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Title 近世中国端午節小考 Author(s) 前村, 佳幸 Citation 琉球大学教育学部紀要=Bulletin of Faculty of Education University of the Ryukyus(84): 57-68 Issue Date 2014-02 URL http://hdl.handle.net/20.500.12000/31981 Rights

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Title 近世中国端午節小考

Author(s) 前村, 佳幸

Citation 琉球大学教育学部紀要=Bulletin of Faculty of EducationUniversity of the Ryukyus(84): 57-68

Issue Date 2014-02

URL http://hdl.handle.net/20.500.12000/31981

Rights

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近世中国端午節小考

前村佳幸 1

The Study on the Chinese Traditional Folkways Concerning with the Festival “Duan wu jie"

Y oshiyuki Maemura

Summary

“Duan wu jie" (duan yang jie). a festival held on the 5th day of the 5th lunar month. originally came from China

and has been celebrated in various areas in East Asia. Since the rainy season around the festival was believed

to deteriorate people' s health. an incantation against the bad luck was indispensable to this annual event.

especially for the sake of children. young females. and pregnant women. By investigating endemic folkways of the

festival. it is possible to understand the differences of meaning and style between China and J apanese customs.

(In J apan, the festival is called “tango no sekku"). This paper focus on the events held in the regions of Zhejiang

and Jiangxi province from Song era onward. Particularly The dragon boat race in southern Yangzi River reve剖s

characteristics of the traditional Chinese local culture.

はじめに

現代の日本人にとって「端午の節句Jは「こど

もの日jという国民の祝日に当たるけれども、方々

で「鯉のぼり jや「武者人形Jを用意する男の子

を中心にした年中行事という観念が強いが、その

云われについて考える人はあまりいないのではな

いだろうか。ところが、日本の民俗学によると、

菖蒲や交を挿す日をめぐり「女の家Jr女の夜Jr女

の宿Jr女の屋根」などと称する地域が存在する。

その解釈としては、「早乙女Jとして女性が田植

え作業の担い手であり、「聞の神Jを祭る主体で

あったために、それを厚遇する意味があったとさ

れている <r五月節供Jr日本民俗事典j弘文堂、

1994年)。このことから、古来は、菖請や交で蹴

いj青められた屋内に主として若い女性を忌み飽も

りさせていたことが想像されるのである。そして、

妊娠・出産は祝福されるべき鹿事であると同時に

忌み事の多い「ケガレ」として扱われる状態でも

琉球大学教育学部社会科教育専修所属

あった。中国でも出産の際に男性、子供、出産経

験のない女性が立ち会うことがタブーであったこ

とが窺われる 10

伝統的な中国において「端午の節句Jといえば、

女の子の為の行事である「女児節Jとも重なって

いたようであり、そのことは中村喬『中国の年中

行事J(平凡社、初版 1988年)で知ることができ

る。本書の「五月端午節Jでは、 1:端午の名称、

2:破線砕邪の俗、 3:競i度、 4:節食、という

構成により、各時代の典籍を参照し、中国の伝統

的民間行事としての端午節の諸相を明らかにして

いる。そして、田中克己氏の著作にはに「端午考J「端午の節供」の論考があり、薬草としての菖蒲

の将来が古く奈良時代に遡ることを明示し、さら

に「女の家Jや石合戦などに言及しつつ、近松門

左衛門の「女殺泊地獄Jで五月五日が決定的な日

になることにも注意を促す。小稿では、これら重

要な研究において注目された史料も手がかりにし

ながら、地域的には長江以南、時期的には宋代以

一-57ーー

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琉球大学教育学部紀要第 84集

|海の状況に着目し、端午節の{立1ftづけ、習1ftの地

域性、婦女子との関係、龍JlJ.競il!tについて小考を

試みたい。

1.伝統中国における端午節

これまで紹介されている i'f,(児節jについて述

べた文献は主に明治の北京を対象としているよう

である。民国jUlに編纂された興I~ I~j 原・胡撲安・!剥

!除草・胡忠生(編)r中華全間風俗志j(広益書局、

上海、 1923年)を参照してみる。自序によると、

上続は地方志、下篇は「筆記Ji遊記jといった

伝統的な雑文集や新聞雑誌の記事を資料としてい

るが典拠は逐一示されておらず、今後なされるべ

き実地調査の参考というような位置づけである。

それでも、その集成された記事によって、 '1'医l本七の各地における状況を総撹することができる。

端午節はまた「天中節」と称す口人家、黍杭

を包み以て綜を為る。束ぬるに五色の繰糸を

以てすD 或いは菖蒲・通草を以てし、天師駁

虎の{象を盤中に雌刻し、凶むに五色の五u糸(がまの糸)を以て皮金を狩り百虫の{象を為

り其の上 lこ ~ilì き、葵棺支葉は慣族し華麗に

して、 }fいに相い餓遣す。僧道は経信j輸子、

悪霊を昨くるの符を以て、制越に分送し、而

して医家もまた香嚢雄黄・烏髪香油を以て、

常に往来する所の者に送る。家家、葵棺i甜交

を買い之を食中に植え、標するに五色の花

紙を以てし、天師あるいは虎蝿の像に貼る。

或いは[五月五日天中節、赤口白舌尽く消滅Jするの旬を朱書し、之を極間に掲ぐ。或いは

百草を采り以て薬品を製り、蝦践を覚まさせ

以て蛾麻(あぶら)を取り、「儀方」二字を

害し、植に倒!Uiし以て蛇虫しをt:宇く。(下篇巻4、

i折江)

端午節は、「天中節Jともいい、その日に朱書

するという文句は、 つとにF砕南宇有J5宋j長ミの者剖郁15臨安 (ゆ4わ杭j充IU'州什州.,十刊|トH‘'1の繁栄を記した『夢梁録Jにも記されているカがf九、

それより前に!慶菱元5年 (ω11ω99ω)の陸訪齢与の詩でで、は、

人生の行方について験担ぎなどに頼らない達観し

た境地が示されている。

己Â~írUL 己米のif(7I.

門前i京支作担11人門樹に立を*ね神人を作る

同槌掛tq,節物新聞慢は脅ll'qlにあり 節物は新たなり

古川J'.i'J械,/):.円安くんぞ丹川を川て赤口を鵡わん

風i皮捌t:e!!不l見l身風波!Y(しきと雌ども 身に関わらず

C'剣南詩稿J巻39)

それでも厄除けの行事そのものは陸瀞の家でも

行われていること明白であるが、後の時代でも、

以下の rq,華全悶風俗志jに見えるように、おお

むね子供と私,:¥t¥女性が主な械いの対象であった。

五月五!こl、門符を香し支虎を懸ぐ。児童は、

総純をば腎に繋ぎ、これを「統命線」と諮い、

戚里は角黍を餓送す。百五信雄黄j闘を飲み、1i朱

符に書:し、以て百毒を~I~る。(下篇巻 2、山東)

五月朔、小児の手足に五色の総綾を繋ぎ、端

陽の節に至らば、堂前に符を貼り、支と l~ti市

を挿し、角黍を食し、制!巣を食す。俗に「麻糖Jと名づく。雄黄を以て小児の耳鼻に塗るは、

毒虫を避くるの意を取る。(下縞巻2、河南)

五月初五日、家家は天師の符を貼る、俗に謂

う鬼|業を避くべしと。婦人は支虎を替し、小

桜は71:色の織を繋く¥俗に潤う病櫨を免るべ

しと。(ド縞巻5、安徽)

