文学部英米文学科論集 第39号...

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45 Emma の映画化 ―映画化3作品に見る牧歌と喜劇の変容― 広 川  治 1. 小説 Emma における牧歌と喜劇 Lionel Trilling によれば、オースティンの Emma の世界は、シェイクスピア As You Like It のような牧歌と喜劇の要素が融合した世界であるという。ベ イツ嬢やウッドハウス氏を退屈とする Sir Walter Scott の批判に対する反論の 一節で、Trilling は次のようにハイベリーの世界に牧歌の世界を見ている。 They are innocents of such is the kingdom of heaven. They are children, who learned nothing of the guile of the world. And their mode of existence is the key to the nature of the world of Highbury, which is the pastoral idyll. 1実際、オースティンの描くハイベリーという田舎の村には、無作法な人間はいて も、悪人はその前景に登場しない。その行動や発言は一見愚かに見えるが、実は 純粋無垢な子供のようで悪意のない人々の住む平和な村である。それはウッドハ ウス氏やベイツ嬢のような人物だけでなく、主人公のエマにもあてはまる。思い 込みが激しく、自惚れ屋の傾向があったエマは、様々な誤解と失敗から自分の愚 かさに気づいて成長し、ハイベリーの牧歌的理想郷に調和していく。この牧歌的 世界を乱すのは、フランク・チャーチルやエルトン夫人など、共同体の外部か らの侵入者であり、そうした侵入者も最後にはシェイクスピアの喜劇のよう に、喜劇的調和の大きな枠組に何とか納まることになるのである。 さらに、こうした物語の背景に牧歌的な田園風景があることも、例えばドン ウェルでの次のような描写にその視覚的美しさを確認できる。 It was a sweet view sweet to the eye and the mind. English verdure, English culture [i.e.agriculture], English comfort, seen under a sun bright, without being oppresive. 2

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Emmaの映画化―映画化3作品に見る牧歌と喜劇の変容―

広 川  治

1. 小説 Emmaにおける牧歌と喜劇

 Lionel Trillingによれば、オースティンのEmmaの世界は、シェイクスピア

の As You Like Itのような牧歌と喜劇の要素が融合した世界であるという。ベ

イツ嬢やウッドハウス氏を退屈とする Sir Walter Scottの批判に対する反論の

一節で、Trillingは次のようにハイベリーの世界に牧歌の世界を見ている。

  

They are innocents ― of such is the kingdom of heaven. They are children,

who learned nothing of the guile of the world. And their mode of existence is

the key to the nature of the world of Highbury, which is the pastoral idyll.(1)

実際、オースティンの描くハイベリーという田舎の村には、無作法な人間はいて

も、悪人はその前景に登場しない。その行動や発言は一見愚かに見えるが、実は

純粋無垢な子供のようで悪意のない人々の住む平和な村である。それはウッドハ

ウス氏やベイツ嬢のような人物だけでなく、主人公のエマにもあてはまる。思い

込みが激しく、自惚れ屋の傾向があったエマは、様々な誤解と失敗から自分の愚

かさに気づいて成長し、ハイベリーの牧歌的理想郷に調和していく。この牧歌的

世界を乱すのは、フランク・チャーチルやエルトン夫人など、共同体の外部か

らの侵入者であり、そうした侵入者も最後にはシェイクスピアの喜劇のよう

に、喜劇的調和の大きな枠組に何とか納まることになるのである。

 さらに、こうした物語の背景に牧歌的な田園風景があることも、例えばドン

ウェルでの次のような描写にその視覚的美しさを確認できる。

 It was a sweet view-sweet to the eye and the mind. English verdure, English

culture [i.e.agriculture], English comfort, seen under a sun bright, without

being oppresive.(2)

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オースティンの小説は、人物の描写や会話が中心となっているが、事件や人物

の心境の変化に応じた自然背景の設定も決して忘れていたわけではない。エマ

はナイトリー氏とハリエットとの仲を冷たい風雨の夜にあれこれと考えるが、

第 3巻 13章の冒頭で、翌日の天気は以下のように変化していく。

...but in the afternoon it cleared; the wind changed into a softer quarter; the

clouds were carried off; the sun appeared; it was summer again. With all the

eagerness which such a transition gives, Emma resolved to be out of doors as

soon as possible. Never had the exquisite sight, smell, sensation of nature,

tranquil, warm, and brilliant after a storm, been more attractive to her.(3)

