エベレスト街道雑感sangaku-osaka.com/sankou/15/katou/ev.pdfにあった記録集「 EVEREST...

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エベレスト街道雑感 エベレスト BC (同行者より) はじめに ・・・・・・・・・・・・・P 1 全体の行程 ・・・・・・・・・・・・P 1 テンジン・ヒラリー空港へ ・・・・・P 2 パーティの構成 ・・・・・・・・・P 3 トレッキングの一日・・・・・・・・・P 3 ボッカ(歩荷) ・・・・・・・・・・P 5 ロバ、ヤク、ゾッキョ ・・・・・・・P 6 マニ石とマニ車 タルチョー ・・・・・P 8 スツーパ stupa ・・・・・・・・・・P 10 ゴンパ dgon-pa ・・・・・・・・・・P 11 再会ラジュースとその仲間達・・・P 12 エベレストが見えた! ・・・・・・・・P 13 エベレスト街道の風景と風物 ・・・・P 15 無念の下山 ・・・・・・・・・・・・P 21 ナムチェバザール ・・・・・・・・・P 23 カトマンズを歩く ・・・・・・・・・P 25 おわりに ・・・・・・・・・・・・P 31 付録-1 エベレスト街道概念図・・・・P 32 付録-2 エベレスト街道山記録・・・P 33

Transcript of エベレスト街道雑感sangaku-osaka.com/sankou/15/katou/ev.pdfにあった記録集「 EVEREST...

  • エベレスト街道雑感

    エベレスト BC (同行者より)

    はじめに ・・・・・・・・・・・・・P 1

    全体の行程 ・・・・・・・・・・・・P 1

    テンジン・ヒラリー空港へ ・・・・・P 2

    パーティの構成 ・・・・・・・・・P 3

    トレッキングの一日・・・・・・・・・P 3

    ボッカ(歩荷) ・・・・・・・・・・P 5

    ロバ、ヤク、ゾッキョ ・・・・・・・P 6

    マニ石とマニ車 タルチョー ・・・・・P 8

    スツーパ stupa ・・・・・・・・・・P 10

    ゴンパ dgon-pa ・・・・・・・・・・P 11

    再会! ラジュースとその仲間達・・・P 12

    エベレストが見えた! ・・・・・・・・P 13

    エベレスト街道の風景と風物 ・・・・P 15

    無念の下山 ・・・・・・・・・・・・P 21

    ナムチェバザール ・・・・・・・・・P 23

    カトマンズを歩く ・・・・・・・・・P 25

    おわりに ・・・・・・・・・・・・P 31

    付録-1 エベレスト街道概念図・・・・P 32

    付録-2 エベレスト街道登山記録・・・P 33

  • はじめに

    2014 年 11 月 12 日から㈱アトラストレックのツアーでエベレスト街道をトレッキ

    ングしてきた。参加者は私を含めて 4 名なので至極こぢんまりとしたツアーで、よく

    ぞ催行してくれたものだと感心した。今回の目的はエベレストを見ることで、そのた

    めにエベレストベースキャンプ(BC)とカラパタールまで足を伸ばす 19 日間のツア

    ーに申し込んだのであった。

    ただ、それなりにトレーニングをして臨んだつもりだったが、高度順化がうまくで

    きずに 4910mのロブチェから引き返すことを余儀なくされてしまったので、目標未

    達ということになった。それでも連日、好天に恵まれてエベレストはもちろん、タウ

    チェ、アムダブラム、ローツェなどの白く輝く峰々を見ながらエベレスト街道を満喫

    し、カトマンズの町も一人で半日以上ぶらぶら歩いて十分楽しめた充実・満足のトレ

    ッキングであった。

    全体の行程

    1 日目 関西空港⇒[Air]⇒香港空港⇒[Air]⇒カトマンズ(1350m)

    2 日目 カトマンズ⇒[Air]⇒ルクラ→パグディン(2610m)

    3 日目 パグディン→ナムチェバザール(3440m)

    4 日目 ナムチェバザール→シャンボチェ→クンデ(3840m)

    5 日目 クンデ→タンボチェ(3860m)

    6 日目 タンボチェ→ショマレ(4010m)

    7 日目 ショマレ→ディンボチェ(4410m)

    8 日目 ディンボチェ←→チュクニ(4730m) <高度順化日>

    9 日目 ディンボチェ→ロブチェ(4910m)

    10 日目 ロブチェ→ペリチェ(4240m)

    11 日目 ペリチェ(本隊待ちのため待機)

    12 日目 ペリチェ→キャンギュマ(3550m)

    13 日目 キャンギュマ→ナムチェバザール(3440m)

    14 日目 ナムチェバザール→チュセマ(2850m)

    15 日目 チュセマ→ルクラ(2840m)

    16 日目 ルクラ⇒[Air]⇒ラメチョップ⇒[四駆車]⇒カトマンズ(1350m)

    17 日目 カトマンズ (予備日→自由行動)

    18 日目 カトマンズ(深夜出発)⇒[Air]

    19 日目 ⇒[Air]⇒香港⇒[Air]⇒関西空港

    P 1

  • テンジン・ヒラリー空港へ (旧ルクラ空港 2008 年改称)

    カトマンズのホテルを早朝に出発してカトマンズ空

    港(国内線)で朝食弁当を食べながら1時間半ほど待た

    されてやっとルクラ行の飛行機に乗り込むことが出来

    た。ただ、待合室には何の案内表示盤もなく、不安で

    何度も搭乗口近くに行ったのだが何も判らず、出発は

    係員が大声で便の番号を叫ぶだけだった。

    私達の乗った飛行機は10人乗の小型機だったが、

    ルクラへは天気も良く、快適な空の旅であった。飛び

    立って暫くすると左手に白く輝くヒマラヤの山々が

    遠くに見えて、全員が窓に張り付いて眺めた。

    ヒマラヤといえばなんと言っても「エベレスト」な

    ので、たまたま座れた左側の席で必死に目を凝らした

    が鋭い峰々が余りにも沢山聳えていて、狭い飛行機の

    窓からは、結局、山の名前を特定することが出来なかった。

    旧ルクラ空港も是非とも行ってみたい場

    所のひとつだった。・・・というのは、空港が狭

    い山間部にあるので広い場所を確保できず

    に、斜面を有効に利用して滑走路の短縮化を

    図っているというので、本当はどうなのか実

    際に見たかったのだ。

    山々を 40 分位眺めているうちにエンジン

    音でスロットルを絞ったのが判り、程なく少

    し大きなショックを伴って無事にカトマン

    ズ空港に着陸した。そして、勾配のある滑走路を登って駐機場に到着、我々は徒歩で

    ターミナルに移動し、荷物は手押し車で運ばれていた。

    ルクラの昼食レストランはターミナルと反対側にあったので、滑走路を上方の端と

    真横から見ることが出来たが、確かに短くて急勾配の滑走路で『世界一過激な空港』

    と言われているのが実感できた!