五月五日、端陽節。競舟の戯有り。以て屈J;j(

を弔うなり。戸ごとにみな門前に菖交を挿す。

小児は雄貨を塗る。男女みな雄黄j酉を飲む。

(下総巻 6、湖北)

初五IJ、端l場なり。菖蒲支葉を将て門戸の.J二

に懸げ、以て毒気を鵡う。また雄黄酒を飲み、

並びに各種薬品を買い、水を煎て泳浴す、災

疾を昨くと云う。婦女は香嚢を製り、自ら之

を慨する外、井びに親戚にn骨送す。(下綿巻6、

湖南)

端午は他処と相い同じ。菖蒲を挿し雄黄酒を

飲む。(下綜巻4、i折江・海寧風俗記)

端午は角黍を以て相い餓遣し、児女は五色の

「長命線Jを繋ぎ棉花を採り之を替して計jく

以てJEを避くべしと。目i市・雄黄i乏j酉を用て

客を述き、之を ii乏菖甜Jと謂う。(下稿巻4、

i折f[・天台歳時紀)

一一 58一一

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前村:近世中国端午節小考

rl1村荷氏の I中国の年中行事jによれば、菖?iiJ

と31:を門飾とするのは宋代において明白に確認で

きるが、 31;はなお人型であり、張天師などに見立

てられていても、消代のように図像を道観などか

ら入手するもので、はなかった。さらに、身体飾と

して五線糸を用いるのは後漢末、頭飾として虎を

モチーフとすることは北朝に遡るが、宋代の特色

としては帯出も頭飾に取り入れられていた。唐代せ告しよう

には澗に自;mi(石菖mnを入れていたが、これがゅうおう

黄雄に代わり、それを「児童の面頬耳鼻に塗抹Jする行為が普及するのは明末のことだという。

公代の文献を参照すると、端午が毎月五日を指

す例について言及するものがあるが3、五月五日

は「重五」と称し、九月九日重九、三月三日重三

と合わせて特別な日とする説もある九北宋の朝

廷では、端午は春秋二回の社稜の日・三月上巳・

九月重|場と並んで官員が参内しない日(休務)と

定めたこともあった50 また、南宋初期の『難肋編』

によると、正月、五月、九月は「競いて善を作し

以てを縞を要」めるため、「今世仕官の人、此の

三月を以て悲月と為し;敢えて交印視事Jしなかっ

たという 60 さらに、『歳時広記Jは北宋の『歳

時雑記Jを引き[五月五日、人多く上屋を忌み、

小児は中庭に下るを得ずJC巻21) と伝える。

さて、宋末元初の周密撰 f奨辛雑識j後集に「五

月五日生」という一筋がある。この日に生まれた

子供を取り上げないという習俗について述べ、不

幸な末路をたどるとして、楚の屈原にはじまり北

宋の徽宗といった歴史的人物が挙げられている。

しかし、明の謝礁湖は「然らば則ち凡そ月の五日

は、皆な端午と称すべき也Jr古人、午・五の二

字相い通用せば、端は始なり。端午は猶お初五日

と言うがごとしJcr五雑組』巻2天部)と述べ、

金代の旧特秀の人生の節目が「五」づくしなこと

をあげつらっている。そして、越翼は rr咳余叢考j

巻39r~五月五日生子j にて、大成した事例も加

えつつ、「安悪月之説、果有験也(結局のところ

悪月の説に証拠などあるというのだろうか?) J と評している。他方において、前近代の地方志に

は、光緒『嘉興府志j巻34風俗に万暦24年(1596)

の f秀水県志jをヲ|いて「五月は悪月為り。家に

神符を懸け、諸の不祥の事を禁ずJとあり、『中

華全国風俗志jにおいても「五月は俗に悪月と称

す。蓋屋造仕(竃)を忌み、又た曝床手主席し、俗

に之を犯す者は不利と調う J(下筋巻 5、安徽・

合肥)とあるように、民間で縁起の悪い日とされ

てきたことも確かである。

rl-Il華全国風俗志J下篇巻4によると、 i折江省

の紹興では五月と六月が「凶月Jであり、五月に

なると村々で発起人が出て家々から集金し、土‘地

廟を舞台にして戯劇を開催したという。その日を

「夜者ISJとl呼び、それはおおむね次のようなもの

であった。日中の演劇はいつもと変わらないが、

日が暮れると大勢の俳優遠が魔王や小鬼に扮して

隊伍を組み銅鍛を鳴らし旗を翻しながら村々を練

り歩く。これは本物の「小鬼Jを観劇に連れ出す

のが目的で「召喪Jという。婦人と子供の頭には

桃の枝や木の葉が挿されており、それが鬼をしり

ぞけるという。「召喪Jの後、俳優遼は戯台で「日

蓮救母jなどを演じるo その下では悪鬼の姿をし

た者が踊り回っている口明くる日にはそこから追

い出され、これで郷村ー一円全ての邪気を払ったこ

とになる。観劇に近隣の婦女子が連れだ‘って来て

大変な熱狂ぶりである。そして、夜明けを迎えて

はじめて家路に就く。劇が終わらないのに帰ると、

必ず悪鬼が一緒について来るからだという。その

夜、大勢の人々が墳墓のある方角に向けて道ばた

で紙銭を燃やす。これを「焼狐墳jという。

また、同書:r豊i悶県風俗強記Jによると、北直

隷の盟i問県では、各家で棉花と綿布を使って小さ

な犬と小人、小袋を縫う。小人は男女でそれぞれ

違い I~I 鼻もきちんと書き入れられており、子供達

はそれを身に付ける。これは細心の注意を払い決

して無くしてはならない。もし無くすと一年以内

に大きな災いに遭うというので両親は大変心配

し、香を焚き拝脆して神に祈る。その一挙手一投

足をとても恐れるのである。万一のことがあれば

災いは子供の身に降りかかってくる。もし子供が

しっかりと持っていれば、災いはその小人が身代

わりになってくれるという。端午になると、各家

の主婦はその子女を引き連れて河岸や池に行き、

小さな犬と小人、小袋などを水中に投げ捨てる。

犬は「災足jをかみ砕き、小人は子供に代わって

災いを受け、袋には「災晦jが入り、水に流れて

去る。これで一年間無病息災だという。

紹興は「越劇Jで知られるが、「龍舟競i度jに

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琉球大学教育学部紀要第 84集

劣らない活況がしのばれる'。これに対して草-北

平原北部に位置する豊潤県(iilr北省唐山市)の習

俗はささやかなおまじないといえよう。 r中華全

国風俗志jの編者は中|主l南北の差異を示す好例と

しているけれども、どちらも子供と若い女性を災

いから守る点では共通している。

上記の事例では、端午の日だからといって若い

女性や子供が家に飽もりきりというわけではなか

った。とはいえ、邪気が満ちていると考えられて

いたのであるから、出産をめぐる様々な禁忌のー

っとして、妊婦に対しては忌み能もりやこの日の

出産を避けるためのまじない事が存在していたの

かもしれない。『中華全国風俗志jによれば、妊

娠出産をめぐる迷信として、「邪鬼」が争って胎

児を奪いに来るというので、赤い蝋燭を高く掲げ

て灯し、「邪崇Jを避けるという(下街巻4漸江「生

産之迷信J)。そして、この日に無事生まれた場合

は、誕生日をずらしていたのかもしれない。これ

らの行為が伝統的知識人の筆により喧伝されるこ

とはほとんど無かったにせよ、習俗として存在し

たことは十分推測され得るだろう。

2.漸江省嘉興の端午節

端午節の趣旨は梅雨期の昨邪にあるが、古来の

稲作地帯である江南地方は梅雨の,恩恵を最も享受

してきた。蘇州、|と杭州の中間にある嘉興府(秀州)