この後、エマはロンドンから戻ってきたナイトリー氏と再会するのだが、読者

はこうした英国の自然の風景を想像する一方、人々の愚行を笑い、エマあるい

は他の人物の行動にあきれたりしながらも、大半は暖かい目でこの世界を見

守っていき、結局は結婚に象徴される喜劇的調和に安堵するのである。

 では、こうした牧歌的風景と人間喜劇は、実際の自然の風景と俳優の表情や

台詞などから視聴覚的に確認できる映画化作品の場合は、どのように描かれて

いるだろうか。この論では、オースティンの小説の映像化が英米の映画・テレ

ビの世界で続いた 1990年代中頃から後半に製作された 3作品のEmmaの映画

化を取り上げる。最初にGwyneth Paltrow主演の映画(Miramax, 1996)、そし

て Kate Beckinsale主演のテレビ映画(Merridian for ITV, 1997)、そして Alicia

Silverstone 演じる現代アメリカの高校生を主人公にした翻案映画 Clueless

(Paramount, 1995)の順で、牧歌と喜劇というTrillingが原作に指摘した観点を

出発点に考察し、牧歌的喜劇世界がいかに映像に表現、変容されているかを見

ていきたい。

2. Gwyneth Paltrow主演版(1996)

―牧歌と喜劇性の調和

 現在、最も一般に広く親しまれている Emmaの映画化は、Gwyneth Paltrow

主演、Douglas McGrath監督・脚本による 96年の作品であろう。主要スタッ

フ・キャストはイギリス人だが、主演と監督はアメリカ人である。Emmaを可

憐に上品に演じているPaltrowにとって、アカデミー賞で主演女優賞を受賞し

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た『恋におちたシェイクスピア』(Shakespeare in Love, 1998)の 2年前の出演

映画だった。テキサス育ちのMcGrath監督は脚本家としては数作品の実績が

あったが、この映画が初監督作で、その後ディケンズの Nicholas Nickleby の

映画化(2002)などを監督している。Mcgrathは、喜劇を得意とした脚本家で、

アメリカのテレビの有名なバラエティ番組 Saturday Night Liveでキャリアをス

タートさせ、ブロードウェイ喜劇の再映画化『ボーン・イエスタデイ』(Born

Yesterday, 1993)などを監督し、20年代のブロードウェイとギャングの世界を

面白おかしく描いた『ブロードウエイと銃弾』(Bullets Over Broadway, 1994)

では、ウディ・アレンと共にアカデミー賞脚本賞にノミネートされた。Emma

では、原作の喜劇性を監督流に映像的に強調、アレンジし、アメリカ脚本家組

合賞で評価され、脚色賞の候補となった。

 まずユニークなのがオープニング・シーンで、タイトル・バックの映像は、

勢いよく回転している地球である。回転が止まった地球の上に見えるのは、イ

ギリスの地図である。そしてロンドン、次にハイベリーの村、そして様々な登

場人物や屋敷のイラストをカメラが追い、最後にエマの絵が映し出される。こ

こで地球は再び速く回転し始め、原作にはない文章を読む女性のナレーション

が入る。

   

In a time when one’s town was one’s world and the actions at a dance excited

greater interest than the movement of armies, there lived a young woman who

knew how this world should be run.

 ここで回転していた地球が「糸で吊り下げた地球儀」(4)に変わり、それを

手にしているエマがウエストン夫妻らと庭のあずまやにいる。場面は夫妻の結

婚パーティで、エマは地球儀を元テイラー嬢である花嫁に渡す際に“The most

beautiful thing in the world is a match well made and a happy marriage to you both.”

と祝いの言葉を添えるが、このエマの第一声にある "a match well made"は、

「田舎の村の 3、4家族」(“3 or 4 Families in a Country Village”)(5)の世界で

は、世界で一番素晴らしいことであり、原作もこの映画化も目指すゴールであ

る。実際、この映画のラストには、エマとナイトリー氏の原作には描かれてい

ない結婚式後の華やかな場面が用意されている。 

 次に場面はダイニング・ルームへと移り、父娘の対話、ナイトリー氏の訪問

となり、居間での3人の会話となって、エルトン牧師の結婚相手を見つけよう

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としているエマの考えが明らかになる。続くパーティ場面でエマは、エルトン

