1.公園の誕生公共公園Public Park 1.公園の誕生 産業革命と公共公園...

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公共公園 Public Park 1.公園の誕生 ■産業革命と公共公園 ヨーロッパの産業革命と急速な都市化。特にイギリスの19世紀、都市環境が悪化市民の健康と娯楽のために公共公園public parkを造るべきだ。 19世紀以前には、スクウェア、コモン、ヴィレッジ・グリーンという街の中の緑の広場が コミュニティに安息とレクリエーションの場を提供。 これらを拡張し、公共公園という新たな概念のもとに体系化。 2. イギリスにおける公共公園造りの2つの流れ 1)王室や領主の庭園の開放 英国王室の狩猟地が、もともとパークと呼ばれていた。 50100haくらの規模のこうした自然地が都市の住民のために次第に開放。 リージェント・パーク。セント・ジェームス・パーク(1828)、ハイド・パーク、ケンジントン・ ガーデン等があり、ロイヤル・パークスと言われる。 これらの多くは、スウィッツアー、ブリッジマン、レプトンなどにより設計されたピクチャレ スクすなわち風景式庭園。

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  • 公共公園 Public Park1.公園の誕生■産業革命と公共公園

    ヨーロッパの産業革命と急速な都市化。特にイギリスの19世紀、都市環境が悪化。市民の健康と娯楽のために公共公園public parkを造るべきだ。19世紀以前には、スクウェア、コモン、ヴィレッジ・グリーンという街の中の緑の広場がコミュニティに安息とレクリエーションの場を提供。

    これらを拡張し、公共公園という新たな概念のもとに体系化。

    2. イギリスにおける公共公園造りの2つの流れ(1)王室や領主の庭園の開放英国王室の狩猟地が、もともとパークと呼ばれていた。

    50~100haくらの規模のこうした自然地が都市の住民のために次第に開放。リージェント・パーク。セント・ジェームス・パーク(1828)、ハイド・パーク、ケンジントン・ガーデン等があり、ロイヤル・パークスと言われる。

    これらの多くは、スウィッツアー、ブリッジマン、レプトンなどにより設計されたピクチャレ

    スクすなわち風景式庭園。

  • (2)労働者階級の環境改善のための公共公園整備1830~1840年代にかけて、産業都市の環境は急速に悪化。エドウィン・チャドウィックの「労働階級の衛生状態に関する報告書」では、公共の遊歩道や公園が必要。

    リバプールの対岸の郊外住宅地バーケンヘッドに1844年、公共公園を造る。リージェント・パークの方式を参考に、受益者負担方式を活用。

    公園整備と住宅地開発を連携して行い、不動産評価を高めて固定資産税の増分を公園整

    備の財源とする公共公園整備理論。

    ジョン・パクストンのデザイン。

    逍遙を目的とする2つの池とスポーツやゲームのための広場、馬車の道と歩行者の道をわ

    けるなど新しい工夫があった。

    後にニューヨークでセントラルパークを設計するオルムステッドは、この公園の整備手法や、

    デザインに影響を受ける。

    セントラルパーク隣接地区の環境改善効果を開発利益と考え、それを享受する地区から負

    担金をとる手法。

    園内の歩行者道と馬車道を立体交差するデザインを取り入れている。

  • ■リージェント・パーク(1838年)1811年、皇太子リージェント(後のジョージ4世)は、老朽化の激しかったバッキンガム宮殿の改造及び避暑のための新宮殿の建設を議会に提案。その財源として王室の狩

    猟地にリージェントパークの整備と住宅を開発することで賄う計画をつくる。森林省長

    官・ジョン・フォーダイスはメアリルボーン地区の再開発設計競技を実施。開発取引で

    失敗、破産し、ウェルズにこもっていたジョン・ナッシュは、同じく事業で失敗し借金に

    負われていたレプトンと共同で事務所を開いていたが、たまたまコンペに応募して当

    選した。1810年~1830年に設計及び建設。王室の狩猟地であった街はずれのマリリボーン・パークを都心のセント・ジェームズ・

    パークと結ぶ連絡道路を拡幅と、それに伴う沿道建築物の更新(パーク・クレッセント

    の住宅開発)。

    さらに公園周囲に中産階級を対象にした賃貸住宅開発を計画。個人の投資家の参加

    を求めた。これらによる王室の借地・借家料の増収により公園の整備を行った。新た

    な公園に隣接することから、土地の付加価値が高まり、約7倍の借地借家料の計画。

    自然風景式の公園が完成し1838年に市民に開放され、公共公園となる。その後、この開発整備方式がモデルとされ、19世紀中頃に、ロンドンでは、ヴィクトリア・パーク、パターシー・パーク、リバプール対岸のバーケンヘッド・パークなどが造られた。