では、かつて陰暦三月は養蚕の作業がピークを迎

え、起耕や播種もあり、不眠不休の毎日となった。

四月には蚕が上族し煮繭・貯繭や紡績を行い、七

月まで「忙月jの連続であった80 南宋初期、金

の統治する北方から江南に逃れて来た荘紳は江南

の気象について次のように述べている。

二i折の四時にみな巨風無し。春は大雷雨多く、

霧濯やまず。夏に至り「梅雨jと為り、相い

継き「洗梅jと為る。五月二十日を以て「分あ主ね

龍Jと為し、此より雨周偏からず、なお北人およ

の「隔轍Jと呼ぶがごとし。秋に治び稲は秀

熟を欲し、田畦は水を須むるも、乃ち反って

克早なり。余、南波せしより十数年問、いま

だ、かつて秋に至って祈雨せざるを見ず。此れ

南北の異なり。(荘締撰 f難肋編j巻中)

明清時代の嘉興でも「分龍」の節目があり、

二十四節気の「せ種Jから壬にあたる日を「立霧」

とし「夏至」を過ぎて庚の日を「断毎Jと称して

いる。「毎jは徽(カピ)と同義であり、梅雨明

けまでの「雨中暑気J(f康照字典j所ヲIr正字通J)の環境で増殖し人々の健康を脅かす。そのため、

問植え作業のある五月は「悪月jでもあったので

ある九

:嘉興市域の 1980年代以降の新編方志を参照し

てみると、f海塩県志J(漸江人民出版社、1992年)、

f平湖県志J(上海人民出版社、 1993年)、『通元

鎖志J(上海人民出版社、1993年)、f嘉普県志J(上

海三聯書応、 1995年)、『海寧市志J(漢語大詞典

IB版社、 1995年)、『桐郷県志J(上海書庖出版社、

1996年)、『嘉興市志J(中図書籍出版社、1997年)、

[烏鋲掌古.] (上海社会科学院出版社、 2003年)

に「歳事習俗Jとして項目が立てられ、端午の節

句についての記述が見出される。宋元時代に杭州

の外港として栄えたi敢浦鎖においては、 n敢j甫鎮

志J(中華書局、 2001年)に次のようにある。

端陽節:五月上旬の五日は端陽節であり、端

午の日と俗称されている。この目、家の門に

は鈍越の描かれた端|場の符を貼り、門柱には

菖蒲と交の葉を掛ける。邪を払い災を除くと

いう。家々では綜子(ちまき)を巻き、お昼

になると五黄を食べる。五黄とは、黄魚・黄

鰭・黄泥蛋・黄瓜・雄黄酒のことである。子

供の額には雄黄酒で r~EJ の字を書く。幼児

には虎の頭に似せた帽子をかぶせ、花と虎の

模様が入った服を着せ、虎の頭を模した靴を

履かせる。子供述はひじに五色の彩紙のつい

た香袋をつけ、その内には脆子・生大賞など

を入れておく。午後、家々では蒼J1t.白症を

燃やしていぶす。また部屋の隅に雄黄j酉を撒

くが、毒を打ち消し流行病から免れることが

できるという。この日を迎える前、新婚の娘

のいる父親と母親は魚・綜子・黄泥蛋などを

手土産に娘の嫁ぎ先に挨拶に出かける。これ

を「端午に送る札」と言う。農家は他に田植

え用の笠、腰掛け、日傘、雨傘それぞれ一つ、

捕の団扇二張を買い込む。今では端午をめぐ

る迷信的色彩は薄れてきている 100

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前村:近世中国端午節小考

このように、嘉興市所管の各地では、家門には

鎚越の符を貼り、門や軒下に菖諭と交を掛け、屋

内は蒼北(キク科で根が薬用)と白並(セリ科の

香草ヨロイグサの根)で燥蒸し、虫毒を避けると

いう雄黄(鶏冠石:二硫化枇素)の粉末を入れた

酒を撒き邪を蹴い避けるとともに、黄ぐち・タウ

ナギ・アヒルの卵の塩漬け・キュウリ・雄黄酒と

いった「五黄Jをいただくことになっている。毒

虫を払う椛顕飾の「五毒」とも対応しているのか

もしれないが、これとは別に「綜子(ちまき)J

が欠かせない。最近、嘉興市では伝統文化再興の

象徴として重視されるようになっているoまた「黄

雄j酉Jを子供の額に塗るのであるが、「王Jと書

くという。この文字は虎の額の紋様に見出される

といわれる 110 このことからすると、あるいは虎

を模した帽子と履き物と相まって子供に虎の持つ

桝:邪の力を授けようとしたことが推測される。こ

の習俗は薪興市内の新編方志に共通して記載され

ているo ただし、それがいつの時代まで遡るのか、

どれも掘り下げておらず、子供の扱いについても

年齢や男女の区別の有無が判然としない。古来、

虎が子供の厄除けの象徴であったことは、日本で

も平安時代に「虎の頭Jを産湯を用いたり枕の上

に置いたりすれば嬰児に邪気を寄せ付けないと信

じられていたことからも明白である(小学館 f日本国語大辞典J)。

宋元時代の地方志では、『至元嘉禾志Jに「楽

之品Jとして「菖蒲Ji支J、『激水志jでは「挽

子J(花)、「菖蒲J(薬)が記載されている。交で

虎の形をつくり頭に載せるなどして女性の厄除け

とすることは、南北朝時代の f荊楚歳時記J(陪

の社公臓による注)にまで遡るという 120 さらに

地方志を検してみると、管見では、子供の額に黄

雄酒を塗ることは天啓『海塩県図経j、虎(虎符)

にあやかった子供の僻邪については万暦『嘉興府

志jに言及される。宋代の『歳時雑記Jr歳時広

記jでは「支虎jについて説明しているだけなの

で、虎を模したかぶり物や履き物も用いられるよ

うになったのは明末以降と考えられる。

そして、婦女子が繭や交を使って「健人」を作

り身に付ける習俗については、万暦年間の f嘉興

府志Jr秀水県志jと天啓年間の『海塩県図経j、

康照年間の f平湖県志Jr石門県志Jr海寧県志j

に記述があり、嘉興地方でも「女子節」の性格が

あったことが分かる。

また、光緒年間の『嘉興府志j巻 34風俗では、

注に端午の日にちまき(機)を食べずに冬物を質

入れするべきではないという但諺が掲載されてい

る。

端午には薬草を収め、角黍を食し(諺に云く

「未だ端午の椴を喫さずに、布襖は送るべか

らずJと。|控瀞の詩注に見ゆ)、雄黄・菖蒲

酒を飲み、桃楢・葵交を瓶挿し、以て毒気を

穣う。婦女は黄白繭を掠り花を為り、五色の

績を裂き、人形に肖り「健人Jと日い之を偲

す。幼き者は線索を腎に繋ぎ、雄黄を以て其

の額に抹り能く災疾を免ると日う(嘉興の湯

志は呉志・海塩図経を参す)。

南宋・陸前・の詩 13の原注は「呉中諺語日、未

喫端五、布襖未可送。{谷翻典質日送」である。銭

仲聯氏による解題と注釈によれば慶元元年(1195)

