答え、そこで頼長は易を学ぶ決意をした(『台記」康

治二、+、+二)。よって清原信俊より『周易正義』の摺本を

惜りて能書の人に写さしめた。ところが世間では『周易』

を学ぶ者は凶あり、あるいは五十歳以後学ぶべしと云い伝

えられているので、既述のように陰陽師二親をよび駈川原

で泰山府君を祭らしめ、易を学ぶは天地の理を極めんがた

めの正道である云々と祈請して天の加護を求めた。折から

雪止み天晴れ月星があらわれたので天の感応であると塾長

はよろこんだ(『台記』康治二、+二、七)いよいよ翌日より精進

潔斎し成瀬について『周易』をよみ始めた。翌年二月{日、

通憲を招いて易笠卦をなすの法を教えるよう懇請し、同月

十一日の吉日をもって学習の初日とした。寝殿西北廊に座

をもうけ、通憲は西面、応長は東面し、むかし武王が丹書

を太公に受けるの礼に擬した。通憲辞去するにあたり、多

言する漁れと念をおした(『台記』康治三、二、+一)。けだし頼

長の如き政治権力者が易笈を用いるのは政治的な疑惑をう

ける基にもなり、安易なそれの乱用は正しい政治的判断を

失わしめることにもなるからであった。況んや人生経験浅

く直情径行の性格をもつ頼長が周易を学ぶことの危険性を

感じたのは独り通憲ばかりではなかったであろう。ともあ

れ頼長は非常なファイトをもって『周易』や易笈をマスタ

ーし、同年五月九日通憲病にかかるや、これが癒るかどう

かみずから卦をたてて必ず癒ゆべしと断じ(『台記』康治三、五、

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九)、宿隈師寛救が瘡を病んで重体になるとこれを占って難

治の旨をのべている(『実記』岡年五、二十 )。天養元年十月工

十三日、頼長は『周易』の研究会を開き、定安・友業らを

講師にしょうとしたが、両名とも易に精しからずと圃辞し

たので面長みつから講じ、両名を間者としてその質疑に応

じている。 同年四月工日に書庫が幽来たので頼長自身は

『春秋緯』の櫃をもって陽の棚におき、成佐には易詩等の

緯及び『河渠書』町櫃をもって陰の棚におかしめた。泰親

は文庫をつくって最初に入れるのは『河洛書』であるとき

いていると語ったのでその通りにした。久安元(一一四五)

年六月七日、占いにあたり、トと笠の何れを先にすべきか

について町長は遜憲と論争しこれを打負かしたが、そのあ

と通憲は等長に向い、

  閣下才不レ恥 千古(訪二院王朝}又少昌比類↓既超踊我事中古先

  達嚇其才鋒晶干我国↓四所二危櫻}也、自レ今後莫レ学一一経典一 

といい、芝煮の易笠研究が将来危険となることを警告した

(『

芫L』天養二、六、七)。しかも館長はこれを覚らず、かえっ

て誇りとしたのである。嗣年十二年六日、鳥羽法皇の病を

占ったが、未だ陰陽道を委しく学んでいないゆえ、つぶさ

には判断出来ぬといっており(『台記』天謎二、+二、六)、易籏

乱用の危険性が些しつつあることをしる。受命遜と養女の

入内立后の競争、内覧就任についても、焦慮の余り泰親に

たびたび占わせ、さては}条堀川の橋占さえ取寄せるなど

易籏の深い知識がかえって政局に対する冷静な判断を誤ら

せてしまったようである。何れにせよ、いわば陰陽道に溺

れたこの変った上層貴族の悲劇は公家がその家筋や職掌を

も顧みずに漏りにこの道に深入りすべきでないこと、一般

に易を学べば凶ありとの禁忌は守らねばならぬことを改め

て教える結果となった。しかし頼長は何も時代から浮上っ

た特殊な人物としてのみみることは出来ない。院庁政権に

対する摂関家の反擁意識はつねに底流にあり、たまたま弓

長のような才気換発型の人物においてこのような経過をた

どったにすぎず、それには下層貴族出身の知識人の間にわ

だまかる反骨意識にみられると同様、易や天文の方響的な

ものが現在及び未来に対する一見正しい判断を与えるより

どころのように解され利用され、はてはその俘虜となるに

至ったのである。

 政局が動揺し社会不安が高まった十二世紀後半は上下お

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院政期の陰陽道(村山)

