Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation...

37
Title <論説>欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Author(s) 小林, 義廣 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1983), 66(4): 482-515 Issue Date 1983-07-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_66_482 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Transcript of Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation...

Page 1: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

Title <論説>欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革

Author(s) 小林, 義廣

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1983),66(4): 482-515

Issue Date 1983-07-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_66_482

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革

28 (482)

【要約】 一〇四三年に始まる慶暦の改革に、欧陽脩は、弁官として参画した。その際、かれが指弾してやまなかった当該社会の病

弊とは、官僚の事なかれ主義、すなわち「因循」 「筍且」という態度であった。こうした批判の視角は、欧陽脩にかぎらず、改革

の推進者たちに共通した認識であり、改革の具体的な処方箋は、かかる認識の上に立って立案された。他方、如上の批判視角は、

欧陽脩の『五代史記』の中でも重要な意味をもち、そのことはかれの歴史叙述と慶暦の改革との密接な関連を窺わせる。とすれば、

『五代史記』は、欧陽脩の現実社会にたいする課題意識に媒介されて、その解決の方途を理念型として提出したものだといえよう。

では、この「萄且」批判の上に立つ『五代史記』の論理構造とは何か。一口に言えば、 「分」に応じた、しかも上に行けば行くほ

ど責務を強く意識せねばならぬという階梯的官僚体制の上に、至公11倫理を要請される君主を戴く国家像である。こうした至公u

倫理というあり方は、官僚の輿論を重視し、それに基づく政策の遂行という意味であるから、この国家像は一種の「皇帝機関説」

と称すべき性格をもつ。                              史林穴六巻四号 一九八三年七月

                                                        【

は じ め に

財嚢の士大夫をどのように捉えたらよいのであろうか。かれらは、いわゆる唐宋変革による貴族制の崩壊後、政治の新

たな担い手として登場してきた人びとである。これまでの研究は、主にこれら士大夫が生み出される社会経済史的背景に

注意を傾けてきたように思われる。そしてそれは、豊代以後の主要かつ基本的な生産関係と考えられた地主-佃戸関係を

基盤に、新たに勃興してきた地主階級による地主政権が、宋朝国家の本質である、という歴史規定と深い有機的連関をも

Page 3: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

   ①

っていた。しかしながら、これまで、その歴史的制約にもかかわらず、自己の時代を悩み苦しみながら精一杯生き抜いた

士大夫の、その主体的営為にたいしては、必ずしも充分な注意を払ってこなかったのではなかろうか。私は、これまでの

社会経済史的成果を踏えながらも、むしろこうした士大夫の主体的営為の側面から、かれら士大夫が政治や社会とどのよ

うに関わったかを探求してゆきたい。小稿が欧陽脩の『五代史記』を取り上げるのも、そのような関心に基づいている。

以下、小稿において、ほぼ次の二点を問題としたい。

 第一は、欧陽脩の『五代史記』が、かれの現実社会にたいする、どのような認識に媒介されて生み出されたかという問

題である。私はこの問題を、まず欧陽脩が主体的に関わった慶暦の改革の時期におけるかれの発言を通して考察したい。

そして次に、かかる欧陽脩の現実社会にたいする認識が、かれのどのような体験とその内面化を媒介として『五代史記』

に結晶するかを検討しよう。第二は、欧陽脩の考えるあるべき君主像、更にはあるべき国家像とは何かという問題である。

私はこの問題を、主に『五代史記』を分析の材料として探求してゆく。次に本論に入るに先だって、この二つの問題につ

いてもう少し説明を加えておこう。

 まず第一の問題について。前稿でも触れたように、従来の研究にも、 『五代史記』の中に欧陽脩の現実社会にたいする

認識の反映をみてきた。晋の出帝紀の論賛や唐翼壁伝記と、瀧議、朋党論との間に論理の類似性あるいは同一性のあるこ

とが指摘されたのは、かかる『五代史記』研究の傾向を端的に物語っている。しかしながら、それらは、個別的な事象の

類似や同一性の指摘にとどまっており、『五代史記』の論理-思想構造の総体が、欧陽脩の現実社会にたいする、どのよ

うな認識を媒介としているかを明らかにしたものでなかった。そこで小稿は、 『五代史記』の論理乳思想構造と欧陽脩の

現実社会にたいする認識との関わりの問題を、慶暦の改革時におけるかれの発言を通して考察するが、それは次のような

理由に基づく。すなわち、後節でも詳説するように、欧陽脩が『五代史記』を編纂したのは、主に慶暦の改革を畏む前後

の時期であった。 『五代史記』の編纂が、このように慶暦の改革に近接した時期におこなわれていることは、単なる偶然

29 (483)

Page 4: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

ではない。なぜなら、 『五代史記』を貫く論理-思想構造と、嘉暦の改革に際しての欧陽脩の発言との間には、極めて密

接な連関性を見出せるからである。とすれば、欧陽脩の歴史叙述が、現実社会にたいする課題意識に根ざしていたという

ことになるのではあるまいか。

 次に第二の問題について。この問題に関連して、まず私が以前に発表した論稿に言及しよう。かつて私は、『五代史記』

           ②

の士人観について考察した。そこでは、それまでの『五代史記』研究が、必ずしも這松全体の論理u思想構造を総体とし

て捉えてきていなかったという反省に立ち、取りあえず、そうした論理-思想講造の重要な一環をなす士人像を明らかに

した。さらに最後の箇所で私は、こうして明らかにされた士人像が、 『五代史記』全体の論理-思想構造の中でどのよう

な位置を占めるかについて、簡単な見通しを述べた。すなわち、『五代史記』の論理胆思想構造とは、端的にいって《士

人論と悪言論を中軸として、あるべき国家像を追求したものである。そして、その国家像とは、皇帝を頂点とし、整序さ

れた官僚組織をもつ露骨独裁調国家たる宋朝の理念像なのである。したがって、欧陽脩は、 『五代史記』の士人論を展開

しながら、かれ自らの国家におけるあり方を追求していたのである、と。

                                ③

 右の前襟にたいして、その後、伊原弘氏から手厳しい批判をいただいた。氏の批判は文章が簡略なため、私にはよく理

解できないところもあるが、次のように述べている。欧陽脩の史観が何を基調としていたか、とりわけ「君主は道徳・倫

理の根源で士人の能力を発揮さすべ音存在と〔小林は〕考えているが、〔欧陽脩が〕その君主の登場をどう考えていたかが問

題になろう」(〔〕は引用者)。批判の眼目は、前稿において簡単に触れた欧陽脩の君主論にあるように思われる。君主論

については、士人論が『五代史記』の論理-思想構造の中にどのような位置を占めるかをより鮮明にする上からも、充分

な展開を必要としたが、紙数の都合から不完全な言及しかできなかった。そこで小稿は、欧陽脩の考えるあるべき君主像

を追求したいと思う。その上で、士人論をも含めた欧陽脩の考えるあるべき国家像を提示したい。ところで、欧陽脩の君

主論は、 『五代史記』の中に凝縮して現われるが、その内容はやはり欧陽脩の現実社会にたいするかれ自身の認識のし方

30 (484)

Page 5: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

を媒介していると思われる。そこで小稿は、欧陽脩の君主論を考察するにあたって、 『五代史記』だけではなく、欧陽脩

が様々な機会に発言した事柄をも参考にしてゆきたい。

   〈凡例〉

 次の史料は、以下のように略記す。 『欧陽文忠公簿』↓『欧文集』。『軍資治通鑑長編』↓『長編』。なお、欧陽脩の上奏文は『欧文集』

 に収められているが、上奏した時期を明示する意味から、当該上奏文の『長編』所収の箇所を記す。むろん、 『欧文集』と『長編』

 に記述上の差がみられるときは、その旨を注記する。

 ① 私は最近の論稿で、こうした戦後の宋代史研究の動向に関して若午    ② 愚稿「『五代史記』の士人観」(『東洋史研究』三八一二)。以下、前

  の批判を試みた。しかし、土大夫に焦点を絞った研究史整理は、今後     稿と略称。

  の課題として残っている(拙稿「宋代史研究における宗族と郷村社会    ③ 『史学雑誌-回顧と展望-一九七八年の歴史学界』 「東アジア

  の視角」『名古屋大学東洋史研究報告』8)。                (中国i五代・宋・元)」。

一「因循」と「萄且」

欧陽修における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

 本節では、欧陽脩の現実社会にたいする認識のあり方を、慶暦の改革の時期におけるかれの発言から検討してゆくが、

それに先だってまず、以下の叙述を理解しやすくするため、慶暦の改革の経緯を簡単に記しておきたい。

 北宋も半ば、第四代皇帝仁宗の慶暦三年(一〇四三)のことである。宰執にあって国政を左右すること二十余年、藤縄の

                                    ①

絶大な信頼をえていた蛮夷簡が、病気を理由にその年の三月、宰相を辞任した。しかし、この出来事は一人の宰相の退任

にとどまらず、一時代の終焉と新しい時代の開幕を象徴していた。

                     ②                                      ③

 呂夷簡は、真宗の威平三年(一〇〇〇)の進士。早くからその政治手腕を発揮し、宰輔の質ありと称せられていた。その

                     ④

点、宋代随一の名族、河南の呂馬の出身ながら、単なる貴公子ではなかったらしい。真宗が崩御し、仁宗が即位した乾興

            ⑤                     ⑥

元年(一〇二二)に参知政事、天聖七年(一〇二九)には宰相に就任するなど、出世の階段を順調に登りつめてゆく。そして、

31 (485)

Page 6: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

                                            ⑦

宰執に就任したあとは、一方で仁宗の留任を背景とし、他方で競争者や政敵を姑息な手段で失脚させて、政権を確固とし

たものにし、一一十余年にわたって絶大な権力を振った。むろん、苑仲掩や孔道輔らの台諫(御史中丞らの台官と諌官)を中心

にした官僚たちは、その時々の政策決定や政治姿勢をめぐって呂西岳と鋭く対立したが、南夷簡の巧みな機転によって、

                        ⑧

中央政界から追い出され、敗北を余儀なくされつづけた。だが、呂血忌の長年にわたる政権の独占は、次第に現実社会へ

の対応に適正さを欠くようになり、社会矛盾を激化させ、やがて呂夏霞がかつて追放した若手官僚たちの手に政治を委ね

なければならなくなってくる。対外関係をめぐる危機の激化が、そうした気運を促進させたのである。

 明道元年(一〇三二)、宋の弓馬境の霊州(寧夏回族自治区)に本拠をおくタンダート族が、その酋領の李元昊に統率され

て、宋への侵竃を開始した。宝元元年(一〇二八)、書絵昊はついに皇帝を称し、同時に国号を大谷とbて宋と完全に敵対

 ⑨

する。宋磁は、真宗の景徳元年(一〇〇四)、遼と漉淵の盟を締結して以来、大きな戦闘を経験しておらず、勇猛な西夏軍

に敗退しつづけた。他方、西夏との紛争は西北沿辺への鯛糧の運搬など、軍費を増大させ、国家財政の逼迫と農村の疲弊

をもたらした。農村の疲弊は、当然、兵乱や農民反乱を誘発せずにはおかない。改革が開始される面懸三年にも、王倫と

      き                               ⑩

いう一兵卒が祈州(山東省)で巡検使を殺害して反乱を起こしている。宋朝体制にとって、軍容の確立と国家財政の立て直

し、それに国内治安の回復は、焦眉の急であった。ところが、呂寸簡はその執政期間中、こうした難問に有効な手をうて

ないでいた。ついにかってかれが追放した、苑仲俺やそれに同調する韓碕らを自らの手で引き立て、西北沿辺の西夏との

                                  ⑪

紛争解決の任にあてねばならなくなる。かれらはある程度、実績を挙げてみせた。かくて、かれらは当面する政治問題の

全面解決への輿望を担い、紅夷簡が宰相を退いた慶事三年に、次々と盛事なポストに登用されてゆく。三月には、章知事

と曇殊が同中書門下平艶事(宰相)に、王素・欧陽脩・余風が諌官に任ぜられる。四月には察嚢も糞壷となり、そして七月、

                                ⑫

苑仲流が早知政事(副宰相)、富弼が枢密副使となって改革の陳容は整った。改革派が中央政界の枢要な地位を占めると、

同年九月、仁宗は天章閣を開き、苑仲潅・富弼らに座を賜わり、現今の急務を下問する。かれらは一旦その場を退き、十

32 (486)