の作品であり 14、「呉中」とは三呉(呉興、呉、会稽)

としての会稽つまり紹興一帯(北宋の越州)のこ

とだという 150 また、かつての呉に属する激浦鎮

でも「喫過端午綜、還要凍三凍Jという僅諺が採

集されている 160 陸捗による注の存在により、こ

の意識は宋代まで確実に遡ることができる。

f激浦鎮志j(中華沓-局、 2001年)によると 17、

1983年から 1993年までの観測では、 j敢浦鎮では

10月から 2月までの月間降雨量はほぼ 100mmを下

回る。東北の上海では 9月からそうなる(国立天

文台『理科年表j掲載の 1971年---2000年 30年

間の月別平年値)。南宋と現代とでは自然環境も

若干異なるだろうし、激浦鎖は海岸部にあるけれ

ども、これは先に引用した荘縛の言を想起させる。

[表}は旧暦 5月5日に相当する月日と降水の集

中する 3月-9月の降雨量を示す。過去 11年問、

i敢浦鎖における梅雨入りは 5月 19日から 6月24

日、梅雨明けは 6月29日から 7月 18日の範囲で

あったという。端午節は全て 6月中にあり、その

前後はおおむね 7月と並び年間で最も降水量が多

い時期であることが確認できる。

一-61 ーー

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琉球大学教育学部紀要第 84集

西暦 旧暦 5月5日 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 年間総雨量

1983 6月 15日 63.6 157.0 182.8 377.5 167.8 133.4 218.3 1705.0

1984 6月 4日 100.8 84.8 77.9 350.4 58.4 76.7 57.7 1139.9

1985 6月 22日 135.7 41.3 71.2 89.6 111.3 82.5 89.4 1003.4

1986 6月 11日 77.1 202.3 81.6 109.2 43.7 34.5 147.0 798.6

1987 6月 1日 157.0 142.7 92.3 130.5 265.3 116.7 155.5 1179.8

1988 6月 18日 86.5 38.6 96.1 146.6 93.6 99.9 133.7 851.5

1989 6月 8日 83.9 198.1 169.9 131.3 363.5 197.4 173.5 1599.1

1990 5月28日 76.4 116.8 120.9 137.4 17.8 158.3 189.2 1249.1

1991 6月 16日 130.5 128.2 174.0 241.4 164.9 110.0 181.2 1362.5

1992 6月 5日 249.8 28.3 106.7 169.6 192.3 207.9 208.4 1332.2

1993 6月24日 146.5 81.8 119.1 286.4 366.9 151.8 165.8 1669.9

[表】漸江省嘉興市激浦鎮における春夏の降雨量(単位阻 各月の太字は年間最高を示す)

表中 11年間の平均気温については、 3月 (8.8

'C)、 4月 (14.9'C)、 5月 (28.1'C)、 6H (24.8'C)、

7月 (28.5'C)、8月 (27.8'C)、9月 (23.7'C)であり、

6月は前後の月より低い。さらに、海堀県の観測

記録 (1973 年~ 1995年)によると、 5月の平均

気温は 19.6'Cで平均日射時数 160.6時間、 6月は

23.9'Cで 151.7時間、月平均相対i毘度は年間で最

高の 85である。 7月は平均気j温昆2お8.3'Cでで、平均日

射時数226.911

8邸3である(句5月は 82幻)18九口以上により、 6月は長

雨により気j温品が大きく変動し、晴れ1111も不快指数

が高いと推測される。このように、梅雨により体

調を崩しやすい端午の時期は、悪気が最も充満す

ると考えられ、おのずと政機畔邪が求められたの

である。

n敢j甫鎖志jの記述でさらに注目したいのは、

前日に両親が娘の婚家を訪問する「送端午礼」で

ある。これは光緒『海塩県志』巻 8 風J:~こ「嫁女

の家、端|場に迎わば角黍・械花.fili扇・手rl]を以

て培家に悦るJとあるので、消代に慣沼化してき

た習俗であったと推測される。中村荷氏が上げる

明清時代の文献によると、北京の「女児節jでは、

娘は婚家から出て生家で過ごすとされている。南

宋に遡ると志怪小説集『夷堅志』に興味深い話が

ある。縞建・建陽県の呉耀に嫁いだ藍氏が隣の崇

安県黄亭~t!に盟帰り(帰寧)していたおり、水害

を被り両親を合む百戸ほどの町(鋲)の住民のほ

とんとεが失われながら、同伴していた呉耀の妾と

もども助かったが、それは端午の日のことであっ

たという 190

ところで、日本のある地方では、妊娠するとま

ず盟方に告げ、里方から婚家に荻の餅、うどん、

赤飯などを持参して訪問する風習があったという

(弘文堂『日本民俗事典Jr妊婦Jの項)。こうし

た風習は日本全国各地で今でも見られるものでは

ないが、 IB産をめぐり欠かせない行事の一環であ

ったと考えられる。

海jj似品やi敢j甫鎮の場合、贈る食品は「角黍Jつ

まり綜(ちまき)であり、訪問する時期が妊娠と

は関係なく、新婚の年の端午という違いが指摘で

きる。この場合、娘が婚家に居ながらにして、実

の親の訪問を受けることになるが、その行為には

将来の母子にとって良いことであるという意識が

あったのだろうか。新婚の年以降は端午の日に娘

が里帰りすることもあったのかもしれないが、そ

れも子供がよ1::まれ育つにつれ相互に往来すること

は少なくなっていったのだろう。

i折f[では妊娠すると娘の実家から婚家へ様々な

贈り物があり、これを「催生Jと称したという

加。これは高興市域の新編方志にも記載されてお

り「担糖jとも呼ばれ、妊娠中は近親者が奇数日

に粗日糖や卵などを贈るという 210 また、臨月を

過ぎて分娩しないと、「頼生」といって実家から

贈り物がなされるという 220 そして、かつては息

- 62ー

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前村:近世中国端午節小考

子が生まれるまで両家では盛大なお祝いは後回し

にしたようで、『中華全国風俗志jの編者は男尊

女卑の典型として非難している。他方において見

出されることは、ある伝統制:会において子供とり

わけ息子の誕生には両家の協調が求められていた

ことである。実家からの贈り物も訪問も同様の趣

旨であったのではないだろうか。 f1能生Jの習俗

は米朝lの都の繁盛記である『東京夢華録j(北宋

の|剖封)にも『夢梁録J(南米の杭州)にも記述

されている。

3. 龍舟競渡

それでは、端午の時期、成年男性はどう過ごし

ていたのか。南宋時代、文人官僚の周必大は故郷

の古川悦、ら翰水を下り榔l場iMJから長江に入り大運

河を経て臨安に向かう旅の途中、五月上旬を都陽

湖の南康軍で過ごした。その問、五日を「甲寅、

軍会に赴く。五老亭に坐すこと甚だ久し、而れど

も晴嵐崎暖にして、殊に人窓を満さず。晩に土人

及び永和の王忠各おの阿舟を以て競i度すJf己卯

凌段、大雨を冒して陸行すること四十里、延真昭

徳観に主り、江州楽順の教授と相い会し、菖蒲酒

を飲むこと五行、同に閣に笠るJ(1170年)と記

している 230 船主は地元の人と競波を行い、周必

大自身は街門や寺観を訪問し士大夫と交流して過

ごし、別々の行動であった。|司時代、紹興出身の

陵瀞には競i度の詩がある。

Jf(五同予少概 重五にヂ少棋と!日jに

蹴汀.中競渡 江中の脱波を観る

楚人遺俗間千年 楚人の遺俗閲すること千年

鮪肢院呼闘画船 蹄鼓喧呼す|抑制i船

l見j良企11山鮫鰐横 風i!~ 山の如く 鮫鰐横たわる

何心此地吏争先 何なる心此の地より更に先を争わん

(r剣南詩稿j巻 1)

