Title 『儀禮』と敦 Citation 63(6): 843-867 Issue Date...

27
Title <論説>『儀禮』と敦 Author(s) 林, 巳奈夫 Citation 史林 (1980), 63(6): 843-867 Issue Date 1980-11-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_63_843 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Transcript of Title 『儀禮』と敦 Citation 63(6): 843-867 Issue Date...

Title <論説>『儀禮』と敦

Author(s) 林, 巳奈夫

Citation 史林 (1980), 63(6): 843-867

Issue Date 1980-11-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_63_843

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

『儀

禮』

奈 夫

【要約目 中中の周時代の宗教的、肚會的な重要な行事の式次第を詳細に記した古典に『儀禮』がある。この書物の中でキビやアハ

の飯を盛る容器として敦が出てくる。年代の注論者以來、敦がどういふ形の器であるか正確な知識が飲如したままになってみたが、

近時の古器物の銘文の研究によってそれが明かにされ、また考古學の稜達によってその使用の年代が前六世紀から前諾世紀末に限

られることも知られてみる。『儀禮』中に敦の置き方について首(頭)を南向きにせよ、と記される個所がある。筆者はこのやう

な規定が適用されるのは前六世紀後号頃に多い特殊な型式の敦であることを明かにした。このことによってこの規定の生れた時代

を特定することができる。また『儀禮』には大夫・士はキビやアハの飯を盛るのに排他的に敦を使用するやうに記される。敦を必

須なものとして副葬してみる小型墓は、職國時代の楚の領域に限られ、華北には皆無である。このことにより、考古學の資料によ

って『儀禮』の生れた地域と年代を限定することができたと考へる。           吏林 六三巻六号 一九八O年=月

階 序

『儀蚕豊諺と敦(林)

 人間の使ふ容器類の中には、長い期間にわたって使ひつづけられる種類がある。例へぱ青銅製の鼎のごときで、股から

漢まであり、同じ鼎の名で呼ばれてみる。一方、限定された肥る期間中しか使はれなかった類もある。釜と呼ばれる飯び

つのごときはその典型的な例で、その使用は西周後期から春秋前期頃に限られ、古典の中にはその名稽すら残らない。

たそれを使用する肚會階層が限定されてるたと思はれる類がある。例へぱ股後期の青銅畢のごときで、副葬品の質素な小

型墓からは獲見されることがない、といふやうなものである。

(843)1

 この四孚世紀ぽかりの間の中國における考古學の獲掘

調査の進展により、その歴史時代の早い時期の器物につ

いての研究も飛躍的に獲達し、遺物の年代についても数

十年輩位の物差で計ることができるやうになってみる。

古典の中に前記のごとき限定された期間、地域とか特定

の肚會階暦によって使はれた器物を見出すことができた

場合、この考古學の成果を鷹用してその古典の年代や性

格を考古遣物の物差で計ることが可能である。ここには

『儀禮』に出てくる敦をとり上げて『儀禮』の成立年代

とその記載の製作者、基盤となってみる地域等の問題を

論じてみたい。

膚組

謄租 魚組

家宅 羊組

葵萢豆  嵐塗櫛

酷醜豆  蟹田豆

稜敦  黍敦

黍敦  稜敦

                   s

     解         南

圖1 r儀禮』少牢鰍食禮の室内燈豆敦等配置圖

2 (844>

二 「敦皆南首」

 この見出しに引いたのは『儀禮』少牢讃食禮に出てくる敦の置き方についての指示である。少牢讃食禮とは諸侯の卿大

                            ①

夫が少牢(羊、琢)を使って租や死亡した父を廟に祭る禮である。この句が出てくるのは、父租を代表する に御馳走す

るため、 「室」の奥、西端に の坐る鑓を設け、その東に豆、魍を順に並べ、姐の南に黍、穫の敦を設ける(圖1)記述が

あり、その置き方について「敦皆南首」とあるのである。これについて郵玄は注に

  敦有首着A,r奪者器飾也パ飾蓋象麺、周之禮土器各以其類、魏有上下甲

と、帥ち敦に首があるのは、奪者の器には飾りがあるのである。蓋を飾るのに麺を象ってみる。周の禮では器を飾るに各

『気配』と敦(林)

乏その類に合せる。象には上下の甲がある、といふのである。敦といふ種類の器については、銘文中に「敦」に遜る文字

をもって自らをその名稻で呼ぶ例が知られてをり、その名構がどういふ形態をもった器を指したものであったかについて

                 ②

は、今日の研究者にはよく知られてみる。邸ち蓋と器が合さって全盤で多少とも球に近い形をなす三足の容器で、足は棒

状乃至環状をなす。春秋後期の、笙から圏足を除去したやうな、型式辛勝にこれの前身をなす器にも銘文に「敦」に早る

字で自名するものがある。三足は鉄くがこの類も敦と呼ばれたことが知られる(圖2-5)。ところで、この種類の器には

鄭玄の言に相違して、亀の装飾のついたものなどは全く知られない。鄭玄が敦といふ器物について正確な知識を持たなか

ったことは明かである。 『周禮』玉府「若合諸侯、則共珠美玉敦」の注に

  敦、築類

                                     ③

と、師ち敦は葉の類だ、といふ。然し帯代の薬と呼ばれた器は深いめの皿形の容器で敦とは似てみない。また『儀禮』士

喪禮「敦啓會、面足序出如入」の注に

  敦有足、則敦之形如今酒敦

                                                      )

熱難

 .」,

強灘冒

£

圖2 銘文に自名の敦(齊侯敦)

.‘聾

圖3 銘文に難名の敦(讃評午敦)

圃4 銘文に自名の敦(陳侯午敦)

圖5 銘文に自名の敦(陳侯因資敦

「.葎

3 (845)

教蕪

固6 『新定三禮圖』の敦

現有首引、奪者耳飾也、蔵置象亀、

象故也

即ち、鄭注に

轟轟此義者、

と、即ち敦に足があるといふと、敦の形は蓋し今日の酒敦のやうな

ものだらう、とその形について推論を行ってみる。これらのことか

ら、鄭玄が敦について確かなことを知らなかったことがうかがはれ

る。 

賢公彦はさきの鄭注について次のやうに解読してみる。即ち

以其百日敦南首、轟轟鶉轟獣之形、故唱首、知象亀者、以其蓋形象

と、      「敦に首があるのは、奪者の器には飾りがあるのである。蓋を飾るのに亀を象ってみる」とあるが、そ

のやうな意味であることがわかるのは、次のやうなことからである。即ち、経に「敦は首を南にす」といひ、明かに鶉や

贔や獣の形を象るから、故に首といふのであることがわかり、亀を象るとわかるのは、その蓋の形が鶉の姿であるからで

ある、と。 『新定三禮圖』に圖6のやうな紬が豊かれるのは、この解読によるものである。

                     ふた         ⑤                 けだ

 戴震はさきの三春の「飾蓋象鶉」を賀公彦が「蓋を飾るに鶉を象る」と讃んだのは誤りで「飾は蓋し……」と畳むべき

                   ⑥

だとした。それに封し黄以周は次のやうに言ふ。

  少牢禮に敦は皆首を南にす、といひ、首について南といふ。するとこの「首」は敦の蓋でない。また士喪禮に敦は會

                         ⑦

  (ふた)を開けたまま、足(の間)を前面に向けて持つ、といふ。するとこの「足」は敦の脚ではない。敦に首があ

  り、足があるといふから、その器は必ず全燈で象る所があるに違ひない。帝位の注の意味は、蓋は亀の甲の紋様をっ

  けて亀の背甲を象ってみるから、その「首」は亀首となってみると考へたのである。そこで「蓋」と言ってこの鮎を

  明かにしたので、 「蓋」は疑閲の詞ではない。戴、胡の読は誤りである、

と。

4 (846)