牧師に面識を得たばかりのハリエットを早速紹介する。このハリエットを演じ

るのが、友人たちからダサいと笑い者にされている女性の結婚への奮闘努力を

描いたラヴ・コメディ『ミュリエルの結婚』(Muriel’s Wedding, 1994)の演技

が高く評価された Toni Colletteで、原作と比較するとかなり滑稽なハリエッ

トである。エマはハリエットを小川の橋の上に立たせて肖像画を描くが、ギリ

シアの女神のような格好をさせられて竪琴を持たされ、ポーズをとっている様

子はどこかおかしく、そのポーズのまま、エルトン氏の賞賛の言葉を誤解して

エマに喜びの合図を眼で送るのも滑稽である。また、エマと貧しい家の世話を

しに訪れ、その後に偶然エルトン牧師と出会い、歩きながら話す場面がある。

エマの作戦に乗せられて、ハリエットは、実際はエマがした世話の様子を話す

が、話の最中に、実際のハリエットがどうだったか、不慣れでおどおどして、

家の中の物や持ってきた荷物を落としてしまっていた彼女の映像が挿入され、

嘘の話と現実のギャップが喜劇的に描かれている。観客の笑いを誘うユーモア

あふれる描写は、ハリエットだけではない。原作でもそのおしゃべりな様子に

ユーモアが感じられるベイツ嬢は、当然のことながら喜劇的で、Emma Thomp-

sonの妹、Sophie Thompsonによって、姉妹の実母である Phyllida Lawの演じ

る老ベイツ夫人と共に巧みに演じられている。

 だがこの映画で最も喜劇的なユーモアを見せているのは、他ならぬエマであ

る。先にもふれたエルトン氏と偶然出会う場面でも、エマはハリエットを何と

かエルトン氏と二人だけで会話をさせようとして、靴の紐がほどけたから先に

行ってくれと嘘をつく。そして通りかかった少年に頼んで一緒に歩いてもら

い、とにかく二人からわざと遅れて歩こうとする。だがその少年はお使いを頼

まれて急いでいて早足で、エマは否応にも前の二人にすぐに追いついてしま

う。二人はちょうど眺めのいい丘で、向き合って何か話をしており、エルトン

氏が“I love...”と言っているので、いよいよエマは愛の告白かと思うが、“I

simply love...celery root!”と野菜の話だったのでがっかりしてしまうのである。

クリスマス・パーティでは、息子フランク・チャーチルからの便りについて興

味深そうな報告をウエストン氏が語り始めて、エマも横に来て聞こうとするの

だが、エルトン氏が寒くはないかなどと彼女に三度も話しかけ、そのたびに話

の肝心な部分を聞き逃してしまい、最後にはため息をもらしてしまう場面もあ

る。ラスト近くのナイトリー氏のプロポーズ場面でも、彼と会って緊張して

“Oh dear!”と言ってしまうが、どうしたのかと聞かれ、“deer”のことを考え

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ていたのと、とぼけたりするのである。一見賢そうに見え、姿は美しいPaltrow

のエマだが、元々、原作もエマの間違いの喜劇と呼べる作品である。その彼女

が思い通りにいかない様子が、映画では喜劇的に描写されていくことで、物語

が単なるまじめな道徳話、あるいは恋物語になることが避けられているのであ

る。

 このように描かれていくユーモアあふれる人間喜劇の描写と同様、原作から

膨らませたもう一つの重要な要素がこの映画には見られる。それは牧歌的な美

しい自然描写である。アメリカ人のMcgrath監督はイギリス人スタッフの意見

を参考に、ドーセット州をロケ地に選び、エヴァーショットという村をハイベ

リーに見たてて撮影したという。前述のナイトリー氏とエマの弓矢を放ちなが

らの会話の場面の背景には、池と緑の芝生を見ることができたが、原作の会話

が室内に設定されていた場合でも、屋外にオープン・アップさせ、庭、丘、森

などの緑を背景にしての会話に置き換えている場合が多い。映画の前半でマー

ティン氏について意見を聞こうとするハリエットとエルトン氏を勧めるエマの

場面は、広い敷地の庭の白いきれいなテントの下に並んで座って、刺繍をしな

がらの会話になっている。会話の途中で二人の姿を近くで捉えていたカメラは

だんだんと引いていき、手前の木の緑をフレームに入れ、「エルトン氏があな

たをほめていた」というエマの台詞の後、画面はエルトン氏の教会に飾られた

緑に代って、エマとエルトンの会話になる。ここでは場面を木の葉の緑のモン

タージュで繋ぐという手法がとられている。原作では室内で描かれるハリエッ

トの絵も小川の橋の上であったし、エマとハリエットがマーティン氏からのプ

ロポーズの手紙を読む際は、場面は村の通りに設定されているが、そこにはか

なりの数の羊が売買用にたくさん並べられている。エマがフランク・チャーチ

ルと出会うのも、原作では室内での紹介となっているが、映画では、一人馬車

を走らせ、川の浅瀬で立ち往生してしまったエマを、フランクが助けるという

脚色になっている。

 映画版 Emma 三作を比較して David Monaghanは、Paltrow版はクリスマス

の場面を除くと原作に描かれている季節の変化がなく、常に夏の風景で、オー

スティンの描く季節の変化を反映していないと指摘している。Paltrow版は

オースティンの社会的リアリズムの映画版には程遠く、妖精物語のようだとい

う批判である。(6)だが、むしろ妖精物語でもいいのではないだろうか。写実

性を追うばかりの忠実な映画化ばかりが映画化として正しいとは言えないだろ

う。原作でエマがハリエットに語るシェイクスピアの A Midsummer Night’s

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Dreamの一節“The course of true love never did run smooth”(7)は、Emmaと

いう小説自体の主題とも言える。いわばエマは、間違えて惚れ薬をたらしてし

まうハートフィールドの妖精パックであり、惚れ薬をたらされる恋人たちの一

人でもあるのだ。実際この映画では、エマが惚れ薬ならぬ恋の矢を放つ存在と

して象徴的かつ喜劇的に描かれている。エマがナイトリー氏にハリエットと

マーティンの結婚に干渉したことを叱責される場面は、野外の緑と池を背景に

したアーチェリーの矢を練習しながらの会話に脚色されているが、相手の強い

論調にやり込められていくエマは、反論しながら放つ矢が的の中心から次第に

外れていき、最後には的から完全に外れてしまう。矢は近くにいた犬のそばに

放たれ、“Please don’t kill my dogs.”とナイトリー氏から皮肉を言われてしま

う有様なのである。(8)