この一首は乾道 2年(1166)、江西の信州玉山

県に寓居する予稿(あざな少稜)を訪ねた際の郡

|場湖に注ぐ信江(上鏡江)の一場景であり、かつ

て同僚であった予稿が金との和i践をめぐり失脚し

ていた境遇に心を寄せて作ったものと推定されて

いる 240 これらの詩文からすると、士大夫にとっ

て自ut.J.青島i度は必ずしも強い一体!惑を抱くような行

事ではなかったように思われる。

中村喬氏は、 j日羅に身を投じた屈原の魂腕を慰

めるために行われるようになったという龍舟競渡

について、北宋では三月一日の春教として宮中行

事に取り入れられ盛んであった様を述べている。

それは、 i控i静がありし帝都開封の風物のーっとし

て挙げるほどであった <r老学庵鍛記J巻 2)。た

だし、南宋になると、行在の側に商削iという名勝

地がありながら、軍人の錬成ぶりを皇帝の上覧に

供するような行事はなくなり、賞品をめぐる勝負

事になっていたようである。

そして、民間における競技は禁止されていた。

宋初に「民に饗神を禁ず。競渡の戯を為すこと及

び青天を祭る白衣会は、吏議み之を捕えよJ<r続資治通鑑長編J巻8太祖、乾徳五年四月)と禁

令がI.Bされ、南宋の法規集にも「諸緊衆競渡者、

徒壱年。許人告Ja慶元条法事類J巻80、雑門)