『儀禮』と敦(林)

 玉器の考へたのはそのやうなことかと思はれる。然し問題は幽玄の考への當否である。器全禮が亀の形をした容器とい

                           ⑧

ふものは、先秦時代に例のない代物だからである。川原壽市氏は敦の「首」について

  蓋し「首」とは鼎に稔せられる「面」と同じで、経に飾あるをいわず、必ずしも飾があってはじめて首とする所が識

  別されたものでもあるまい。ここにいう「首アリ」とは、敦に鼎のように耳あり脚あり、別に飾がなくともその首と

  するところが、自ら明らかであったのであろうと考えられる

                                                 ⑨

といはれる。考への方向はそれでよいと思はれる。然し氏は具膿的にどの方向が首かといふことは考へてるられない。

 然らば敦について言はれる「首」とはどういふ部分と考へるべきであらうか。敦といふ器を通覧するに、圖2-5及び

躍7-11に示したごとく、春秋中期後鼻から職分時代まで、各時期を通じて極く普通に見られるのは次のごとき形である。

即ち、容器の部分に棒状ないし環状の足が三つ中心から等角度をなして附き、蓋にもこれと同方式で環朕、鳥形ないし動

物形の飾り一この蓋をとって仰向に置くとこれが足になる一が附く。また蓋、器とも側面に一樹の環状の耳があり、

耳を結ぶ線は二本の器足乃至蓋の飾りと牢行になってみる、といふ封雨落のものである(圖12A)。この場合、耳と三本足

の管掌位置は鼎と同様である。この式の敦の場合も鼎と同様、耳を左右に、二本の足を左右手前、一足の足を黒体ふにな

るやうに置いた場合の観者の側が正面と考へられたに相違ない。

 ところでこのやうな器で「首」と呼ばれる可能性のあるものとしては、左右の環状の耳に飾られる獣首(囲4)、或ひは

蓋の下縁につけられた獣首形の止め金(圖11)などが考へられる。然し、これらは考へてみるとどちらも硬膏でない。後者

の場含、獣首は器の前後にあるのであるが、器の正面の側にあるものは、特に首と呼ばれたといふこともあり得よう。然

しこの酋を南にした敦の正面は爾向となり、敦はその西にある の坐る莚に封して横向きになってしまふ。また前者の場

合、正面から見て右側の耳の獣面を南向にすると敦の正面は戸の坐る莚の方向に向ふことになる。然し左右樹稻にある獣

首の一方を特に首と呼び、これを南に向けよ、と指定してみるといふことは、頗る考へ難いことといふ他ない。

5 (847)

  ド   5州 tt’

 圖7 封稔形の敦競馬上馬村13號墓出土

圖10野稻形の敦

轡、」

圖8 樹鏡形の無熱縣察侯墓出土

   「轟パ贈

      、「篇鼻

圖11鞠稻形の敦京都泉屋博古館藏

圖9 封慰撫の敦

 敦の首を南に向けよ、といふか

らには、首は一方向にのみ在るも

のでなければならない。第一、首

といふからには尾とか何とか、首

と同じ形でないものが反封側に懸

ることを想定せねばならない。敦

は大禮多く先に引いたごとく正面

から見た場合左右封鍵形をなして

みるのであるが、さうでない敦が

あるであらうか。それはある。圖

6 (848)

ぽ儀禮』と敦(林)

13

ヘ春秋中期後牛頃の洛陽中州芸能號墓出土の敦であるが、同じ時期の圖7などとは異なり、耳が左右に震る方向に置く

と、足がさきに見た方式のもとと比べ、三〇度圓画した位置になってみる(圖12B)。この式の敦を二本の足が左右、一本

が中央といふ位置に置いてみると、耳が中央前後に來てしまふ。この方向では使用看の便宜上、全く不都合である。この

式の敦も、最初のやうに使用者に封して耳が左右に來るやうに置くのが正しい方向と考へるべきである。ところでこの式

の敦は、西側の の坐る鑓に正面を向けると、一本の足が南に向く。この使用者に封して足が無封稔であり、西側の使用

者に正面を向けた時に南側に一つ突き出す敦のこの足の方向は、それこそ亀の首をも蓮署せしめ、敦の「首」と呼ばれる

のにふさはしいのではなからうか。

 この方式の敦は探してみるとそれ程稀少なものでもない。圖14は唐山質各各出土の例で、紋様から春秋後期前著のもの

と知られるが、器側の耳を左右にして置くと、やはり一本の足が眞横に向く。圓15も器側の動物の表現から同じ時期と知

られるもので、足のつき方が圖1314と同方式である。圖16も同型式。動物紋があると記されるが、銀翼では見えない。

                                 ⑩

 圖17120は器を上から見ると楕聖廟をなす黙、敦と相違があり、先に筆者が鋤に當てた型式の器である。圖1819は唐山

A

B

足足

 面

↓正

正面

圏12 翼稔形の敦(A)と非鉗象形の敦(B)の足と耳の位澱閥係圏

費各蕪の出土品でいつれも前六世紀後牛のものである。ここ

にも耳を左右に向けた時に一本の足、蓋のつまみの一つが虞

横に向く、前引の敦と同じ方式が使はれてるる。圖17は臨溝

郎家荘の出土品で、時代は右と同じ時期に回する。足はない

が容器の形は鋤に厨し、耳に封して蓋のつまみの一つが畏横

に來る方式が使はれてるる。圖20はやや時代が降り、前五世

紀に入ると思はれる器であるが、、耳を左右にすると一本の足

が眞横に向く型式である。

7 (849)

圖13非謝稔形の敦洛陽中州路4號墓出土

固15非封稻形の敦

    

与露喰

    踏1

麟 mu ッ

購嚢 、   + 霧憲  s”炉矯

 亀

圖14非封稻形の敦唐山買各荘16懸盤出土

圖16非劃稻形の敦豪農 故宮博物整調

 銅は『儀禮』中で敦と並んで現れ、野

楽入りのスープに使ふ容器である。例へ

ぱ三三韻食禮では、圖1の黍稜の敦の西

側に並べられることになるのである。こ

の型式の器に敦と同じ方式で足や蓋のつ

まみが附けられるものがあるのは自然の

ことである。

 右に見たごとき、耳を左右にした正面

を主人公に向けた時、三本足の内の一本、

三個のつまみの内の一個が主人に封して

眞横に向く類の敦は、これを幾つか並べ

ようといふ時、一つだけ横向になる足や

蓋のつまみの方向が不揃ひでは不艦齢で

ある。そこでこれを南向にして揃へるや

う、といふのが「敦皆南首」といふ指示

          ⑪

の意圖する所に違ひない。これが現在我

我の手にしうる敦の遣物に就いて考へう

る、唯一の合理的な四二ではなからうか。

 さて、 『儀禮』が敦の使用を言ふので

8 (850)

