MANIFOLD- 2 - MANIFOLD #05, Jul. 2002 MANIFOLD マニフォールド #05...

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M A N I F O L D #05 Jul. 2002 幾何学構造研究育成基金 Geometric Structure Foundation

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  • M A N I F O L D #05

    J u l . 2 0 0 2

    幾何学構造研究育成基金

    Geometric Structure Foundation

  • MANIFOLD #05, Jul. 2002 - 1 -

    幾何学構造研究育成基金

    Geometric Structure Foundation

    MANIFESTO 幾何学構造の研究は、いわば来るべき論理、来るべき科学、来るべき芸術の下部構造(インフラストラクチャー)を開拓することである。 ひとつの新しい幾何学構造は、100年単位で次の時代の文化を支えるであろう。この分野における発見がある限り、社会の活性が失われることはない。 歴史上、この学問における重要な発見は、大規模な研究組織よりもむしろダ・ビンチ、デューラー、ケプラーなど、個人研究家やアーティストの独創によるところが多かった。普遍的な法則は常に個人の独創によって発見される。この意味において「普遍」と「個性」は全く矛盾しない。 今日も、限られた環境で地道な研究を続ける多くの個人研究家が存在し、日本を始め世界各地でめざましい成果を上げている。 しかし、その重要性とは裏腹に、今日この知的業績を支援育成する法的体制はあまりにも遅れていると言わざるをえない。新しい幾何学構造を発見することはきわめて困難な精神活動であるにもかかわらず、一旦発見されてしまえば他人は容易にコピー出来てしまう。この明快さが仇となって発見者の業績はとかく軽視されがちである。 同時に現代は「個人」が社会的に弱い立場に立たされる時代であり、研究家は皆それぞれの厳しい現実と戦いながら、ぎりぎりのところでイデアを追究している。 もしもこのまま個人研究家の独創を正当に評価する仕組みが整備されないならば、いずれ個人研究家は確実に減少し、社会には何も新しいことが起こり得ない状況に閉塞し、凡庸さの熱平衡状態への道をたどるだろう。 そこで未来に向けて、少壮の個人研究家を相互支援・保護および、研究家同士の交流を一挙に実現すべく「幾何学構造研究育成基金」を創設した。 「幾何学構造研究育成基金」で積み立てられた資金は、たとえば今後、研究家の作品が何らかの被害にあったとき、ただちに弁護費用に役立てられる。これは個人研究家のための保険機構として働くだろう。 通常の活動としては、年に二回の会報「MANIFOLD」を出版し、会員に配布する。それは会計報告と会員名簿を兼ねる。 会報は会員からのオリジナル論文投稿があればそれらを無審査で掲載するものとし、同時にそれをプライオリティーを保証する記録に役立てようとするものである。これは特許制度や学術論文作成に代わる、より簡易なプライオリティー確保と節度ある公開のシステムとなるだろう。 これを機に、いままで孤立無援の活動を続けていた個人幾何学研究家はもちろんのこと、主旨に賛同される一般の方々からも参加と寄付を集められれば幸いである。

    ルール 会員の2名の推薦をもって入会できる。 当面、年会費は2,000円とする。これに年に2冊の会報「MANIFOLD」の送料は含まれる。 会費納入額に上限はなく、出資額に見合った期間、機関誌は送り続けられる。 極端な話、100年分支払っていただいたとすると、過剰分は実質的に「寄付」として役立てられる。 保険として集められた資金は指定口座にプールされ、万が一事件が起こった場合の弁護士費用としてのみ使われる。 会計報告兼機関誌「MANIFOLD」は毎年2回(1月末日と7月末日)発行する。 会費納入の時点から機関誌は郵送される。 郵便振替 口座番号 00570-4-44362 口座名称 幾何学構造研究育成基金