しなべて人心が神経質となり、たよるべき精神的支柱を模

索する空気が強く、浄土信仰は現実逃避になっても、現実

解決の鍵にはならず、その点で現実のすすむべき方向を暗

示する陰陽道は大きな魅力となり、時代の要請に押されて

次第にその様相を変えなければならず、単に閉された宮延

社会ばかりの独占物、また官僚的陰陽家のみの特技として

止ってはいなかったのである。陰陽家がオーソドックスな

説の拠りどころとしていた古典的文献以外にも様々な陰陽

書があらわれ、それが拡まり出すと、陰陽家と難も無視し

たり軽蔑したりばかりはしていられなくなった。

八 陰陽関係の著作と口伝

 そもそも当時の陰陽家が正式の典拠として用いたものに

は呂才撰の『新撰陰陽書』、 いわゆる斯道の赤経とよばれ

る『坤儀経』『謡歌経』『明道経』を始めとし、 『天文要

録』『天地瑞祥志』『宅挽経』などがあり、そのほか『漢書

天文志』 『宋書五行志』などの参考文献とともに、シナの

典籍として重んぜられ権威があり、その多くは藤原佐世の

『日本国見愛書目録』にもみえるところである。さらにシ

                  ぎ

ナから渡来のものとして明かなのは『霊棊経』なるもので、

『長秋記』(大治四、五、二+)によると、白河院政期末、主典

代通量の郭通国が九州で唐人から譲りうけ、鳥羽上皇に献

上したものである。その内容の詳細は明かでないが、管を

以て占う法が書かれてあったという。また建築土木工事を

起す場合の方忌について賀茂忠行が引用した『三公地基

経』碕小右記』治安三、九、ご)や伊熱召神 宮の造W冨趣爪己心について

安倍晴通が引用した『群忌隆集』(『本朝世紀』久安四、蝋引、十、

五)は陰陽家の使用するところであったことがしられるが、

臼本人の手に成った文献かもしれない。さらに清原氏が頼

隆以来利用した典籍で金神七殺の説もここに含まれている

『百忌暦文』 『月令正義』や頼長の孫定俊が白河上皇に上

奏して用いられた金神忌の出典である『金神決暦』などは

明かに平安中期、宮廷知識人の手でつくられたものである。

すでにのべた賀茂保憲の『暦林』や安倍晴明の『思事略決』、

滋岡川人の『撰文』、賀茂家栄の『雑書』などは専門家の

著作として注目せられたが、それぞれ個人的に特色があり、

棄シナの陰陽書にない説や禁忌も含まれていて・後世論圃

議の種となるものが少くなかったようである。『占事略決』 23

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は今日なお前田家に鎌倉期の古写本があり、院政期には

「世間流布の馨しといわれ、堀河天皇も震筆で抄出されて

いる(『長秋記』大治四、五、十八)。藤原実資は滅門日に転宅し

てその家が焼けた例について、 『脳胞』にはその禁忌が書

いてあるのに世間では三宝を避ける禁忌にしか用いないの

は誤っていると記しており(『小右記陣長和四、四、+三)、この

『暦訣』とはどういう文献か明かでなく、院政期には記録

にみえず、中世の『箆篠内伝』にも滅門日のことは記して

いない。また藤原頼長は『混林雑劇』なる書物の病眼につ

いて宿鞘師源救に質疑を堅している(『台記』久寿二、五、十五)