Page 7: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

ヵ条の改革案を上奏した。これが史上に名高いナ事事奏である。改革案は一部を除いて、同年末から翌年にかけて相継い

         ⑬

で実施に移されてゆく。しかしながら、早くも翌慶暦四年には改革にたいする不満の声が沸き起こり、他方、国家財政を

圧迫する最大の原因であった西夏との紛争が、翠竹を増額することで一応収拾されると、仁宗も改革に以前ほどの熱意を

添さなくなってしまう。やがて、改革反対派による改革派への中傷と陰謀が渦巻くなかで、単身五年(一〇四五)正月、改

                             ⑭

革派を代表する杜術・苑仲滝・富豪らが中央政界を去って下野した。改革は頓挫をきたし、根本的解決を三十余年後の王

安石の改革にもちこすことになる。世にいう慶暦の改革は、こうして一年半たらずの短期間に終結したのである。

rそれでは、改革が目ざしたものは何であったろうか。改革にたいする不満の声が、かえって改革の目途したものの輪郭

を鮮明に浮び上がらせてくれよう。不満の声は『長編』によると、次の三点に集中していたようだ。第一点は地方官にた

                                 ⑮

いする査察の峻厳さ、第二点は恩蔭綱の抑制、第三点は磨憲法の整備である。これらはそれぞれ十事急撃の、 「四 択官

長」コ一抑僥倖」コ  明警防」に対応するが、一口に言って官界の綱紀粛正ということに要約されよう。おそらくこの

                                             ⑯

ことが、慶暦の改革は人づくりを志向していたというこれまでの評価を生み出したのではなかろうか。もっとも、改革指

導老たちのかかる黒づくりの提言が、かれらのいかなる現実社会にたいする認識に基づくのかという点については、これ

までの研究は充分な探求を行ってきたとは必ずしもいえぬように思われる。かれら改革派の主張する文脈に沿って、いま

三七かれらの現実社会にたいする認識のし方を探る必要があるのではなかろうか。

 さて、改革の指導者たちは、以上三つの中でも、とりわけ地方官の査察を重視していたらしい。直轄盗が各路の監督官

である監司を選任する際、手ずから筆をとり、無能な者は容赦なく官僚名簿から疑名を抹消していったというエピソード

           ⑰

は、そのことを如実に示す。改革派のこういう厳格な態度からすれば、改革がようやく行き詰まりを見せる慶暦四年の秋

                               ⑱

に、査察への不満が一気に噴出してくるのは、当然の成り行きであろう。仁宗さえも、その苛酷さを認め、査察に拘束を

          ⑲

加えようとb允のである。そ七て、臣欧陽脩らが各路の査察によって無能な官僚の致仕が促進され、その淘汰がおこなわれ

33 (487)

Page 8: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

                           ⑳

つつあるとどれほど主張して、かかる拘束に異を唱えようともハ査察にたいする不満と非難は、酒々たる奔流となって改

革派を圧倒しつつあった。ついには、江南東路転運按察使である揚紘は、査察と治績の実を挙げたにもかかわらず、査察

                        ⑳

が苛酷にすぎたという理由で左遷の憂き目をみてしまう。

 欧陽脩も改革において、官僚の査察を率先して主張した一人である。かれは諌宮であったが、諌官はこの時期、官界の

                              ㊧

輿論を代弁し、実際の政策決定に大きな影響力をもっていたのである。当時のかれの意見は、『欧文集』奏議集の「諌院」

と「河北転運」の項に収められている。具体例をあげながら、かれの査察重視がどのような現実認識に基づくかを考察し

よう。

 奏特集巻一には、 「論按察官吏」と題する上奏文を載せる。欧陽脩が知諌院となって間もない五月のものである。ほぼ

次のようにいう。現在、官吏の員数が多すぎて、朝廷ではその資質を充分に見極めないまま任官させている。その結果、

大部分の地域では治政がうまくいっていない。当今、内外多事のおり、治政の実を挙げようとするならば、官吏を選り抜

くにしくはない。その手始めにまず、夏島に按察使を派遣して官吏の賢愚と善悪を的確に掌握し、官吏を選任する資料を

作成しておくべきだ、と。すなわち、州県官の厳格な査察と、その具体的実施方策がこの上奏文で提言されている。どこ

ろで、ここで注目したいのは、州県の治績が挙がらぬ原因を指摘した部分である。それは、州県官に不適格な人物を任命

しながら、査察による瀦陽をおこなわず、そうした状況がずるずる積り積った(「因循積弊」)結果だという。諸種の問題が

生起してくる根底には、こうした官僚の事なかれ主義、欧陽脩の言葉に即していえば「因循」が存在していたのである。

                        ⑳

欧陽脩の批判の矢は、そこに照準を定めて放たれてゆく。

                                                ㊧

 官僚の事なかれ主義は、官界を貫ぬき上下の区別なく蔓延していた。とりわけ、この時期に頻発する農民反乱への対処

のし方に、そのことがいかんなく現われていた。地方官の中には、賊が白昼に入城しても抵抗しないどころか、それらを

迎え入れ、あげくには賊と飲食宴楽をともにするものもいたのである。法令がそれほど厳しくないから、賊に抵抗して殺

34 (488).

Page 9: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽{婿における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

されるよりましだというわけである。他方、中央の高官も盗賊を防御する積極的施策をとらず、事態がすぎ去ってしまえ

ぼ事を荒だてようとはしない。苦言を寒しようという人物を、むしろ厭うありさま。欧陽脩はこの情況をとらえて、官僚

                                 ⑳

の事なかれ主義(「因循し)が、結局は国家をも滅亡させかねぬと強く警告した。

 しかしながら、官界全体を覆うこうした「因循」は、とくに中央の高官に重大な責任があると、欧陽脩は説く。

                たまた

 今、幸に陛下は仁聖節愚なれば、大臣偶ま重責を免がる。曲れども猶お禍患を忘重し、因循を楡縛す。此れ臣の所謂大臣、肯て国法

  遡ひ           い葺                                 ⑳

 を峻しくして、以て官吏を縄めざるは、蓋し陛下威嚇を以て其の大臣を責めざるに由る者なり。

批判は、ついに政治の最終的な統括者である皇帝にまで及ぶが、それは今暫くおく。ところで、こうした中央高官の「因

循」な態度をとる背景には、かれらの保身に汲々たる姿がみえかくれする。無能の官吏でも職務に就けてしまうのは、そ

                  ⑳

のことで怨みを買いたくないからだという。そして、こうした態度は、国境防備の司令官を任命する際もとられていた。

                                   ⑳

慶暦三年七月、郭承祐という武将が、北方のある戦略地点の都部署に任ぜられた。前任地の漉州(河北省灘陽県東南)では、

城郭を築いたとき、あやうく役卒の反乱を招くところであったという。当局もかれのこうした無能ぶりを知悉していたら

しいが、他に適格者もいないし、年功の上からもやむをえぬという理由で、この任命となったのである。欧陽脩は、かか

る人材を探す努力もせず、年功で昇任を与えるやり方を、「因循之説」「因循守例」などという雷葉で鋭く批判した。

 ところで、官僚の事なかれ主義は、その場かぎりの糊塗政策を生み出すだろう。すなわち、 「因循」は「筍且」でもあ

                  ⑩

り、それらは表裏一体の関係をなしている。そして、そこに時代の病弊を発見し、鋭い批判の目を注ぐのは、何も欧陽脩

一人だけではない。慶暦の改革を推進した人たちに共通した認識であったらしい。たとえぼ、枢密副使の社号は、首府開

封の地理的特殊性を理由に、何よりも国内秩序の安定を強調して、次のようにいう。すなわち、開封は漢や唐の首府と違

い、堅固な城壁がなく、しかもそこは四通八達の交通の要衝にあり、一度兵乱がおきると攻撃を受けやすい。だからこそ、

国内が安定していなければ、同じく開封を首府にしていた五代のときのように、王朝は容易にくつがえされてしまう。に

35 (489)

Page 10: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

もかかわらずA秩序安定の適切な処概を講ぜず、「因循」「筍且」の政策を繰り返していると、五代の禍乱は目前のものと

   ⑳

なる、と。

                                     ㊧

 実例をもう一つ。枢密副使韓碕・雨落誰田況らの、西夏との和平をめぐる意見である。朝廷内では当時、西夏領域内に

産出する青白塩の輸入を認めるかわりに、西夏に奪取された西北境の延百雷の土地を返還させようとの意見がでていたが、

かれらはその意見に反対を唱えた。というのも、青白塩は宋の西北地方で流通している解文より質がよくて値段も安いの

で、その輸入を認可すると、解説は売れなくなり、解塩の売上金に依存している陳西の財産を圧迫するというのである。

                                                ら  へ

こめ反対意見を具申する中で、西夏と和議し青自塩の輸入を認可しようとする人たちの態度を、 「但だ目前の筍且をのみ

もと                  のこ

、徽めて、患を国家に胎すを顧みず」ときめつけた。

 以上のように、欧陽脩ら改革派は、国の内外で噴出している諸矛盾もさりながら、むしろそうした矛盾に対処する官僚

のあり方にまで湖行して、この時期における問題の本質を捉えていたといえよう。「因循」「筍且」という態度がそれであ

る。問題の本質をそのように見据えたとき、改革の具体的な処方箋が、官僚の職務にたいする責任感をその内面から嵐覚

せしめ、章魚の人格を練磨させるような提言であったことは、当然の成り行きであったろう。官僚にたいする査察強化、・

                   ⑭        ㊧         ⑯               ⑰

総代独特の人事考課制度である磨勘法の整備、恩誌面の抑制、科挙制度の改定、太学や州県学の整備拡張、連帯責任を伴

う推薦制度たる保任綱の更なる拡充などがそうした施策である。最後に、それらのうち、欧陽脩が熱心にその実現を要求

した官僚にたいする査察について、その実施に到るまでをごく簡単に触れておきたい。

 欧陽脩が官僚にたいする査察の提言を始めたのは、既述したように、慶暦三年五月からである。九月には苑仲掩らの旧

事列奏があり、その第四「択官長偏が査察(史料用語は按察)の提言である。そして十月、査察の実行を逼る苑空堀・輔弼

らの提言を受けて》張昌之が河北㍉王素が潅南、心逸が京東のそれぞれの〔都〕転運按察使に任ぜられ静もっとも、欧陽

脩は五月の上奏文でA査察を専門に行う宮僚の派遣を要請し、転運使に兼職させるやり方に反対していたから、この実施

36 (490)

Page 11: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽衛における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

方法には不満があったであろう。がともあれ、査察は一定の効果があったようである。役に立たぬ地方宮の致仕が促進さ

                     ⑪

れたと、欧陽脩が述べているからである。多少の誇張を割り引いても、査察の実効性を充分に窺わせてくれよう。

①『長編』巻一四〇、慶暦三年三月戊子の条。

② 呂夷簡の進士及第の年号は、張豊平の手になる神道碑銘(『楽全集』

 巻躍工ハ断載)によっノ㌧判る。

⑧『宋史』巻二六五呂応答俵に、真宗と呂蒙正の会話として次のよう

 にある。 「上謂蒙正日、卿諸子獣可用、対日、諸子皆不足用、有四夷

 簡、任三州議官、宰相才智、夷懸高腰見知於上」。

④河南の呂氏一族については、衣用強「宋代の名族-河階呂氏の場

 合-」(『神戸商科大学人文論集』九-一・二)が詳細な紹介をして

 いる。

⑤『長編』巻九九、乾興元年七痔辛未の条。

⑥『長編駈巻 〇七、・天測七年二月丙寅の条。

⑦これについては、王徳紫雲の論稿に詳しい(「呂夷騰落萢紳溌」『史

 学申告』第四期 一九七二年、同氏署『朱史研究論集』第二輯 鼎文

 書局  九七二年所収)。

⑧ たとえば、郭氏廃駅問題があげられよう。郭琉は仁宗の嫡緑である

 劉太后の意志で立后されたので、何かとそれを界にかけ、驕慢な振舞

 いが多く、仁宗に黒まれていた。それに仁宗の籠も他の宮.女にあった。

 そこで、劉太后が崩御すると、此二細な金面事を理由に郭氏は廃盾され

 てしまうゆこれには、郭皇后に個人的な憾みをもつ呂夷簡と、かれと

 結託した竃官戸文応の尽力があずかっていた。しかし、事態は平穏に’