 クライマックスでエマがナイトリー氏からプロポーズを受けるラブ・シーン

では、エマはナイトリー氏と外の散歩道で再会する。原作では、先に引用した

ように、エマは戸外に安息を求め出て行き、ナイトリー氏に出会い、重要な話

となるが、決して詳細な自然描写が合間にあるわけではない。しかし映画で

は、共に小川のほとりを話しながら歩く二人をカメラが追い、最後のプロポー

ズの場面は、緑の中の二人となる。この間、観客は森の緑を視覚的に体験でき

るだけでなく、他の屋外場面と同様、小鳥のさえずりまで耳にできて、日常の

喧騒から遠く離れた世界の至福を味わえるのである。

 原作でも映画でも、ハリエットは農夫のマーティン氏と偶然会った際、『森

のロマンス』(The Romance of Forest)を読んだかと尋ねるが、これはラドク

リフ夫人の書いたオースティンの小説世界とは正反対の非現実的な波乱万丈の

ロマンスである。オースティンの小説は、小説のジャンルとしては日常の現実

を写実的に描いたノヴィルであって、ロマンスではないが、この映画では、映

像的に美しい緑を背景にした、異なった意味での「森のロマンス」が映像的に

追求されているのである。

 もちろん、この映画はそれだけではなく、喜劇と牧歌の精神の調和も探求し

ている。エマはナイトリー氏の気持ちを知って、夢の中にいるような気持ちだ

と喜ぶが、自分なんて欠点だらけだと謙遜と躊躇を見せる。だがナイトリー氏

は、ここで原作にはない“Maybe it is our imperfections which make us so per-

fectly for one another.”という決定的な言葉を述べる。このナイトリー氏の台

詞は、単に二人の間の台詞としてだけでなく、小説 Emmaが本来、提示して

いた喜劇の精神の核にあるものと呼応する台詞である。我々は愚かで欠点だら

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けかもしれないが、それを怒るのでなく、むしろ笑いながらも認め、互いに補

い合っていくべきだという精神。それはまさに原作からTrillingが読み取った

牧歌的喜劇の精神へとつながるものである。そして彼が心を打ち明けた後のエ

マの返事は、原作では作者によって意識的に“What did she say? ― Just what

she ought, of course. A lady always does.”(9)とぼかされているが、この映画で

は単刀直入な“Marry me.”という言葉の後、広く枝が伸びた大きな木の緑の

傘の下でのキス・シーンとなるのである。

 そしてこうした美しい緑の映像を見事に包みこんでいるのが、作曲家Rachel

Portmanの非常にのどかで穏やかな音楽である。エマが間違いに気づき反省す

るような場面でも、メインテーマの旋律をスローテンポで演奏する程度に留め

ており、主旋律がクラリネット協奏曲のように演奏される際などは、まさに牧

歌的と呼べるに相応しい優しさがあふれた音楽に仕上っている。Portmanは、

この映画でアカデミー賞オリジナル作曲賞を受賞している。さらに、受賞はし

なかったもののオスカー候補になったスタッフがもう一人、衣装デザイン

Ruth Myersである。その衣装は、時代との適合性云々ではなく、牧歌的な自

然の中でPaltrow演じるエマの可憐で妖精のようなカリスマ性を引き立ててい

るという点で美しい。

 ナイトリー氏の自分への思いを知ってPaltrowのエマは「口を開いたら夢か

ら覚めてしまいそう」(“if I have not spoken, it is because I am afraid I will awaken

myself from this dream.”)と言うが、この映画はエマが見た「夏の夜の夢」と

呼べるかもしれない。回転する地球を背景にした冒頭のナレーションにあった

ように、この映画は“a young woman who knew how this world should be run.

(Italics Mine) の物語である。そうであれば、妖精のようなエマの幸福な恋物

語も、彼女が自分で作ってウエストン夫人に結婚のプレゼントとして渡した地

球儀の中での出来事、つまり元家庭教師との別れで一瞬淋しそうな表情を見せ

たエマの夢物語であったとしても何ら不思議なことではないのである。

3. Kate Beckinsale主演のテレビ映画(1996)

―田園の中の階級社会

 