『正副』と敦(林)

圖19非封鍼形の釧唐山買各荘18號墓出土

圖20非饗雛形の鋼上海 上海博物館藏

9 (851)

圖17非難鱗形の銅臨潤郎懇懇1號墓出土

圖18非樹懇懇の銅唐山買各荘28謹撰出土

あるから、それの書かれた時期が敦といふ型式の器が生れた時期-前記のごとく前六世紀一以後のものであることは

間題なく言へることである。そして『儀禮』にその保持の仕方、蓋のとり方等について具薩的な規定がある所からみて、

その書かれた時期は敦の使用されなくなる時(前三世紀末)より後といふことも考へ難い。即ち『儀禮』の書かれた時期

については、敦の使用期間の方から、前六一三世紀と限定することができるのである。

 圖13116のやうな、器の正面に慣して足が不樹墨形に附く敦が、いつ頃まで作られたかについて嚴密に決めることは資

料の制約によって不可能である。然しその類が今知られる所では前世世紀の後牛に多く、その前後の時期にも若干作られ

てみるといふ大勢ぐらゐは知ることができる。この黙は然し重要である。大詩書といふものは前六世紀玉響頃から出現す

るのであるが、 「敦皆南酋」の規定の書かれた時期の上限がこの敦の使用の早い時期であることが知られるからである。

そのやうな規定は、最初に引いた圖315、7111のやうな、器の正面に樹して足が左右叢話形に附けられる型式の敦が

普遍的となった時代には生れ難いものと想像されるからである。

1O (852)

① 少牢餓食禮の見出しの下の費公彦の疏

② 林…九六四、二こ五-七

③林編一九七六、二三一、二三八

④ 『靴工記圖』 「旗人爲箆」の條の補注

⑤ 廣島大圏中哲研究室編…九六〇、八九頁に「飾は蓋し象と鶴ならん」

 と勧むのは大難遽ひである。

⑥ 『禮書通故』名物四、一六。 「以周案、少牢禮設楽南首、首葡南、

 是首非敦之蓋也、士喪禮敦啓會面足、足腫日面、是足非敦之脚也、敦

 別腹首鳶足、則其器必有所象突、巌冬南首而云飾現象翻者、謂飾敦之

 鞍作亀文、以象上甲、知上甲則知車首爲濫首也、故累蓋以明之、蓋非

 疑詞、戴下之説非也

⑦  「敷啓會、面足」の注に「啓會、徹晴不復縁也、面足、執之令足間

 郷前也」と。

⑧ 川原}九七三-八、少牢、…九四頁、注(841)

⑨川原氏はここに引き合ひに出された鼎の「面」について「鼎の前後

 はどこをもっていうのか、はっきりしない」といはれる。然しこれは

 實ははっきりしてみる。耳が左右に來て「本の足が向ふ側、二本の

 足が左履に來るのが正面であることは張光遠氏の論謹する逓りである

 (百里一九七六)。

⑩ 林一九六四、一=…九-蕊○頁

⑪ なほ岡13116では、圖蔦を除いて蓋の環の位鍛が中途想見になるや

 うに蓋が閉ぢられてるるが、本式には瞬17120で器蓋の楕悪形に強制

 されて正しく巌かれてるるやうに、足と蓋のつまみは上下…封鷹する形

 にして蓋を閉ぢるべきものであったと考へられる。

三 『儀禮』中の敦と篁

『儀禮』と敦(林)

 『儀禮』、中には実需を盛る器として敦の他に豊が出てくる。このことについて誤った見解が通用してみる向きもあるの

で排除しておく必要がある。鄙ちこれはテキストを爲す時に書き誤って混観したもので、もとは同一の字であった、とい

         ①

ふ議論である。容庚玩は黄紹箕が「設殴」(『翠墨園語』)中に

  敦の字はただ『儀禮』に屡≧見えるが、籔字と相ひ混じてみる。疑ふらくは隷篇の時に日に多く講物したものだらう

  (別に説があるが甚だ長いのでここには録さない)

と言ったことを引き、別に説があるといふが未だ見ることができない。然し自分は『儀禮』を翫んでみるに、篤と敦は同

一の字だと考へる、として次のごとき謹を畢げる。

 一、聰禮、公食大夫禮に篤があって敦がなく、士昏禮、士喪禮、既夕禮、夕照禮、少牢鹸食禮に敦があって篤がない。

特牲男食禮に敦は尊見し、笙は一見する。 「主婦設爾敦黍穫干姐南……佐食分嬢鋸」とあるが、この笹と銅はさきの敦と

鋸である。

 二、敦釧空豆の四者は常に無用される。公食大夫禮では蜂巣鋤租が畢げられ、敦の代りに笙が入ってみる。

 三、籔も敦もみな黍穫の器でどちらも蓋があり、食べる時はとって仰向けに置く。

 この内二と三は笙と敦の用途が共通で、どちらも蓋があったことを思するのみで、翠霞が同字だったといふ謹擦にはな

らない。第一の特牲繋駕禮の例のみは、テキストの文字に混齪があった可能性がある。獣心に纏めば、佐食が分けるのは

篤ではなく、先に出て來た敦のはずだからである。幽玄がここの注でいふ、同姓には周の制によって箆と呼ぶことができ

      ②         ③

る、といふのも苦しい解繹である。

 容庚氏が翠げた謹擦は以上のごとく甚だ不十分なものであり、黄紹箕の『儀禮』中に釜と敦が混って出てくるといふご

11 (853)

1蓑

敷を称する亀9

0奏樫田敦皆益○餐議会愚子致爾

。。妺T鰍馬柵親齪薩ψ

○用器弓矢条鐸両極曾の篇窒』なb

・。

O盛両敦賦     。。,備設繍舗婁講媛

  O敦黍コ○敦侵、少牢ろ厩食啓含蓋二以重段子敦南。   総羅墾無郵寒,黍露

笠を・称するもの

・Q

¥縫購榊鶴一色

壌○卑下黍羽十○袈・烈面愛啓   卸亭美西。○簸編針幻凱歌輩三

◎盛竣鱗樋震.う熔。の蔑

と茎経明されない・とである。『儀聾の中の讐敦の使用例については川原氏のわかり易い鞠があるので引用させ

ていただく(表1)。この使ひ分けについて川原氏は

 今、儀禮各篇を通じてみるに、或は敦といい、或は纂といい、篇によってまちまちになっている

    ⑤

といはれるが、まちまちといふのは袋當でない。川原氏がこの表につづけて

12 (854)

『儀禮』と敦(林)