  • リージェント・パーク再開発計画

    ロンドンの中心部にあるセント・ジェームス・パークとメアリル・ボーン・パークを結ぶ道路を拡幅整備し両側の建物

    も整備した。道路の西側にはメイフェア地区などウェストエンドと呼ばれる貴族やジェントルマンの高級住宅地が

    あり、東側のソーホーと呼ばれる小商人たちの住む雑然たる地区との境界を果たすこの道路は、住み分けを図る

    ことになり、結果として賑わいの通りとなった。西側から公園の北側周囲を廻る運河は東側の端で市場と接するよ

    うにしたのも成功した。公園の東西周辺部に計画したテラスハウスと呼ばれる中層集合住宅は煉瓦つくりの上に

    スタッコを塗り、様々な様式でデザインし、経済的で人気のある住宅となった。田舎の自然環境の好きな英国人で

    庭を持つことができない中流市民のために都市に持ち込まれた田舎がリージェントパークであった。

    ウェスト・エンド

    ソーホー

    セント・ジェームス・パーク

    リージェント・パークリージェント・ストリート

  • リージェント・パーク

    リージェント運河 動物園

    カンバーランド・テラス

    市場

    チェスター・テラス

    ヨーク・テラス

    コーンウェル・テラス

    サセックス・プレイス

    ハノーヴァー・テラス

    動物園拡大図

  • リージェント・パーク

    リージェント・パーク 東門、ヴィラ、キャサリン病院

    リージェントパークを利用する人々1863年

  • バーケンヘッド公園(リヴァプール郊外、1844)後の1851年ロンドン万博でクリスタルパレスを造るジョン・パックストンにより設計。公園部分を馬車や馬で横断する道路と人々が散策する遊歩道を分離した交通計画が採用されたり、スポーツ等活動的レクリエーションのた

    めの広場が設けられ、これ以後の公園計画のモデルとなる。ニューヨークのセントラルパークにも大きな影響を与

    えた。

  • 3.各国の公共公園整備の進展■パリ

    ブローニュの森の改良は、1851年からすでに始まっていたが、ロンドンに亡命していたナポレオン3世が1852年、皇帝になると、国有地であったブローニュの森をイギリスの風景式公園に整備することに着手。当時革命期の混乱により荒廃が

    著しく、「決闘と自殺の名所」と呼ばれていたこの森をナポレオン3世自らスケッチ

    を描き、ハイド・パークのサーペンタイン池をしのぐものを造りだそうとした。4年間

    で200万フランをかけて改良し、永久に公園として維持管理する条件でパリ市に移譲した。1853年、オースマンがセーヌ県知事になり、アルファンが土木技師として着任すると改造工事が急速に進み、1858年までには、ほぼ現在の形に造り替えられた。この間にパリ市は、競馬場整備のために国と折半で土地を買収し、公

    園面積は850haとなった。パリ市が改良工事に支払った金額は、1,430万フラン、このうち1,090万フランは市街地に近い部分を住宅用地として売却した利益とロンシャン競馬場の収益により充当した。市の実質的な支出は、340万フランとなり、1㎡当たりにすると2.5フラン、当時の物価水準からすると現在の約2,500円程度。オースマンのパリ改造計画で造り出された他の公園も様々な財源確保の方法で