    会費が未納の時点で冊子の送付が自動停止され退会と見なされる。 退会者は、任意の時点で会費の振り込みと同時に再入会できる。新たに推薦を必要としない。 投稿は規格のA4に著者自身が版下原稿を作成し、基金宛に郵送する。 投稿者は自分の投稿ページ数に見合った印刷費を負担する。1ページあたりの印刷費は10円×会員数である。10円の内5円は保険として基金に積み立てられる。 カラー原稿の場合1ページあたりの印刷費は55円×会員数である。55円のうち5円は保険である。 送付された原稿は無審査で機械的に印刷され、全会員に一冊ずつ郵送される。 内容は原則として完全オリジナル原稿とする。 引用箇所がある場合はその都度明記すること。 会員は機関誌の内容に対して守秘義務を持つ。 記事の内容の全責任は著者本人が持つ。 郵送された原稿の消印日付もしくは受け取り日付が、機関誌のそれぞれの投稿記事冒頭に明記される。 原稿は送られてきた封筒とともに基金事務局に無期限に保管される。 その原稿がその日時に送付されたという事実を、著者の要請があれば、当基金が存続する限り全身で保証するものである。 会員の著作権を侵害する事件が発生した場合、その時点で会員である者に対してのみ、当基金は弁護士費用を貸与する。貸与される弁護対象の著作権は機関誌への投稿内容でなければならない。事件の発生はすみやかに全会員に伝えられ、貸与金額が不足の場合は募金活動も行う。 以前会員であった者に対しては、機関誌への投稿内容が侵害を受けたときのみ、当基金はその投稿事実に基づいて証言、資料提出などの協力を惜しまないものである。しかし事件が発生した時点で会員でなければ弁護費用の貸与は行わない。 裁判等で勝利し賠償が得られた場合、貸与分は当基金に返還するものとする。

    この基金の位置づけ この基金が発行する機関誌の特徴は、投稿された研究が、信用のおける研究家の間だけで発表され、しかし公的には守秘義務によって保護されている点である。 研究のプライオリティ確保の客観的な証拠として役立てられると同時に、万が一事件が起こった場合は、その弁護活動も基金や会員が協力するというものである。 個人研究家の連携による当基金の存在が、日本著作権協会のように知れわたれば、有力な剽窃抑止力になることが期待される。 「機関誌に掲載された内容に対して守秘義務がある」ということは、研究家はこの機関誌に発表後であっても日本で特許出願できることを意味する。(諸外国では特に守秘義務で押さえられていなくても、発明者本人であれば発表後も出願できる場合が多い。そうあるべきである。) 法廷では一般に「事件化する以前に詳細につけられた日記」は有力な証拠となる。 したがって、この基金が発行する機関誌は「組織的な日記」として十分成立するだろう。そのためにも、この機関誌の定期的な発行を徹底するつもりである。 いわばこの機関誌は作家や研究者らによって共有されたC.c.(カーボンコピー)であり「MANIFOLD(手紙の写し)」なのである。 いずれにせよ、機関誌の発行が順風満帆に継続し、事件など起こらないことが最善であることは言うまでもないことである。

  • - 2 - MANIFOLD #05, Jul. 2002

    M A N I F O L D マニフォールド

    #05

    発行:幾何学構造研究育成基金 Published by Geometric Structure Foundation

    MANIFOLD: 多重に折り畳まれたもの/多様体/多様性/多岐管/ 同時にいくつもの機能を果たすもの/手紙の写し

    C O N T E N T S

    0 表紙の図案 COVER DESIGN “Hexa-Twistor : triangular section” ©2002 Akio HIZUME

    1 マニフェスト MANIFESTO 2 目 次 CONTENTS 3 Original Paper ねじれ多重塔 (Postmarked 23 June 2002) 布施 知子 Tomoko FUSE

    6 Original Paper メレンコリアの科学的解析 日詰 明男 Akio HIZUME

    10 Original Paper Hexa-Twistor : triangular section ©2002 Akio HIZUME 日詰 明男 Akio HIZUME

    11 会員名簿と会計報告 投稿募集

  • Po〇七¶arkod23Jun02002

    ねじれ多重塔 布施知子(FUSET。皿。k。)