 進行したわけではない。皇后の廃立を軽しく行うべきでないと主張す

 る、零点滝や孔道輔らの台謙グループが、畠夷簡らと鋭く対立し允か

 らである。とはいえ、呂夷傭の巧みな機転によって、これら反対派は

 中央政界から追い禺されてしまった (『長編』巻 一豊、明道二年十

 一月乙卯の条。

⑨『長編』巻 二二、宝元元年九月㎎戌の条。

⑩『長編』巻一四…、慶謄三年五月発馬の条。

⑪王徳毅氏の前掲論文「呂夷簡与苑仲滝」一五…~一五八頁参照。

⑫  『長編』巻一四〇、慶暦三年三月辛卯の条。同書同巻、慶暦三年三

 月癸巳の条。自書同巻、慶暦三年四月己酉の条。同断巻一四二、慶暦

 三年七月丁丑の条。

⑬『長編』巻一四三、慶暦三年九月丁卯の条に十号列奏を載せ、各条

 と列奏の宋尾の割註にその施行年月日を記す。しかし、「白髭農桑」

 「七 修武備」「八 減徳業」「九 理恩信」 「十 重命令篇には割譲

 がなく、施行されたかどうか不明。高欣氏によると、慶暦の改草は主

 に査察を厳しくし、吏治を刷新させる方面を中心におこなわれたとい

 う(「北声変法的開端-慶暦新政」『史学月刊』一九五八-五)。

⑭『長編』巻一五四、慶暦五年正月乙酉と丙戌の条。

⑮ 

『長編』巻一五〇、慶暦四年穴記壬子の条に、 「然字書闊大、論者

 以為難行、詳論察使多雪挙劾、人心不自習、任予恩薄、道寄法密、僥

 倖者不便、於是講殿浸盛、而朋党之論、滋不可解」とある。

⑬ 告田清治氏は、このような評価の代表者である(『刷了全盛期の歴

 史』弘文堂  }九四一年、六〇・七八頁)。

⑰棲銘『漉文正公年譜』慶麿三年置条。ちなみに、営営は南宋の入。

 この年譜は四部叢刊本『萢文正公集勧に所収。

⑯ 

『長編隔巻一五一、慶暦四年八月乙卯の条に、包撚の上北英文を載せ

 るが、かれはその中で、按察使が出世を図って虚実を区鋼せず官吏を

 弾劾するため、官吏は民衆を酷虐にあつかって治績をあげているかに

37 (491)

Page 12: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

 みせかけていると批判する。

⑲ 『長編』巻一五 、慶三四年八月乙卯の条に、 「上謂輔匿日、如聞

 諸路幸運按察提寛刑獄司、懸樋所部官吏細過、務男姿刻、染葉無所措

 手足、可降勅約束之」とある。

⑳『欧文集』奏議集巻=「論台官上言按察使状」。『長編駈巻一五一、

 慶熱論年八月乙卯の条。

⑳  『長編』巻}五七、慶暦五年九月煙霞の条。

⑫ 宮崎市定「豊代の士風」(『史学雑誌臨六二一二 一九五三年、 『ア

 ジア史研究陶四 東洋史研究会 一九六四年所収)。

⑳ 『長編』巻一四一では、嘉暦三年五月戊寅の条に所載。

⑭至険衡氏も、欧陽脩の現実社会にたいする認識が「因循」 「筍且」

 (「筍且」について小稿は、本節の後半部で触れている)にあること

 を指摘する。しかし、この欧陽脩の認識が、他の改革派の人たちの認

 識と同じなのか違うのかという点に触れていないし、また、この欧陽

 脩の認識と『五代史記』の撰述や論理構造との関わりについても語ら

 れていない(「論欧陽修」『北京師範大学学報』一九八○一三、 『学術

 論文集』北京師範大学出版社 一九八二年所収)。陳光崇氏は欧陽脩

 の史学に関する穀近の論稿で、上述の郭氏の見解を継承しているが、

 やはり、欧陽脩の現実社会にたいする「因循」「荷且」という認識と

 『五代史記』の論理構造との関わりについての言及はない(「欧陽修的

 史学」『宋史研究論文集』上海軍籍出版社 一九八二年)。

⑮ 関履権「論蓮華農民戦争」(『歴史研究』一九六二…二)には、宋代

 の農民起義の年月、尊公の名称、起義地区を一覧にした表を載せる。

 その表によると、この時期における農民起義の頻発ぶりを知ることが

 できる。

⑯  『欧文集』奏議集富久「論盗賊事宜舞子」。『長編』巻一四二、慶暦

 三年八月辛亥⑳条。

⑰ 『欧文集』奏議集巻五「論禦賊四事劉子」。『長編隠巻一四三、慶暦

 三年九月発巴の条。本文は、『欧文集』に基づく。ちなみに、「幸陛下

                へ  ゐ

 仁慈寛慈」を『長編』は、「今幸朝延仁聖寛慈」に作る。また、 「此

            へ

 臣所謂大臣不肯峻国法以縄官吏」を『長編』は、 「此臣所謂大臣不肯

     へ

 綾圏法以循官吏」に作る。

⑳ 

『欧文集』奏議集巻一「論罷鄭蛾四路都部署里子」に、「若知(鄭)

 餓果不可大用、但不敢直撃其職、則大臣顯人情避己怨、如此作事、何

 以餌息人言」とある(『長編』巻一四六、慶暦四年二月半寅の条も同

 じ)。

⑳『欧文集』奏野里巻三「論郭承祐不可将兵状」。『長編臨巻一四二、

 慶暦三年七月戊寅の条。任命されたのが鎮定〔都〕部署(『欧.文集』に

 は「都」の宇がない)とあるが、鎮定という場所は不明。ただ、 『宋

 史』墨黒五二郭承祐伝は、 「真定府定州等路副総管」に作る。とすれ

 ば、真定府はもと野州と称せられたから(『宋史』巻八六地理忠巻二、

 河北西路の項)、鎮定は真定の誤記かもしれぬ。真定府は今日の河北

 省正定県である。しかし、真定府路安工臨が置かれたのは、慶暦八年

 になってからであり(前掲『宋史』の地理志の項)、上記の推定も説得

 性に乏しい。

⑳「奏議集」には、「因循」という語彙は見出せるが、「且且」はで

 てこない。ただ、第二節で同及する「本論」という文章では、宋代

 社会のかかえる病弊を「荷且」という概念で 抵するが、 「本論」の

 藍本をなす慶暦二年の上奏文(『欧文集』居士講論四六「準詔言砂上

 書」、第二節の註⑥参照)では、同様の文脈の中で「閃循」という語

 彙を用いている。また、本文ではすぐ後に述べるように、改輩の時期、

 改革を推し進めた人たちの上奏文には、 「因循」と「荷且」がしばし

 ば相互転換されたり、並称されて用いられている。とすれば、「因循」

 と「筍且」は、全く重なり合う概念ではないにしても、意味内容をか

38 (492)

Page 13: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

 なり共有すると考えられる。

⑳ 『長編』巻一四三、慶暦三年九月差丑の条。

⑳ 

『長編』巻一四六、慶暦四年二月半子の条。

鰯 青白塩をめぐる宋と西夏との紛争については、宮崎市定「西夏の興

 起と青白難問題」(『東亜経済研究無一入-二 一九三四年、 『アジア

 史研究』一 東洋史研究会 一九五七年所収)を参照。

⑭磨勘法に関しては、古狸光 氏に一連の研究がある(「穿初の考課に

 ついて1太祖・太宗時代の整備過程を中心として一」 『目白学園

 女子短期大学研究紀要』一〇、「宋真宗時代磨勘の制の成立について」

 『青山博土古稀紀念宋代史論叢』省心書房 一九七四年、 「真宗時代

 京物官の磨勘の法について1特に沿革を中心として一」『史朋邑

 一)。ただ、氏の研究は、まだ帰属期までは及んでいない。

㊧ 劉子健氏(智ヨ⑦ω目.O「【㍉6は、 恩蔭制の制限こそが改革の焦点

 であったとするが、以上の考察からも判るように、恩蔭制の制限より

 も、官僚の綱紀粛正に重点があったように思われる(9い略ミ蝿雰画ミ

 きN密ミ§ミー9ミ畿迷審。6sS§§婆㌧Qα3コ♂三q鋼一㊤①。。㌧薯・

 騒ム頓)。

二 爲道論と責誼の『新書』

⑳⑰ 荒木敏一『宋代科挙制度研究』 (東洋史研究会 一九六九年)三

 穴五i三八○頁、四三四…四四九頁。

趣 この時期、保任制度が大きく変化したことは、薬代官制の代表的研

 究者の一人である故クラヅケ氏によって、すでに一九五〇年代に、挙

 主や被保三者など多面的な言及とともに指摘され、麿過できぬ業績と

 なっている(濁.〉.ズ舜。岸ρ旨こΩ~ミ騎ミミへ”こ}晒為ミミのミ砧Oミミ、%

 &O霊宝N瓢霧くp乙q」。‘一〇器)。近年、梅原郁氏も無代全般の保任

 剃を取り上げつつ、如上の変化に言及された (「宋代田選のひとこま

 -薦挙制度を中心に一」『東洋史研究』三九-四)。

⑳  『長編』巻一四四、慶暦三年十月丙午の条。

⑳『欧文集』下平集巻一「論按察官吏第二状」。『長編砧巻~四一、慶

 暦三年五月戊寅の条。欧陽脩は、現任の墨斑便の中には無能な者、貧

 購な者も混っていて、査察を行うのに不適当であるし、またたとえ有

 能な者でも、転運使の仕事自体が忙しいのだから、査察の効果は期待

 できぬと反対した。

⑳ 註⑳に同じ。それにいう、 「所可惜者、自差諸多按察、今錐乗有大

 敷、而老病昏昧之人、望風知儂、近日致仕者漸多、州県方欲澄」と。

 それでは、前節で論じたような欧陽脩の現実認識は、かれの歴史認識のあり方とどのように共鳴しあい、その人間ある

いは社会にたいする認識の深まりと広がりをみせてゆくのだろうか。この問題をかれが撰述した『五代史記』との関わり

の中からみてゆきたい。

 いったい欧陽脩が活躍する北宋中期の人びとにとって、五代という時代は、他の歴史時代とは異なる一種複雑な気持ち

                                 ①

を抱かせたようである。唐と同じく、人びとの口によくのぼり、身近な先例を提供する時代ではあったが、唐が模範とす

39 (493)

Page 14: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

                            へ

べき対象であるのに比べ、それは多くの場合、ギ否定しさるベドき負の価値を背負っていた。記憶が新しいだけに、否定には

                       ②                        ③

主観や感情が伴う。五代十国の後詰忙官職を与えたり、繰り返される五代に関する歴史の編纂などが、そうした記憶を新

た虻させたかも七れぬ。欧陽脩も時代の子である。こうした風潮の例外ではありえない。かれの上奏文に、五代の史実に

                                       も

基づく意見がままみられるのは、端的にこうした情況を物語っていよう。しかも、かかる負の価値をもつ五代という時代

は、身近な存奪あればあるほど、格好の鑑定となったであろ勉・すなわち・五代は昌の時代がかかえ喬題を鮮明に

捌翻する役割を果す。とすればハ欧陽脩は五代と現代の比較から、どのような問題を引き出したのだろうか。この問題を

「本論」という文章から考えてみよう。それは全部で三篇。そのうち二篇は『欧文集』居士管巻一七に、他の一篇は同書

居士外集巻九に所載。これら三篇はもともと上・中・下篇として同一の文章を構成していたが、そのうち、欧陽脩が晩年

に棚倉し直した上篇だけは・居士外集に収められることにな・たとい掴も・とも・両者は内容も異なり・別個にしたの

も首肯できる。居士集の方は、仏教批判で有名な文章である。ここで取り上げるのは、この仏教批判の方ではなく、居士

外集の議論である。

                     ⑥

 文章の初出は慶暦二年(一〇四二)といわれるが、晩年に制定されたこの文章中にも、その雰囲気は充分継承されている。

                                              ⑦

行間から、西夏との緊張が続く明道から慶暦にかけての時期を念頭に置いていることが窺われるからである。欧陽脩は宋

朝の当面する課題を、財政と兵制を軸に、それを規定する制度と運用にあたる人とに焦点をあてて論述する。さらにその

議論の上に立って、五代と当代の政治の比較に及ぶ。欧陽脩はいう。五代の君主も恒久的な施策を念願しながらも、それ

ができなかったのは時の勢いである。周囲は外民族や十国にとりまかれ、支配地域内にも叛将や強臣がいた。しかも国の

                                  にろや

創建はどれも日が浅く、確固とした地盤を築くに至っていない。だからまるで弊庵のように、奥を補修すれば隅が崩れる

という具合で、かろうじてもちこたえているありさま。当然、法律や制度は一時しのぎにならざるをえなかった(蔑三無法

度、一切筍且葡巳)。他方、現在は五代に存したそのような制約がないにもかかわらず、財政や兵制、そしてそれを規定す

40 (494)