という条文がある。しかしながら実態として、宋

代を通じて各地で挙行されてきたことは士大夫達

の詩に明白である。なお、禁止の理由を宗教的秘

密結社と関連づける見解についてはあ、史料とさ

れる『難肋編j巻上に「事魔食莱」と fi乏舟競渡」

が別々に扱われている点からすると、あまり妥当

ではないと考えられる。問書では湖北の競渡(五

月十五日)について「逐村の人、各おのー舟を為り、

各おの一人凶惇なる者を雇い船首に旗を執り、身

に銭を挫し或いは争験殴撃し、死に致す者有ら

ば、則ち此の人闘殺の刑に甘んず。故に官司特に

罵を禁ずJと述べている。「乱に乗じて起ち、殺

人を甘暗し、最も大患を為すJという前者とは性

質が異なるとはいえ、人命に関わる事件を起こし

得るので禁止されていることが指摘されているか

らである。

そこで実際の事件として、南宋i時代の地方官の

判決文(判語)を集めた『名公書判清明集jに「競

渡死者十三人Jという事案が収録されているので

注目したいへこれは陸跡の詩から数十年後の同

じ信州の出来事であるo 玉山県より下流の鉛山県

にて、 j内口鎮の「赤龍船jが沼鳴の「赤船」に全

く勝てず恨みを抱いていたところ、腹いせのため

か「白龍船Jに争いを仕掛けると、船上の張万二

と余万ーが刃物を持って応じ、やがて「赤龍船J

- 63一

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琉球大学教育学部紀要第 84集

が顛覆して 13名が死亡した事件である。

これまで適切な処断がなされていなかったとこ

ろ、州県の地方官を監督する江南東路提点刑獄使

の察杭 (1229年の進士)が対応した結果を記し

たのが本判語である。そこではまず「競波の一節、

法に明禁有り。造窓せし者は徒一年、随従は一等

を減ず、と。此れ其の条も亦た軽からずJと競波

自体が法令に反するものとしている。そして、溺

死者が出たのは負傷していたからで、その内3名

には万傷が認められ、その分、張万二と余万一は

断罪されることになった。

張万二は二人に刀傷を負わせたので「脊杖

二十Jと「刺配三千里嶺南悪州軍J、つまり杖刑

を加えた上で入れ墨して華南辺境の環境劣悪な地

区に護送する。余万ーには「脊杖二十Jと「刺配

三千里jが言い渡された。張万二は月ごとに生死

が報告されるよう厳しく監視され、余万一も配地

から放免されることはない。これは赦思を受けた

とはいえ非常に重い刑で「土牢Jに収容され二度

と帰郷することは望めない。また、呉百十七、王

日宣はその場にいなかったが、金銭の元締めとし

て「徒一年Jの条に照らし「脊杖十二Jと「編管

五百里Jの刑罰を受けることになった。

楊元ーら 6名は「木杖jが凶器で「脊杖十五」

「配五百里j、その内の丘省元は悪質として「改千

里J。漕ぎ手の楊万七ら 10名は「木棒Ji船樹Ji石頭Jによって部些八(溺死)らを負傷させたので、

「脊杖十二」を執行の上「編管五百里J。白龍船の

舵取りの態省三は「勘杖ー百Jを申しi度し当該の

州から追放する。編管だと入れ墨されず、護送さ

れた場所での拘束も緩やかである。赤部船上の3

名、さらに出頭していない李幸ーと陳曾十七につ

いては、彼らの舟が顛覆して被害者も多いことか

ら、当面は法令を適応して処罰しないことになっ

た。なお、白龍船のj自ぎ手7名が出頭していない

ようで、「杖に下すことー百に勘j し量刑を示し

主要な者の断罪を待って処分するとしている。

中央集権体制による安定の下に流通経済が発展

した宋代おいては、州県城以外に小都市が各地に

形成されたが、それらは市鎖と総称され徴税や住

民管理を職務とする監鎖官が配置されることがあ

った。 7:内口鎮にも幻保義郎の位階を帯びるi炭某

が駐在していたけれども、「競渡jを取り締まら

なかった責任を問われ配置換えの処分を受けた。

この件をやや検討してみると、静いは連日に及ん

だとあるので、端午節の前後に競波が行われ対立

が深まっていった様子が窺える。そして、 f夷堅

志jの「呉六競i度jは似たような状況を示してい

るへそれによると、都陽湖右岸の郡江では、四

月から競渡が行われており、その担い手は「亡頼

悪子」、その風体は「衣装結束すること無く、唯

だ祖楊布告Jtのみ」といったもので、一日中鐘を鳴

らしてはやし立て、賞金を懸けて争い、暴力に訴

えて飛び道具まで持ち出す者がいたという。そし

て、傷害を受けても官府には告発しなかったとい

うが、これは官の方でもj内口鎮のように手をこま

ねいていたことを暗示しているのではないか。

それでも、顛覆沈没して死者行方不明者も出る

となると大事であり、その捜索や処罰に乗り出さ

ないわけにはいかないo i内口鎮の事案では、官府

がj弱死者を検屍し、各自の凶器の種類や関与の度

合いを特定していることが注目される。また折条

法により、律をそのまま適応すると刑死者が出る

ような事態をさけ、柔軟に対応している。さらに、

李辛ーは楊輩(溺死)とともに赤能船顛覆の原因

となった争闘を扇動した者として指摘されている

が断罪されていなし」他方において、顛覆せず死

人が出なかった白龍舟側は追及されている。また、

諸葛大十官なる人物については、激しく扇動して

おり何ら罪がないわけではないといいながら、こ

れも当面は追及しないことになっている。これは

当人が庶民というより士人(知識人)ないし官人

の縁者ということで配慮したのかもしれない。こ

のような官の態度は、対立する双方に対して審理

と法に基づき犯行の事実や過失のある方だけに相

応の処罰や賠償を執行する姿勢と本質的に異なる

もので、 f史記jの「難を排し紛を解く Jという

表現がおまことにふさわしい。

もっぱら官による処断を記す『名公鴇:判清明集j

と異なり、『夷竪志jには崇りが破滅をもたらす

話が多い。溺れた 50名の内、唯一水死して無残

な死体で見つかった呉六という男は全身に入れ墨

(離青)し、両親を捨てて州学の園丁となり舟を

巧みに操り j魚もするかたわら、足も速く科挙合格

をいち早く伝えて心付けをせしめていた。そして

慶元3年(1197)の春、かつて財産目当てに兵士

- 64ー

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前村:近世中国端午節小考

の未亡人親子を死に追いやった崇りにより万を振

り回し乱心し、五月二日の競渡を迎えるのであっ

た。

このように、往々にして人品賎しき躍が加わり、

賭博やケンカ、事故がつきものの龍舟競波は、地

方官にとって煩わしく好ましい活動ではなかった

ようである。南宋福建の地方志には、

楚人、以て屈原を吊(弔)い、後に四方以て

故事と為す。是の目、競渡以て戯と為す。ナト|

の南台江沿内の諸河みな龍舟の鼓栂・鉦鼓喧

鳴し、線服鮮衣にして、共に経験を闘わす。

士女の観る者、或いは潮に乗じて鰭(ともづ

な)を解き、或いは置酒して流に臨み、或い

は堤の爽岸に縁り、首を耕べて争観し、寛日

して乃ち帰る。……紹興中、郷村の争闘殺傷

に因り、遂に一切拘納し、諸院に分けて浮橋

船に修む。後に精精復造す。 (r淳照三山志j

巻40、土俗類二歳時)

とあって、稲州の州城近く閥江に注ぐ河川でも m

活況を呈していた。男性も女性も良い場所を争っ

て陣取り終わるまで帰宅しなかったという。紹興

年間 (1131年-1162年)に誇いで死傷者が出た

ので、舟は全て没収の上で浮橋にされてしまった

事件があったが、編纂の淳照9年 (1182)の時点

では少しずつ復活しているという。漸江の紹興府

においては、

二月二日始めて西闘を聞き、郡人の齢観を縦

し龍口と謂う(臥龍山を謂うなり)。府師領

客し競波を観る。異時、競i度に争進披奪の忠、

有り。史・貌公師たりてより、銀杯総吊を堆

設し、勝負を問わず、均しく以て之に予う。

是より例と為る。 (r嘉泰会稽志j巻 13、節序)

とあり、端午節よりもずっと前に始まるが 31、勝

敗をめぐる争いが激しく、府の長官(貌良臣、史

浩カ?)が参加者に均等に金品を与えることにし

たという。後の地方志の筆致は、群衆が熱中して

装飾にも凝り舟が顛覆して死人も出るという競波

について否定的である。

すベ

龍舟は固より楚の風なり。所在都て其の名を

存すること有るのみ。ただ山除の邑民は数百

般を造り五色の班糊を以て相い持尚し、揖を

操る者は服飾短欄なり。一試し即ち巳むに肯

んぜず。故に神寿に逸うごとに、先に期して

結を要め標を奪い鴨を拾い以て饗勝す。緊観いづ ただ

する者集くんぞ官に数万なるのみか。舟覆し

て滝没し以妹しす者、歳歳これ有るに至りて

も曾て其の習を改めざるは何ぞや。(康照『山

陰県志』巻8風俗志、俗変)

また、古来の習俗として認めるべきことと騒援

の原因として取り締まるべきことのジレンマを述

べる地方志もある。

各郷みな龍舟を造り競渡す。葉水心謂く辺、

祈年饗願は其の俗に従い可なり。但し互いに

勝負を争い、闘傷溺死する者有るに致り、且つね

つ沿家に酒設を索援す。故に官府毎に之を禁

ず。(万暦『温州府志J巻2輿地志、風俗・端午)

このように、官の禁止をものともしない地域も

あったが、それがため忌避され地方志に記載され

ていない場合も考えられる。その中には、いつの

問にか廃れた地域もあり、再興したり新たに行わ

れたりと好余曲折があっただろう。江西省捧郷県

(拝郷市)の場合、康照年間の『捧郷県志jには

記載がないけれども、次の記事からは、戦国楚の

領域にあった一部の地域における活気溢れる勇壮

な民間行事としての場景が紡併とさせられる。

龍舟競i度、角黍投江は、相い伝うるに屈大夫

のt日羅に踏むの紀念の為にして、習俗相い沿

い、年年是くの如く、即ち各地もまた然らざ

る莫きなり。あた

芹俗、五月朔早の長蟻(:光り)出ずるに方り、

一般小児は母に向い銭を索め、麦包と角黍(俗

に名づくるに包子と綜子)を購いに趨る。蓋

し捧俗、是の日は麺包と角黍を以て要品と為

す。包子綜子を倍るの斉鋪は五月朔に至りてやや

努めて市を開く。且つ開能の包綜、較後に出

ずる者は大為り。故に小児越前し買いに往く。

城内の庖戸、郷村居民もまたまた先を争い後

一-65ーー

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硫球大学教育学部紀要第 84集

れるを恐れ、之を購いて親友に飢送す。初ー

より初五日に主る、此の数日中、|剖境の人は

極めて忙礁なり。午節の早段、 ifr而の各鋪休

息し、営業を停11-.す。是の日に獄肉及び魚を

信る者、市に利すこと三倍にして、 I1忌|時(ま

たたくま)に岱馨す。各家は!臨時を早む。綜

子-包子・陥蛋・大蒜各物を将て巣上に世き、

合家大崎し、雄黄酒を飲み、以て解毒す口菖

滞・交を門前に懸け、並びに屋角に遍く雄黄

をi両くに、能く邪を駆ると謂う。或いは三牲

酒肴を備え、廟に入り仏を敬うこと有り。爆

竹の声声、極めて熱闘なり。千111を敬い家に還

るや、合家痛飲す。

午後、長幼男女はみな新衣を著・し、紛紛とし

て龍船を観に去く。蓋し午飯の後、務船の人

はみな龍王廟に集まり、香を焚き燭を燃し、

龍王を祭祷せし後、紅IIJを龍王の首の上に披

げ、然、る後に龍首龍尾を将て、小舟に迎下し、

龍首は船鎚に慣き、龍尾は船末にii空く。水手

数十人、策i(かい)を滋して前進し、船末の

掌舵一人、船首一人は小紅旗二耐を持す。二

船比饗のl時にあたるや、鍛鼓大いに作し、船

首に旗を執う者、大城し威を助け、声を発す

ること極めて怪にして、旗を舞わすことやま

ず口勝負すでに分つに至るに及べば、ドIlj岸の

観る者もまた大声歓呼し、饗勝せし者は岸に

上り飲酒す。飲み畢れば復た二次の比饗を作

す。直ちに金烏西墜(太陽が西に沈む:日没)

に至り、歓を尽くして散ず。 u中華全国風俗

志j下総巻 5、江西)