    [旧ルクラ空港概要]

    ・標高 2800m

    ・滑走路長 460m

    ・滑走路幅 20m

    ・勾配 12%

    ・事故数 2004 年 2 件、2005 年 1 件、2008 年 1 件、2010 年 2 件 (・は wikipedia より引用)

    P 2

  • パーティの構成

    先にも書いたが今回は関東から 2 人、関西から 2 人の 4 人のツアー客で内訳は女性

    が 3 人なので男は私一人だけであった。ちなみに年齢は関東の 2 人が 60 代前半、関

    西組は共に 68 歳であった。

    それに、㈱アトラストレックのガイドが 1 名(手塚氏)、トレッキングを始めたルク

    ラからはサーダー(シェルパ頭)のアン・ダヌーAng Dannu さん(彼はロッジの書棚

    にあった記録集「EVEREST」の 1989 年エベレスト登頂データに自分の名前を見つ

    けて大喜びだった)と二人の若いシェルパ (一人はロブチェからの下山に一緒してく

    れたパー・リィーンさん)が加わって 8 人のパーティで出発した。

    トレッキングの一日

    今回のトレッキングは高山病にならないように日程に充分余裕があって、1 日の行

    動時間は普通 3~6 時間程度、3 日目のパグディンからナムチェバザールに歩いた日

    だけが 8 時間ほどだった。また、歩くペースは極めてゆっくり、昼食にはほとんど 1

    時間ほどかけるし、道も所々の急坂や階段状の登りを除けばなだらかな坂道なので普

    通に山登りをしている人ならあまり疲れないで歩ける。もちろん、担ぐ荷物は着替え

    と雨具、テルモスなどを入れたデイバッグだけだ。

    そしてトレッキングは毎朝 6 時起床・・・それはシェルパが部屋の前で“Good

    Morning!”と声をかけて、暫くしてから直径 40cm ほどもあろうかという大きな金

    属製のお盆を風呂敷のような布で結び目を下にして包んで、その上にステンレスのカ

    ップを人数分と 20cmほどの皿に一人 2~3 個分のビスケットを乗せて“Morning

    Tea Please”と言いながら部屋をノックすることで始まる。

    そして、暫くして今度は“Hot Water Please”と言いながら部屋の前に洗面器とお

    湯の入ったバケツを持ってシェルパがやってくる、このお湯で顔を洗うのだ。ロッジ

    によってはその洗面器を部屋で使う事が制約されて、廊下とかロビーとか場合によっ

    ては玄関先で顔を洗う羽目になることもある。

    7 時からの朝食を

    終えると、荷物を取

    りまとめて、8 時出発

    といったパターンが

    お決まりであった。

    ある日の朝食→ P 3

  • 昼食はロッジで摂ることが多かっ

    たが、それをロッジに注文するのでは

    なくて、別棟か近くの炊事場でパーテ

    ィのコック達が作ったものをロッジの

    テーブルを借用して食べた。

    ただ、時々はロッジでなくて一寸し

    た広場や民家の中庭、展望の利く尾根

    筋などにブルーシートを広げて座って

    食べた。幸いに天気が良かったから何

    でもないが雨でも降ったらどうなった

    のか気になるところだ。

    一日の行程を終えてロッジに到着すると、まず、ティータイムとなる。コーヒーや

    ココアなどを飲みながら暫く休憩しているうちに

    部屋が決まり、その部屋には、ポーターに預けた

    着替や予備品、貸与された厚いダウンの寝袋など

    一式を入れた大型のダッフルバッグが既に運び込

    まれている。

    ついでではあるが、4人の参加者の内、男性は

    私一人だけだったのですべてのロッジでツイン

    ルームを一人で占有でき、使わないベッドにはダ

    ッフルバッグが置けたので便利で快適だった。

    また、今回のツアー中

    いつも驚かされたのは

    鍵と金具だ。ロッジの各

    部屋にあるのはまだし

    も、民家の玄関や納屋、

    更にはトレッキング道沿いにある沢山の小屋やボロボロのトイレを含めてすべての

    扉という扉にはロック用の金具と南京錠がついている事だった。

    そういえば、カトマンズの金物屋の店先には道路に面

    した一番目立つ場所に、大きい鍵や小さい鍵、角張った

    鍵や丸い鍵、真鍮のシリンダー錠や昔風の南京錠などが

    ぎっしりと並んでいたのも納得だ。

    部屋に落ち着いて暫くすると、朝と同様に声がかかっ

    てロッジのロビーとかテラスに用意された洗面器のお湯

    で顔や手などを洗い、18 時過ぎにダイニングに集まって

    夕食をとり 19:30 頃には部屋に戻ってベッドで横にな

    るのだが、標高 4000m近いタンボチェからは夜の冷込み

    対策として昔のゴム製の氷枕を小型にしたような湯たんぽが用意された。

    ダッフルバッグ

    P 4

  • 私は夕食の時、翌日の行動用にテルモスにお湯を貰

    う時に一緒に1Lのアルミボトルにも入れて貰ってそれ

    をシュラフに入れて追加の湯たんぽとしたので、朝まで

    快適に眠ることが出来た。(アルミボトルのお湯は翌朝

    には冷めていてポカリ粉末用の水として利用した)

    なお、トレッキング中の宿泊はロッジを使用するの

    だが、私達はそれを宿泊だけ利用して食事はすべてルク

    ラからヤクなどに背負わせて同行する2人のコック達

    が作ったものを食べるということで、言ってみればロッ

    ジは素泊まり利用ということであった。

    (ある日の夕食→)

    ボッカ(歩荷)

    エベレスト街道における運搬手段はロバやヤク、ゾッキョなどの背中に縛りつけて

    運ぶ方法が多いのだが、その一方でトレッキング中に大きな荷を背負う人達にも頻繁

    に出合った。

    日本の山小屋では、今ではヘリコプターによる荷揚げが一般的になってしまったが、

    少し前までは大勢の剛力(ボッカ)が活躍していて、白馬岳の方位盤を 4 分割して最

    大 50 貫(約 190kg)を担ぎ上げたとかいう小宮山さんは伝説の人であり、新田次郎

    の小説「剛力伝」のモデルにもなった。

    カトマンズからの飛行機を降りて歩き始めた

    ルクラの町中でいきなり仰天させられたのは缶

    ビール(San Miguel:フィリピン製)のカート

    ンを何段にも重ねた荷を背中にのせてすたすた

    歩くボッカの後姿で、写真で確認するとなんと

    10 段にもなっていた。・・・そしてその重さを単純

    に計算すると実に 85kg(350g*24 本*10 段)