  この表によって明かなように、犠と敦とは全くその用は同じい。ただ奇妙なことに聰禮や公論大夫禮のように、嬢と

  冠するものはその篇を通じてみな嬢と要し、士昏士喪以下のように敦を署するものは篇を通じてみな敦と黒し、篇そ

  れぞれによって統一した使い方をしている

と指摘してゐられるやうに、使ひ分けがある、といふべきである。経學の世界にも『儀禮』に出てくる笙と敦はそれを使

用する禮の種類による使ひ分けがあるといふ考へが當然古くから存在した・例へ築の楊復の『纒勢喬』吻

  明番位に有虞氏の爾敦、夏后氏の四漣、股の六瑚、周の八箆と。注に云ふ、器品穫の器なり、と。有心氏の敦は周に

  はこれを士大夫に用ふ。故に草筆の士大夫の祭に、敦ありて盤愚なし、……士昏禮に……少牢禮に…裏面禮に……既

  夕に……(例の引用略)。これ皆士大夫の禮なり。聰禮に饗餓を陳ぶると、立食大夫とは皆主國の君の賓を面するの禮

  なれば、則ち盤嬢を用ふ、

といきと毛ある・この考へは別に特殊なものでもなか・たと思はれる・例へば清の凌廷堪の『禮難例鞠

  正立案ずるに、細結に……公魚大夫禮に……(引用略す)、これ諸侯の黍穫を盛るの器は、これを箆といふなり。少牢

餓食禮に……(引用略す)、これ大夫の黍穫を盛るの器は、これを敦といふなり。士茎立に……(引用略す)、これ士の黍穫

を盛るの器もまた、これを敦といふなり、

          ⑨

と。黄以周も『禮書通故』にこれを要約して

  盤嬢は華美の器にして大夫以上これを用ひ、士はただ敦を用ふ

と言ってみる。

 考古學の知識に照すに、簾といふ魚種は股に始まり、西周時代に盛んに作られるやうになる。その傳統は春秋にも績き、

多くはないが二時時代にも作られ績けてるる。敦は前記のごとく六世紀に始まり、戦勲末まで使はれる。印ち春秋から戦

野時代、爾者は同時に作られてみるのである。然らば『山蛭』の中に箆と敦の爾方が出て來て、仁者が禮によって使ひ分

13 (855)

けられみる事實は、實血漿において笙を使ふ禮と敦を使ふ禮に使ひ分けがあって、

のではないか、と考へるのが穏當な考へ方の方向と思はれる。

① 容一九四一、上、三一ニー闘頁

② 「鐘樹席、佐負分籔釧」注「……分舘者、分甘露於會、爲周面也、

 敦有虞氏之器也、周制±用之、饗濡燕難、容同姓游士、得從周捌耳」

③ もっとも黄以周は(『選書短故』名物、四、一四)「此蓋以敦亦盤類、

 趣鑑偶之、此興簿飲酒禮、騨亦偲爵同」といふ説明も可能である。

④ 川原一九七三-入、 一一研、特牲餓食禮、三七三頁

それが『儀禮』の中に反映されてみる

⑤ 陶右

⑥同、三七四頁

⑦『通志裳経解』本、三四葉

⑧『皇蔵経解』七七四、=ハ秦、

 器日鐘」の條

⑨名物通故、四、一四葉

「離漿黍穫之同日嬢日敦、盛稻梁之

14 (856)

四 獲掘資料申の敦、笙と『儀禮』の作られた地域

 前飾に見た所によって『儀禮』中では諸侯は禮において般西周から趣いて使はれた傳統的な器種であった釜に黙黙を盛

るのに鋼し、大夫、士はこれを敦に盛る、といふ翌翌がつけられてるたことが再確認されたと考へる。それはそれとして、

そのやうな身分の上下による禮の器の使ひ分けは實際にあったことで、同時代の蜜物費料から確認できることであらうか。

 ここで研究者であれば直ちに思いつくのは次のごとき具合のよくない例であらう。一つは齊侯敦。銘文に齊侯が娘の嫁

                   ①

入りに持たせてやる敦を作ったと記される。墨黒の娘が下級の大夫や士の所に嫁いだとも思はれないが、さうすると諸侯

の親戚となるにふさはしい諸侯級の者も敦を使ったことになる。これは春秋中期風琴の例である。一つは陳濁世の籔と敦。

                                                       ②

爾看とも岡文で陳侯午(田齊の桓公)が前三六一年に當る年に租先を麗るためにこれを作った旨銘文に記されてみる。職

                                                     ③

國の諸侯が盤と一緒に敦も作ってみるのである。また陳侯因資敦も田齊の威王(前三五六一三一九)の作器であるが、これ

                                                  ④

も諸侯が敦を作った例である。また要義の曾侯乙墓の忍辱品中にも青銅の盤、釜と共に敦が畢げられてるる。これは前堂

世紀末の例である。

『儀禮』と敦(林)

 然し、 これら諸侯達が敦を作り、祭祀に使ってみることについては、一品次のやうに考へることもできよう。印ち、

『儀禮』に書いてあるのは諸侯が相互に卿をして親善のために訪問させる場合(聰禮)、公(諸侯)が大夫に御馳走する場

合(公平大夫禮)に笙を使ふといふのであって、租先の祭祀その他の場合に篠のみを排他的に使ひ、敦は使はなかったか

どうかについては記録がない。 『儀禮』の記載から諸侯が黍稜を盛るに嬢だけしか使はなかったと考へるのは誤りである、

と。或ひはさうであるかも知れない。然し王や諸侯の儀禮は残らないのであるから、文闘の方から理窟をこねるのは無意

味である。

囁然らば士が敦を使ったといふ方は、r遣物に照して確かなことであらうか。當時の器物は多く墓の副葬品として護見され

るのであるが、どの程度の墓が士のものか、卜定は難かしい。然し榔の一邊が一〇米を超える大型墓が諸侯とかその一族

のものといふことは大騰確かとして、それ以下の、青銅器類を副葬した榔の一重が墨金の中型の墓を卿とか大夫の毛の、

青銅器の若干や陶器を入れた一邊二2三米以内の小型墓を士のもの、といふやうに大凡の割賦てを行ふことが許されると

すると、例へぼ長沙あたりの中、骨質からは敦は幾らでも出るが、黄河流域の方にはこれがないのではないか、といふこ

とが先づ頭に浮んで來よう。これについては獲掘報告の類を漁ってみる必要があらう。

                                ⑤

 北の方から見てみるに、河北省では承徳礫河鎭から易縣輩下都一六磁極にみたごとき、彩色の陶明器が曾てみるが、爾

            ⑥       ⑦    ⑧       ⑨

者とも篤があっても敦はない。北京懐柔城、燕下都、郎郷里家村等の春秋後期-職國末の小型墓の副葬土器の組合せ中

          ⑩   ⑪     ⑫      ⑬     .⑭

に敦はない。唐山賀各荘、燕下都、鯉山訪賀荘、邪墓南大圧村、郡郷百家村の青銅器を出す墓の内、敦が心見されたのは、

唐山費各荘一六霜取から卵形の敦が出たのと、四郷百家村三哲墓から口縁に接してくびれのある敦が出た例があるだけで

                                                    ⑮

ある.。卒山中山王墓園、一興墓、六耳茸とも未擾観の庫中に夫≧青銅の箆、箆盤はあるが敦はなく、陶器中にも敦はない。

 河南省では輝縣趙圃一棟墓の銅器を出す中型墓から陶製の嬢、藍が獲免され、また口縁に接してくびれのある青銅敦が

   ⑯                       ⑰                        ⑱

出てみる。輝縣の楮邸の職國小型墓には敦は敏如し、林縣臨棋匠の春秋後期小型墓も同様である。洛陽焼溝職黒黒にも陶

15 (857)