Page 15: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

る制度はうまくゆかず、運用にあたる人材をえていない。 一時しのぎに終始しているさまは、五代と全く同じ、と(一切

葡且、不異五代之時)。すなわち、この文章は、現実が「筍且」という点において負の価値をもつ五代と本質的に等質だと説

くのであり、その根源的な等質性から、現実情況の深刻さに警鐘を鳴らしているのである。

 「本論」を手がかりとして、欧陽脩が五代と寝息の等質性を、 「筍且」なる概念から捕捉していたということそれ自体

            ⑧

は、すでに先学の指摘がある。しかしながら、 「編物」なる概念で捕捉されていることのもつ更に深い意味は、あまり追

究されていないように思われる。すなわち、第一に、現実社会を「荷且」という概念で捕捉していることの当該社会にお

ける意味であり、そしてかかる現実認識のし方が、具体的な政策実現の場である慶暦の改革の中でどう生かされたかとい

う問題である9これについては、前節で論じた。第二に、現実社会と五代を「葡且」という概念で捉えることと、『五代

史記』の論理臓思想構造とがいかなる有機的連関をもつかの間題である。’第三に、かかる現実社会と五代にたいする認識

が、どのようなかれの体験とその内面化を通して『五代史記』に結晶してゆくかという問題である。第二については節を

改めて論じよう。ここでは第三に関して探求したい。                        、

 この問題を考察するとき、 『五代史記』編纂の開始時期における欧陽脩の思想情況と、さらにそれと当該書のライト・

                                                   ⑨

モチーフとの関わりが重要な意味を帯びてくる。言い換えると、 『五代史記』の撰述が実質的に開始されたといわれる、

景祐三年(一〇三六)の夷陵県令(湖北野々昌県)への疑諦は大ぎな意味をもつのである。事件は欝欝開封府の苑仲俺に発す

る。かれはこの年、 「百官図」と題する文章を奉って、宰相の呂夷簡が宮僚の登用に自分の門下の者を多く採用している

と述べたところ、昌笠置の怨みをかい、知恵州(江西雀Yに左遷された。余靖・畢濠らは姦直滝を弁護して、やはりそれぞ

れ左遷された。欧陽脩は、苑仲滝を弁護しなかった諌官の高若訥に、 「煎れ足下、復た人間に差恥の事有るを知らざるの

             ⑩

み」という侮辱的な書簡を送り、それが庵とで左遷の憂き目をみた。

   専                               ⑪

 ここで見逃せぬのは、、左遷を契機に欧陽脩の内面に起った変化であろう。任地に行く途中の江蘇府(湖北省慶陵県)から

41 (49Jr)

Page 16: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

                                                  ⑫

サ沫に宛てた書簡中で、県令に着任後、それまでの多少とも自堕落な生活から脱却し、仕事に励むことを誓っている。た

しかに、それまでの欧陽脩の生活は、反省に値したかもしれぬ。何よりも若かった。科挙の合格は天聖八年(一〇三〇)、

二十四歳のときである。翌、天聖九年、西京留守皇宮として洛陽で任官。そこで、以後、終生の友人となる予洗・梅士長

                                          ⑬

・思上らと交遊を結ぶ。かれらの遊興はときに節度を越え、留守王曙の忠告を受けたこともあった。欧陽脩が官妓との艶

                 ⑭                    懇

聞を取りざたされたのも、この頃である。欧陽脩は晩年、こう述懐している。 「私は聖賢の道を知るのが遅すぎました。

三十年前はまだ文章のあでやかさに溺れ、酒を飲んでは歌を歌い、それこそ人生の楽しみだと考えて、少しもその非を悟

りませんでした。後になって、ようやく聖賢の道を知り始め、それまでのことを後悔しましたが、すでに取りかえしがっ

きませんでした」。

                         ⑯

 実際、県令としての仕事は、かなり熱心に行ったらしい。そして、そこでの経験から、欧陽脩は次第に実務の重要性に

     ⑰

目覚めてゆく。だが、さらに重要なのは、夷陵艇諦を契機にかれは思索的になり、事物をみる目をより深化させたことだ

ろう。かれは、財諦の興奮が冷めるにつれ、罪をえて財官されたのだという気持ちが、やがて澱のように心の底に積り積

ってゆくのをどうしょうもできなかった。それにかれの心に陰騎を添えるのは、もう若くはないという感情であろう。既

                               ⑱

官の年に三十歳を越えた。慶暦元年(一〇四一)、余靖に宛てた書簡にいう。「まるで頭がにぶったように、学問の方も徳行

の道も一陶に進歩しません。それなのに年齢だけはどんどん高くなってゆき、若いときの元気はいよいよ衰えてゆきます。

こんな風にして、結局は何の役にも立たないまま世の推移に身をまかせ、世の賞讃をえず朽ち果ててしまうのでしょうか」。

                                           ⑲

 欧陽脩はとりわけ詩人の場合、逆境こそ事物をみる目を養い、その詩を珠玉のものにすると説くが、それはかれ自身に

も当てはまったのではなかろうか。というのも、この頃、ある年若い人物に与えた書簡で、浮華に溺れず、古聖賢のよう

                     ⑳

に内面を充実させることこそ肝要だと諭しており、欧陽脩自身も財請を契機にかなり思索的になっていると考えられるか

らである。

42 (496)

Page 17: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

 では、疑講を挺子に欧陽脩は何を思索し、そしてそれが『五代史記』のライト・モチーフとどう関わるのだろうか。課

題をこのように設定するとき、南宋初めの人、呉曾の『五代史記』の撰述時期に関する、次のような指摘が興味深い。す

なわち、撰述がもし三十歳を越えたばかりの、この疑請の時期ではなく、晩年の、たとえば画工慶諦から二十余年を経た

                                         ⑪

嘉祐の頃であったなら、馬道を寄るだけでなく、評価する点も出てきたであろうというのである。たしかに、漏道伝がこ

                   ⑫

の諸陵既講期に編纂されたという確証はない。にもかかわらず、呉曾が薦道伝の内容と、この疑講の時期に『五代史記』

が撰述されたこととの間に密接な関連を有すると感じていたことは、きわめて示唆に富む。というのも、前稿で論じたよ

うに、薦道伝は『五代史記』の士人論の中で、王豊肥伝とともに、対既的な意味において、非常に重要な位置を占めてい

るからである。とすれば、この時期における欧陽脩の思想情況は、 『五代史記』の士人論と深い有機的連関性をもつと考

えられないだろうか。

 ここで『五代史記』巻五四の薦道伝に目を移そう。その序論は前稿でも言及したように、国家の存亡が、士人、とりわ

け高位にいる者の倫理性と緊密に結びつくと説き、 『五代史記』の士人論の中における中枢的な役割を果している。それ

は次のように始まっている。

                              よ   かな

伝に曰く、礼義廉恥は国の四維なり。四維張らざれば、国乃ち滅亡す、と。善き乎、管生の能く言うや云々。

すなわち、士人の倫理性を説く典拠に、『細心』牧民篇のいわゆる四維の説を引く。四維の説は、銭大所が指摘するよう

㊧に、前漢の質誼に受け継がれ、当時の官僚のあり方をめぐるかれの議論の中で基軸をなしていた。つまり、結論を先取り

すれぼ、薦道伝の序論における礼義廉恥を重視する背後には、 『管子』そのものというよりも、むしろ越境の議論が念頭

に置かれていたと思われるのである。以下、その推論の根拠を示したい。

                                      ⑳

 まず、欧陽脩は夷陵に財調後、董毛無の『春秋繁露』を読んでいることが確認できるし、 『史記』や『漢書』をも読も

うとしているから、この時期、欧陽脩は砂嵐に強い関心を抱いていたと考えられる。しかも、かれは司馬遷や董仲野には

43 (497)

Page 18: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

    ㊧                  ⑳

批判的だが、旧誼の『新書』には好意的である。2’ 「  ~  、~、~      、

 さらに、㌧両者の認識する時代背景の類似が指摘できよう。 『漢書』巻四八の賢誼伝によると、質誼が文帝に当時の急務

を献策した背景には、外は伺奴の侵趨を受け、内は諸侯王が借上に振舞い、制度もまだ充分に整備されていない情況があ

ったというゆこの献策が著名な『新書』で、当然、上記め官僚のあり方をめぐる議論を含む。欧陽脩が捉えた時代状況も

似たようなものであることは、既述の「本論」から看取されよう。r『五代史記』の撰述が開始されたころ、外は西夏との

緊張が高まり、内は農民反乱に見舞われ、欧陽脩はこうした内外の情勢に危機感をもち、そのことが五代という時代をか

れにとって特異な存在とさせていたのだから。しかも、その危機意識は、 『五代史記』の編纂に直接的な影響をもたらし

ていたらしい。rそのことを明示するのが、 「王彦章画像記」という文章である。それは『五代史記』の士人論に重要な位

置を占める王彦章伝について、その撰述の事情を記したものである。この文章は、慶暦三年(一〇四三)、欧陽脩が早撃通

                             ⑳

判(河南省)のとき、つまり慶暦の改革に参画する直前に撰定された。かれはこの頃、「善善悪悪寒志」(「善を善部し悪を悪

とするの恋」)を抱いて五代の史書を編纂しようとし、そのため王三章に関する史料を捜し求めていたという。そしてこう

記す。王彦章が奇策を用いて敵の晋(のちの後唐)に勝利を収めた史料を読み、かつて自分も西夏との戦闘にたいして同様

の進言をしたにもかかわらず、採用されず自信をなくしていたと之うだから、かなり勇気づけられた、と。

‘ところで、 『漢書』の質誼伝によると、質誼は文帝に当時の急務を献策する一年余り以前に、‘権臣の謹言によって太中

大夫から長沙王の太傅に左遷されたことがある。がれは任地に行く途中、湘水にさしかかったとき、やはり妙機によって

追放され、湘水に身を投じて死んだ屈原を追傷する賦を作り、それに自分の不運を託した。欧陽脩もこの頃、左遷の憂き

眠にあって欝屈していたのだから、上述の時代背景の類似とも重なって、賢誼の議論にたいする共感を深めていたのでは

なかろうか。そのことを推測させるのが、 「質誼不至公卿論」と題する文章である。これは欧陽脩が科挙受験のときに書

いた答案、すなわち「論」である。この「論」は、班固が『漢書』の賢誼伝の賛で、賀誼は天比して公卿にはなれなかっ

44 (498)

Page 19: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

たけれども、文帝はかれの意見を多く実行に移したので、決して不遇ではなかった、と述べていることにたいする批判を

眼目とする。つまり、欧陽脩は、文帝時代の内外の危機とそれの打開策である賢誼の献策を記す一方で、議言によってか

れは中央から左遷され、その後、大望されぬまま失意のうちに死去したというのである。そして、この事実に基づいて、

班固が文帝の賢誼を遠ざけたことを批判せず、ただ質誼の立詰のみを語っていることに強い不満を示す。この「論」は確

                                ⑳

かに、景祐三年(一〇三六)の既諸に先だつ数年も前の文章であるが、石上の献策とかれの失意の境遇にたいする共感を見

出せよう。そして、その共感は、自分が疑諸という逆境を体験することを通して、さらに強められていったとはいえまい

か。 

さて、もし以上のような論拠によって、 『五代史記』の漏路論が、良貨の議論を念頭に置いていたとすれば、欧陽脩の、

工面を契機として深められていった思索も、 『五代史記』の士人論や買誼の議論と密接な連関をもつだろう。買誼は、官

僚に廉恥心を瀕養させることによって、君臣や父子といった五倫の秩序を整え、そして結局は天下を安定し永続させよう

        ⑫

としたといわれる。この論理は、次節で示すように、『五代史記』の論理匹思想構造とかなり似かよっているのである。

とすれば、欧陽脩は疑諦を契機に、それまでの多少とも自堕落で軽薄な性急を改め、士大夫としての自己を内面からみつ

                                                         ⑳

め直し、士大夫のあり方を追求していたといえよう。人生の指針としての儒学への開眼はその一つの現われであろうが、

                                                          O

欧陽脩の士大夫としての自覚は、五代という格好の材料をえて、

 ① たとえば、開封府城内では、街頭で五代の歴史が講釈されていた

  (『東京夢判録』巻五「京瓦伎芸」の項)。

 ②たとえば、歯切四年には、後唐の李氏、後朝の柴琉、後晋の石氏、

  李燈・銭鐙・孟誕・高雪崩それぞれの後喬に官職を与えている(『長

  編』巻一二〇、景祐四年六月丙戌の条)。

 ③ 『宋史』巻二〇三芸文春巻二によって、宋代に編纂された五代に関

  する史書を多少あげると、以下のとおりである。王薄『五代周世宗実

『五代史記』という歴史叙述に昇華したといえまいか

録』、高遠『南唐烈粗実録』、李昊『後壁高祖実録』、同『後世主実録』、

萢質『五代通録』、郷向『五代開皇記隠、王暴風『五代史単文騙、陶岳

 『五代史補』、胡旦『五代史略』など。なお、『五代史記』に、どのよ

 うな史料が用いられたかは、林瑞浪「欧陽修五代史記之研究」(『国立

 台湾大学文史哲学報』第一一三期)に詳しい。

④『長編』巻一〇五、天聖五年二月丙申の条に、「知豊州楊及、上所

                      ヘ  へ   も  ミ  ヘ  へ

 修五代史、上謂輔臣日、五代乱離、事不足法、王業日、殿然安危之 、

45 (499)