    にもなることに改めて驚いた。

    トレッキング中には、ロッジなどの建築に使用

    するための合板を 20cmほどに積み重ね、その上

    に資材か何かを詰めたビニール袋を乗せた人、燃

    料用の石油を入れたポリタンを幾つも並べた荷の

    人、絨毯を巻いたような物を担いだ人とか、とにか

    く、ありとあらゆる品物を背負った人達に追い越

    されたり、すれ違ったりしながら歩いた。

    P 5

  • 時にはそういったボッカが一人ではなく

    て、まるでキャラバンのように隊列を作って

    歩いているのにも出食わす。

    興味深かったのは日本のボッカは背負子を

    両肩の背負い紐で担ぐのに対し、ネパールで

    は頭にかけたバンドで荷重を支え大きな荷物

    は荷の両端に結んだ綱を手で引っ張って左右

    のバランスを取るのだった。

    また、休憩などで背負子の荷を預ける時

    に、日本ではカタカナの「ト」を上下逆に

    したような形の杖を使うのだが、ここでは

    両端に手で持った時の滑り止めの突起があ

    る太くて短い「T」字形の杖を使っていた。

    もっとも、水場の近くや村の中心地には

    荷物を置くための石垣を設けた休憩場が設

    けられていて、そこでは仲間同士で賑やか

    に談笑する姿が見られた。

    気をつけなくてならないのはボッカと

    すれ違う時だ。吊橋などで対向者がいる

    時には橋の手前か、途中なら端に寄って

    待つのは当然だが、普通の場所でも彼ら

    は重い荷を担いでいて自分の足元しか見

    ていないし、その荷が尋常でなく大きい

    ので、こちらが止まって道の端によって

    避ける必要がある。

    例えは不穏当だが、ロバやラマと同じ

    ように自分達で対処する必要がある。

    ・・・とにかく、エベレスト街道ではボッカは依然として重要な輸送手段だ・・・

    ロバ、ヤク、ゾッキョ

    そうは言ってもエベレスト街道の主役はなん

    といってもロバやヤク、それに水牛とヤクの交配

    で作り出されたゾッキョなどである。狭い道でそ

    れらの隊列とすれ違い時にはシェルパが我々に

    道の脇に寄るように指示しながら、木の枝などを

    振り回して前方に出て彼ら(ロバなど)が間違っ

    てもこちらに近づいて来ないようにけん制する。

    ヤクやゾッキョには鋭い角があり、それが丁度目の高さで迫ってくるのだから迫P 6

  • 力満点というか恐怖感が募って、私は指示されな

    くてももっぱら山側の斜面にぴったり寄って道を

    空けた。そんな時にすぐ目の前に迫ってくる彼ら

    の大きな目は、心なしか登り坂や階段などでは特

    にもの悲しげに思えた。

    また、石段の下りでは足元をじっくり見て、彼

    らの足さばきを観察した。とにかく、我々は長い

    隊列が通り過ぎるのをひたすら待つしかないし、

    足元が見える我々でも時々は滑ったり躓いたりしていたので、彼らはどうして上手く

    歩いているのか気になったのだ。

    そして、私が確認した結果は「後ろ足は左右それぞれの前足のすぐ後ろに置くこと

    で無事に歩いているのだろう」という至極当たり前の事であった。それでも前足を置

    いた場所が悪くて、後ろ足が滑ったりした場面もよく目にした。

    当然のことだが、彼らは吊橋も渡る。日本の吊橋は両端に高い鳥居状の櫓があり、

    それにメインワイヤーを懸けて大きく弛ませて設置し、そこから下げた針金などで木

    製の踏み板の荷重を支える構造なのだが、ネパールの吊橋は櫓がなくてメインワイヤ

    ーは両端の強固なコンクリートアンカーで張力を支え水平に近い形状で張られてい

    る、そして踏み板は鋼製のグレーティングだ。

    当然のことだが、ロバもヤクもそしてゾッキョも大きな荷を背に載せて吊橋を渡る

    のだが、彼らの長い隊列が渡り終えるのに5分も10分も待たされた事もあった。

    なお、私達のパーティはシェルパやコックを含めて総員 11 人で、その荷物や 10

    日分以上の食糧や炊事道具一式などはおそらく 7~8 頭のヤクに載せて出発したのだ

    が、荷物が減るに従って不要なヤクは空荷で、あるいは、少ないけれど上の村落から

    運び下ろす空のボンベや石油タンク、ゴミなどを載せて足取りも軽やかに下って行く。

    ついでだが、道路に落と

    されたヤクなどの糞は石垣

    の側面に張りつけて乾した

    り、軒先に貯蔵したりして

    焚き木の代わりにストーブ

    の貴重な燃料となる。 P 7

  • マニ石とマニ車 タルチョー

    歩き始めて暫くすると不思議な大岩に

    出合った。それはマニ石 Mani Stone と言

    われるチベット仏教の経文などが刻まれ

    ているもので、白地に文字が黒色に塗られ

    ているので遠くからでもハッキリと判る。

    石そのものは自然石なので形も大きさ

    も千差万別なのだが、なかには見上げるよ

    うな大きな石とか崖際に引っかかってい

    るような石などがあったりして、文字を彫

    る苦労はさぞ大変だったろうなと思いな

    がら歩いた。

    また、このマニ石は右回りで歩くことに

    なっているので、必然的に私達は左側を通

    り抜ける事となる・・・と言っても、先頭を

    歩く信仰厚いアン・ダヌーさんに続いて歩

    くだけなのだが・・・。

    さらに、マニ石にもバリエーションがあ

    るようで、マニ石が単体で設置している場

    合もあるが、それに加えてマニ車や旗竿の

    ようなものが一緒にあったり、マニ教の経

    文が彫り込まれた石板で囲まれた塚のよ

    うなものがあったりして、興味は尽きない。

    P 8

  • マニ車 Mani wheel これはゴンパ(チベッ

    ト仏教の僧院)の外塀などでよく見られるチベッ

    ト経の仏具(転経器)で、これを回すことで経を

    唱えたことになるので、経など全く知らない我々

    でも有難いことにご利益が得られると聞かされ

    て手で回しながら歩いた。

    また、ゴンパだけでなく村の入口にある門(カンニ:仏塔門)は天井に鮮やかに

    描かれた仏像や仏画が描

    かれているのだが、ゴン

    パの外塀と同じように内

    壁にはマニ車が埋め込ま

    れていたので、トレッキ

    ング中の無事と好天を願

    ってこれも回しながら通

    り過ぎた。

    興味深かったのは手で回

    すだけでなく、自然の力を有

    効に活用したマニ車があっ

    た事だ。

    エベレスト街道のチェッ

    クポイントの一つで休憩し

    た時、近くにあった小さな沢沿いに幾つもの石作り

    の小屋が並んでいたので、中を覗き込んで驚いた。

    そこには1mを越えるマニ車があって、下の方に

    は水の流れを受ける羽根が着いた水車になっていた

    のだ。言ってみれば水力式マニ車で、これなら何も

    しなくてもいつも廻り続けているので、傍を通り過ぎる人は勿論のこと、その周辺に

    住んでいる人達にも幅広くご利益が行き渡るに違いない。

    タルチョー ネパールではあちこちで

    長い綱に連なった色とりどりの旗が見られ

    る。そんな旗があることは以前から知ってい

    たが、なんとなく葬式や死者のイメージが強

    くて、心の中では薄気味悪く思っていた。

    また、実際に吊橋などでもともとはそんな

    旗だったのが、色が完全に抜けて白いぼろぼ

    ろの古布となって手すりのワイヤーに絡ま

    り何とも言えず薄汚く侘しい感じを抱いた。 P 9

  • ところがエベレスト街道を進むにつれてこの旗が周囲に溶け込んで、いかにもそれ

    らしい存在感を持ったものに見えてくるようになった、それがタルチョーだった。

    最初のうちは単なる多色の連旗だと思っていたのだが、見慣れるに従ってどんな順

    に色が並んでいるのか、始まりは何色なのかが気になって、サーダーのアン・ダヌー

    に尋ねたら、青色=空、白色=雲、赤色=太陽、緑色=植物、黄色=土を意味してい

    るので、青色が一番上なのだと教えてくれた。

    日本に戻ってネットで調べたら、「五色は青・白・赤・緑・黄の順に決まっており、

    それぞれが天・風・火・水・地すなわち五大を表現する」ということで少し違ってい

    たが、いずれにせよエベレスト街道にはタルチョーが良く似合うのだ。そして、土産

    物屋にあったタルチョーのミニチュアを買わなかったことを今は少し後悔している。

    スツーパ stupa (パゴタ pagoda:塔)

