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日本医史学雑誌第48巻第2号(2002) 306 岡田靖雄 吉益脩夫はその著『優生学」二 潜および三宅の写真をかかげて、「 の先達としての両先生の御偉績を追慕し 書を御霊前に捧げます」としるしている。 三宅鑛一は艮齋(一八一七’一八六八)l秀(一 九三八)とつづく医家の名門にうまれた。秀は医 会で講演したり「医談」に寄稿したりしていて、日本 学史上でも重要な人物である。その妻藤は佐藤尚中の二 あり、鑛一の姉教は三浦謹之助の妻となっている。息仁は病 理学者、娘昭子は生化学者の島薗順雄の妻となり、順雄の弟 安雄は精神医学者であった。 三宅は一八七六年(明治九年)三月二四日に東京の本所区 緑町にうまれた。一九○一年東京帝国大学医科大学を卒業す ると、精神病学教室(呉秀三教授)にはいった。一九○五’ 一九○七年とョ-ロッパに留学。はじめヴィーンでオーベル シタイネルにつき、またフロイトの講義もきいている。ミュ ンヘンではクレペリンについた。愛想のよくないとされるク レペリンに、「かわいがられた」。帰国すると医科大学講師。 一九○九年には東京府巣鴨病院副院長、医科大学助教授。 断種法史上の人 l三宅鑛一I 一九二五年には (精神病学担当)お ○年(昭和五年)には て、第一回精神衛生国際会 七年に私的団体として発足し 神衛生協会の会長となった。一九 誉教授の称号をうけるが、退官の寸 付により開所した東京帝国大学医学部脳研 て、一九四二年にいたった。精神科の建て物 きた脳研究室に前教授が所長としているので、 祐之と三宅との仲はよくなかった。一九五三年保健 賞。一九五四年(昭和二九年)七月六日死去、七八歳。墓 谷中墓地にある。 三宅はやせ型長身で、気品ある顔をしている。その人とな りは、貴族的でしかも江戸っ子、庶民的とされている。早口 で、回診もついている医者がおいつけぬほどの早足。即行性 ともいわれるが、その言動にはかるく・かわりやすい面があ ったようである。松沢病院長としての三宅に、府庁の衛生課 長は心もとないものを感じていた。齋藤茂吉は日記に、三宅 先生は坊ちゃんなり、としるしている。 その業績では、医学心理学・心理検査、司法精神医学・精 神鑑定に関するものがおおきい。また、時代として当然のこ とながら、脳の組織学・病理組織学についての研究もおおい。 精神病学、医学的心理学、病例報告、精神鑑定、精神衛生な

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日本医史学雑誌第48巻第2号(2002) 306

岡田靖雄

吉益脩夫はその著『優生学」二九六一年)の巻頭に、永井

潜および三宅の写真をかかげて、「わが国優生学と優生運動

の先達としての両先生の御偉績を追慕しつつ、この貧しき一

書を御霊前に捧げます」としるしている。

三宅鑛一は艮齋(一八一七’一八六八)l秀(一八四八’一

九三八)とつづく医家の名門にうまれた。秀は医家先哲追薦

会で講演したり「医談」に寄稿したりしていて、日本の医史

学史上でも重要な人物である。その妻藤は佐藤尚中の二女で

あり、鑛一の姉教は三浦謹之助の妻となっている。息仁は病

理学者、娘昭子は生化学者の島薗順雄の妻となり、順雄の弟

安雄は精神医学者であった。

三宅は一八七六年(明治九年)三月二四日に東京の本所区

緑町にうまれた。一九○一年東京帝国大学医科大学を卒業す

ると、精神病学教室(呉秀三教授)にはいった。一九○五’