Page 20: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

 マ  ゐ  へ  も  も

亦可為監也」とある。

⑤  『欧文集』居士集巻}七の巻末に、 『欧文集』の校訂者の㎝人、丁

 朝佐が次のようにいう。 「刺佐考本論、初選上中下篇、此巻所載、即

 中指二篇、其上篇、編居士集時、難削去、而伝於世、浄曲外集」。ま

 た、『欧文集』居士外集巻九「本論」題名下の註にも、「本論三篇、中

 下篇掌側居士集第十七巻、此乃公晩年所捌上篇」とある(註釈者は特

 定できぬが、南下の周必大が中心となって『欧文集』が編纂されたと

 き、校定者となって参加した者の一人であろう)。

⑥ 黄公渚選註『欧陽永叔文臨 (台湾商務印書館 一九七四年)の「本

 論」題名註。ただ、その典拠は示されていない。 『長編』巻 三六、

 慶暦二年五月甲寅の条に載せる欧陽脩の上奏文を読むと、そこに「為

 君難論」(『欧文集』居士集巻一七)と「本論」の原型がすでに提出さ

 れていることを知る。ちなみに、この上奏文は『欧文集』では居士集

 巻四六に、 「準詔言事夏霞」と題して所載。

⑦「本論」本文中に、「然 遇水早、如明道景祐之闘、則天下公私乏

 絶云々」とか、「今宿之為宋、八十年」とか、「方今承三翌之基業」と

 あることから、それは察知できる。

⑧ 標点本『新五代史隔の「出版説明」(巾華書誌 一九七四年)、石賑

 肇「新五代史撰述の経緯」(無窮会『東洋文化』復刊四一二一合併号)。

⑨撰述の時期に言及したものに、註⑧の二論稿のほか、佐中壮「新五

 代史撰述の事情」(『史学雑誌』五〇一一一)、芝木邦夫「欧陽絡…の史学

 思想」(『加賀博士退官記念屈狸文史哲学論集』講談社 一九七九年)。

 最近、芝木邦夫琉はその論文で、私の界磁が撰述の時期について諭じ

 たように記しているが、前稿では註に少し触れた程度で、それを中心

 に論じたものではない(「欧陽脩の思想的墓盤一五代史記論賛をめぐ

 って…」『竹内照夫博±古稀記念中国学論文集』北海道大学文学部

 中国哲学研究室 一九八一年)。

⑩『欧文集』思土外集巻一七「与高司諌書」。

⑫薬世明琉はその著書の中で、夷陵財訥後、欧陽脩の政治観念・学問

 ・生活態度に大きな変化が現われ、その時以来、かれの生涯における

 方向が定まったと指摘する(『欧陽脩的生平与学術』文史暫出版社〔台

 北〕  九入○年、二〇~二三頁)。しかし、私は本節で明らかにする

 ように、欧陽脩は何よりも、疑論を契機として内面の深化を遂げ、士

 大夫に相応しい自己のあり方を追求していったと考える。ちなみに、

 欧陽脩は慶暦の改革の敗退後の財請を契機にもう一度、人生にたいす

 る態度をめぐって思索を深めてゆくと、私は考えている。夷陵財論が

 士大夫的自己の覚醒だとすれば、それは、宗教的自己の覚醒だと思わ

 れるのである。

⑫ 

『欧文集』居旬外集巻 七所載の歩沫宛ての第一書簡は、その中に

 「及心配、間時人、云郵止里程、方甚得調書置型問」とか、 「昨爲因

 参転運、作庭趨、始覚身是県令突」とあり、それが江陵府から出され

 たものであることが判る。また、この書簡に、 「咽喉自出京愈萸、歪

 今不霊飲酒、到県後、勤官、以懲洛中時瀬慢突」とあり、仕竣への精

 勤を誓う。ただ、「干役志」(『欧文集』所蚊)という、開封から江陵府

 の手前にある公安渡までの舟行日記をみると、飲酒しなかったという

 のが全くの偽りであると判る。

⑬『長編』巻=四、二黒元年閏六月乙酉の条。もっとも、記家によ

 ると、王曙は逆に欧陽脩にやりこめられている。 「悪罵色調修竹日、

 諸君守門拝観晩年之禍乎、正以金峰過度耳、懸子皆唯唯、修独起対日、

 以修聞之、竃公之禍、正以出動不知止耳、曙黙然終幕怒」 〔竃莱公と

 は、漉淵の盟に功労のあった冠準のこと〕。

⑭ 』舘言。。捗6」」戸ご(聾山ρ濤y。〉ミ・㌔ワト。り■

⑯『欧文集』居士外集電}八「筈孫正之第二書」。

⑯ 『欧文集』居止外集巻一七撰載の≠株宛ての第二書簡に、 門夷陵難

46 (500)

Page 21: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽婿における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

 小娯、然署名甚多、而田契不明、僻遠之地、県出離鰻、全書簿籍、吏

 曹不識文字、凡百制度、非如官府一一自新殿整、無妻躬親」とある。

⑰冒ヨ①。・↓.ρぴ貯㌧§.ミ.”薯’に艶=8拙稿「欧陽脩における族

 譜編纂の意義」 (『名古屋大学東洋史研究報告』6)。

⑱『欧文集』需簡巻四「与余嚢公」。

⑲ 『欧文集』居士集巻三三「双盤愈墓誌銘井序」に、「余嘗論其詩日、

 世謂詩人少達而多量、蓋非詩能善人、無窮者而後工部」とある。張健

 氏は、欧陽脩のこうした考え方を最初に指摘した人である(『欧陽修之

 詩文及文学評論』人人文庫 一九七三年、一七~ニニ頁。察世明氏は、

 張健氏の指摘を継承し、 「殆業者而後工也」の例として『五代史記』

 をあげる。だが、 『五代史記』が欧陽脩のどのような逆境から生み出

 されてきたかの記述はない(察氏前掲書、一八○~一八六頁)。

⑳ 『欧文集』居士外集巻一九「与論秀蔓菜一書」。

⑳  『能改斎漫録』巻一〇「欧陽公論嘱葡道乃壮歳時」に、 「蓋欧陽公為

 史暗、甫壮歳、使晩為之、必不爾也、前言謂韓魏公慶暦嘉祐施設、如

 出両手、量老少之異鰍、欧陽難詰処与韓同、其論幽艶、予以為血煙慶

 暦霜枯為例、則道也、庶乎有取干欧陽公莫」 〔韓魏公は韓瑞のこと〕

 とある。

⑫ この時期、欧陽脩は一人で五代の史書を編纂しようとしたのではな

 く、罪法と分担し、欧陽脩は梁・漢・周の各本紀とそれぞれの功臣を

 編纂することになっており、薦道俵を含む雑伝は、まだ日程に入って

 いなかったと考えられる(『欧文集撫居士外集巻一七、界法宛ての第二

 書簡)。なお、界沫は慶暦七年に病没し、以後、雰法の分も欧陽侑が

 撰述したので、結局、 『五代史記瞼の中には歩株撰述の部分は含まれ

 ていない(註⑨の佐中論文)。

愈 『十駕斎養新霊』巻一八「廉恥」に、 「礼義廉恥、謂之四維、此言

 出導管子、而費生影響之」とある。

⑳  『欧文集』居士外集建議一二「書春秋繁露里」にこうある。 「而予得

 罪夷陵、秀才田文初以此本門予、不暇読、明年春、得仮之許州、以舟

 下南郡、睡臥閲此、遂誌之」。

爵 洪魑『容斎随筆』巻四「張浮蔵書」に、 「吾下裳蒲葵陵、方壮年、

 未厭学、欲求史漢一観、公私無有也」とある。

⑳董仲請に関しては、註⑮の引用のあとに、黒土生儒者、時論深極春

 秋聖旨、三惑於改正朔而云王者大=兀者、牽墨黒師之説、不能高其論

 以明聖人開道、惜哉惜哉」とある。司馬遷については、久遠のことは

 知らずとも君子の恥でないのに、かれは孔子でさえ言及していない発

 舜以前のことに、単に自分の知識を誇るために論及していると批判す

 る(『欧文集』居士集巻四三「帝王世青図面」)。

⑳  『欧文集』居士外集巻一七「与黄二七論文叢書」に、 「乱費其弊、

 必見其所以弊之因、若費生論秦之失、而推古養太子之礼、此可謂知其

 本夷」とある。

⑳  『欧文集』居士揺藻三九。

⑬ 「王彦章画像詩性に、「康定元年、無品節度判官来此、(中略)後

 二年、予復来通判州事、歳之正月、平俗所謂鉄鎌馴者、又得公画像而

 拝焉云看」とある。欧陽脩が滑州通判であったのは、慶暦二年九月か

 ら翌年の三月までである(胡桐「鷹陵欧陽文忠公年譜」 『欧文集』附

 載)。したがって、如上の記事の「正月」に王鉄槍寺で王彦章の画像

 を発見し、それを修理してこの画像記を書いたのは、慶暦三年の早い

 時期ということになろう。

⑭  『欧文巌壁居士外集巻二五。

⑳ 欧陽脩が礼部試(省試)を受験したのは、天聖五年(…〇二七)と

 天聖八年(一〇三〇)の二度であり、前者では落第している(胡馬「庵

 陵欧陽文忠公年譜」)。 「費誼不敵公卿論」がそのいずれのときに書か

 れたか特定できない。杜維沫・陳新選注『欧陽修文選』 (人畏文学出

47 (501)

Page 22: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

版社 ~九入二年)の当該文・章の説開でも、天聖五年半ら天聖八年ま

 での間として、特定を避けている。

⑫ 坂野長八『中国古代における人間観の展開』 (岩波書店 }九七二

 年) }二四山ハ~一二六二百ハ。

⑳ 前掲該⑮の「答孫正之第二欝」は、そのことを窺わせる一つの誠左

 であろう。

48 (502)

三 『五代史記』の国家秩序論

 では、「三芳」という概念装置に基づいて形成される、『五代史記』の論理-思想構造とはいかなるものであろうか。

 「筍且」とは、「かりそめ」コ嬉しのぎ」の謂であるが、それは『五代史記』の中で重要な意味をもつ。私がかつて論

           ①

じたことを要約してみよう。 『五代史記』では、列伝に死事伝とか死節伝があることで判るように、士人のあり方として

「死」を非常に重視している。だから、 「死」と書かれること自体、士人にたいする高い評価を意味していた。しかしな

がら、「死」の問題は、それに対置して「多生」「貧生」の言葉が用いられるように、結局はすぐれて「生」の問題であっ

た。すなわち、士人がいかに生きるかが、そこでの問題であった。そしてその生き方は、 「義」という概念に凝縮され

                                      へ  も  カ

る、いわば倫理的皿主体的あり露なのである。かかる「義」的あり方、すなわち真攣な生き方は、高位に居る老、とりわ

け儒学を学ぶことでそうした地位についた者ほど強く要請された。なぜなら、儒学こそは、そうした倫理を基軸に据えた

学問だったからである。その意味で、五代を代表する士大夫であり、何よりも後室以来宰相という最高位に居りながら、

一向に玉朝の交替を意に介さなかった濤道は格好の批判の的となった。 「廉恥なき者」という断罪は、倫理という根幹か

              ヘ  ヘ  へ

らの否定であるだけに、薦道の生き方そのものを否認したことになろう。かくて、 「荷且」の問題は、士人論に限れば、

士人のあり方-倫理の問題に転化してゆく。ただ注意すべきは、欧陽脩は全ての士人に一律平等にかかる倫理臆節義を求

めていたのではなく、高官に対する苛烈な節義の要求の一方で、卑官へは、ある特定の条件を付しながらも、ともかくそ

                  ②

れの寛大さをある程度認めていたのである。とすれば、欧陽脩が土人間に設けたこのような節義要求の差違は、官僚組織

Page 23: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽惰における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

における、さらにいえば王朝国家における、かれのいかなる秩序観に基づくのであろうか。この問題を、『五代史記』の

記す礼制から検討したい。

 『五代史記』において、礼制に関する記述はそれほど多くはない。五代にはみるべき礼制がないというのがその理由で

 ③

ある。とはいえ、些少な記述の行間から、五代の人びとが剥離にいかに対応し、それを欧陽脩がどのように捕捉している

かは、充分に窺うことができる。

 欧陽脩はまず、五代は礼制の崩壊した時期だと規定する。巻九、天福八年二(九四三)月庚午の条に、 「寒食、望祭顕陵

                        ④

干南荘、焚御衣紙銭」とあるが、その条下の徐無党の注に、「焚衣・野祭の類は、里馬巷〔しもじも〕の人の事なり。之を

           くず    あら                                    ⑤

天子に用うるは、礼楽の出るるを震わす」と評釈しているのは、そのことを直戯に表わしていよう。

 ところで、欧陽脩によれば、かかる礼制の崩壊とは何よりも三綱五常の道、五倫の秩序の崩壊を意味していた。そして

批判の鋒先は、天子自らこの崩壊を促進する先頭に立っていることに向けられる。巻一七の墨家人伝の論賛に説く。

            へ  リ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  あ  ヘ  へ

 五代は干父賊乱の世なり。礼楽崩壊し、三綱五常の道絶えて、先王の制度文章は地を掃いて是に尽く。寒食・野籍して紙銭を焚くが

    へ  リ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     へ  リ  ヘ  ヘ  ヘ  ヨ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 如く、天子にして間閻・齢鯉の事を為す者多し云々。