    エベレスト街道を歩いていると特長のある白

    い塔に頻繁に出合う。マニ石と同様にこれも右

    回りで通り抜けるのだが形も模様も少しずつ違

    っていてスツーパと言われている。 スツーパ

    は本来、仏舎利を納めたものなのだが、紀元前3

    世紀にアショカ王が各地に建ててから記念碑的

    に作られるようになったらしい。

    日本の卒

    塔婆はスツ

    ーパ語源と

    していて、形

    も模したと

    されている

    が、木製の薄

    っぺらな板

    なので、大きさも形もネパールのものと起源を同じにしたものとはとても想像でき

    ない。また、日本の仏舎利塔の形はネパールのスツーパそのものである。 P10

  • ゴンパ dgon‐pa

    前にも書いたがゴンパとはチベット仏教の僧院の事でトレッキングの途中の村落

    にも数多く建っている。トレッキング 4 日目、有名なエベ

    レストビューホテルでコーヒーブレイクを取った後、クム

    ジュンのゴンパ Khumjung Gompa に立ち寄った。

    ここには真偽のほどが定かで

    はないが雪男の頭蓋骨があるの

    で有名で説明書とともに頭蓋骨

    はケースの中に展示されてい

    た。・・・そして実際に見た感想と

    しては「なんだか良く判らない、

    何ともいえない」であり、直感的

    にその昔、ワンゲル仲間から貰った月の輪熊の尻皮の毛並

    みを思い出させた。

    なお、ゴンパの内壁には沢山の経文を納める引出しがギ

    ッシリと作られていて年に一度、開帳されるとの事であっ

    た。

    また、このような経文

    の引出しはゴンパだけ

    でなく数は少ないもの

    の、たまたま案内してく

    れたシェルパの居間や仏間にも作られていて、ネ

    パールの人達の厚い信仰心を窺わせてくれた。

    トレッキング中、一番規模の大きなゴンパは 5 日目のタンボチェのゴンパだった。

    クンデからの 6 時間近くの登りを終えて、タンボチェには午後 2 時頃に到着したが、

    そこはエベレスト街道の中では珍しく大きくてなだらかな斜面が開けた場所で左手

    の一番高い丘の上にゴンパがあった。

    そのゴンパの裏手を 6~7 分ほど奥に入ったエベレストが望める丘には、アルプス

    の三大北壁を登攀し、エベレストに三度目の登頂を果たしたが、残念ながら下山時に

    消息を絶った日本屈指の登山家であった加藤保夫氏の碑があり、暫しの間、故人を偲

    んで瞑目した。

    P11

  • 再会! ラジュースとその仲間達

    今回のトレッキングで思いがけず懐かしい再会を果たしたものがある、それが軽油

    を燃料とするラジュースだ。

    ラジュースと言えば、今から 50 年ほど前、私達が現役の時でも既に登山用のバー

    ナーとしては衰退しつつあって NUWV でも数人しか使っていない状況で、部の共同

    装備としてはガソリンを燃料とする軽量コンパクト

    で青白い炎で静かに燃えるオーストリア製ホェーブ

    スに取って代わられていた。

    それが、思いがけなくもトレッキング3日目の昼食

    の準備をしている炊事場をたまたま覗き込んだ時に

    大型のタンクとゴトクを備えた懐かしのバーナーと

    再会した。暫くたって、大きなヤカンをのせたバーナ

    ーの音が私達の休んでいた広場の所まで聞

    こえてきたので一寸した感動すら覚えた。

    そして、その感動は 4 日目の昼過ぎ、その

    日泊まることになっていたクンデにあるア

    ン・ダヌーが営むロッジに到着して昼食の準

    備をしている薄い赤色の炊事用テントを覗

    いた時にさらに大きなものとなった。

    そこにはまぎれもない若い時に目にした

    ラジュースが現役そのものにゴーゴーと強

    力な炎を上げていたのだった。そして、バーナーの下のタンクは長年使い込まれた証

    しとして数々の傷と凹凸が勲章のように誇らしげに刻まれていた。

    また、標高 4910mのロブチェから高度障害のため、失意の中ではあったが快調に

    下山したペリチェのロッジでは、興味本位

    で入り込んだ台所で、ラジュースではない

    のだが同じように加圧ポンプを備えたどっ

    しりとした燃料タンクと炎で燃料を加熱す

    るラジュースの構造と同じようなコンロが

    その存在感を示していた。

    P12

  • エベレストが見えた! そしてヒマラヤの山々も

    ツアーの3日目、正確にいえばルクラからトレッキングを開始してから僅か二日目

    の午後、ドゥード・コシ Dudh Koshi の渓谷を離れてナムチェバザールへ急勾配の坂

    を登っている途中で少し広い尾根に出た時に、いきなり右手側の展望が開けてエベレ

    ストを直接見ることができた。これこそ、今回のトレッキングの目的だった!

    松のような樹の間からの遠望ではあったが、生まれて初め

    てのエベレストは雲もなくヌプツェからローツェへと連なる

    尾根の上にくっきりと浮かんでいてイエローバンドも良く判

    った。そして、メンバー全員が暫くの間、夢中になって思い

    思いのアングルでカメラのシャッターを押し続けた。

    なお、エベレストは今回のトレッキングでこの後 4 か所程

    のビューポイントで見ることになったがなんといってもこの日の感激が一番だった。

    エベレスト

    (11/16 クンデから)

    8848m

    アマダブラム(左端)

    ~タムセルク(右端)の

    朝焼け

    (11/16 クンデから)

    P13

  • タムセルク

    6608m

    アマダブラム

    6816m

    「アマダブラム」は母の首飾りの意で

    トレッキング中、色々な角度から

    一番近くに良く見えて最も印象的

    な山であった

    プモリ

    7161m

    ↓フェリチエ峠より

    (ショマレからディンボチェへの途中)