農暦の五月になると、番s陽湖にi_tぐ翰水の支流

を遡った山間部にあり、さらに西北に湖南省の洞

庭湖に向かう河川が流れている洋郷では、子供述

は母親からお小遣いをもらい上等の鰻頭や綜を買

いに走り出す。街では肉や魚も高く売り切れ、当

日には商庖も休業となる。各家でお械いが済むと、

お寺や道観や廟に参拝し、爆竹をI鳴らし、大いに

飲食する。そして、午後に始まる能舟競波には、

おろしたての服を着て老若男女みんなで見物に出

かける。

この記事で注目すべきは、競il立を時~に龍王!嗣で

行われた儀式で、ある。そこには参加する舟を龍舟

として判IW~化する趣旨があったのではないだ‘ろう

か。 1m一多(1899年--1946年)が先駆的研究で

ある「端午考jで指摘したようにお、龍舟競渡が

呉・越における古来の祭杷や呪術的な文化を淵源と

するものであったとしても、 J者宋H寺代にかけて遊

興的な性格がlIIj而に出てくるようになった。多く

の史料ではただ「競i度Jと表記され、羽目を外し

たお祭り騒ぎといった認識である。しかし、社会

人類学者の波透欣雄氏による香港長洲烏のフィー

ルドワークでは、複合的な意義を有する儀礼的プ

ロセスによって展開していることが明らかにされ

ておりへそこから敷街すると競波の意義や様態

は|時WJや地域によって多様であったことが窺え

る。競波の参観に女性も加わっていたことは宋代

の地方志からも十分明らかであるが、長洲島の場

合、女性が神聖なる龍舟に触れることは禁じられ

ており、その年に葬式を出した男と妊婦の夫も同

様の扱いだという 350

おわりに

II1!丹J-競波は中国全土で普遍的な習俗ではないけ

れども、端午節において綜はどこでも不可欠であ

った。それは陰陽の相を象どり(階・杜台卿の

説)、岡崎{の魂晩あるいは水神を祭る為の神僕で

あり、米代において今日の綜の形状が確立し食品

としての多様性が展開していったようである。中

国民間の年間行事は過去の日本にも影響を及ぼし

ている。イネ科のチガヤ (Imperalac-y/indrica)の業

で包んだので「ちまきJと読む説があるけれども、

紛れもなく「綜Jもその一つである。

ところで、 18世紀の琉球の場合、 f朱子家礼j

に倣い編纂されたという『四本堂家札Jには、家

中で行うべき年間行事が具体的に指示されてい

る。そこでも、端午の日に「綜Jr雨粕Jを!日意

することが記されているのであるが、そのような

部分は米学に立脚したという f朱子家礼jにもと

より存在しないし、現在の沖縄で端午の節句の伝

統的節食として市販化されているのは「あまがし

(j:H粕)Jである。

日Itl各地の「ちまきJの形状と素材、そして晴

好による変容について、実物資料に恭づいた比較

研究が重要だと考える次第である。その際、植物

- 66ー

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前村:近世中国端午節小考

や生薬については、名称は同じでも種類が異なる

場合があり慎重に比定することが求められる口

以上、推測を交えた卑見を述べてきたが、中国

の年間行事については、背から伝わる有名なもの

でありながら、少しでも詳しく理解しようとする

と困難に突き当たるo これはっとに指摘されるよ

うに、儒教的価値観を奉ずる官僚や読書人の筆に

取り上げられることがあまりなかったからであろ

う。さらに近代以降は「迷信Jと断じて十分に調

査していないように見受けられる。しかし、『中

華全国風俗志jのような典拠の明らかでない編纂

物からの把握には限界があり、より多くの伝統的

文献の読み込みが必要である。なにより、より一

層の民俗学的実地調査が待たれる。そして歴史学

的にも、断片的な史料-を集積することで、各時代

の社会における民間習俗のあり方と変遷が垣間見

えるかもしれない。

1 r嘉善県志j(上海三聯{1t応、 1995年)、 981頁。

2 r中国の自然と民俗j(研文出版、 1980年)。

3 IJf玄宗以八月五日生、以其日為千秋節。張説「上大

術肘!芋」云、謹以開元十六年八月端午亦光照室之夜献之。

fMJ:類表j有宋環「請以下八月五日為千秋節表j云、月

惟仲秋、日在端午。然則凡月之五日皆可称端午也J(南

宋・洪逝『容蔚随筆』巻 l、八月端午)。僕観続世・説、

斉映為江西観察使、因使、宗誕日端午、為銀餅高八尺以献。

是亦有端午之説。(南宋・王株 f野容推告:J巻 14、端午)。

なお、『旧唐書jによれば、玄宗の生誕日は「垂挟元年

秋八月戊寅J(巻8本紀・玄宗)、徳宗は「天宝元年四

月奨巳J(問巻 12本紀・徳宗)なので、陳坦『二十史

朔|羽衣Jによれば、それぞれ八月五日、四月十九日と

なる。

4 今言五月五日日重五。九月九日日重九。僕日、三月

三日亦宜臼章三。観張説文集三月三日詩、暮春三月日

111三、此可拠也。曲水侍宴詩、三月重三日、此可拠也。

<r野容叢書j巻 11、重三)。

詔、以稼稿屡登、機務多暇、 I~I 今群臣不妨職事、並

i陪瀞事、御史勿得糾察。上巳・ご社・端午・重|場井旬

u事休務一日、祁寒・盛暑・大雨可議放i問。:若於札。(f続

賢治通鑑長編j 巻 64、 i~t徳三年九月既成)。当然、皇帝

も上殿しない。同巻93・天総三年五月、同六月丙戊朔条、

参1!日。

寅・午・!先月、世人多斎素、 i沼之「三長普月j。其

*輩出於11、持。云大海之内、凡イ1・111-1洲、 11'1主i与四売特

i制焼却iー洲耳。天帝之宮有一鏡、能尽見世間之入所作、

附Jt普![~而禍福之。輪照凹洲、毎蹴.ïE. 五月・九月正

在市洲、故競作詩以要稿。歪h府!普f高祖武他徳{弐年、遂詔天下、

自今i正EJ月j.五月.九月不行死1刑f刊り、禁}屑百

以此三月為忠月、不背交印視事。 (f難肋編j巻上)。

i It似する習俗として、南宋の湖南には「大伯子jが

あった。「長沙土俗、率以歳五月迎南北岡廟祖神之像、

設長tc輿幾云丈、奉土偶於'1'0恋少年奇容異服、各執

J{:物、篠列環鏡、巡行街市。克則分布坊陥。日厳香火之薦、

調之大fl~1子。主於中秋、則装飾鬼社送之迎、為首者持

疏訴人家成銭給費。J(r夷竪志j三布Iir夢五人列坐J)。

8 .iE月限土脅糞条桑。二月治脊岸。三月選種。立夏蒔

映。四月刈麻麦、遂墾悶或4ニ惣巳而~i~W、Jl1桔i伸i龍問、

平入湧出。先是蚕婦i谷穂及桑斉養蚕翻之蚕月。三眠作繭、

純綿次為綿。四月望至七月望日計j之忙月。富良{青傭耕

成長工成短工、佃家通力絹撃日伴工。端陽前後挿青畢