 さて、こうした天子を先頭にする三綱五常の崩壊は、義児の存在によって一つの極点に到達する。青茶とは、本来、血

                                              ⑥

縁を基礎として成り立つべき父子関係が擬制化されたもので、五代という時代を特色づける現象である。しかし、 『五代

史記』の義歯伝(巻三六)が中原の王朝である後唐の場合のみを取り上げたのは、やはりそこに、天子の家自らが人倫秩序

                         ⑦

を乱しているという批判意識が介在しているからであろう。それでは、かくまで執拗な礼制批判から、欧陽脩のいかなる

秩序観が導き撮せるのであろうか。ここで、かれにおける礼制のもつ意味をさらに追究せねばならない。巻一六、唐家人

伝の論賛にいう。

          わか                                                               もと

 夫れ礼なる者は、嫌を別ち微を明らかにする所以なり。甚しいかな、五代の際、霜書士臣父父子子の道は論り、宗廟・朝廷は、人鬼

49 (503)

Page 24: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

  〔ひともそせんのたましいも〕皆其の序を失う。斯れ乱世と謂うべき者か。

すなわち、礼とは、紛らわしく、不分明なものを一目瞭然にすることで、具体的には、君臣父子それぞれの関係を本来あ

るべきように確定することだと説く。それでは、この君臣父子のいわゆる五倫の関係は、どういう倫理秩序の原理なので

あろうか。別の箇所での欧陽脩の意見を聴いてみよう。

 鳴呼、五代の乱は極まれり。伝の所謂天地閉じ、賢人隠るるの時ならんか。此の時に当りて、臣にして其の君を温し、子にして其の

 父を殺す云々。 (中略)五代の乱、君は齎たらず、臣は臣たらず、父は父たらず、子は子たらず。兄弟夫婦の人倫の際に至るも、大

                ちか

 r壊せざるなし。而して天理其れ滅ぶに幾からんか。 (巻三四、一行伝序論)

この序論は、『易』の坤卦を敷歯し解釈した「文言」を基調とする。「文言」は、君臣・父子・夫婦などの関係を上下の秩

                       ⑧                               、

序と捉え、下の上に仕えるあり方を説いたものという。

                                 『易』がこうした倫理秩序を説いたものだとい

                        しかも欧陽脩は、

       ⑨

う基本認識をもつ。とすれぼ、この序論から、上下の秩序原理に基づく、そしてそれぞれの「分偏に応じた役割を充分に

念頭に置いた、いわば階梯的秩序原理が王朝国家の公理だと、欧陽脩が考えているといえよう。ただ次の点は注意してお

きたい。すなわち、一般的にいって、階梯的秩序原理にあっては、上の「分」にゆくほど支配権力をそれだけもっことに

なるだろう。しかし欧陽脩の考えにおいては、大臣の責任を鋭く問うことでも判るように、権力にはそれに相応する倫理

が付随せねぼならぬというのである。なぜなら、大臣たち高位高官の一挙手一投足が、国家の利害に深甚の影響を及ぼす

    ⑭

からである。つまり、欧陽脩の上下秩序観にあっては、下の上に仕えるあり方は、上の下にたいする責任を媒介として初

めて保障せられるものであった。

 このようにみてくると、慶暦の改革に際して、欧陽脩が誰よりも大臣たち高位高官の心任を厳しく問うている理由が自

ずから判明しよう。中でも呂夷簡は改革の直前に病気で官界を去るまで、二十余年間にわたって宰執の座にあり、仁宗の

信任が厚かった人物だけに、それへの痛烈な批判は、弊政をもたらした張本人として当然すぎるほどであった。欧陽脩は、

50 (504)

Page 25: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽婿における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

呂夷簡の治政によって綱紀が乱れ、民衆が困窮に陥ったと断罪する。そしてついに、 「夷簡廉恥を識らず、便ち国家の過

               ⑪

分の恩沢を受く」とまでいう。この論断は、薦道に対する欧陽脩の評価と軌を一にしており、前節の薦道伝をめぐる推論

と考えあわせると、極めて興味ぶかい。五倫を基礎とする秩序理念が、一方では歴史叙述に、他方では現実の政治的発言

となって現われているように思われるからである。次に節を改めて、かかる階梯的秩序体系の頂点に立つ皇帝のあり方を、

欧陽脩がどう捉えているかを検討してゆく。

①  「はじめに」の註①の前稿。

② 巻二六鳥震伝後の論にいう。 「夫食入之禄、而任人位事、事有任専

 其責、而其国之利害、由己之為不為、為之錐利於罵、葡有害於其親者、

 猶将辞其禄蛆虫之、矧其事衆入所皆可為、而任不専己、又揺曳与不為、

 国之利害不繋三者」。 この論では、その行為が國の利害に璽大な影響

 を及ぼすものと、そうでないものに分け、後者には前者ほどの責任を

 求めていない。

③ 前掲標点本『新五代史』の門出版説萌」。巻五八司天考序論に、「鳴

 呼、五代礼楽文章、著無取下、其後世車塵欲知之者、不可以遣也、作

 司天職方考」とある。

④ 徐無党の注は、欧陽脩の意見であるというのが私の考えである(前

 稿註⑧参照)。

⑤列伝でも、幕無崩壊に対する批判がみられる。たとえば、巻四六、

 霊彦威俵の場合。天成二年(九二七)、朱守股の反乱が鎮圧されたと

 き、覆彦威は使者を遣わして、その祝いとして明宗に矢を献じたこと

 を捉え、 「君臣皆不知礼、動多此類」と論難している。

⑥ これについては、粟原益男氏にいわゆる仮父子結合に関する…連の

 研究があるが、ここでは焦舗だけをあげておく。 「優勝五代の仮父子

 的結含における姓名と年齢」 (『東洋学報』三八…㎎)。

⑦ 義児伝の序論に、 「鳴呼、世道衰人倫壊、而親疎悪政反無常、干文

 起於骨肉.異類含為父子、開平薄徳五十年間、天下五代婿実八日、其

 晶出於弓養、蓋盛大墨取天下、其次立功名、位将栢、量非因時之隙、

 幕軍合面相資者耶」とあり、人倫秩序の壊乱を五代という中原王朝に

 的をしぼって批判する。

⑧ 小島祐馬氏は、『易』の階級的秩序制を説く(「『易』に現われた階級

 思想」 『中国の社会思憩心』筑摩書房一九六七年)。 「文言」について

 だけならば、陶石波文康π本『易経』」∴、 一〇五・⊥ハ部曲が要領を・κた解川説

 をしている。

⑨『欧文集』居土集巻}八「易或問三首」に次のようにいう。「其窺

 則天地万物慰臣父予夫婦人倫之大端也」。

⑩ 註②参照。また、貞明元年(九一五)、天孫軍が反旗を翻したとき、

 反乱を唱導した当人よりも、その主謀者に迫まられて反乱に同調した

 賀徳倫という節度使に、 「貴重」であるがゆえに糞任を厳しく問うて

 いる(巻三貞明元年三月己丑条下の徐無党の注)。

⑪『欧文集』奏馬継巻匹「論呂夷簡捌子」。『長編』巻一四三、慶暦三

 年九月戊辰の条。

51 (505)

Page 26: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

四 君  主  論

52 (506)

 慶暦の改革時の皇帝仁宗は、十三歳で即位し、五十四歳で崩御するのだから、その治政は四十余年の長きに及ぶ。 『宋

史』巻一二の論賛は、仁宗の治政と人柄を論評しているが、まず次のように総括する。 「恭倹仁恕は、天性に出ず」と。

たとえば、普段着は何度も水を通したものだったし、死刑判決が下された場合でも、何かしら疑わしいところがあれば再

                                                   そくだっ

度調査させ、そのために死刑をまぬがれるものが毎年、千余人に達した等々。また君臣関係については、「君臣上下は側旭

〔いたみかなしむ〕の心と忠厚の政ありて、以て宋三百余年の基を培着する有り」と、国礎を強固ならしめるほど良好であ

ったという。かかる評価は、慶暦の士を士大夫の典型まで押し上げた宋学の、その思想体系の定着にともなって、かなり

               ①

固定した見方となっていったらしい。しかしながら、史実を詳細にみると、こうした見方にも疑聞がわく。仁宗の評価が

そうだし、それに君臣関係もそれほど良好であったとは思えぬからである。

 仁宗は生涯を通じてみれば、節倹につとめた皇帝といえるが、それでも若年の頃には無軌道な振舞も多少みられる。十

三歳という幼年で皇帝となったので、初めのうち実際の政治は真宗の皇后劉氏が行っていた。その劉太后が明道二年(一

                                                   ②

〇三三)三月に崩じ、親政が施かれるようになると、 一時、解放感も手伝ってか健康を害するほど酒色に溺れてしまう。

                                    ③

また、この頃、劉太后の意志で皇后となっていた平氏を、ほんの環細なことで廃した。折りも折り、そんな時期に天変地

異が頻発する。仁宗一代を通じて天変地異は、割合い多い。そのことは、 『宋史』五行志を一覧するだけで判るが、とり

わけそうした現象は、天聖から慶暦にかけての時期に集中している。そのたびに官僚の綱紀粛清が叫ばれ、仁宗の治政に

                ④

たいする姿勢を問う意見が上奏された。仁宗はそれらにたいし、公式には天謹を戒めとしつつ、人事を尽くすことが肝要

       ⑤          ⑥                       ⑦

だと述べていたが、他方で方術を好み、図緯による『易』解釈に心をひかれていた。仁宗のこうした志向性は、昇進を企

                                    ⑧

てる一部の地方官を瑞芝の献上など、瑞兆の報告にかりたてる現象を生み出していた。

Page 27: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

 仁宗と至上の関係はどうであったか。仁宗が親政以来、誰よりも信頼したのは、後に改革を指導する人びとと敵対した

                                                 くちひげ

呂夷簡である。次のエピソードは、それを如実に示す。濃墨簡が病気に倒れ上殿ができなくなると、仁宗は昔から髭が病

気によいと聞くといって、登営の髭を手ずから薬と混ぜて下賜したし、かれの逝去の報が伝えられると、 「国を憂えて身

                              ⑨

を忘れること、呂夷簡ほどのものはいない」と述べ、涙を流したという。その呂夷簡は、改革派の人たちを朋党を立てて

いると非難し、しばしば疑講に追いやっている。仁宗も朋党にはことのほか過敏で、早くも天聖七年(一〇二九)三月には

                 ⑩                                       ⑪

朋党を警告する詔勅を下そうとしていた。朋党は名声を求めようと狂奔し、治政を害することが多いというのである。仁

宗の朋党嫌悪は、改革派への警戒の念を呼びおこす。殊に士大夫間に声誉の高い苑仲里にたいする不信の念は深い。景祐

三年(一〇三六)、苑仲俺は「百官図」を奏上して時政を批判し疑官されるが、仁宗は宰相張山霧に、萢仲滝が自分を廃し

ようと企てている語っている。このときは、張士遜が苑仲掩を極力弁護したため、隠里もようやくその疑惑を解いたとい

⑫う。とはいえ、やはり改革派への不信の念は、完全に払拭しきれなかったのであろう。慶暦五年(一〇四五)、章得象らの

苑仲俺を追いおとす好計を見抜けず、かえってその言辞を信用してしまう。話はこうである。この時期、改革への不満が

苑仲滝にたいする攻撃を激化させ、ついに苑仲俺は参知政事を辞任したい旨を願いでる。仁宗はすぐにも認可しようとす

るが、箕島象はそれが得策でないとして、こういう。 「怨讐俺には虚名があります。だから一度の請願で辞職させると、

軽しく賢臣を退けたといわれますので、ひとまず認可しない方がよいと思います。もし仲俺がそれに感謝の上表をするよ

うでしたら、辞職願いは偽りであったことになりますから、そのときは免職なされたらよろしいでしょう」。仁宗はこの

                                      ⑬

意見に従った。果して苑仲俺はワナにはまり、仁宗は再びかれを任用しようとしなかった。

 このような情況は、改革派の平話を見る目を冷静にしたに相違ない。このような話が伝わる。慶祥三年(一〇四三)、張

海・郭遠山を領袖とする反乱が仁山(陳西省)に起こり、京雲路を中心として象潟を劫掠してまわった。賊が高郵軍(江蘇省)

              ⑭

にさしかかったとき、知軍士仲約は衆寡敵せざるを知り、被害を朱然に防止しようとして軍下の富民に醸金させ賊を歓待

53 (507)