一九○七年とョ-ロッパに留学。はじめヴィーンでオーベル

シタイネルにつき、またフロイトの講義もきいている。ミュ

ンヘンではクレペリンについた。愛想のよくないとされるク

レペリンに、「かわいがられた」。帰国すると医科大学講師。

一九○九年には東京府巣鴨病院副院長、医科大学助教授。

断種法史上の人びと(その五)

l三宅鑛一I

一九二五年には呉の定年をうけて東京帝国大学医学部教授

(精神病学担当)および東京府立松沢病院長となった。一九三

○年(昭和五年)には、ョIロッパおよびアメリカに出張し

て、第一回精神衛生国際会議に出席した。翌年には、一九二

七年に私的団体として発足しこの年に正式に発会した日本精

神衛生協会の会長となった。一九三六年に定年をむかえて名

誉教授の称号をうけるが、退官の寸前三月六日に堀越家の寄

付により開所した東京帝国大学医学部脳研究室の所長となっ

て、一九四二年にいたった。精神科の建て物のすぐわきにで

きた脳研究室に前教授が所長としているので、後任教授内村

祐之と三宅との仲はよくなかった。一九五三年保健文化賞受

賞。一九五四年(昭和二九年)七月六日死去、七八歳。墓は

谷中墓地にある。

三宅はやせ型長身で、気品ある顔をしている。その人とな

りは、貴族的でしかも江戸っ子、庶民的とされている。早口

で、回診もついている医者がおいつけぬほどの早足。即行性

ともいわれるが、その言動にはかるく・かわりやすい面があ

ったようである。松沢病院長としての三宅に、府庁の衛生課

長は心もとないものを感じていた。齋藤茂吉は日記に、三宅

先生は坊ちゃんなり、としるしている。

その業績では、医学心理学・心理検査、司法精神医学・精

神鑑定に関するものがおおきい。また、時代として当然のこ

とながら、脳の組織学・病理組織学についての研究もおおい。

精神病学、医学的心理学、病例報告、精神鑑定、精神衛生な

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どに関する著書は二○冊をこえる。なかでも、一九三二年初

版の「精神病学提要」は版をかさね、島薗安雄による増補改

訂をえて戦後もでた。

さて、優生学、断種法との三宅のかかわりをみると、まず、

一九三○年(昭和五年)二月三○日発会の民族衛生学会(の

ち民族衛生協会)の理事となり、発会式では六名の記念講演

者の一人として、「社会問題としての精神低格者」の講演をし

ている。機関誌「民族衛生」にかいてはいない。一九四一年

からは協会顧問。一九三七年には日本学術振興会に国民体力

問題考査委員会優生学部委員会が設置されて永井が委員長と

なったが、間もなく永井が東京から台湾にうつったので、三

宅が委員長になった。一九三八年四月には日本学術振興会に

第二六(優生遺伝)小委員会が設置されて、三宅が委員長と

なった。この委員一五名には八名の、研究嘱託七名中には五

名の、代表的精神病学者が名をつらねている。同年に三宅は、

厚生省で断種法を検討するための民族衛生協議会に参加して

いる。このように三宅は、一九四○年に国民優生法が成立す

るまで、その法案準備にかかわった機関の要職にあった。

日本学術振興会第二六小委員会の研究調査事項のうち、「悪

質遺伝病患者者増殖ノ状況ト其遺伝状況ノ家系学的調査」の

うち「精神的事項二関スルモノ」は、三宅、和田豐種、内村

祐之、吉益脩夫が分担者となっている。実際の調査は、脳研

究室の鰭時轍が懸田克躬および大平藤吉(事務官)の協力を

えておこない、その成果は、「精神分裂病家系図」二九四一

年)および「躁諺病家系図」(一九四五年)として刊行されて

いる。発端者とされたのは、一九○九年から三宅が民事およ

び刑事の精神鑑定をおこなってその系図が比較的精密につく

られていた被鑑定人である。両害は、何世代かにわたるくわ

しい家系図とその成員についてのごくみじかい論評とをあつ