が、あるいは宿曜師の典籍かと思われる。

 以上あげてきた陰陽道関係文献はさきにのべた『通憲入

道蔵書目録』には余りなく、ただ『天文要録』 『天地瑞祥

志』の二点しかみられないのは矢張り通憲の立場や学識が

専門の陰陽家とちがっていたことを示し、また専門の陰陽

家が秘伝的に取扱った文献類は入手し難いこともあったで

あろう。

 書物のほか、陰陽家の間には口伝というものがあった。

安倍信業が九条岩層に語った中に、周易六十四卦は暦王六

十に配し、残りの四卦は四季に配するが、これは口伝であ

って陰陽頭賀茂家栄も算博士の三善為業も知らなかったと

自慢しており(『玉葉』嘉応元、四、+)、天文博士安倍広基は兼

     かく

実に辰星は角宿にあたり東方第一星であるが、口伝の秘事

で安倍泰親これを知らず、誤って心大星だと思っていたと

得意げであった(『玉葉』建久二、+二、四)。けだし書物を通じ

て一般に知られている説以外、人によって様々の異説をた

てた場合、口伝を通じて子孫に教え、もってその家の職業

的特権にしたのであって、賀茂・安倍両家とも一族がひろ

がり支流がふえると、一族中でもそれぞれの流で独自の解

釈や流儀をたて、些細な違いもこれを秘伝化して相対抗す

る場合が多くなった。

九 陰陽寮機構の変貌

 こうして陰陽家の増加は斯道の普及とともに流儀や解釈

の多様化と俗離化を強くおしすすめて行ったが、一方律令

官欄下陰陽寮の機構は形骸化の傾向を高め、凋落の様相を

濃くして行った。ことに大治二(=二七)年二月十四日の

陰陽寮焼失は痛手であった。当日昼下り出塁小屋から娼火

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院政期の陰陽道(村山)