             ⑲                             ⑳

盤、盆はあるが敦は知られない。三門挾市上凝血の銅器の出た無電墓にも敦はない。

                      ⑳                                ⑫

 山西省では侯馬牛村の土器に釜はあるが敦はない。侯馬上馬村の春秋中期後孚の青銅器を出す墓にも敦はない。長治分

                                     ㊤

水嶺の青銅を出す墓では、春秋後期前牛の一二號墓から青銅の整、箆と共に卵形の敦が、春秋後期後孚の=一六號墓から

   ⑳                                                              3

残敦蓋が、戦國前期前挿頃の二五、二六號墓からは口縁に接してくびれのある敦が出、後者からは釜も獲見されてるる。

                           ㊧                            ⑳

 陳西省は資料が乏しいが、賓難の春秋中期の青銅器の出る墓、春秋後期から職國初の土器を副葬した小型墓、西安傘波

の職國墓にも敦はない。

                              ㊧

 虫東省も材料が少ないが、春秋中期後牛頃の臨潤郎家荘一號墓では主命は盗掘されてるたが陪葬坑は未擾簿で、一様に

                         ⑳        ⑳

副葬青銅器中に敦が加はってみる。同時期の臨胸楊善隣祉、年度東岳石村の青銅器を出す墓でも同様である。

 安徽省では心底一九五五年倉見の票侯某の銘のある多数の青銅器を出土した票侯墓からは、この察侯の銘のある青銅箆、

           ⑫

藍と共に青銅敦も出てみる。ただし敦には銘がない。前六世紀末のものである。一九三二年に盗掘された壽縣朱家集の楚

                                                  ⑬

王欝悉(楚幽王、前二一二七一一三八)の銘のある青銅器の出た大切からも、青銅箆、青銅盛と共に敦も出てみるらしい。

                                             ⑭

 講懸から西方へ潅河を遡った上流、河南省信陽長倉關一號墓からは、青銅敦のほか陶製の箆が出てみる。倉出の壷の型

式から前四世紀後傘頃と考へられる。

 ここより西方、湖北省の細水流域に入ると製陽湖波一二號大病が知られ、陶敦が軽銀されてるる。鼎の形は次に記す江

陵望山一叛意、毛蟹墓のものに近く、大国同時期のものと知られる。江陵望山一號墓、二號墓も大墓であるが、前者から

                                     ⑯

は青銅の敦、陶製の整、箆が知られ、後者からも青銅の敦と陶製の箆が知られてみる。これらの墓も同出の壷の型式から

                          ⑰               岱

到潔して前四世紀後期頃と考へられる。江陵藤店の一號大賢、江陵大足観五〇號中型墓は出土品から信陽長駆關一號墓と

                                    ⑲       ⑩

大禮同時期と知られるが、これらの墓からも陶製の敦、箆が知られる。江陵拍馬山、江陵大暉観、江陵の西南方松滋大岩

⑪囎からは小型墓が多数獲見され、次に記す、長沙に彩しい例の知られる陶製の鼎、壷、敦の副葬がここにも見出される。

16 (858)

『儀i涌禮』と敦(ネ木)

 湖繭省の長沙附近の開獲に件って中・小々の護掘例は灯しく、その報告も多数にのぼる。從って多くの獲掘データに基

いて言はれる次のごとき趨勢は大禮確立されたものと考へて差支へなからう。鄙ち、この地域では陶製の盆、罐、高の組

合せが古くて早期、次の中期には鼎、敦、壷の組合せに攣り、次の晩期が鼎、盆、壷の組合せになる、と言はれる。年代

                                           ⑳

については早期が職國早期より以前、申期は職國前期から後期、晩期は漢に入る、といふ説があり、また早期を戦國早期、

                ⑬                                      ⑭

中期を戦盲中・晩期とする考へもある。長沙と岡様な分期は常徳徳山の中小墓についてもなされてるるが、早期は春秋、

敦の出る中期と晩期は夫≧戦國前期、戦國後期から秦楚の際と考へられてるる。他に長沙の酉南帯郷にも長沙と同様な敦

               ⑳

を含む土器の副葬が報告されてるる。

 以上によってみるに、河北、山西、河南北部の地域一撃・三晋の領域ll・では、青銅器を出す中型以上の春秋後期か

ら職國の墓では、傳統的な簸、整と共に敦が副葬されることもある。然し必ずしも副葬品のセットに必須な尊王であった

とは認められない。一方中・小型墓乃至住居塩の土器の中には決して現れない。それに平し、湖北省南部の隠撮から湖南

省北部の長沙のあたり1楚の中心地一では、敦は戦國期の青銅器を出す中型以上の墓では副葬品のセット中に青銅敦

があるのが通例であり、小型墓の土器の副葬品セヅト中でもなくてはならない品目になってみる。

 この敦の使用に關する南北の封照は重要である。大夫、士の禮では敦を使ひ、それ以上の者は敦でなく盤を使用すると

いふ匿別のはっきりしてみる『儀禮』にのこる記載の生れたのは、下級墓の中にその普遍的な使用の認められる地域であ

って、下級墓中の使用の置跡の全く残らない燕、三晋の地域であるはずがないと考へられるからである。

 ただここで注意しておかなければならないことは、冥鑑から長沙にかけての小型墓の副葬品中に敦が普遍的に獲見され

ることは事事として、他の地域にもこれがないといふことは言へないことである。江陵から長沙にかけての楚墓から知ら

れる棒状の長いめの足をもった、楚式とも呼びうる濁特な鼎や、鼎敦壷の特徴的な副葬容器の組合せは、前認の小型墓の

                                     ㊨

獲掘されてるる範園を超え、前記の嚢陽、信陽、壽縣、それに簗縣からも知られるが、これらの地域の小型墓については

17 (859)

獲掘の報告が知られてみないからである。また前引の臨聖遷家荘一號墓でも、殉葬発達の副葬品にすべて敦が入ってみた

瓢、下機着が敦を使用する風が、この地にも存在したのではないかと考へさせるものである。然し今のところ何故か齊の

小型墓の獲掘データは空白のままなのである。

18 (860)