Page 28: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

した。厄災はそのためまぬがれたが、収らぬのは事の次第を聞いた朝廷である。当然、晃劇職の処分が取り上げられた。

結果は、極刑だけは逃れた。というのも、苑仲流が高草軍に充分な備えのないことを理由に仲約を弁護し、仁宗もそれに

賛成したからである。だが、枢密副使富弼は、この処分に不満で、綱紀棄乱の今日、仲約を処刑して一罰百戒を示すべき

だと抗弁した。仲俺はそのとき、弼にこうささやいたという。軽しく臣下を諌獄するように皇帝を導くべきではない。な

                                              ⑮

ぜなら、今上の気持ちが変わり、自分たちが失脚したとき、わが身だってどうなるか保証できないから、と。

 改革の理想に燃えながら、その仕える皇帝が必ずしも信頼できぬことは、理想実現の前進をはばむ。しかし、改革に直

面して皇帝の問題は避けて通られぬ。避けられぬなら、それを正面に据えて改革の理想に見合う君主像を作り上げ、それ

を現実の皇帝につきつけてゆこうとするのは当然であろう。改革前後における皇帝のあり方をめぐる論議は、こうした箏

情と関わるのではないだろうか。では、その蓉主管とは何か、欧陽脩にたちかえって検討しよう。その場合、純粋な、い

わば理念型として提出されている『五代史記』の君主像を手掛りとするのが便利である。

 『五代史記』の本紀が君主論に多くの紙幅を割くのは、その性格からして当然であろう。本紀は、皇帝の治績を中心に

叙述されるものだからである。もっとも、本紀だけが君主のあり方を論じているのでなく、本紀以外でも、直接・間接に

それを見出せる。巻三一周臣伝の論賛は、次のように述べている。国を治めるのは、囲碁に似る。囲碁の勝敗が、碁石の

用法にかかっているように、治政の根本は、慰主が臣下の才能をいかに発揮させるかどうかにあるからである。つまり、

臣下を適性に応じて職掌を与えることこそ肝要だと説く。ここでは、かかる理想の君主として、後周の世宗を挙げる。欧

陽脩は、世宗にかなり好意的なのである。別の箇所で、南唐征伐の手順をめぐる議論に関連して、 「其の虚心にして聴納

                 あに           ⑯

し、人を用いて疑わざるに及んでは、山豆所謂賢主にあらずや」と評す。臣下の才能を洞察し、かれらの意見をよく聞き

(「

ョ納」)、かれらに全幅の儒頼を置いて任用したこと(「用人」)を評価したのである。呉の開祖楊行密にたいする評価も、

同様の臣下への信頼行為に基づく。そしてその行為こそが、楊行密の死後、権臣徐温に実権を奪われながらも、呉が二世

54 (508)

Page 29: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽衛における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

                     ⑰

四主五十年もの命脈を保持した原因であるという。

 しかしながら、 「聴納」といっても、真に聞くに値する意見かどうか、あるいは「用人」といっても、本当に用うべき

有為の人物かどうか、それらの判定は難しい。その困難は、どのように解決したらよいのだろうか。この問題を論じたの

                             ⑱

が、「母君難論」(「君為るの難きの論」)という欧陽脩の文章である。文章は改革に先だつ繋累二年(一〇四二)、その藍本

が「本論」とともに上奏文の形で出ている。つまり、慶暦の改革に先だって、欧陽脩は霧主のあり方に強い関心を抱いて

いたと考えられる。文章は上・下の二つの部分からなり、上が「用人」、下が「聴言」のそれぞれの困難を取り扱う。ま

・ず「用人之難」。結論をいえば、鷺主はその人物と施策が臣民の支持をえている人を用い、その人に全幅の信頼をよせて

治政を担当させるべきだという。すなわち、「用人」の根本に臣民の支持を置く。次に、「直言之難」。「聴言之難」とは、

巧言が君主の耳に入りやすく、忠言が聞き入れにくいということではなく、君主が充分な注意を払っても、良いと思うあ

る意見を採用して失敗する場舎と、採用できぬと考えた意見がかえって成功をもたらす場合が生じてくることを指す。し

かしこの場合も、新しく奇抜な意見に与せず、多数の人びとが支持する老成の意見に従えば、失敗は未然に防げると説く。

やはり臣民の支持を根底におく。

 とはいえ、こうした臣民の動向が君主の施政に正しく反映されるには、むろんそれ相応の条件が必要なことはいうまで

もない。いわゆる欧陽脩の「朋党論」は、この問題を論じたものであろう。 「朋党論」には、慶暦四年(一〇四四)に朝廷

       ⑳

へ提出したものと、 『五代史記』巻三五唐六島伝の論賛に所収のものとがある。ただ前者は、当面の問題である臣民の動

向と悪主のあり方の関係という点に踏みこんだ議論を展開していないので、ここでは唐六臣伝の論賛に依拠して述べたい。

 朋党には、道義によって立つ窟子の集まる朋党と、利害を共有することで集まった小人の朋党がある。その中で君子の

朋党は、君主に世の中の正しき事柄を聞かせ、行い正しい人をひきわせる働きをし、結果として国家の安定に寄与する。

つまり、君子の朋党は、鱈主に臣民の動向を知らせるパイプ役を果す。だから、もし道義によって立つ君子が、朋党をな

55 (509)

Page 30: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

しているという批難によって朝廷から一掃されでもするならば、君主は孤立してしまい、その判断を正しく保てなくなり、

ついに国は亡ぶ。君主はそれゆえ、臣下の意見が正しく反映されるように注意し、朋党批判によって君子が朝廷から斥け

られることのないようにせねばならない、と。唐六下伝の論賛は以上のような議論を展開するが、この議論が読むものに

説得性を与えるのは、それを裏付ける具体的な史実をこの巻で展開しているからであろう。すなわち、この巻では、朋党

批判で君子が朝廷から払底し、あとに残ったものが唐を滅亡させ、後梁の建立に協力してゆくさまが、唐朝の士人を通し

て実に生き生きと描かれているからである。

 さて、君主に臣民の動向を察知することと、朋党批判の乱用によってそれの正当な反映を阻碍することへの注意が喚起

されるとすれば、そこに立ち現われる君主像とは、恣意性を排した、極めて公正な態度を持する姿ではなかろうか。そし

て君主の倫理とはせんじつめれば、こうしたいわば至公とも言うべき原理に、その淵源を有するのではないか。 『五代史

記』の君主像は、そうした祖貌をもつ。

 乾祐三年(九五〇)、魏(河北省)に鎮する郭威は後漢に反旗を翻し、都に攻め上り、やがては後漢の実権を掌握するに至

る。だが、都にいた家族は、かれが都に到着する前に、後漢朝廷の命令で劉鉄という武将に謙鐵されていた。そこで郭威

は都に入ると、劉鉄とその家族を捕え、報復にでようとしたが、人心を収擁する必要から鉄を殺すにとどめた。欧陽脩は

この処置をこう論評す。

    ヘ  ヘ                                                                                                へ

 二黒、至公は天下の共にする所なり。其の是非曲直の際、父王の子を愛すると難も、亦或いは私を得ざる所有らん云々。 (巻二〇周

 家人伝論賛)

このとき、郭威はまだ正式の天子ではないが、事実上の皇帝であり、充分その権力を行使できる立場にあった。にもかか

わらず、至公の原理の下に、肉親の情-私を抑止せねば、人びとはその主権老としての地位を承認しなかったであろうこ

     ⑳

とが窺われる。

56 (510)

Page 31: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

 君主にたいする至公の原理の要請は、他方でその動揺が悲劇的な結果を招来するという史実の提示によって、その根拠

                                                    ⑫

をさらに強化してゆく。窟官・女寵など皇帝を至公性から私権化へと堕落させやすいものにたいする注意の喚起である。

                             ㊧

これに後唐の政治史を彩る荘宗の伶官寵愛への批判がつけ加わる。

                                  きわま   あに

 便れ禍患は常に忽微〔ほんのささいなこと〕より積りて、智勇は多く溺るる所より困る。量独り伶人のみならんや。伶官撰を作る。

  (巻三七伶官伝序論)

つまり、君主はその至公性を阻碍せぬように、いかなる特定のものへの惑溺にも陥ってはならない。とすれば、自己を厳

しく律するという意味で、いきおい倫理的とならざるをえぬ。すなわち、君主の至公性は倫理性によって支えられる。

 かくして、欧陽脩は「分」を根底に据えた階梯的秩序原理に基づく官僚体制の頂点に、至公桟倫理的天子を戴く国家像

                                 ⑳

を鮮明にした。いわばこの考えは、 「皇帝機関説」ともいうべきものである。なぜなら、皇帝は恣意を排して臣民の動向

に従って判断を下す公正無私の存在でなければならぬから。ところで、至公臨倫理という理念像は、次に紹介する天人相

関説にたいする欧陽脩の考えを検討することで、その姿をより鮮明にするであろう。

 『五代史記』をも含め、欧陽脩の思想を特色づけるものに、かれの天人相関説への懐疑がある。災異を人間世界の事象

に結びつける、董仲脅を初めとする漢儒以来の考え方を強く否定するのである。これについては、すでに先学の指摘があ

                  ㊧

り、殊に寺地遵氏はそれを総体的に論じた。しかし、欧陽脩は天変などの現象が政治にもつ意義を、完全に否定している

のではない。いわく、

 昔、孔子春秋を作りて、天人は備わる。予、本紀を述べて、人を書きて天を書かず。予、何んぞ敢て聖人に異ならんや。其の文は異

                                             のぞ           ヘ ヘ へ

 なると錐も、其の意は一なり。発舜三代より以来、天を称して以て事を挙げざるなし。孔子、詩書を冊するも虫かざるなり。蓋し聖

  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  マ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 人は天を人より絶たず、亦天を以て人に参せず。天を人より絶てば、周ち天道廃す。天を以て人に参ずれば、則ち人事惑う。故に常

 に存して、究めざるなり云々。 (巻五九司天考第二序論)

or7 (511)

Page 32: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

と。天道を人事に参入せしめることを揮否はするが、天道と人事の関係を全く否定しさってはいない。ただ、その二つの

                                              ⑳

関係を究明することなく、曖昧なまま併存しておく。愛宕松男玩の巧みな表現を借りれば、 「天道は一応そこに否定され

つつ、更にもう一度否定される」のだ。つまり、天道と人事はある種の微妙な関係性において併存する。とすれば、天道

と人事のこうした微妙な関係性からすると、災異で政治が左右されることは阻止できるとともに、それ自体はある種の警

告として、皇帝に政治の刷新やその倫理の飼養を要請できる。伝統的天人相関の考えを一部否定しながら、その積極的な

側面は充分に受け継いでいるといえよう。天聖を中心とする時期に災異がおきるたびに、その対策と同時に、しばしば皇

帝個人の倫理性への言及がなされたのは、こうした背景のもとによりよく理解できよう。とすれば、天子の至公-倫理性

という理念像は、かかる微妙な天人相関観念によって補強されてゆく。

58 (512)

①鎮一節註⑫の宮崎市定疵論稿。

②  『長編』巻一一五、崇祐元年七月甲子の条に、 「参知政購宋綬以帝

 冨於春秋、天下無事、慮燕楽有漸、乃上言、 (中賂)願陸下念之、至

 若醐…務清暇、深居間燕、密戸味旧以調、六気節山且、以順四時、愛繭焚玉躬、

 使不様傷者、乃保和平、無瓢之照也」とある。また、望月壬申の条で

 は、直ぐあとに言及する郭氏廃藩の後、尚・楊二美人が寵ときそい、

 そのため仁宗が身体の不調をうったえるほどであったことを記す。

・③これについては、第一部の註⑧を参照。

⑧ 実例をいくつか挙げよう。 『長編』巻~一閥、景祐元年三月辛酉条

 の謝緯の上奏。陶魯巻一二〇、景祐四年十二月辛二条の葉清臣の上奏。

 同書同巻景祐四年十二月乙酉条の韓蕩の上奏。同欝巻一二…腰元元年

 正月乙卯条の蘇舜欽の上奏。量子岡巻宝元元年正二丁卯条の蘇紳の上

 奏。同書巻一二六康定元年⊥二月丙子笹の賢躍田朝の上言。

⑤『長編』巻一二六、康定元年二月辛卯の条にいう。「上騰輔臣日、

 陰陽占口中否参半、紺以甲子三、武王難甲子起、二者当舐畏天道、要

 在人事応之何如爾」。

⑥『長編』巻=一七、康定元年五月庚辰の条に、「上素縫方術」とあ

 る。

⑦ 仁宗は、林禺という人物が図緯で『易』を解釈した説に、一時まよ

 わされたことがある(『長編』巻一三五、慶暦二年二月丙戌の条)。

⑧ 時代は少し下るが、簡長編』巻…七〇、皇祐三年六月丁亥の条にい

 う。「無為軍献芝草三百五十本、上日、朕以豊年為瑞、賢臣為宝、至於草

 木虫魚之異、焉足尚哉、知零落孝標特免罪、傍耳天下自今母得以聞」。

 この記寮は、かえって瑞兆の報告の盛行を立証するのではなかろうか。

⑨『宋史』巻ゴ=一呂夷簡伝。なお、二軸簡については、第一節の註

 ⑦の王穂毅氏論稿を参照。

⑩  『長編鰯巻~〇七 天豊七年三月癸朱の条。

⑪ 

『長編』巻一五三、慶暦四年十一月己巳の条。

⑫  『宋史』巻三一四萢伸滝伝。 『萢文正公図』言行拾遺事録巻二。

⑬『長編』巻一五四、慶暦五年正月乙酉の条。冒ヨ。ωづρいご・§p

Page 33: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽鰐における歴史叙述と慶暦の改革(小林)

 ミ‘℃ワ釦?繰.