めているもので、まとめなどはない。当時、この発端者のと

り方についてなどの批判もなかったようである。この両害は、

多大の労力を要したであろうが、臨床遺伝学上の価値はおお

きいとはいえまい。

では、優生学、断種法についての三宅の論文はどうだった

か。『医学中央雑誌」によって一九二五’一九四四年のものを

しらべたところ、「断種の理論と実際」言臨床薬報」、一九三

九年)、「断種法に関する座談会」(「優生学」、一九三九年)、

「優生遺伝研究」含学術振興」、一九三九年)、「優生学上より

見て産児制限の実行を望む」(『優生』、一九三九年)、「優生学

より見たる断種の可否」(「優生』、一九三九年)、「断種と酒精

中毒」含日本医学及健康保険」、一九四一年)をみいだした。

ところが、掲載誌で東京大学医学図書館に所蔵されていたも

のは一冊だけで、そこからうかがえる三宅の問題への態度は

確乎たる理論あるいは信念にもとづくものとはいえない。さ

らにみると、掲載誌は医学雑誌としては傍流のもので、その

主たる掲載時期一九三九年には断種法制度の大勢はすでにき

まっていた。

さらに、精神衛生についての三宅の著者・論文に関係の言

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歴史学の教育は主に政治経済史についてのものであり、そ

の背後にある社会史、生活史については、必ずしも充分に行

なわれてこなかったところがある。特に宗教が支配した時代

や帝国主義に代表される軍事力が支配した時代を経て、科学

が支配すると考えられた近代においてさえも、歴史を大きく

変えてきたそれぞれの時代に生きる人間の生と死にかかわる

問題の歴史的検証は必ずしも歴史学の中心的課題とはならな

かった。

劣溌同潔紹介茨詫悲沸夫劣去糸同涜悲瀦糸諜夫劣夫糸劣

及をみつけられなかったし、また斉藤美穂(本学会会員)が

婦人雑誌の優生関係記事を探索したところでも三宅によるも

のはみあたらなかった。

こうみると、日本の優生運動を指導し国民優生法制定にあ

ずかったとされる三宅は、自分自身の理論、見識あるいは信

念をもたないいわばかつがれた存在だった、と評価するべき

だろう。

(二○○二年三川例会)

見市雅俊・斎藤修・脇村孝平・飯島渉編

『疾病・開発・帝国医療Iアジアにおける病気と

医療の歴史学』

このたび見市雅俊氏を中心とする文学部、経済学部等に身

を置く学究による、病気と医療の近代史にかかわる問題を論

じた本書が発刊されたことの意味は大きい。近代アジアにお

けるその歴史については、ョ-ロッパ、アフリカ、アメリカ

両大陸についての研究に比較して、その多様性と中国文化圏

の存在の大きさのために、いまだ未開拓状態にあると編者は

述べている。この地域において、日本という後発の帝国主義

国家が急速に発展した歴史のなかで政治、軍事と不可分の関

係にあった衛生行政についての再検証は避けて通れない問題

である。特に第二次世界大戦後に可能となった、DDTやワ

クチン・化学療法剤による物量作戦的保健医療の開始以前に

おける衛生行政の重要性はきわめて大きかったと考えられる。

本書の第一部では四編者による研究史の概観がされてお

り、この領域についての問題提起と現在までの整理がされて

いる。第一章の見市雅俊氏による「病気と医療の世界史」で

は開発原病の概念とそれに対処した帝国医療の方法が述べら

れている。そしてアメリカにおける鉤虫症対策を中心とした

ロックフェラー財団の関与が詳細に解説されている。本書で

は触れられていないが、日本の国立公衆衛生院創設に関わる

援助の文脈が読み取れる。第二章は斎藤修氏による「開発と

疾病」であり工業化社会に先立つ農業の集約化から発生する

疾病構造の変化と、その後の工業化社会での病気の歴史にお

ける経済決定論が紹介されており興味深い。

第三章は飯島渉、脇村孝平両氏による「近代アジアにおけ