」さて『少食』といふ書物の素性であるが、何時、誰の手によって編まれたかについては從來確かな謹擦がつかめてみな

                                               ⑰

いやうである。筆墨はこの方面の専門家ではないので川原壽市氏の噌儀隠避考』を播いてみたのであるが、川原域は大凡

次のやうに論じてゐられる。帥ち

  『論語』季民篇に「禮を學ぶ」とあるから孔子のもとに禮のテキストがあったと思はれる。然し論語の中には『儀禮』

                   ⑱

  と直接漣關性のある言葉は見出されない。 『禮記』檀弓に出てくる子游の言動は選良の説く禮、その趣旨に合致する

                                          ⑲

  ものが櫓脚かある等から、「子游は一番儀禮の編渚として手近い人物であると見られてくる」。子游(前四四三年に六四

     ⑳                                                         ④

  歳で死亡)は奥の出身であるが、『儀禮』には喜多等南方系の方言がかなり混ってみることもこの考へを裏づける。ま

                              ⑧

  た用字、語法に統一があるから、一人物著はした書物とみられる。同時代に既に存在した聖霊係の記録を取捨して統

                      ⑧

  一したスタイルの記述に仕上げたものであらう

と。川原氏のいはれる方言の謹といふのは鄭注や『読文』、『方言』によって『廿里』中の言葉にどのやうな地方の言葉が

入ってみるかを表にしたものであるが、拾ひ出された四〇田中、關東、關西といった漠然とした類一四條を除くと、齊魯

                    ◎

以南、華中地域が歴倒的に多いのは事實である。この方言の指し示す範國は、前記の考古獲掘資料の指し示す、春秋後期

から薄恥時代の共通の禮器のセヅトの使用によって劃定された共通の禮俗の通行範團と重なってみるのである。推定編者

の出身地とか、漢代に降る方言の謹四〇條といった、かなり心細い文鰍費料の方からする推論は、ここに引いた考古學の

不動のデ:タによって強力な裏附けを得たといふことができよう。

 「孫王南首」の規定は、この規定にふさはしい型式の敦の器物の年代によって前六世紀後置から前五世紀初に年代づけ

られることは第二章に記したところである。またこの章に引いた考古學的資料により、この時期においては中國の南北各

地の青銅器を副葬する大型墓、申型墓中に、傳統的な盤、箆と並んで敦の現れることが知られた。このことによって、敦

の内でも古い時期に厨する型式に係る「敦皆南首」の條の誕生の地は特定することができないことが知られた。

 一方、黍穫を盛るのに敦を使用することを常態とする『儀禮』の禮は、それが或る時代に實際に行はれた禮である限り

一その具膿的、實際的な指示から考へて、これが机上で帳空に創られたものとは到底考へられないのであるが一その

規定の原形となった禮を心行してみたのは参画の器として敦を排他的に使用したことの干せられる楚の下級墓の被葬渚を

おいて他にないのである。そしてこの地域の敦使用の年代は沓持時代であり、漢には降らない。 『儀禮』のテキストが今

みるやうな形をもって成立したのはこの地域、この年代の範圏内と限定されることになる。ただ、このテキストの中には、

「敦皆南首」の規定のごとく、それより少々年代が遡る可能性があり、生れた地域も楚の領域内と限定することのできな

い條が含まれてみるのである。 『儀禮』のテキストが職國時代に一巡に書き上げられたものでなく、古い禮の書が引用乃

至参考にされてみることも明かにされた。

『{箋自費』と敦(林)

①羅一九三六、八、三五、一

②林一九七二、画論⑫、圓八五一七、五九五頁。なほ坐雛午箆の銘が

 偽物だといふ意見が白摺静氏によって出されてみるが(白川一九六二

 一、三八、四二〇頁)、それが誤りであることは張光遠氏が母物の詳

 細な槻察に基づいて反論されてるる通りである(張一九七七)

③ 林一九七二、附論⇔、圃九二、五九六頁

④ 開隙縣械畑鼓轍一噛號墓考古護掘除一九七九、六頁。爲眞や圏は山山てるない。

⑤ 河北省文化局文物四工作撒豚一九六五

⑥ 承徳離宮博物館一九ぬ公

@@@@@@@@@北京市文物工作除一九六二

中國歴史博物館考古組一九穴二、河北省文化局文物工作除【九六五a

北京大學、河北省文化局郡郷考古獲掘除一九五九

安一九五三

河北省文化局文物工作隙一九六五b

唐、王一九七八

河北省文化局文物工作隊一九五九

河北省文化局文物工作除一九六二

河北省文物管理塵一九七九、三頁、八頁

19 (861)

⑱中國科學院考古研究所 九五六、一=一i四頁

⑰隅、一二五頁

⑱張一九六〇

⑲ 王一九五四

⑳河南省嬉物館一九七六

⑳侯馬市考古獲掘委員會一九六二、六〇1一、葉一九六二

⑫ 山西省文物管理委員會侯馬工作姑一九六三

⑱ 山西省文物管理委員愈一九五七

⑳ 遇~九七二

⑳ 山西省文物管理委員會、山西省考古研究所一九六四

⑳ 

・甲國科 思甲院考古研究所費難獲掘…隊一九山ハ一二、陳西門省文物管理黍酒員命μ

 一九六五

⑳ 賓難市博物館、費難市澗濱圏文化館一九七九

⑱ 金一九五七

⑳ 山東省博物館一九七七

⑳齊文漁~九七二、一二一三頁

⑳ 中國科學院考古研究所山東袋掘隊一九六二

⑳ 安徽省文物管理委員會、安徽省薄物館一九五六

⑧ 郭沫若は(郭一九五七、考繹、挿圃一)安徽糊譜館に集められたこ

 の盗掘品の爲舞につき、右手の棚の上の簸、㌶の左の器を敦と言って

 みる。李景購が(李一九三六、一一六八頁)一九三四年の安徽省圃分館

 所在の面目中に三足叢、三足小篠と帰してみるのがこれに當らうか。

 爲翼と数量の黙で合はないのであるが。

⑭ 河南省文化局文物工作除一九五九

⑳ 裏陽察披首届亦墨型農考古訓練班一九七六

⑳ 湖北省文化局文物工作除一九六六

⑳ 荊州地匝博物館一九七三

⑱ 湖北省博物舘、華中師範學院歴史系一九七七

⑳ 湖北省博物館等一九七三  、

⑳ 湖北省薄物館一九七三

⑳ 湖北省文物管理委員會一九六六

⑫中國科學院考古研究所}九五七、三七-八頁、李等一九五七、湖南

 省博物館一九五九

⑬ 湖南省文物管理委員會一九五八

⑭ …糊一閑省博物館二九{ハ一瓢

⑮ 湖南省博物館一九七七

⑬ 股瀧韻非一九六一

⑰ 川原一九七三-、八、第一冊…、解説篇、第二章、儀禮はどのような

 時代背景の下に威立しそれがどのように流蓋していったか

  同、四一頁

⑱  同、六〇頁

⑲  岡、七五頁

⑳  同、六〇頁

②  同、七四頁

⑫  同、六一頁

㊥  前廊、}二 1四頁。六五、齊魯二、宋磁二、宋魯陳傭一、陳楚一、

⑭ 陳楚宋魏一、陳楚一、嵩嶽以南陳頴一、登霞一、楚衙一、郵一、南楚

 一、呉揚一、徐揚}、南語一

20 (862)

『儀禮』と敦(林)