    P14

  • エベレスト街道の風景と風物

    (1) チェックポイント

    エベレスト街道は TIMS(Trekkers’ Information Management System)と称される

    システムが適用されていて許可証をチェックポイントで提示する必要があり、そこを

    通るたびにシェルパがグループトレッカー用のブルーのカードを全員分纏めて提示

    していた。なお、写真をよく見れば判るが、彼はそれが“おしゃれ”と思っているら

    しくいつも半ケツ状態なので女性達の評判になっていた。

    また、これらのチェックポイントでは地図や注意事項の掲示板と共に、エベレスト

    のベースキャンプに向かう人に対して高山病の症状やディンボチェとペリチェで診

    療が受けられると記した掲示もあった。

    更にネパールが中国と国境

    を接しているためだろうか、

    TIMS とは別に、軍のチェック

    ポイントもあり、こちらには制

    服の軍人がライフル銃を脇に

    置いてトレッカーを一寸と

    物々しくチェックしていた。

    (2)マスク

    エベレスト街道はとにかく物凄く埃っぽい。何故かといえば砂の粒子が細かい為で、

    極端に言えば歩くたびに砂埃がたち、それに加えて沢山のゾッキョやヤクの落し物が

    乾いて舞うので不衛生でもあって、パグディンに

    下山してきたツアー客から「マスクは絶対よ、でな

    いと咳が止まらないから」と忠告された。

    そのため、マスクが必携となるのだが、それでな

    くても空気が薄いのでつけて歩くと息苦しく、お

    まけに吐く息で湿ってそれに土埃が着いてすぐ汚

    れるので一層息苦しさが強くなる。

    そんなわけで休憩の時にマスクを取るとほっとする。もちろん、写真を撮るとき

    には写りを気にして外すように気をつけるのだが・・・・。 P15

  • (3) ショップ&土産物屋 そして子供たち

    エベレスト街道はそのほとんどは人達が通年住んでいる生活居住域で、荒地の中に

    ヤクなどの放牧地があり、所々にロッジ

    やレストラン、パン屋それに土産物屋な

    どトレッカー相手の施設、それに広くは

    ないが畑が散在している。

    その中で、バラエティに富んで面白か

    ったのが SHOP と大書した看板がある売

    店で、看板がなくても通りからよく見え

    る店先のコーラやジュース、缶ビールな

    どでそれと判る。

    そして、中を覗き

    込むと飲み物だけではなく日用品や雑貨、トレッキングに必要

    な手袋や帽子、マフラーやストックなど、店の規模にもよるが

    とても狭い場所に色々な品物がひしめき合って並んだり下が

    ったりしている。

    ただ、それでなくとも埃っぽいエベレスト街道なので店先の

    ものは当然として、店内のものも薄っすらと土埃で汚れている

    感じがあり、少なくとも飲み物を買って飲むのにはよほどの勇気と覚悟がいるのでは

    ないかと思われた。

    また、家の人が構ってやれないせいなの

    か、道路脇に子供がぽつんと立っているこ

    とが多いように思った。ただ、全般にネパ

    ールの子供達は塾通いやゲーム機、あるい

    はスマホなどに明け暮れしている日本と

    は違って(おそらく戦後の私達がそうであ

    ったように)目が輝いて、兄妹が仲良く遊

    んでいる時など、古き良き日の日本がそこ

    にあるような気がして羨ましくてほのぼ

    のと暖かい気持になった。

    P16

  • 土産物屋は集落の入口付近、ゴンパやロッジの近くの人通りのある場所に赤い敷物

    の上に品物を一杯広げてトレッカーに声をかけていた。

    並んでいるのはネックレスや、ブレスレットなどのアク

    セサリー、キーホルダなどの小物でその材料は宝石のよう

    な石、ヤクの角や骨、金属などで、価格も土産としては少

    し値の張ったものから手頃のものまでと範囲も広い。

    ネパールも他の外国と同様に“定価”という概念がない

    のでこういった物を買う場合でも価格の交渉が必要とさ

    れる。そして私は比較的簡単に決着が着く“言い値の 7 割

    位”をガイドラインに小物を買ったりした。

    ちなみにネパールの通貨はルピーで日本円の約 1.2 倍、

    すなわち 100 ルピーが 120 円相当であったが、とにかく

    安いので感覚的には 1 円=1 ルピーと考えて買い物をした。

    赤い敷物の左端には色々な大きさのものと一緒に 5cm ほどのマニ車があったが、

    これもお守り代わりに買えばよかったと今になって残念に思っている。

    (4) トイレ

    トイレはトレッキング中の気になる事の一つ、とりわけ女性にとっては重大で、近

    くに売店やロッジがあればその施設を借りる

    が、そうでなければ大変だ。

    たまたま道端にあるトイレのお世話にな

    ったことあったが、それは陶製便器ではなく

    て危なっかしい板に穴が開いているだけであ

    ったし、途中に立ち寄ったシェルパの親類の

    家は畑のすぐ隣にあって、少ししっかりして

    いたもののやはり板作りのトイレであった。

    ドアの外側に止金具がある

    無論、そんな場所には用済ペーパーの入れ物や手洗用の水タンクもなく、用済後

    は干し草や枯葉をその上に乗せて完了! そしてその後は貴重な堆肥として有効活

    用されるらしい。なるほど、なるほど!!