し陰陽寮・勘解由使庁・宮内省・園韓神社・神祇官・八神

殿・穿下門などに類焼し、二時間ばかりののち鎮火した。

渾天図・漏刻などは取繊したけれども、昔から伝来の器物

多数失われ、陰陽寮の鐘も火に罹った。この鐘楼は伝えに

よると、桓武天皇平安遷都のとき造られたもので、未だ火

災に逢ったことがなく、今年まで三百三十七年たった。・そ

れが焼けたので天下の大黒だと藤原宗忠はのべている(『中

右記』)。 三百三十七年前とは延暦九(七九〇)年で、正式の

遷都十三年より四年早いことになるが、鐘楼とともに鐘も

このときつくられたのであろう。 『百練抄』には漏刻鐘焼

損の簡単な記事があるのみである。

 一体陰陽寮の鐘が律令網のはじめよりどんなものであっ

たか記録なく知るに由ないが、 『延喜式』には漏刻鐘とみ

え、撞木が本周り三尺、長さ一丈六尺とあるところがらみ

て非常な大鐘であったと推定される。その目的は漏刻の司

辰なり飯事が時を知らせるために撞いたもので、陰陽寮ば

かりでなく大内裏全体にひびくよう撞いたのであろう。か

ように貴重な鐘が駄臼になったのであるから、早く代りの

ものを造るべきだが、幸い太宰府に同様のものがあるので

職「

「し害せ懸けられてはどうかと三月二十日に殿上の会議で

 話が出て早速太宰府へ問合せることになったところ、丁度

 太宰府大弐藤原翠玉が在京しているから喧ちに彼に尋ねて

 みるべきだとの意見が出た。その後の経過については記録

 に微しえないが、神舐官庁などとともに陰陽寮の復旧は少

 くも一年や二年の間に行なわれた形 はない。何れにせよ

 結局は太宰府の鐘を懸けざるをえなかったであろうと思わ

 れるが、全体としてその復旧は遅々たるものであったよう

 に推測される。例えば保元工(=五七)年十一月十三日に

 なって漸く永年絶えていた漏刻器を復活したという有様で

 (『百練抄』)、律令制の頽廃はここにもよく反映していた。け

 だし漏刻器の復活は藤原通憲の朝儀復興・朝権國復の事業

 の一環として行われたもので、彼の献策たる大極殿復興す

 ら平安初期の状態に戻すことは出来なかったのである。

  その後信五十年忌へて中山忠親の日記である『山椀記』

 に至って珍しくも陰陽寮の鐘についての記事があらわれた。

 それはほぼ以下のような内容である。治承三(二七九)年

 六月十二日、園城寺の禅覚が忠親のところへ繊法を勤めに

・やってきたついでの話に、尊星王法では十二神を立てると

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いうことがあり、子笹は北に、午神は南に立て、これを基

にして十二神を配置する。また逆に子神を南に、午神を北

に立てる場合もあって、それは陰陽寮の鐘にみられる。こ

の鐘には十二神が鋳付けてあって、子神は南に向けて釣っ

てある。ただしその理由は知らないとのべた。その後、権

漏刻博士菅野袴腰が来たとき、忠親はこのことを話した。

季親も陰陽寮の鐘の方向についての由来は知らないが、子

壷と午神を正反対の側におくのは水神と火急を相対させる

意で厭術であると語った。以上の内容によってわれわれは

漏刻鐘に十二神が鋳付けられていることを知ったが、具体

的にはそれらの神はどんな形にあらわされていたか、記録

の上では把握出来ない。そこで参考資料として思い出され

るのが奈良県宇陀郡榛原町戒場にある薩長寺の入口に現在

懸っている梵鐘でさきに拙稿「宮廷陰陽道の成立」の中で

拓本の一部を掲げて簡単に説明しておいた。戒長寺は現在

真言宗であるが、修験道的要素をおびており、なぜそこに

鎌倉期の特異な梵鐘がのこされたかはさておき、陰陽寮漏

刻鐘の十二神とは戒長寺にみるような十二神将像ではなか

ったかと考えるのである。そうすると十二神将を鋳付けた

漏刻鐘は少くとも『山塊記』からして治承三年にはあった

わけであるが、その二年前の治承元年四月十八βの太郎焼

亡とよぶ京都の大火では陰陽寮も焼失しているから、この

鐘の存在はそれ以前に遡らせて考えることは出来ない。つ

まり陰陽寮の火災は上述大治二年につづいて治承元年と二

度あったことが明かである。大治の際は焼損したものと同

様の品を太宰府から取寄せて懸けたであろうが、治承の際

は他の適当な鐘をとりよせたか、全く新しく鋳造したか、

それについての記録は発見出来ない。ただ私の推定すると

ころでは大治の例や、保元に至って始めて漏刻器を復活し

た嘉清からみても、大内裏全体の炎上による復興の必要に

直面していた刺廷として、漏刻鐘新鋳を行う程の余力があ

ったかどうか頗る疑問で、恐らく大治の例にならい、他に

適当な鐘を物色してそれで間に合せたものと思われる。そ

うだとすれば、その間に合せたものと焼損したものとは同

様な鐘であったかどうか、つまり焼け損じたものにも十二

神将が鋳付けられてあったかどうかが次に問題にされなけ

ればならぬ。もし鋳付けられてあったとすれば、それは大

治二年に太宰府から取りよせた鐘で、その際焼損の鐘と向

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號政期の陰陽道(村山)

様のものであった筈である。しかも上述のように、その焼

損鐘は平安遷都当初につくられて三百三十七年たったとの

『中右記』の所伝があるから、それを信ずれば平安.遷都の

際すでに十二神将鋳付けの漏刻鐘があったことになる。従

って平安初頭奈良朝末には十二神将と十二支を結びつけた

思想が早くも陰陽道に入っていた理窟である。そもそも薬

師如来の軍属である十二神将を十二支に配当することは薬

師経に説いておらず、シナでも子代以後に拡まった思想と

いわれ、わが国の十二抑将像が美術的表現において頭上に

十二支を戴くようになるのは中世に入ってからであること

を思うと、延暦のはじめ造立の漏刻鐘にすでに十二神将像

の鋳付けがあったとするのは肯定し難い。ゆえに私は治承

元年のとり換えの際にこうした変った鐘がもちこまれたの

ではないかと推定する。つまり治承元年の漏刻鐘復活は注

目すべき変化を伴ったのである。その変化による意義づけ

は戒長寺の鐘を参考にすることによって次のように説明さ

れるであろう。(次頁以下の同鐘鋳付十二神将拓影参照)