五 饒

 前章まで『儀禮』と關係づけて敦をめぐる問題を扱って來たが、ここでは敦といふ器種そのものに注目してみたい。敦

といふ器種を禮器の中で位置づけて考へてみるに、西周以來の傳統的な箆から圏状の足や蓋のつまみをとり除け、幾何學

                                          ①

的な形をした環状の附加物を蓋のつまみや耳としたのが一番古い型式の前六世紀前孚の敦であるが、前六世紀後牛には環

の他、それの代りに軽やかな鳥や獣の形のものも使はれ、蓋をかぶせた器全膣の姿も多少とも卵形に近い幾何學的なさっ

ぱりした形に造形されるやうになる。今日多く知られる青銅器についてみると、紋様にもそれぞれの時期に生れて來たて

                         ②

の種類、施紋技法が採用され、全くモダーンな物種である。これは例へば陳至難、陳侯午盤などの盛に西周以來の傳統的

な由紋が用ゐられるのと著るしい勤照をなしてみる。

 禮といふと、何か古くからの傳統的な重目しいものといふ観念を我々は持ってみるが、大夫、士の禮である『儀禮』に

使はれる敦とは、何とこのやうな新顔の、モダーンな容器なのである。そしてそれが出現間もない時期に「敦皆南首」な

                                       ③

どと、並べ方について規定されたりしてみるのである。これは全く意外なことといふ他ない。

 このやうな、新しく生れた器物を全面的にとり入れ、自分たちの禮を作り上げた楚の下級墓の主人たちは、職國の歴史

の中にどう位置づけられる人達であったのだらうか。秦の征服を経て漢へと、彼等はどうなって行ったのか。彼等ののこ

したのが『儀禮』であるとすると、戦國時代における楚と中原との問に、どのやうな性質の習俗の相違があったと出、5へた

らよいのか。表題はつきない。これらについては総て先入見を棄て、客観的な浮管に基づいて考へなほしてゆく必要があ

ると思ふが、これらはまた將來の問題として持ち越したい。

 ① 林一九七二、附論⇔、翻一〇、㈲、隣=、ω            周王朝文化の擁護者であった孔門の徒の手に編まれたもの、といふや

 ② 容一九四一、下、一四六、一四七                  うに普通考へられてるるからである(川原一九七三一八、一、三頁)。

 ③  『儀禮恥は周王鯛の傳統文化にあこがれを持ち、崩壌しつつあった

21 (863)

 挿圖出所目鋒

圏1 筆者原圃

圓2 梅原一九三三、三、二〇三

原3商一九三三、居=

醐4 容一九三四、七九

圖5 容一九三六、八八

㎜圓6 薪嵩翌義『新定一二禮圓』 一一一一、 六

圓7 山西省文物管理委員會侯馬工作姑一九六三、圏一三、3

圏8 五畜出土重要文物展覧欝欝委員會一九五八、四一

圖9 陳、松丸一九七七、二八二

圏10 同右、二八○

圖11 濱田一九一九、一一六

囲12 筆者原圓

圓13 中國科學院考古研究所一九五九、圏版五二、5

圃14 全等基本建設工程中出土文物展覧會工作委員會二九五五、

  一六、2

照15 タδび霧お①。。り灘騨『

圓16 國立故宮中央博物院聯合管理塵一九五八、下、上七九

圃17 上海博物館一九六四、六九

圏18 安一九五三、圖版一四

圖19 同右、圓版九

圖20 山東省博物館一九七七、圖二五、4

引用文獄目録

{女徽…省…文物管理委員愈【、{女徽…省…博物館…一九五六『無卦縣察侯墓出

  土遺物』北京

安志敏一九五三「河北省唐山買各荘畿掘報告」『考古學報』六、

  五七-一一六

股灘藷非一九六一 驚女徽粋宅縣曹四家山岡東囲ハ菓一襲掘鰯鼎戦L 『考士H』 一

  九六一、六、三一六-八

梅原末治一九三三『鰍軍立儲支那古銅精華』、京都

王仲殊一九五四「洛陽焼溝附近的職國墓葬」 『考古學報』八、

  一二七-六二

河南…省[博物…館一九七六「河南=一門峡市上村嶺出土的罫紙㎜戦國囲銅

  器」 『文物』一九七六、三、五工i四、一一

河南省文化局文物工作除一九五九『河南信陽動墓出土文物圓鋒』

  郷州

河北省文化局文物工作除一九五九「河北邪台南大注村戦國墓簡

  甜報」 『考古』 一九五九、七、 一二四六-1九

河北省文化局文物工作除一九六二「河北気重百家村職國墓」『考

  古』 一九六二、 一二、 六一一ニー三四

河北省文化局文物工作除一九六五「河北易縣燕下都第十六號墓

  獲掘」 『考古學報』一九六五、二、七九i一〇二

河北省文化局文物工作除一九六五a「燕下都響面外肝属現職國

  墓鞭葬群」 『文物』 一九六五、九、 六〇i一

河北省文化局文物工作除一九六五bコ九六四一一九六五年燕

22 (864)

y儀禮』と敦(林)