    P17

  • ちなみに、下の写真は有名なエベレストビューホテルの入口近くにあるトレッカー

    のための男性用トイレで流石にここには大用小用と 2 個が揃っていたが、普通は大用

    とセルフ水洗用のプラスチック手桶が入った大きな水バケツがあるだけだ。

    なお、トイレットペーパーはカトマンズ

    のホテル以外は何処にも置いていないの

    で、自分で用意するしかなく特に女性は大

    変だ。

    人に頼まれてタンボチェのロッジで値

    段を尋ねたら 8ロールほどの包みを指さし

    て“250 ルピーだ”と言ったので、てっき

    り 8 ロール分だと勘違いして“そんなに沢

    山でなく 1 ロールでいいよ”と言ったのだ

    が、実際は 1 ロールが 250 ルピー(約 300 円)だった。

    考えてみればトレッキングの最中にわざわざ 8 ロールも買う人などいる筈もない

    が、それにしても高いのでビックリ!!そして、その値段は上のロッジではさらに高

    くなって 300 ルピーにもなっていた。

    なお、ついでだが、カメラバッテリーのチャージ代もほぼ同じ値段となっていて、

    ロッジの高度が上がるにつれて 200 ルピー、250 ルピーと 50 ルピーずつ几帳面に高

    くなっていった・・・まるで日本の山小屋の缶ビールのように・・・。

    (5) ゴミ入れ

    トレッキングルートの休憩場所近くにはしっかりした作りのゴミ入れがあり、美観

    のためなのかロッジやレストランなどの建物がそうであるように石造りで屋根は緑

    色に塗られている。

    その屋根の上には「LET’S KEEP KHUMBU CLEAN」と地名の表示があり、左側

    の投入口には「Plastic & Paper’s」右側には「Glass & Can」と明示されていてきち

    んと分別回収ができるようになっている。

    興味があったので中を覗いて

    みたが、トレッカー達はロッジで

    大きなゴミを処分するし、ボッカ

    達は水筒などを携帯している事

    もあって、有効に活用されている

    とは思われなかった。

    むしろ、トレッキング道の周り

    にはビニールやペットボトルが

    多かったし、シェルパも道に落ち

    ているペットボトルを見えない

    所へ蹴飛ばしたりしていて、

    “意識はまだまだ”と思った。 P18

  • (6) 水場・洗濯場など

    今回歩いて感じたのは、エベレスト街道は案外水が多い!ということだった。最大

    の集落であるナムチェバザールに登り始めるまでは大きな渓谷に注ぐ多くの沢を渡

    ったりするので水に不自由しないのは当然だが、広く開けた斜面にできた町ナムチェ

    バザールにも豊かな流れがあり、飲料用の水汲み場とか共同洗濯場が設けられていて、

    そこには賑やかに話しながら洗濯をしている女性達の姿を見ることが出来る。

    確認はしなかったが、ホテルや大きなロッジなどは水道が引き込んであって自由に

    使えるようだし、普通の家はおそらくポリタンなどで運んでいるに違いない。

    洗濯場の風景はどこも同じようで、

    イエティの頭蓋骨があったクンデのゴ

    ンパの近くでも 4,5 人が話しながら洗

    濯をしてい

    た。

    驚いたの

    はそのすぐ

    近くの排水

    口をセメン

    トで修理し

    ていた左官屋が私を日本人だと知ると、わざわざ「マナス

    ルに登った時の記念に貰ったものだ。」といって得意気に

    腕時計を見せてくれた時だ。シェルパだけでは飯が食え

    ないので普段は色々な職に就いていて、その時だけシェルパとして雇われるのだろう。

    それにしてもアナログの頑丈そうな腕時計の写真を撮らなかったのがとても残念だ。

    [ 写真説明 ]

    左側:街道沿いの水栓

    (頂部は人の顔、あごに蛇口)

    右側:タンボチェの水場

    (広い斜面にあってとても

    水が出そうに思えない場所) P19

  • 石囲い

    残念ながら私達が訪れた時は裸地であったり枯草しかなかったのだが、エベレスト

    街道の集落の近くには春から夏の間ヤギやヤク達を放牧するための牧草地があって、

    その季節になるときれいな緑

    色の広場となるらしい。

    そして、そこには勾配のせい

    なのか地形のせいなのか、それ

    とも昔からの地権のためなの

    か判らないが、石囲いが周りの

    山々を背景にして何とも言え

    ない美しい曲線を作って実に

    見事な景観を作っている。

    感心したのはその積み方で、

    日本によくあるのは角張った

    間知石を両側に積んで間に土

    砂を詰めた角張って厚みのあ

    る石垣なのだが、ネパールでは

    その辺りにある丸まった大小

    の石ころを器用に積み上げて

    造っていて、頂部がデコボコな

    のは判るが驚いたことには石

    と石の間の隙間から向う側が

    透けて見える事だ、それでいて

    崩れない。

    想像するに土地が痩せたこのあたりでは土そのものが貴重であろうし、用さえ為せ

    ば仕切りは薄い方が良いに決まっている。降雨が少ないので地面が緩んで崩れること

    がないのかもしれない。ひょっとしたら、中に入っているヤギやヤクが従順なのか、

    危険予知感覚が優れているのかで、仕切りには近寄らないかもしれない?