 戒長寺鐘では池の問四区に十二神将三体ずつ配置してあ

り、波夷羅・因達羅・珊底羅三大将が一区、額像羅・安底

羅・迷爬羅三大将が一区、伐愈愈・宮毘羅・毘愈々三大将

が一区、遠乗羅転皇霊羅・麿寸心三大将が一区をなしてい

るものとみられ、この十二神将がはじめのものから順に辰

巳章章申酉戌亥子丑寅郵の十二神に配置されるのである。

それに『山椀記』で菅野二親がのべた五行の思想を導入す

ると、辰巳午三神は土火火、未申酉三神は土金金、戌亥子

三神は土水水、丑寅卯三神は土木木となり、土神は陰陽道

で戊(つちのえ)の本地大日如来、己(つちのと)の本地不

ド義ζ墜謙

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長寺鐘より推定した陰陽寮漏刻鐘十二神配置図

27 (165)

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珊底羅大将因達羅大将

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安底羅大将

ノ興x 灘’.

1掲羅大将

政期の陰陽道(村山)

難燃覇叢叢翻羅鷺

額祢羅大将

宮毘羅大将

・29 (167)

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摩虎羅大将

霧羅

伐折羅大将

撚ウ

A撫.繕麟

鶴び酎

1獄

灘、凶ダ蝋曽艸

招杜羅大将

灘雛1

真達羅大将

30 (168)

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院政期の陰陽道(村山)

動明王、いいかえれば密教(宿黒道)臆修験道の本尊であ

るから、各一区に一神つつ概かれ、これにそれぞれ火金水

木の四神を配したわけである。これによって火神と水神、

金神と木神を対象的に反対の池の閾においた。そうして実

際に釣った場合、普通とは逆に漏刻鐘は水神である子神を

南に、二神である午神を北に向けたのである。そこには季

親もいっているように厭術の意がある。すなわち火難を防

ぐところにあるので、南は陽(火)のさす方向、この方向

に対して火に剋つ水神である子神をむけたのではあるまい

か。 

あたかも太郎焼亡・次郎焼亡という二度の大火が京都の

街を襲った直後である。火難を恐れる気持が街に張ってい

るその風潮を反映し、漏刻鐘もとくに強く火難防除の莞術

的意味をこめて十二神将の鐘に代えられたのであろう。私

が漏刻鐘の注目すべき変化というのはここにある。これは

ひいて陰陽寮の重大な変貌を象徴するものとしても意義づ

けられよう。というのは当時のめまぐるしい政局の推移と

未曾有の大火は広汎に庶民層をもこれに巻込み、公家貴族

を含めて都市やその周辺の住民達を深刻な恐怖に陥れた。

官僚的陰陽家も最早宮廷社会への奉仕によって安逸を貧る

ことだけではすまされず、広く{般社会の動きにも対応し

なければならぬ時がきたのである。宮廷社会への奉仕は陰

陽家の過去の栄光を象徴するにすぎず、新しい時代への活

路は一般社会の要請にこたえた庶民的陰陽道の展開と普及

にあった。この意味から新しくかけられた十二神将鋳付の

漏刻鐘がもつ火難防除の児術的表示は単に公家貴族社会の

みならず、一般民衆社会の切なる願いをも反映せざるをえ

なかった筈である。かくしてこの鐘は陰陽寮の重大な変貌

を象徴するものとしての意義を荷つた。宮僚的陰陽家をも

含めて都の陰陽道界全体が経済的にもその基盤をより多く

民間に依存しなければならぬ時代はそう遠くはなかったの

  (註V

である。

 ここまで論じてきて最後に十二神将鋳付の漏刻鐘は一体

どこから移してきたのであろうかの疑問がのこされる。何

れは園城寺の天台寺門系か、南都の真言系に属する宿曜師

の寺院に見当をつけるべきものではないかと思うが、何等

かの具体的な史料をえた上、改めて滝壷推敲を重ねること

とし、一先ず本稿はこれで論結する。

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Page 33: Title 院政期の陰陽道 Citation 53(2): 139-170 …...院政期の陰陽道(村山) より後鳥羽院政末までの間をとってグラフで表示してみた。歴代について一元号の継続年数が平均どれ位かを平安初期改元の頻度についても注意しなければならない。そこで各はすでに上掲拙稿において指摘した通りであるが、一方、