醜金饗u1峻、濁穆瓦缶、酎呼相労澗之7f苗会。是後転

粁・糞i班、各以時母敢離畔。処暑苗行根綻穂苦卒、白露

花背風。秋分稲秀苦雨。九月刈禾無敢過霜降亦有早稲、

先一月熱。是月芸麦輩栽桑築場子。品!掲作亦剖之忙月。

十月治穀米輸租、富良高鹿張蔵相貯、翻賦供官、 1HI農

輪組大家、貯其余以備春作、鰐熔如也。(万j首『嘉興府志j

巻 12、風俗)。

9 万j膏『嘉興府志j巻 1風俗、万!詳 f秀水県志j輿地

志巻 l風俗、康照『嘉興県志』巻4風俗、康照『平湖県志』

巻4歳時、康照『石門県志j巻 11紀事・風俗8四時土

俗など。

10 i敢iili鎖志編纂領導小組(編)r敵対i鎖志J(中華香局、

2001 年)、 408頁。

11 民IIIJで王姓の人を指す隠語として「虎頭蔓」な

どがあった。『但語隠語行話詞典J(上海辞書出版社、

1996 iJ~)、 242 頁。

12 五月五日以虎支為虎支形、或抑線為小虎、帖以支葉。

内人争相戴之。

13 r五月十日暁寒甚聞布穀鳴有徳J<r剣南詩稿j巻

46)。

1.' 銭{III聯(校注)r剣南詩稿校注J(上海古籍出版社、

2005年、初版 1985年)第6冊2816封。

15 銭やIJ)櫛(校注)r剣南詩稿校注j筋 1iß~ 274頁【解題】、

参m{。

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琉球大学教育学部紀要第 84集

16 n敢浦鎖志J(中華i1f局、 2001年)、 408頁。

17 n敢浦鎖志J(中華排局、 2∞l年)、 70-76頁、参照。

111 問 t、参照。

19 r夷竪志j丁志巻 5r呉耀妻妾j を参m~。

割) r中華全国風俗志j下筒巻40

21 r嘉普県志J(上海三聯11F底、199511::)、978-979頁。

幻 f海寧市志J(i英語大詞典出版社、 1995年)、 1061

-1062真。

幻 「乾道庚寅奏事録J<r周益国文忠文集j巻 170所収)。

2.1 銭仲聯(校討:)r剣南詩稿校注j第 1ilfJ-99頁[解題】

を参1!官。

お長部和雄「競波と水戯と習水戦J<r史林J25ー3、

1940年)。

お競渡一節、法有明禁、造意者徒-11::、随従減一等、

此其条亦不軽突。 j内日銀赤白二舟之閥、 Jt:欲争之心、

己樹於二三日之l問、 I~I i内口赤龍舟与泊jf:~ホ船閥、一不

勝耐心巳念。 i内日赤随舟、首持刃下船、長l龍船内張

万二、余万一又持刃在身、将以応之、此J-t:以刃死闘之

意、岡巳萌肇於此実。両舟既散之後、赤龍舟却為李辛ー・

楊童所激、遂同舟求側、而舟道相遇、小人一朝之念忘

具:身、刃石交下、赤間舟偶以人多、舟班、死者一十三人。

侍百廿八・態万十凶・李千、三人皆有刀傷娘、陳再四・

程千五・部些八・陳元三・張六凶・儲紺i十七・朱細

十七・葉四.ß~些小五・楊輩、十人皆有他物傷痕、難

非致命、然以此落水、遂不能出、従而i弱死、則是十三

人之所以死者。笠非張万二・余万一等之UI!哉。本県不

早結解、囚禁日久、輩述i奄滞、当此段幕、各家老小奔

走道路、餓寒可念。当職入境、此項詞訴最多。所争事

既有凶、又有朝省両次減降指錦、即j亦可裁断。張万二・

余万一不合以刃傷及脂百廿八・儲万十I!日・李千十(李

千カ?)、難非致命痕、然悶此溺水身死、照減降赦

魁、張万二所傷阿人、決脊杖二十、刺配三千里嶺南悪

州軍、拘鎖土牢、月具存亡申、余万一所侮一人、決脊

二十、刺配三千里、拘鎖土牢、永不放還。只百十七・

王日宣為首蝕銭入、娃時不曾在船 1--、照条徒一年、決

脊杖十二、的編管五百里。楊元一・丘省元・周千八・

馬千十・朱千十六・ i前借万六各持木杖争闘六名、各決

脊杖卜五、配五百盟。内丘省元不合将刃ド船、難不曾用、

然意亦不善、改配一千m。散身剤船人鋤万七・周省三・

:侍省一・朱万十六・金省四・周千七・朱再二・周省一-

楊万三・楊省四、各供招行手内木棒・船樹・石頭、在

I~I船 1--混乱作附、打務赤船上部些八等、各決脊杖十二、

制:rr:五百里。態省三是白船梢工、勘杖ー百、事IIIH州界。

亦龍船.1::陪省十三・問[再ー・陳再二及未到人李幸一・

|掠曾十七、合照条科断、以J{:船内死人巳多、 ~i5 与免断。

1~1 削船1.:未到人徐興・呉些十七・徐辛ー・余辛ー・呉

省二・鄭万四・李辛六、七名並係刻船之人、各勘下杖

ー百、案後収断。諸葛大十官、先以弾激問、不為無罪、

亦Jl免恨究。 i内口監鎖張保義不能禁貫主競技、及述日交争、

又復坐視、致各人溺死、可見不職、対移本州指使。仰

j際 4~J~fl拝録問、照己断施行。 (r名公害判消明集j 巻 14、

懲~fl'l、競波死者十三人)。

U 木材が集まり交易がなされていたことは、徐絃 (916

1f~- 991年)撰 f稽神録j巻3r徐彦成Jおよび『宋

会盟帆梢j食貸 16-11を参H君。

お 鹿元三年四月、翻)陽小民循故例競i度於樹立I、率皆亡

頼感子、又無衣装結束、1I1~担楊布揮。終日p.島金、 l喧識上下。

又有持酒投稿、或以六七椴伴者、往往酎酔、才東西値遇、

各1I1~呼相尚。樹近、則llifi互撃。甚者至射母放弾、難

遭{鵠疾、亦不告官。<r夷堅志j支奨巻9r呉六競i度J)。

m 古川幸次郎「中|主!の狩察J(初出 1953年。『古川幸

次郎全集J16、筑摩書房、 1970年)。

;ω n涜史方興紀要j巻96福建2に「岡江 府城西南七

里。・…・・又南経釣台山下日『南台江JJor釣台山 城南

九盟。崇阜吃立、傭服大江。……今為鹿市。 111去江百

余歩Jとある。

31 泊成大『呉郡志j巻2r一歳風俗之大略」には「競

il~ もまた消明・祭食に問う j とあり、南宋の蘇州地方

では「競波Jは必ずしも端-午に催されたわけではない

ようである。明代でも消明節に行う地域があった(天

啓『海塩県図経j巻4方城縞第之 l、八之県風土記)。

辺南米・葉適「後端午行J<r水心文集j巻6、古詩)。

:I:l nm一多全集j甲集(影印本第 l巻、大安、 1967年)

所llj(o

:~1 波遁欣雄『漢民族の宗教一社会人類学的研究ーJ(第

-:tll:房、 1991年)第2鮪「儀礼過程j、第2寧「香港水

上肘民の端午節一長洲島の屯舟祭ーJ(1983年調査)に

よれば、湾内で競波を開催する長洲島では龍舟は「北帝J

の線一ドにあるとされている。

:弘前H:260頁、参照。

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