    P20

  • 無念の下山

    高度順化については 5 年前にキリマンジャロ 5895mに登ったことがあり、今度の

    トレッキングは最高のカラパタールでも標高 5550mしかないので、あまり考えずに

    まず大丈夫だろうと楽観的に考えていた。それでも念のため、低酸素障害に効果があ

    るとされるダイアモックスを確保して、先輩のドクターのアドバイスに従って日本で

    副作用などがないことを予め確認して現地入りしたのだ。

    ところが標高が 3500m近くになった 3 日目あたりから夜中に起きた時に少し頭痛

    を感じるようになり、ベッドの中で深呼吸をしたりしていた。

    歩いているときは何ともないので、最初は

    風邪気味になったのかなと思っていたのだが、

    朝夕、オキシメータで血中酸素濃度を計るよ

    うになると他のメンバーが 90%台なのに私

    だけ低い数値が出て、その差がどんどん大き

    くなって、とうとう夕食前の計測では 70%台

    に低下してしまった。そして、その傾向は 8

    日目の高度順化日に 4730mのチュクニまで

    往復した後でも改善しなかった。

    普通、そのような値になると頭痛とか吐き気とかの高度障害が出てくるらしいが、

    私は登っているときには皆と同様に呼吸が荒くなったりするものの、苦しいとか、頭

    痛がするとかの症状もなく意識もはっきりしていたので、ガイドから「普通はもっと

    悪くなる筈なのに不思議ですね・・・」と言われ

    ながら標高 4410mのロブチェのロッジに到

    着し、いよいよ明日からがエベレスト BC と

    カラパタールに登る本番という夕方、酸素濃

    度がとうとう 50%台まで低下してしまった。

    そして、夕食後にシェルパとガイドが相談

    した結果、“ベッドで酸素吸入”という人生初

    めての経験を余儀なくされて、シェルパがコ

    ックを調整したボンベからのシューというか

    すかな音を聞きながら 1 時間ベッドで横になることになった。

    その間は、「酸素吸入したら格段に気分がよくなるのかと思っていたが、そんなよ

    うには感じられないな!」とか、「酸素は無味無臭と学習したのだが、その通りだな

    あ」といった事を思いながら、「折角、このために来たのにこんなことになってしまっ

    た! こんなことなら、早くダイアモックスを服用したら良かった」 vs 「いやいや、

    服用したら何か悪影響があったかもしれないのでこれで良かったのだ」とか「少なく

    ともガイドに相談すべきだった」「でも、ガイドも最近は慎重な発言しかしなくなっ

    たからな・・」といった後悔、割り切り、慰め、諦めの思いが幾重にも錯綜したのだ

    った。

    ロブチェのロッジへ

    高度順化でチュクニへ

    P21

  • 酸素吸入の後でも数値は 80%台への回復が出来ず、更に悪いことには翌朝のベッ

    ドの中の測定でも 53%という数値になってしまったので、今回の目的であったカラ

    パタール登頂やエベレスト BC への道が完全に閉ざされてしまった。

    エベレスト BC へは行程が長いのでいつもより 1 時間早い 7 時前、気力十分に出発

    する本隊を背に、私は若いシェルパのパー・リィーン Paleen と一緒に自分の元気さ

    を精一杯アピールするようにペリチェ 4243m へと一目散に駆け降りた。

    日本に帰ってから、

    先輩のドクターやか

    かりつけの病院の先

    生から

  • ナムチェバザール

    ネパールのクンブ地方最大の集落であるナムチェバザールはシェルパの里とも天

    空の村とも言われ、正面にはタムセルクやイーストサミットが望め、背後にもヒマラ

    ヤの峰々が控えて

    いるエベレスト街

    道の要衝である。

    その、南西向きに

    広く開けた斜面に

    はトレッカーのた

    めのホテルやロッ

    ジ、それに土産物屋

    が数多くあるだけ

    でなく、一般の人が

    利用する食料や日

    用品の店、薬局や金

    物屋、それに銀行ま

    である。

    また、クンデに向かった朝は、開催する曜日や時間の限定がある市場がたまたま開

    かれていて、色々と雑多な品物が並んでいた。私達はトレッキング中の食料の仕入れ

    も兼ねて通り抜けただけなのだが、その賑やかさと人々の活気に接することが出来、

    肉屋の店先に並べられた迫力ある生々しい肉塊には度胆を抜かれた。

    P23

  • 13 日目、トレッキングも終盤を迎えたこの日はすごく余裕があってキャンギュマ

    で遅い朝食を取ってゆっくり 9 時に出発したのだが、昼前にはナムチェバザールに到

    着して、昼食後は一人で気ままにナムチェバザールをぶらつくことが出来た。

    ホテルは混み合った市街を離れた高台にあってテラスからは同じような高さに沢

    山のホテルが見え、その近くには場違い

    な感じの赤いテント群が目立っていた。

    聞けば、ホテルやロッジではなくてテ

    ント泊を希望するトレッカー用のテント

    という事だった。

    土産物屋も沢山あって店先からは商品

    がはみ出て並んでいる。土産物だけでは

    なくて、登山用の靴や防寒着、衣類、帽

    子、手袋、ストック、水筒、ザックなど

    等ありとあらゆるもの、それも新品も中古品も

    揃っていて値段もかなり安い。ノースフェイス

    とかマムートとかのブランド品もあったので、

    本物かと聞いたら誇らしげに “ネパールオリ

    ジナルだ!”という返事があった。また、登山

    道具専門店では錆びた木製シャフトのピッケ

    ルがあって、何故か“EXPENSIVE!”と盛ん

    に言っていたが、おそらく、昔の遠征で使われ

    たものだろう。

    ふと気が付くと銃を持った警官が二人、日向ぼっこをしているように並んで座って

    いたので暫く話し込み、尋ねられるままにエベレスト街道やネパールの人々の印象な

    どを話した後で、「なぜ、こんな所に座っているのだ?」と尋ねたらびっくりしたよう

    に「銀行の警備をしている!」と返事があった。

    よく見ると、 PASTRIYA BANIJYA BANK と確かに銀行の

    看板と手書きのレート表(1$=96 ルピー、1 円=0.8 ルピーなど)が掛

    かっていて、間違いなく

    そこは銀行の前だった。

    P24

  • カトマンズを歩く

    ルクラ空港は気象条件などで発着制限が頻繁に起きるのでトレッキングは予備日

    を設けてカトマンズで日程調整することが普通のようになっている。

    事実、帰途には私達も空港で朝6時半か

    ら出発に備えたが、薄い霧のために寒さに

    震えながら10時半まで待合室で待たされた

    挙句、アジア首脳国会議の開催とかの理由

    で閉鎖されたカトマンズ空港の代わりにカ

    トマンズの南東約 80kmにあるラメチョッ

    プという辺鄙な河川敷空港に降ろされて、

    そこからランクルで激しい山道を揺られて

    やっと夕方カトマンズに辿り着いた。

    そして、翌日からのカトマンズの二日間、初日は皆と一緒に商店街バグバザール

    Bagbazar とクマリの館の見物、二日目は他のメンバーはオプション観光に出かけた

    が、私は一人で歩いてヒンズー寺院であるパシュパティナ Pashupatnath とチベット

    寺院ボーダナート Boudhanath、それにナラヤンヒティ博物館 Narayanhiti を回りな

    がら市内あちこちの風景と風物をたっぷり楽しんだ。

    ・・・が、実はホテルから約 4km 強離れたボーダナートを最初の目標として地図と磁

    石を手にして歩き始めたのだが、道路が曲がっていたり交差点がロータリーであった

    り、英語の標識が少なかったりしていて現在地が全く判らなくなり、警察官に尋ねて

    も“そんなに遠い所にはタクシーで行け!”と言われたり、歩いていた人に現在地を

    訊くと散々地図を見た挙句に地図に記載された英語の「Kathmandou」の文字を指さ

    して“ここだ!”と教えてくれただけだったりして、散々苦労した挙句、最初に着い

    たのは二番目に予定したパシュパティナだったなどとたっぷり歩き回った。

    (1) 好対照な二つの寺院

    ヒンズー教寺院のパシュパティナは女

    性警備員に強く指示されて拝観券を買っ

    たにも関わらず、ヒンズー教徒でないの

    で本堂の拝観は拒否されて境内だけの拝

    観となり大枚?1000ルピーをはたいた直

    後だけに大損をした気がした。また、全体

    としては近寄り難く重苦しい雰囲気を漂

    わせてい

    た。

    また、寺院へと続く広い参道には色々な品を売る沢

    山の露店が並んでいたが、山盛りのピーナッツを売る

    店は大きな車輪をつけた屋台だったので珍しくて思

    わず写真を撮った。 P25

  • カトマンズで有名な寺院としてパシュパティナと双璧をなすボーダナートは通称

    “目玉の寺”と言われる有名なチベット経の寺院で三角形の屋根の下に見える大きな

    目玉が特長だ。大きな広場の真ん中に円形の建物があり、広い道を隔てて周囲を店が

    取り囲んでいるような配置で、屋根の先から四方に賑やかなタルチョーが垂れ下って

    いたり寺院の屋上やドーム式の本堂の周りも回遊できたりして、いかにも開放的だ。

    伽藍外側の広い道沿いには喫茶店や土産物屋が軒を連ねており、中央の広場にはハ

    トの餌売りや占い師のパラソルなどもあって長閑で日本の縁日的な雰囲気がある。

    ネパールに出かけたのが 11 月中旬~月末とあって、ルクラ

    のロッジには早くも 2015 年のカレンダーが掛かっていた。そ

    して、その表紙には BUDDHA’S EYE のタイトルと例の目玉

    が大きく印刷されている。この目玉には最初は違和感があった

    が見慣れるにつれて親しみを感じるようになった。

    (2) 物凄い電線

    カトマンズ市街の電線には激しく衝撃を覚えた。それはも

    はや蜘蛛の巣状とかタコ足配線といったありきたりの言葉

    では言い表せなくて、まさに黒い雲、黒い塊となって電柱を

    取り囲んでいる。これなら器用な人が勝手に工事をして、他

    人の電気を盗んでも判らないだろうと思う。

    昨年だったか、家の前で光ファイバーの電線工事をしてい

    る人が「齢をとったので細かい作業をし難くなった」と言っ

    ていたが、彼がネパールに来たら間違いなく気絶してしま

    うであろう。 P26

  • (3) 色々な店、人

    ・パン屋 トレッキング中の食事はあまり旨いものではなかったので、カトマ

    ンズでは皆で旨い日本蕎麦を食べた後、やた

    らパンを食べたくなってホテルの近くのパン

    屋に行った。パウンドケーキ 2 本、大きなド

    ーナツ 5 個、チョコパイとアップルパイを 1

    個ずつ買っても 360 ル

    ピー程でとても安く、部

    屋に戻ってコーヒーで

    アップルパイを食べた。

    ・刺繍屋 エベレスト街道のトレッカーが着ていた山のイラストや名前、トレッ

    キングルートなどがカラフルに刺繍されたT

    シャツを是非とも手に入れたくて、仲間の女

    性が刺繍屋で注文した。

    片言の日本語も話す店主に勧められて沢山

    の文字や図柄の中から気に入ったのを選んで

    色や大きさ、配置などを決めて注文するのだ

    がシャツ込で 1000~2000 ルピーと案外安く

    翌日の夕方には出来上がっていた。

    ・風船屋 風船屋という職業があるのかどうか判らないが、バグバザールの通

    りの中に、その人が目立って立っていた。

    バイクの陰になって良く見えないが、色と

    りどりの風船を先に着けた長い棒を両手で掲

    げて何やら声をかけながら歩いていた。

    風船が売れたら長い棒はどうするのか?