 思い込みが激しく夢見がちなエマが、実際に空想をしている様子とその想像

内容を具体的に映像化しているのが、次に取り上げるバージョンである。だが

Paltrow版とは対照的に、その乙女心が描くロマンティックな空想場面は、現

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実の場面を際立たせるための手段の一つにすぎない。

 1997 年のイギリスでテレビ映画として製作された Emma は、Kenneth

Branaghが監督・主演した『から騒ぎ』(Much Ado About Nothing, 1993)に出

演し注目を集め、後にはハリウッド映画の大作『パールハーバー』(Pearl Har-

bor, 2001)のヒロインにも抜擢されたイギリスの若手女優 Kate Beckinsaleが

エマに扮している。Beckinsaleのエマは、Paltrowのような華麗さはないもの

の、お節介で行動的なエマの雰囲気をよく表現した演技となっている。さらに

この映画の場合、エマが心に描く、もし二人がうまくいったらという想像上の

映像が、実際に場面として所々に描かれるので、自分中心の世界を作り上げよ

うとするエマらしさがコミカルに表現されている。例えば、エマがハリエット

と出会うのも、エマが教会で礼拝の賛美歌を歌っている最中、窓から光が射

し、会席中の一人の少女を照らし、それがハリエットなのである。エルトン氏

がハリエットにリンゴのタルトを渡せば、自分に結婚を感謝する二人の場面と

なったり、フランクの肖像画を見つめていると絵が動き出し、“M i s s

Woodhouse. We meet at last.”(10)とエマの手にキスをするというような具合

である。

 ハリエット・スミス役は、Woody Allen監督の『ギター弾きの恋』(Sweet

and Lowdown, 1999)での口のきけない可憐な少女役と、Jim Sheridan監督の

『イン・アメリカ』(In America, 2002)の妊娠中の若い母親役で、後に 2度も

アカデミー賞にノミネートされることになるSamantha Mortonが演じている。

PaltrowとColletteの場合、実は同年齢の女優二人だったが、BeckinsaleとMorton

は4歳の年齢差があるので、ハリエットは原作のイメージに近く、Paltrow版

で見たような喜劇的脚色・演出がないので、よりおとなしく従順な性格な女性

として登場する。

 テレビ映画専門のDiarmaid Lawrenceという監督による演出だが、スタッフ

で注目すべきなのは、脚本の Andrew Daviesである。Daviesは、60年代から

イギリスの映画、テレビ映画に脚本を提供続けてきたベテラン脚本家だが、特

に注目すべきは文学作品を脚色する手腕で、数多くのテレビのミニ・シリーズ

の脚本を担当し、評価されている。この Emmaの前はジョージ・エリオット

の Middlemarch(1994)、デフォーの Moll Flanders(1996)、その後はサッカ

レーの Vanity Fair(1998)、ギャスケルのWives and Daughters(1999)等の脚

色を担当、オースティンの作品では 1995年に Pride and Prejudiceを脚色し、

高い評価を得た。同作品の現代版の小説 Bridget Jones’s Diary の映画化

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(2001)でも、原作者 Helen Fieldingと共に脚本に名を連ねている。

 Daviesが映画の冒頭に持ってきたのは、結婚式でもパーティでもなく、暗

い月夜の空の映像である。鶏の騒がしい鳴き声と侵入者、そして鶏泥棒に向

かってライフルが発射される。物音に部屋で寝ていたエマも目を覚まし、何事

かとガウンを着る、というように、原作では最後の章で話題に登るだけの鶏泥

棒がいきなり一つの場面として描かれるのである。次にウエストン夫妻の式へ

向うエマと父の馬車の場面となり、軽快な音楽と共に Jane Austen’s Emmaと

いうタイトルとなる。カメラは馬車の中の会話だけでなく、道沿いの村の様子

も映し出す。だがその際、馬車が速い速度で過ぎ去った後に、道端にたたずむ

貧しい家の子供たちの様子も一瞬映すのである。

 実はこのあたりに Daviesの脚色の狙いがすでによく表れていると言える。

この映画ではPaltraw主演版に見られたような牧歌的な世界は描かれず、むし

ろ泥棒や貧しい子供たちから小作農、地主に至るまで広く地方の共同体を視野

に捉え、原作の背景にある階級制度の現実にあえて眼を向けているのである。

例えば、Paltrow版では、裕福で優雅な生活にもかかわらず、召使たちの姿は

ほとんど映し出されることはなかったが、この映画では、ナイトリー氏がエマ

の家を訪問に来た時も、エマの家の召使に気遣って声をかけていたり、エマは

農夫のマーティン氏に馬車の上から見下すような視線を送り、マーティン氏が

無愛想に頭を下げたりする。ハリエットに近づく子供たちが飢えているので恵

んでくれと言うのも、この映画ならではの場面である。ボックス・ヒルのピク

ニックでも、大勢の召使たちが丘の斜面を重い荷物を持って運んで行く様子が

描写され、丘の上でも室内と同じように皿の準備がされる様子まであえて描か

れているのである。Paltrow版が牧歌的な人間喜劇だとすれば、Beckinsale版は

田園の中の階級に焦点を当てて、エマがナイトリー氏のリードで、偏見を超え

て広く人間を受け入れる心を養うまでの物語になっていると言えるだろう。

もちろん、庭や丘からの美しい映像がまったく見られないわけではないが、こ

の映画で最も広大な田園風景が望める場面も、その美しさを描くというより

は、広い畑で大勢の小作人たちに挨拶される地主のナイトリー氏を描くための

映像なのである。(11)また、ナイトリー氏がエマに結婚を申し込み、父親を

「鶏泥棒がいるから」と承諾させた後に、原作にはない収穫祭のパーティが描

かれているのも重要な改変である。エルトン夫人は「小作人も呼ぶなんて!」

といらついているが、ナイトリー氏は彼に尊敬の念を持つ農民たちに挨拶を

し、エマを改めて皆に紹介して乾杯となり、祝祭的なダンスとなる。その際に

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エマは今までの態度を改めて、小作人のマーティンとハリエットを祝福し、屋