(註) 官僚的陰陽師の生飯状態については具体的な災料に乏しいが、 『平

  家物語』(巻三)治承二年計器、安徳天鬼御誕生の条に、新皇子が陰陽

  師達より千度祓をうけられた記事をのせている。掃部品安倍時賠…はそ

  の際の一人で『平家物譲』によると、召により駈けつけた彼は、 「所

  従なども乏少なりけるが、余りに人多く煮ろどひ、たかんなをこみ、

  稲麻竹葦の如し、役人ぞ開られ候へとて大勢の中を押分々々参る程に

                       ちと  やナら

  如何はしたりけん、右の沓を題煎れてそこにて些}立休ふが、剰へ冠を

  さへ突落されてさばかりの劒に束帯正しき老者が讐放て練出たりけれ

  ば、若き公卿殿上人は忍えずして一度に喚とそ笑われける」と晴れの

  錫で散々の態たらくになった。人ごみでもみくちやにされ面目を失っ

  たことはさておき、かなりの老齢に達し当時活躍していた時晴が所従

  もなく一人で人ごみかき分けてゆかねばならなかったという『平家物

  語』の叙述からも陰陽師の生活が決して豊かでなかったことをよく想

像しうると思う。 『尋卑分脈』によって漏刻博士従四位上に至ったこ

がとしられる彼は九条兼実にも緩々招かれて意見を具申しており、陰

陽師としては決して身分が低くなかった筈である。僅かの所領や職田

からの一定の収入以外には公家の私的な求めに応じての祭儀やト占奉

仕によってえられる臨時の給付があったが、つねに頻繁にあるわけで

なく、それも陰陽家の一部に限られたもので、大した生活の助けには

ならかったと考えられる。蔚干文献でしられたものをあげると安倍泰

親は藤原頼長に献じた符札が験ありとて宝劔}腰をもらい(既述)、泰

山府慧眼勤修の報酬には装束一具を与えられた(『台記』康治元、八、

五)。 九条写実の求めで泰山府君臨を営んだときは亀甲地螺釦鞍一懸

(『

ハ葉』治承四、十一、二十八)、同じ兼実のため天文博士安倍広基

が天曹地府祭を三ヵ夜行なったときは一戸主の地をえている(『玉葉』

元暦元、八、二十一)。

(170)32

(大阪女子大学教M被)

Page 34: Title 院政期の陰陽道 Citation 53(2): 139-170 …...院政期の陰陽道(村山) より後鳥羽院政末までの間をとってグラフで表示してみた。歴代について一元号の継続年数が平均どれ位かを平安初期改元の頻度についても注意しなければならない。そこで各はすでに上掲拙稿において指摘した通りであるが、一方、

Onmyodo陰陽道in the lnsei院政Period

by

Syu-itl Murayama

  Onmyodo陰陽道in the Insei院政period, an era of overmaturity of

the courtly Onrnyodo, created social interest to the utmost cbmplication

and popularization uBder the influence of changeable and fanciful luxury

in lnsei, .with the transition of political situation, repeated nattn-al

calamities and socia正uncertainty caused by the pessimism due to the

Buddhistic theory of the ’latter days of the Law.

  011the other hand, on account of positional且xation of the Kamo賀

茂and/4δ6安倍families, ther6 were many incapable o且cial fortunetellers,

though not a few prominent figures in the Law appeared except the

fortunetellers of the two families; then, under such impetus, a few

prominent figures appeared o.f these two families. And then, works ln

Onmyqdo were newly composed by the specialists or intellectuals. These

works caused various discussions. As the.Onmyo・ryo陰陽寮as a link

of the Ritsuryo律令system became changed on the wane, the officiaI

fortunetellers were forced to seek for their new direction of activities

for the wider society.

On Motoy Ztki Taleabαtalee高畠素之論

    speciallzation of Taislro Socialism

by

Masato Tanaka

  Japanese socialism in the Taisho大正period was in the groping period

’for the purpose of substantialization of the movement from the enligh-

tening Period of!吻扉明治;which was discussed as an alternative

‘f・ political movement means parliamentary po!icy or economic movement

means direct action.” Necessity of the socialists’ intervention into the

popular movement for political greedom was urged into converting from

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