  下都墓葬獲掘報告」『考古』一九六五、=、五四八一六一

河北省文物管理塵一九七九「河北第山懸職濡鼠期中山並墓葬養

  掘土塗」 『文物』}九七九、一、一-一三

郭沫若一九五七『爾周金文僻大系秘録千歯』北京

川原壽市一九七三一八『儀禮繹考』、京都

金學山一九五七「西安高坂重職國墓葬」『考古學報』一九五七、

  三、六三一九二

綱州地隈博物館一九七三「湖北江陵藤店一緒墓獲白鳳報」 『文

  物』一九七三、九、七i一七

湖南省博物館一九五九「長沙楚墓」 『考古學報』一九五九、一、

  四一一五八

湖南省博物館一九六三「湖南常徳徳山楚墓獲掘報告」 『考古』

  一九六三、九、四六一-七三、四七九

湖南省博物館一九七七「湖南紹山灌晦二郷東周墓清理簡報」『文

  物』一九七七、三、三六i五四

湖南省文物管理委員會一九五八「湖南長沙陳家大山職國墓葬溝

  理簡報」『考古通訊』一九五八、九、五七-六一

湖北省博物館一九七三「湖北江陵太暉麗楚墓漕理立脇」『考古』

  一九七三、六、三三七-四四、三三六

湖北省博物館、華中師範學院歴史系一九七七「湖北漏壷大暉観

  五〇號楚墓」 『考古』一九七七、一、五六一六一

湖北省博物館、荊州地墨博物館、江陵縣文物工作組護掘小組一

  九七三「湖北半開拍馬山導墓護掘簡報」 『考古』一九七三、

  一二、 一五一一六一

湖北省文物管理委員會一九六六「湖北松滋縣大岩嘱東周土坑墓

  的漕理」 『考古』一九六六、三、=一二一三二

湖北省文化局文物工作除一九六六「湖北江陵三座楚墓産土大批

  雷編要文物障」 『文〃物』 一九六六、 五、 一二三-菰五

五省出土重要文物農魔器備委員會一九五八『陳西江耐熱河安徽

  山西五省出土重要文物展鷺圓録』北京

黄以周『儒書通算』

侯馬市考古獲掘委員會一九六二「三聖牛村古城南東周遽境獲掘

  業報」 『出賢士H』 一九六二、 二、 五五一六二

國立故宮中央博物院聯合管理塵一九五八『故宮銅器圏録』、壷

  北

山西省文物管理委員會一九五七「山西長治分水嶺古西的清理」

  『考古學報』一九五七、一、一〇三一一八

山西省文物管理委員會侯馬工作三一九六三「山西省侯馬上馬村

  東圧電葬」 『考古』一九六三、五、二二九一四五

山西省文物管理委員會、山西省考古碍究所一九六四「山西長治

  分水嶺蟻蚕墓第二次嚢証し『考古』一九六四、三、一一一

  -三七

山東省博物館一九七七「臨隠匿家荘一號東周騒人墓」 『考古學

  報』一九七七、一、七三一一〇四

上海博物館一九六四『上海博物館藏青銅器』、上海

商承詐一九三三『十二家蚕金甲録』、北奉

23 (865)

茨掻ゆ目積呂博物館一九六一 「承へ徳…灘…河鎭的一座戦國墓」 『考古』

  一九六一、五、二四四

至言義『新定三禮圏』

褻陽首届亦工亦農考古訓練班一九七六「裏審察披一二號墓出土

  呉王夫差劇等文物」『文物』一九七六、一一、六五i七一

白川静一九六ニー「金文通澤」『白鶴美衛館誌』一-

随縣白黒徴一號墓考古獲掘除一九七九「湖北随縣平野激職獲掘

  簡報」 『文物』一九七九、七、一i二四

齊文濤一九七二「概述近年來山東出土黙黙周青銅器」 『文物』

  一九七二、五、三-一八

挾西【省文物管理委制覇・曾二九六五「陳西喪鶏陽李鎭秦家…溝…藁囲茶墓

  襲堀…記」 『考古』 一九六一血、 七、 一一瓢二九一四六

全署基本建設工程中出土器物展覧會工作委員會一九五五『全國

  基本建設工程中出土文物展覧半平』、北京

戴震『考工記載』

L甲閾【科墨・院血乃古研究所一九五六『糧 縣獲堀…報耳鼻』北山思

中國科學院考古研究所一九五七『長沙獲掘報告』北京

醤蝦科斗院考古研究所一九五九『洛陽中州路』、北京

・甲國科一學院考古研究所山粛爪工臨…険二九六二「由[東車上東丘田石村

  新石器時代鐘肚輿職國墓」 『考古』一九六二、一〇、五〇

  九-一八

中國科學院考古研究所喪鶏稜掘除一九六三「陳当選鶏絶望褒東

  周墓{葬襲掘記」 『考古』 一九六一二、 一〇、 五一二六一四一二

中薬歴史博物館考古組一九六二「田下都城肚調査報告」『考古』

  一九六二、一、一〇一一九、五四

張光遠一九七六「鼎形器的方位與銘文位置的關係」『故宮季刊』、

  一〇、四、六七一八七頁

張光遠一九七七「職國初二三公諸器績考」 『故宮季刊』一二、

  二、五九-八○

張静安一九六〇「河南林下獲現春秋職早薬葬」『考古』一九六

  〇、七、七一

陳本家編、松丸道雄改編一九七七『股周青銅器分類圏鋒』、東

  京

華糾明、王玉文一九七八「河北挙山縣訪賀荘襲現職國前期青銅

  器」 『文物』一九七八、二、九六

林巳奈夫一九六四、 「股周青銅弾器の名稻と用途」『東方學報』

  三四、一九九-二九七

林巳奈夫一九七二『中國毅周時代の武器』、京都

林巳奈夫編一九七六『漢代の文物』、京都

濱田耕作一九一九『泉屋清賞』、京都

廣島大學中哲研究剛臆一九六〇『租先の祭祀儀禮一儀禮特牲

  禮・少牢醗・有司徹の國選一1』廣島

北京弐學、河北省文化局墨守考古獲麟除一九五九コ九五七年

  郡螂襲掘簡報L『考古』一九五九、一〇、五三一-六

北京市文物工作除一九六二「北京懐柔城北東周爾漢墓葬」 『考

  古』 一九六二、五、一一一九一三九

24 (866)

遽成修一九七二「山西長治分水嶺=一六號薬室掘四重」『文物』

  一九七二、四、三八一四六

蜜難市博物館、喪難市溜濱瞳文化館一九七九、 「陳西籔難市茄

  家荘葉書墓葬」 『考古』一九七九、五、四〇八-一一

容庚一九三四『武英殿丁重三三』、北亭

容庚一九三六『珍魚鼻器要録』、北李

容庚一九四一『商周量器通名』、北李

葉學明一九六二「欝欝牛村古城南東周遺肚出土陶器的分期」『文

  物』一九六二、四・五、四三-五四

羅振玉一九三六『三代吉金文存』

本㍗鳳暴瑠}九一一=ハ「粥岬縣脚楚墓調…杏紬報止口」 『M団野出高古甜報疏口』 一、 二

  一三一七九

李正光、彰青野一九五七「長沙沙棄却一叢古曲獲麟報告」『考

  ↓自墨・報』 一九五七、 四、 ゴごニー六七

≦ΦσO巴 Oプ騨ユ①ωU◎H㊤OQQ… G謡笥ミ鶏℃融8一一ミbd臓。嵩恕 §題ミ偽

   曽

  ミごぎトミ馬Ωさ窪隷ミ&”〉ω8昌9⊃

        (京都大學人文科學研究所数授

              宇治

r儀禮£と敦(林)

25 (867)

.Yi-li.儀禮and 1)厩敦

Minao Hayashi

  In this articie 1 would try to determine when and where dui (the

ritual ill the Zhou周period). Was written, by.. considering the pres-

criptions on dui (a vessel for servlng m2ilet) ’ in this bool〈.

  We can presuMe its date.by consid曲ユg the prescription that dui

had to be emplaced with its’ head to the south. lt is because, accord-

ing to the resuits of the recent studies of inscriptions on old vessels,

dui with the head in this prescrilption belongs to the special type used

just at the latter half of B. C. 6c.

  As to the place; we can presume the Ch‘u X district by consider-

ing the Prescription that millet had to be eXcltisively serVed in ’dui

It is because the’ 唐高≠撃戟@tombs with dui as burial accesSories have never”

been excavated in China but Ch‘u.

Characters of the Central Financial

System in the Ritsztryo律令Period

by

Yoshiharu Matano

  In this article we aim to elucidate the characters of the central

financial system in the Ritsuryo period, which has been neglected, com-

pared with the then tax system.

  It has been so far considered to be dependent and centripetal, so

long as agencies and oracials were provlded with commodities which

some agencies had kept in store, but this lnterpretation seems to one-

sided. The central financial system may be div1ded roughly into the

agencies competent for storage and tliose for accounts. When we ex-

amine the relations between both in the process of delivery of cornmo-

dities from the provinces and their receipt, we cannot ignore the im一

(1016)