敷に遊びに来るようにと言葉をかける。そして映画は最後に再び、冒頭と同じ

月夜の映像を映し、暗い中の鶏小屋に泥棒が侵入する様子を映し出してから、

エンド・マークとなるのである。(12)このように Daviesの脚色による映画化

は、階級制度という観点から原作を解釈して映像化したユニークな味わいを残

すEmmaとなっている。Paltrow主演版と好対照で、こちらも原作から掘り起

こした主題を映像的に表現した秀作と言えよう。

4. 現代アメリカ版 Emma~ Clueless(1995)

 Cluelessは Emmaの現代アメリカへの翻案作品で、舞台はビバリーヒルズ。

エマならぬシェールは高級ブランドの洋服を着こなすお金持ちのお嬢様で高校

生である。冒頭“Kids in America”という軽快でポップな曲 に合わせて、い

かにも西海岸の陽気で楽しげな若者たちの様子が、次々とテレビCM(下の引

用の Noxzema commercialとはスキン・クリームの CM)のような乗りでテン

ポよく映し出される。すると観客に語りかけるようにシェール自身の自意識

たっぷりのナレーションが始まる。

   

So OK, you’re probably thinking,“Is this like a Noxzema commercial, or

what?!” But seriously, I actually have a way normal life for a teenage girl. I

mean I get up, I blush my teeth, and I pick out my school clothes.

自分を普通の女の子だというナレーションにもかかわらず、画面上の彼女は、

パソコンの画面上で自宅に山ほどあるファッション・アイテムから学校に着て

行くブランドの服を選ぶほどのリッチな生活を送っている。PaltrowのEmma

も、窓辺で日記をつける場面でその思いがナレーションで入ったり、彼女の打

算を傍白的ナレーションとして他人との会話の途中でも聞くことができたが、

Alicia Silverstone扮するこの現代版エマのナレーションの量は、Paltrow版の比

ではない。シェール自身の独白的ナレーションが各場面に織り込まれ、彼女の

案内と説明で物語は進むのである。だが、その言っている内容と現実の画面に

は大きな開きがあり、このギャップは、『ベイビー・トーク』(Look Who’s Talk-

ing, 1989)で赤ちゃんに大人の声の吹替えで話させてヒットさせた監督・脚本

Amy Heckeringの喜劇的計算の内で、シェールのナレーションは何の苦労も知

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らないお嬢様の自己中心的な思い込みになっているのである。彼女は風俗的に

は明らかに19世紀のエマとは異なる女性だが、エマも苦労知らずのお嬢様で

あったことは、原作の書き出しを読み返してみればわかるだろう。

Emma Woodhouse, handsome, clever, and rich, with a comfortable home and

happy disposition, seemed to unite some of the best blessings of existence; and

had lived nearly twenty-one years in the world with very little distress or vex

her.(13)

シェールは決して“clever”には描かれていなし、21歳よりは若い 16歳の高

校生という設定なので、子供っぽさが目立つ雰囲気はあるが、オースティンの

「私は別として、人からあまり好まれないような女主人公」(“a heroine whom

no one but myself will much like.”)(14)を書いたという言葉は、むしろシェー

ルのためのものではないかと思えるほどの幸福と自信が過剰な状態にいる女の

子で、まさに“the power of having rather too much her own way, and a disposition

to think a little too well of herself”(15)のある女の子なのである。

 ハリエットに相当するのは、タイという地味な転校生の女の子で、シェール

は補佐的な役割をしてくれる黒人の友人ディオンヌ(家庭教師ミス・テイ

ラー?)の協力を得て、髪型、ファッション等を直し変身させ、自分の威信を

かけて彼女のボーイフレンドを見つけてあげようとするのである。このタイに

扮するのが、Cluelessから数年後、実際、女優として大変身を遂げる『8マイ

ル』(8 Miles, 2002)の Britney Murphyである。エルトンだけは同じエルトン

という名前で登場し、牧師ならぬ人気高校生として登場、肖像画ならぬ写真を

賞賛してエマならぬシェールに近づくが、馬車ならぬ高級車で送った際に「好

きだったんだろ」とキスを求めて拒絶されてしまう。シェールは夜の駐車場に

一人降りて帰ろうとし、強盗にバッグを取られ、腹這いにさせられたため、

パーティ・ドレスが台無しで「最悪!」の結果となってしまう。農夫のマー

ティン氏は、薬とスケートボードに夢中になっているクラスメート、ナイト

リー氏は父親の前妻の子で義兄にあたる大学生ジョシュ、さらにフランク・

チャーチルはクリスチャンという新入生で、ジェーン・フェアファックスが登

場しない代りに、彼は実はゲイだったというがわかる。やがてシェールは悩み

事で上の空となり、運転免許試験を落ちてしまい、その上、自分が面倒を見て

きたタイがジョシュを好きになったとエルトン関係の私物を燃やして打ち明け

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るに至って、何も見えていなかった自分は何て「バカ」(“clueless”)だったの