    整備されている。

  • 1900年頃のブローニュの森 ナポレオン三世の反革命的戦略 人々の不満を公園で解消させる

    自転車の貸し出し所

  • ■アメリカ

    新大陸アメリカでは封建都市のストックとしての公園はないため、多くの植民都市は、住民

    自らの力で公園整備を始めなければならなかった。公園法を制定し、計画の意志決定機

    関を政治的に独立した機関として設立。財源の確保は、各自治体の財政能力により、様々

    な形態をとった。基本的には、特別賦課金、公園税などの受益者負担金と公園債の発行。

    特筆すべきは、用地の買収費、受益者負担金の妥当性を判断するために、裁判所がその

    査定機関となったこと。社会資本の整備という公共事業について、不明朗な癒着等の問題

    が生じない賢明な方法。

  • ■セントラル・パーク、ニューヨーク

    公園隣接地に受益地が設定され、公園用地の買収経費500万ドルの32%が、この受益地に課せられた。受益負担が可能な金持ちが集まり、ニューヨークで最も華麗な建築が林立

    することとなった。こうして公園隣接地の資産価値は著しく増大し、市はこれに伴う税収の

    増大により、すみやかに初期の公園投資を回収した。19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカでは、緑地を基盤とする都市計画事業であるパークシステムが全米に渡って整備

    されたが、良質の都市基盤整備が高い経済波及効果を有していたことの証明となる。

    850m

    4km

    340ha

    700m

    700m

    1400m

  • セントラル・パーク、ニューヨーク

    340haの広さ。オルムステッドのデザイン

  • 1820年代に起こったアメリカの公園墓地運動

    1804年ロンドンに創設された園芸協会をモデルとしてボス

    トンをはじめとするアメリカ各

    都市にできた園芸協会を中

    心に新しい墓地づくりがおこ

    なわれた。最初の例はマウン

    ト・オウバン墓地である。建設

    の中心的役割を果たしたの

    は医者であり植物学者であっ

    たJacob Bigelow(ジェイコブ・ビゲロウ)。環境の健康に

    与える影響に関する専門家

    であったビゲロウは、新しい

    死生観に基づいた墓地公園

    を構想した。自然を死を超越

    した存在と考え、それまで死

    の記念碑として都市内部の

    日常的な環境に押し込まれ

    ていた墓石を古典的な暗示

    に富む構成された自然の中

    に消散されるかたちで配置し

    た。

  • マウント・オウバン墓地 1831 ボストン

    自然環境の中を人々が散策しながら、死にまつわる悲しみ

    や苦悶の心境から解放され、やすらかな死の象徴と出会う

    ことが意図されている。

  • 人間は死をもって安らかに、自然の中に還って行く。そのための墓地

    Mount Auburn Cemetery

    Cambridge,Massachusetts

  • ■日本の公園

    公共公園は明治維新により指定される五公園(芝公園、上野公園、浅草公園、深川公園、

    飛鳥山公園)。それまでは、庶民の屋外レクリエーションは寺院の境内や自然の緑地。川

    の堤防や空き地、農耕地、森、水辺、山。飛鳥山の桜と眺望。隅田川の水辺。堀切の菖蒲。

    亀戸天満宮の梅。駒込の菊栽培。団子坂の菊人形

  • 都市の中の自然

    江戸の中にも中小河川と運河が水辺を形成し、多

    様な花木、草花が豊富にあり、人々が自然を楽し

    める場所がたくさんあった。

    堀切菖蒲園(荒川沿岸)

    滝野川のもみじ

  • 明治の五公園 飛鳥山公園

    上野公園、不忍池

  • お屋敷庭園の開放

    六義園(柳沢吉保の屋敷)

    新宿御苑のイギリス風景式庭園部分

  • 新宿御苑 (皇室の御料生産場)

    新宿御苑は高遠藩内藤氏の中屋敷であったが、明治5年に上納され、園芸試験場などに使われていた。

    明治34年にフランスのヴェルサイユ園芸学校教授ヘンリー・マルティネの協力により改造され、フランス

    式整形庭園、イギリス風景式庭園、日本庭園を組み合わせた庭園となった。

    フランス整形庭園のプラタナス並木

  • 9.現代に至る公園設計の考え方■近代庭園

    ルネッサンスにメディチ家の庭園で始まる近代の庭園造りの思想は、300年以上の歳月をかけ、ヴェルサイユにおいて一つの完成。18世紀に英国で始まる自然賛美の庭園造りは、各国に影響を及ぼし、ルネッサンス式の幾何学による庭園造形は次第に衰退していく。