⑭ 蘇轍『龍用別志』下は、 「晃」を「娩」に作る。

⑯  『長編』巻一四五、慶暦三年十一月壬午の条。蘇轍『罷川崎士豊下。

愈 巻=一世宗本紀論賛。

⑰ 巻六一呉世家論賛。伊藤宏明氏は、予行密のこうした姿勢が、呉政

 権を確立してゆくにあたって有効に作用したと高く評緬する(「准南藩

 鎮の成立過程-呉・南唐政権の前提1」 『名古屋大学東洋史研究

 報告』4)。

⑱  『欧文集』居士集巻一七。

⑲ 第二節の註⑥参照。

⑳  『欧文集』居士集巻一七。 『長編』巻一四八、慶暦四年四月戊戌の

 条。

⑳ 巻望○劉銑伝に、 門蓬時太祖〔暴威〕強欲帰人心、乃与群臣議日、

 劉侍中〔劉鉄〕墜馬傷甚、而軍土逼辱、望薄微生、吾欲奏太后貸其家

 属何如、群臣皆以為善、乃止殺鉄与李業等、聚首於市、赦其妻子」と

 ある。

⑫ 寅官については、巻三八窟者伝書撮濃紫後の論。女寵は、巻一三梁

五結びにかえて

 家人俵序論。

⑬ 小川環樹氏は、伶官報の序論こそ、荘宗本紀(巻五)にかわって後

 唐一代の総論として書かれたものだと説く(「新五代曳の文体の特色」

 『瞬國文学報』一八)。ちなみに、荘宗本紀には論養が欠如している。

@ 西順蔵氏は、宋朝士大夫の国家観を「機械的君主独裁制」という

 語で瓦師されているが、それは官僚組織の側面に着目しているからで

 (「宋代の士、その思想史」『世界の歴史東アジアの変貌』6筑摩書房

 一九六一年)、小稿のように君主の姿勢・機能に注目すると、「皇帝機

 関説」になる。なお、 「皇帝機関説」という語は、寺地遵氏が最近の

 論稿で、南宋初めの、 「公論」を背景として宋金和議に反対を唱える

 士大夫たちの見解を形容する語として用いている(「南宋政権確立過程

 研究覚書一宋金和議・兵権圓収・仰礁界法の政治史的考察一」 『広

 島大学文学部紀要』第四二巻特輯号)。

⑳  「欧陽絡…における天人相関説への懐疑」(『広島大学文学部紀要』二

 八)。

⑯  「王船山の宋太祖論…『宋論』の天命観について一」(『福井博

 士頒寿記念東洋文化論集』早稲田大学出版部 一九六九年)。

 本稿で考察してきたことは、以下のとおりである。欧陽脩を初め慶暦の改革を推し進めた人びとが、改革において指弾

してやまなかったのは、官僚の事なかれ主義、すなわち「因循扁 「荷且」という態度であった。問題の本質をこのように

捉えたとき、改革の具体的な処方箋が、官僚の職務にたいする責任感をその内面から自覚せしめ、宮詣にふさわしい人格

を練磨せしめるような提言であったことは、当然の成りゆきであったろう。一方、現実社会にたいする欧陽脩のこうした

批判的認識は、かれの『五代史記』の倫理-思想構造の中にも重要な意味をもち、そのことはかれの歴史叙述が、現実社

59 (513)

Page 34: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

会にたいする認識に媒介されて生み出されたことを窺わせる。つまり、 『五代史記』は士人論と君主論を中軸とする、あ

るべき国家像を提示したものである。その『五代史記』の論理-思想構造の重要な構成要素である士人論の中で、欧陽脩

は五代の士人の「筍生」、すなわち「かりそめ」の生き方を強く批判していたのである。それでは、この「萄且」批判を

媒介として構築される『五代史記』 の論理-思想構造とはどのようなものであろうか。それは、士人たちがそれぞれの

「分」に応じた責務を充分に認識し、しかも上位に行けば行くほどその責務を強く求められる階梯的官僚体制の上に、至

公眼倫理的君主を戴く、あるべき国家像である。君主は官僚の意見を通して臣民の動向を察知し、それに葵ついて政策を

決定せねばならぬから、この国家像は「皇帝機関説」とでも称すべき性格をもつ。私たちの知るところでは、この国家像

は、皇帝を頂点とし、整序された官僚組織をもつ君主独裁綱の国家たる宋朝の理念像なのである。とすれば、欧陽脩は、

『五代史記』を叙述しながら、自らの国家のあるべき姿を追求していたといえよう。

 ところで、欧陽脩が繰り返し、皇帝にとって臣民の動向を察知することの必要性を説くのには、どのような歴史的意義

と社会的背景があるのだろうか。若干の展望を述べて、小稿を終えたい。

 この問題を考察するとき、三段の改革の時期に、諫官の発言力が増大していったことは、一つの手がかりを与えよう。

                             ①

かれらの任務は、臣民の動向を踏えて、皇帝に諌言することである。慶暦四年(一〇四四)八月、諌官を推薦する権限が宰

         ②

執の乎から離れたのは、かかる諌官の独立性を高め、その発言力を増大させる上で大きな役割を果した。むしろ逆に、宰

                   ③

執の任命さえも、苑曲流の場合にみるように、諌宮の意見に左右されてゆく。とはいえ、諌官が何の背景もなしに力をも

ち、突出できるわけはなく、そこにはかれらを支える基盤があったと考えられる。その端的な例証は、諌官の察嚢が苑仲

                      ヘ   へ

滝を参知政事につけることを、 「下は以て衆庶の公論に協うなり」と述べている点である。この「公論」という語彙は、

今日でいう輿論に近い意味あいを感じさせる。とすれば、この時期、皇帝に臣民の動向の察知を要請する背景には、百官

である欧陽脩が輿論を踏えようとする姿勢があるのではなかろうか。欧陽脩の理想とする皇帝像をより鮮明にするために

60 (514)

Page 35: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

欧陽脩における歴史叙述と慶贋の改革(小林)

も、具体的な史実を踏えて、その輿論の購造や歴史的意味など、

をみて、その解明の一端を示したい。

① 龍宮が}般大衆の動向を知りえたのは、恐らく諜官が幾代版の康安

 箱の一駅り扱い所とでもいうべき登聞鼓院・登聞演院を遺漏晴していたこ

 とによるであろう。すなわち、徐度『卿掃編』雪中に「在京局務各随

 其類有所隷、 (中略)諌官学言為職、所以通天下之塾塞、則登聞鼓院

 ・検院隷之」とある。なお、登開鼓院・登聞検院については、石田肇

 「北宋の登聞鼓院と登聞検院」(『中島敏先生古稀記念論集』汲古書院

 一九八○年)が詳しい。

  (付記) 小稿の梗概は、一九八二年一月二十四日、

様々な角度からの検討を必要とするだろう。いずれ機会

② 『市会要難揃』職官三之五二に「〔廟議〕四年八月詔、自今除隷官、

 愚得見任忠臣所薦人」とある。

③『長編臨巻一四二、慶暦 二年七月丁丑の条に、「以枢密副使右謙議

 大夫鞄仲蓮華占象政事、資政殿学士兼輸林侍読学士右諌議大恩富弼為

 詳密副使、仲掩聞、執政可由警官而得乎、固辞不拝云ゐ」とあって、

 そのことを窺わせる。

                         京大会館でおこなわれた中国中世史研究会で発表した。当日、谷川道雄・川勝

義雄・礪波薫習先生を初めとする中世史研究会の会員の方々から貴重な御意見をいただいた。ここに記して謝意を表わしたい。また

近年、欧陽脩に関する論稿と書物が中国や台湾から刊行されており、それらの業績に私なりの意見があるが、現在、欧陽脩研究の現

状と今後の見通しについての別稿を用意しているので、そちらに譲りたい。

                                   (名古麗大学大学院研究生 名古

61 (515)

Page 36: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

The Power of Shacgo守護in the Sengoku戦国Period:

         The Amagos尼子氏in fzumo出雲

by

Norikazu lmaoka

  It has been emphasized that, as to the power of the Amagos, Sengoku-

d4imyo戦国大名呈n Izumo, it was estab恥hed agaiBst the bakuhu一幕府一

shugo.守護system..But. when we pay more attention to the Amagos’

relationship to theκγo即舷3.京極氏, shecgo in lzumo。no.flu・rei出雲国in

the Muromachi室町... period, we can find that.there is a considerable

continuance between ,the two. Tlierefore we may regard the Amagos

as shugo.

  Concerning・to the rule// by the Kyogokus over lzumo-no-kzmz, it was

restricted by highiy independent, traditional local powers, such as

た。た吻●ins国人, temples, shrines and so on. Aga圭nst these powers, the

Amagos cam,e. to鳶κ解。 frQm、0勿36近江.葦orψβ1.purposβ.of acting for

theκγogo肋3. In the days Qf.TS・wnehisa経久, the Amagos inherited

the estates and the rights of’shscgo, ’and’then was authorized by the

bakuhu. Thus the Amagos was able to rule out fez.tmo-no-kuni as a

whole by taking part in the bakuhza-shasgo system earlier than the other

Sengoku-daimyos. But the Amagos’ power was established after such

process that it was sustained’ by・a vassal of duality, consisting of two

groUps:one, Izumoshu.shus出雲州衆who largely came from traditional

た。々三股class, and the.other To4α・’shus.富田衆who.睦dministered political

affairs. ’ This duality remalned a great problem fot’ tke Amagos.

O彼ソang Xiu’s 欧陽罰蒼:H:istoriogral)hy and. the

           ’Qingli慶暦. Reform

by

YoshihirQ. Kobayashi

.Asaガαπ9%α%諫官, Ouyang Xiu took part in.the Qingli reform having・

          (598)

Page 37: Title 欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 Citation …...欧陽脩における歴史叙述と慶暦の改革 28 (482) 小 林 義 廣 【要約】

been on since 1043. The social desease against which he had kept

StrUggling WaS the bUreaUcratic COnSerVatiSm’:inXUn因循Or gOuqie

筍且.Such a point. of view was not only of him but the common sense

among the reformers, and on which the reform plans had based. On

the other hand, so important for O%’3珊%4α勧班五代史記is this critical

viewpoint that there seems tlie close relation between his historiography

and the Qingli reform. lt thus appears that, in hls consciousness of

the social problems, Wudaishiji was put forward as aエ1呈deal for the

solution of these problems.

  Then」what ls the呈dea1 ?In short, it is a’ concept of the natioli. ruled

by the hierarchical i bureaucracy, in・ whiCh the higher one climbs, the

stronger on’e must feel the reSponsibilities of one’s position, and’ over

which there is a’Monarch with /’a supreme” 垂浮b撃奄メ|minaed”morality.

This concept of the nation should be called “ the theory of the emperor

as aR organ”, for such llnes as a supreme public-minded morallty ’niean

the’ policy-making based on ’opiniOns among the bureaucrats.

On the development of the First Nationalist一

Communist Unit.ed Front

by

Minoru Kitamura

  Following the establishment of the’ Firs’t Nationalist-Communist United

Front in January of l 1924 there appeared.,in the..city:of Guang2hou広州

Guangdong province広東省a“new political grOup”intent on carryingout a Nationa!, R.e. ypluei.Qi? ,, . Despitq.the gstenf ible. . “. Upited Front ” the

N・ti…1i・t・(Gu・糠4・㎏国民掌):ρ・d¢・m.mg・i・t・were i・fact i・・

state of confroBtation as th’eY att’emPted either to gain superior infiuence

in the Gasomindang’s party structure or to ensure that the National

Revolution was carried out according to their own political line.

  This “ new political group ” included a number of warlords who were

independent of the politiCal leadershiP /of the Guomindang and who

held contro1 of provinclal finances. Thus the first imperative in carrying

out the.National.・Revolution was’to bring・ these warlords under the

(597)