かと悟り、ジョシュへの自分の気持ちに気づくのである。

 もちろんこの現代アメリカへの翻案に英国の牧歌を期待することはできない

が、かなり原作の人物やエピソードに沿った展開で、牧歌的背景あるいは階級

制度の代りに、アメリカの現代風俗がかなり誇張され諷刺的に描かれており、

乗りのいいポップスやラブ・バラードが多用され、テンポ良く場面が編集され

たコメディとなっている。このアメリカ映画を見ると、同じストーリー展開で

も、英国の自然風景を多く映像に取り入れた Gwyneth Paltrow主演の Emma

が、いかに平和で見る者を癒す雰囲気のある田園喜劇だったかがわかるだろ

う。

 だが、19世紀の小説の主人公よりも、この作品のヒロインの方が保守的だ

と指摘する声もある。エマが年老いた父親に文句を言われながらも、実質的に

一家の長であるのに対して、この映画のシェールの父親は、現役の弁護士とし

て活躍しており、やたらと娘を怒鳴って叱りつける元気がまだある。シェール

はむしろ父権的社会の中で、男性に望まれるような女になりたいという願望を

持っているのだというのが Suzanne Ferrisの指摘である。(16)また、この現代

版 Emmaは、原作の持っていた喜劇的アイロニーの感覚をどの映画化よりも

観客に伝えているという意味で、最もオースティンの諷刺精神に忠実な映画で

あるとする Nora Nachumiの好評価もある。(17)

 監督の Amy Heckeringはコメディを得意としている監督だが、文学ネタを

使った遊びの精神も持っている。シェールは先生同士を結びつけるためのラブ

レターを書く際、シェイクスピアのソネット18番の有名な一節“Rough winds

do shake the daring buds of May.”を使うが、“Cliff’s Notes”からの有名な引用

だと言って用いる。さらに、Hamletの中の“To thy own self be true.”という

台詞は、ハムレットでなくポローニアスの台詞だと、ジョシュのガールフレン

ドの発言を訂正したりするが、「メル・ギブソンの映画でそうだったから」と

シェールは付け加えるのである。HeckeringはこのCluelessの脚本により、黒

澤明の『乱』や David Lynchの Blue Velvetなど、アカデミー賞が最優秀に選

ばないような映画を作品賞として主に選んできた硬派の全米映画批評家協会賞

で、最優秀脚本賞を受賞している。

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5. 他のジェーン・オースティン作品の映画化

 現在VHS、DVDで一般に見ることができるEmmaの映画化には、他にBBC

による 1972年製作、John Glenister監督、Doran Godwin主演のテレビ・ドラ

マ があり、4時間強という放送時間を利用して各エピソードを丁寧にほとん

ど原作の流れ通りに描いている。ビデオ・カメラで撮影された室内の映像が中

心で、屋外の映像は別にフィルムで撮影されているが、70年代のテレビ・フィ

ルムの映像には、決して鮮明で美しい牧歌的な風景は技術的にも期待できな

い。映像作品としての評価も決して高くはないが、心配そうで常に落ち着きの

ないエマの父親が、どの映画化よりも目立つ描かれ方をしている。「平和で静

穏な世界の表面の下では、病気や死や貧困が滑稽な仮面をつけてひそんでいる

のである」(18) という原作に関する樋口欣三氏の指摘を視覚的に確認できる要

素を持った作品である。原作と細部を比較する余地はあるだろう。

 BBCテレビはジェーン・オースティンの小説を長時間ドラマとして数多く

製作してきており、Northanger Abbey(1986)、Sense and Sensibility(1985)、

Pride and Prejudice(1979, 95)、Mansfield Park(1983)などのドラマ化があ

る。中でもBeckinsale主演のEmma のシナリオを書いたAndrew Davies脚本の

Pride and Prejudice(1975、Simon Langton監督、Jenifer Ehle、Colin Firth主演)

は人気、評価共に高く、本論で Paltrow版に見たような英国の牧歌的風景を、

現存する貴族の邸宅と共に視覚的にも味わうことのできる作品に仕上がってお

り、演技の質も高い。映画における牧歌的あるいは英国的な田園風景のテーマ

については、改めてこの作品を手がかりに論を深めたい。なお、Anthony

Hopkinsがティルニー将軍を、Kate Beckinsaleがエリノア、そして『ピアノ・

レッスン』(The Piano, 1993)で子役だった Anna Paquinがヒロインのキャサ

リンを演じるNorthanger Abbeyの脚本をAndrew Daviesが執筆しており、2004

年に英国でテレビ放送(Granada)の予定となっている。

 他に映像で見ることができるジェーン・オースティン作品には、古くは

Laurence Olivierがダーシー氏に扮し、Greer Garsonがエリザベスを演じた白黒

のハリウッド映画 Pride and Prejudice(MGM, 1940)から、同映画と同様に日

本では劇場未公開の Mansfield Park(Miramax, 1999)まで様々あるが、何と

言っても、アカデミー賞作品賞候補にノミネートされ、ベルリン国際映画祭グ

ランプリを受賞した『いつか晴れた日に』(Sense and Sensibility, Mirage/Colum-

bia, 1995)が秀作である。エリノアを演じたEmma Thompsonによるアカデミー

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賞受賞の脚本と、それまで台湾で家族のドラマを丁寧に描いてきたAng Lee監