    横に倒すわけにはいかないだろうし、地面に

    置くわけにもいかないし・・・。買えば判るの

    だがもちろん買わなかった。

    ・牛乳屋 人影の少ない通りを歩いていると小さなトラックが止まって白いビ

    ニール袋が一杯入った黄色いコンテナを道端

    に置いて走り去った。何だか判らず、何とな

    く洗剤のようだなと思って通り過ぎたが、気

    になり戻って赤い

    MILK の文字が確

    認した。ビニール

    袋に入った牛乳を

    初めて見た。 P27

  • ・ミシン屋 シャッターを半開きにした場所があったので、中を見ると真ん中

    には足踏みミシンがどっしりと構えていて、

    両側の棚にはビニールを被ったミシンがギッ

    シリと詰まっていた。

    そして、新品のミシンを売っているだけで

    はなくコンクリートの床にはオイル缶やプラ

    スチックボトルがあり、店主は奥で細かな部

    品を調べている様子で何やら修理をしていた

    ようだ。

    ・ヘルメット屋 カトマンズも他のアジアの国々と同じようにバイクが人々の

    重要な足として大活躍していて、ヘルメット

    は必需品となっている。

    この店は“ヘルメットとアクセサリー”の

    看板があって、棚は黒色が基調のものが多か

    ったがヘルメットで埋め尽くされており、正

    面の柱にはパイプ製のフロントバンパーが掛

    かっていた。暫く眺めていた女性は気に入っ

    た物が見つかったのか、店に入って行った。

    ・マフラー屋? 最初は布地屋さんかと思ったが、よく見るとフリンジがあっ

    たのでマフラーを扱っている店だった。

    マフラーがおしゃれのポイントなのかカラ

    フルでとても長いマフラーがギッシリ一杯、

    まるで反物のように並んでいた。

    何故ここにいるのか判らないが、中央の男

    の人は竹笛を売っているようだ。地面に立て

    た竹の棒の上部に針金のようなものを一杯突

    き刺してそれに笛を縦刺しているようだ。

    ・荒物屋 奥の方は判らないが、店先だ

    けでも大変な種類の品物が並んでいた。黒い

    水タンク、ポリ製のたらい、踏み台、バケ

    ツ、ほうきや塵取り、鍋やヤカン、ブラシ、

    植木鉢、プラスチックの棚、ポリタン etc。

    こんなにカラフルではなかったが、日本の

    金物屋も昔はこんな店が多かったなぁと懐か

    しく思った。

    P28

  • ・板金屋 店ではないのだが、通りに面して板金の町工場があって 1mm 位の

    鉄板を曲げるために二人してハンマー

    とタガネで 1m 程の長さの折曲げ線を

    刻んでいたが、中々曲げられないので

    業を煮やして真ん中辺りを強く叩いた

    ら穴が開いてしまった。

    勧められるまま、椅子に座って見て

    いた私が、子供が傷口を治すようにツ

    バをつけて治す真似をしたら大笑いし

    たので、3 人でもっと大笑いした。

    写真はうまく曲げられなかったの

    で私が当て木を使ったやり方を教えて、無事に曲げ終わった時のポーズ。

    ・クマリの館の前の土産物屋 カトマンズの観光地の一つであるクマリの館は

    ヒンズー教の生き神様に会える場所であるが、その前には骨

    董品やアクセサリーなどと共に今回買おうと思っていたアン

    モナイト化石も横に並べた露天が並んでいる。

    立ち止まるとすかさず寄って来て「とても良いアンモナイ

    トだよ」と囁く。言い値は 1500 ルピー

    だったか 1800 ルピーだったか覚えてい

    ないが、とにかく予め 300 ルピーでしか

    買わないと決めていたので到底歩み寄れ

    る値段ではない。

    お互いに何度も値段を言い合って少し

    ずつ値段が下がり、500 ルピーになった

    が、希望に合わないのでその場を離れて

    メンバーと合流した。

    そして、クマリの館の方に歩き始めた時に、先ほどの男がやってきて「私の

    HAPPY は 500、あなたの HAPPY は 300、それならあなたも私も HAPPY になる

    ように 400 ではどうか?」と言ってきたので、それで折

    り合おうかと思ったがこちらにも意地があるので 300 ル

    ピーを出して、これが「私が HAPPY になる LAST

    CHANCE だ!」と言ったら渋々アンモナイトを差し

    出してきた。

    そこで私は左手にアンモナイトを乗せ、右手で相手の

    掌の上にお金をゆっくり乗せて商談が成立、きっと彼も

    HAPPY だったに違いない!・・・と思っている。

    P29

  • (4) 色々な車両など

    カトマンズはネパールの首都なので沢山の車やバイクが走っており、朝夕には

    激しいラッシュがあった。残念ながら日本車は目立たなかったがベンツやワーゲ

    ン、タタなど普通に走っていた、目についた珍しい車両を紹介する。

    ・給水車 or タンクロ-リー

    市街をやたらとタンク車が走っていて白いのは給水車、カラフルなのは石油用

    と勝手に想像したが、元の国の古い塗装そのままの中古車であったのかも?

    ・タクシー、リキシャ

    観光地や繁華街に客待ちで止まっていて、値段は交渉次第のようだ。

    ・豆トラクターとリヤカー、コンクリートミキサー

    左:豆トラクターとリヤカーの組合せは日本でも農家などでは昔よくあった

    右:ホテル近くに古びたコンクリートミキサーがあったが、タイヤがパンク

    していて今は使われていないようだ

    P30

  • おわりに

    11 月 29 日(土)の夜カトマンズ空港を発って、ネパールエベレスト街道 19 日間の

    トレッキングは終わった。

    確かにエベレスト BC やカラパ

    タールには行けなかったが、本当

    に沢山の発見と感動と思い出をも

    たらしてくれた。

    それでなければ 1000 枚以上も

    撮った写真を何度も見直して、こ

    んなものを書き残そうとは思わな

    かったに違いない。

    できれば、カトマンズやエベレスト街道に野良

    犬が沢山いた事やルクラで大人達が興じていたカ

    ロム(インド発祥で日本では彦根あたりでしか見ら

    れないゲーム)、ルクラを出発する朝に旅立ちの無

    事と再会を祈って首にかけて貰った白いスカーフ

    の事などにも触れたかったが次の機会としたい。

    また、年齢のせいか、記憶には随分と曖昧さがあって写真をもとに記憶を繋いでみ

    たが事実の正確さにはまったく自信がない。それでもなんとか感動を伝えたいという

    思いだけは強かった。

    明日から師走という 11 月 30 日の朝、1 か月早いが飛行機の窓には輝かしい新年を

    予感させるように明るい空が広がっていた。

    正月もあったが日本に戻って 1 か月半余 何とかまとめ終わってほっとした!2015.1.20 アキラ P31

  • エベレスト街道概念図

    付録-1

    P32

  • 付録-2

    P33