    ■オルムステッド

    公園造りの舞台はアメリカに移り、オルムステッドの自然主義的ランドスケープデザインが

    主流をなし、その後、イアン・マクハーグの生態学志向のランドスケープ理論が登場。

    ■モダン・ランドスケープ

    イスラム文化、ルネッサンス、ロマン主義、現代芸術の4つの流れをくんで進んでいる。地

    球上の生命は無限に相互連結された網状のWeb(クモの巣状)であるということが仏教の教えからわかってきた。新しい人間と自然の関係を新しいフォームで表現するランドスケー

    プデザインが21世紀に求められている。■公園の機能とデザインの再確認

    都市基盤施設としての意味。なぜ公園が必要か。都市の肺。オープンスペース機能。景観機能。

    公園の量と配置とデザイン。どこにどんな公園がどれだけ必要か。都市公園法の基準は妥当

    か。現代に問われる公園デザインの考え方。立地、周辺環境、利用者ニーズ、財政条件。求め

    られるもの:地域社会、時代のニーズ、子供と高齢者。自然との関わり。リクリエーション活動。

    やすらぎ、潤い、環境保全、エコロジー、住民参加。

  • ヒドコット・マナーの庭

    20世紀初め、コッツウォルズ地方の5haの農地に造られた。垣根と芝生に囲まれたいくつもの小庭で構成され、「生きている壁」と「美のジャングル」であふれ、豊かな植栽が見もの。

  • シシングハースト詩人ヴィタ・サックヴィル・ウェスト

    1930年詩人ヴィタ・サックヴィル・ウェストと政治家で

    小説家のハロルド・ニコル

    ソンの所有となったシシン

    グハーストは「ロマンチック

    な廃墟」と言われる。教養

    と庭園への愛に満ちたこの

    庭園は2haの建築的な空間造形を持った美しい庭で

    ある。

    ホワイト・ガーデン

  • 彫刻公園

    ラッセル・ページ「我々は一つ一つの時代、様式、文化

    の堆積の中に生きている」

    水も草花も樹も彫刻も風景の芸術作品として構成され

    る。右:ペプシコの彫刻庭園。

    詩人で、彫刻家のスコットランド人、イアン・ハミルトン・

    フィンレーは庭造りにも才能を発揮し、オランダのオッ

    テルローのクロラー・ミュラー彫刻庭園「聖なる森」、ドイ

    ツのシュトットガルトにあるマックス・プランク研究所の

    キュビズム庭園、そしてスコットランドのフィンレー彫刻

    庭園(下)がある。

  • ハナ・ペッシャー画廊彫刻庭園

    ロンドン南西、サリー州オクリーという小さな街外れに、広さ1.2haの森の中に彫刻が常時100点以上も設置されている彫刻庭園がある。

  • アンドレ・シトロエン公園

    1971年パリのセーヌ川に面する14haの公園。造園家ジャック・クレマンは、自然、変容、建築、人為という四大

    原則により、川(自然)から街(人為)へ順をおって変化

    (変容)する景観を実現した。

  • パオロ・L・ブルギの作品

    採石場跡地を修

    復する公園

    100本のポプラを渦巻状に植えた公園・グリーンスパイラル

  • タナー・ファウンテン 1984、ボストン

    ハーバード大学のキャンパス内の広場に159個の岩を置き、

    噴霧噴水で演出した。季節、昼夜によりこの霧は様々な形態

    をとる。火山から出る蒸気に見えたり、自然公園内の温泉に

    見えたり、人の想像力を誘う。

  • ガス・ワークス・パーク1978 シアトル

    廃棄された都市ガス製

    造工場を市が買い取

    り、土壌環境を改善し、

    子供のための遊び場

    となるように工場と機

    械を安全に改造した。

    残された機械類の全体シルエットは歴史的産業施設を保存することにもなる。

  • 屋上庭園

    カイザー本社ビル屋上 バンクーバー

    広島基町クレド屋上

  • 常陸海浜公園 西口広場水上ステージ

  • 常陸海浜公園 西口広場 噴水池