督の手腕、それにマリアンヌ役のKate Winsletほか、Hugh Grant、Alan Rickman

など好キャストの実力により優れた映画化となっている。さらに、Cluelessの

ような翻案作品としてもちろん『ブリジッド・ジョーンズの日記』(Bridget

Jones’s Diary, 2000)も忘れてはならないだろう。主演を演じたRenee Zellweger

の好演や、テレビ版Pride and PrejudiceでもダーシーだったColin Firthを、ダー

シーという名前で現代のロンドンに再び登場させた配役の妙もあり、続編まで

作られ、オースティンの描いた人間喜劇は特定の時代の話に限定されるもので

はないということを Cluelessと同様に証明した。

 こうしたオースティン作品の映画化についてはここ数年、研究書の出版が相

次いでいる。Linda Troost & Sayre Greenfield編のJane Austen in Hollywood(2nd

ed. Univ. Press of Kentucky, 2001) を初めとして、John Wiltshire, Recreating Jane

Austen、(Cambridge, 2001)、あるいは Sue Parrill, Jane Austen on Film and Televi-

sion(McFarland, 2002)、さらには Suzanne R. Pucci & James Thompson(eds.),

Jane Austen and Co.: Remaking the Past in Contemporary Culture(State Univ. of

New York, 2003)、Gina Macdonald & Andrew F. Macdonald(eds.), Jane Austen

on Screen(Cambridge, 2003)など、3年間で 5冊以上という数である。その他

にも、オースティンの映画化作品論4編を含む19世紀英米女性作家の小説の

映画化を論じたBarbara Tera Lupack編Nineteenth Century Women at the Movies:

Adapting Classic Women’s Fiction to Film(Popular Press, 1999)のような論集も

出版されている。いずれの著、論集にも Emmaの映画化に関する論文、章が

あり、本論はこうした書に多くを負っている。これらの書を参考にオースティ

ンの映画化研究はさらに深めていくことができるだろう。

[注](1) Lionel Trilling,“Emma and the Legend of Jane Austen” (1957) in David Lodge (ed.), Jane

Austen: Emma (Casebook, Revised edition, Macmillan, 1981), p.133.(2) Jane Austen, Emma (ed. James Kinsley, Oxford Univ. Press, 1971), p.325 (Volume III,

Chapter VI).(3) Ibid., p.384 (III, XIII).(4) 石木まゆみ(採録)、古田由紀子(字幕翻訳)、「エマ:採録シナリオ」、『エマ』(劇

場用プログラム、Bunkamura、1997)、p.16.(この採録シナリオは、場面、セリフ等を要約した 5頁ほどのシナリオで、英文は含まれていない。)

(5) Letter to Anna Austen, 9 September 1814. Jane Austen’s Letters, ed. R. W. Chapman(London, 1952), p.401.

(6) David Monaghan,“Emma and the art of adaptation”in Gina Macdonald & AndrewMacdonald (eds.), Jane Austen on Screen (Cambridge, 2003), pp.219-24.

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(7) Austen, op. cit., p.68 (I, IX). オースティンはここで“A Hartfield edition ofShakespeare”という喩え方もエマに語らせている。

(8) Nora Nachumiは、矢を射るエマの姿に女神DianaとCupidの象徴を読み取っている。(Nora Nachumi,““As If”: Translating Austen’s Ironic Narrator to Film”in LindaTroost & Sayre Greenfield eds., Jane Austen in Hollywood, 2nd ed., Univ. Press of Kentucky,2001, p.134.)

(9) Austen, op.cit., p. 391 (III, XIII).(10)Andrew Davies,“The Screenplay”, in Sue Birtwistle & Susie Conklin, The Making of

Jane Austen’s Emma (Penguin, 1996), p.97.(11)脚本のDaviesは、“Knightley as an ideal old-fashioned landowner who wanted to share and

celebrate with his tenants”を描こうとしたと述べている(Birtwistle, op.cit, p.57-58)。(12)David Monaghanによれば、ラストが再び鶏泥棒の場面になる点に関して、“the

wheel is always turning because the process of social conservation and correction is nevercompleted.” (Macdonald, op.cit., p.212) と解釈している。

(13)Austen, op.cit., p.3.(14)James Edward Austen-Leigh, Memoir of Jane Austen, ed. R. W. Chapman (Oxford, 1951),

p.157.(15)Austen, op.cit., p.4.(16)Suzanne Ferris,“Emma Becomes Clueless” in Troost, op. cit., p.126.(17)Nachumi, in Troost, op.cit., p.130.(18)樋口欣三『ジェーン・オースティンの文学―喜劇的ヴィジョンの展開』(英宝社、

1984)、p.217.