    正多角形ががずれて重なり、らせんをえがく形を一校の紙から折り出す。

    以下に示す図を下から順に平らに折り畳んでいくと、紙は徐々にねじれてらせんをえ

    がき、ねじれ多重塔ができる。A,B2タイプの折り方がある。ここでは正方形につい

    て示し、正5角形、正6角については、写真で紹介する。

    この一連の研究は、2001年9月に富山大学で公開講座の講師をたのまれた折りに考え

    たもので、富山大学ではできあがった作品のみを披露した。

    Aタイプ:辺上に次の正方形のかどがのる

    正方形

    ねじれ角100

    -山凍

    -谷線

    HANIFOLD#05,JllI,2002●3-

  • S守\・・・い:、

    こ、-′ト、・-

    ■ト

    ∴-,・・こご

    川ANIFOLD#○与,Jlll,2002

    n

  • Bタイプ:辺上に次の正方形のかどがのらない

    Bタイプはaの角度をある程度自由に選ぶことができる。4B-20-20はうろこ

    模様のようになる。

    aの角度は自由だが、450のとき穴が閉じた形になる

    MANlFOLD#○与,Jl叫2002

  • メレンコリアの科学的解析以下の始考は1997年に、松本夏椒氏との共同研究の中で書いたものである。

    事の発端は、松本氏から、デューラーのメレンコリアに登場する立体の模型が作れないかと打診されたことに始ま

    る。私はすぐに宮崎興二氏の本【1】に紹介されていた模本和子氏の作品を思い出し、ただちに追試した。

    正五角形の比率からなる榎本氏のデータもとにできあがった立体をあらためて眺めると、デューラーの作品と若干

    異なっている様に見えた。後日松本氏からも同様の感想を言われ、この立体の比率を洗い直してみようと思い立っ

    たのである。

    以下はその記録である。

    1997.討18 日括明男

    メレンコリアの科学的解析

    ●序

    楯と科学は地続きである

    科学は神話に対してどの程度まで発言権をもちうるだろうか。

    それとも両者はそれぞれまったく異質な世界に属するテキストで

    あり、互いに不可侵であるべきなのだろうか。

    私はふつう思われているほど両者はかけ離れてはいないと思う。

    たとえば、残るべくして残った神階には、一見荒唐無稽な指の展開

    にも、論理を超えた必然性を感じるものである。ただそのr必然」

    は従来の科学の括法をもってしては解きほぐせないだけであって、

    寺嶋舌には心理(脳内)現象の高次な法則が刻印されていると想定す

    るほうが自然だろう。シュレディンガーは科学者の立場から次のよ

    うに書き残している。r物理学が生物学を解明することなどあり得ないが、生物学が新し

    い物理学を要請し、開示することはいくらでも起こりうる」

    世界各地に残る自然発生の集落も、時とともに輝きは増すl劫\り

    で、どこか神話の成立に似たところがある。両者とも紛れもなく人

    間の手によって成されたにもかかわらず、未だいかなる個人によっ

    ても再現できないのである。

    本当に地の作家や建築家によって、新LLや帽舌もしくI淵邑薄の

    設計が試みられたが、悉く失敗してきた。どれもこれも縮局擬態の

    域を出ることはない。すでに完成された神緒や集落をうわぺだけ模

    倣することは、ナンセンスであり、目的の立て方が間違っている。

    とはいえ、それらに憧れずにいられない轍自体は貴重なもの

    である。私たちは神話や集落の論理形式を明示できなくても、少な

    くともそこに来るべき論理が存在していることを“感知”すること

    が出来る。この“感知能力”を手放さない限り、私たちは前進でき

    るかもしれない。

    アリバイ工作する現代文学

    現代の作家の多くはこの感知能力を手放している。わざわざはじ

    めににの作品はフィクションである」と断ることが今や当たり前

    になっているが、このこと一つとってみても、現代において神話に

    匹敵する力を持った作品はきわめて生まれにくいといえよう。

    フィクション宣言は、作家が永遠に作品に対する衰任を問われな

    いよう、アリバイ工作として使われている。そんな天守閣のような

    場所から遠吠えのように「表現の自由」を叫ばれても、その自由の

    値打ちはどれほどのものといえるだろう。彼らは言うだろう。「世の

    中Iコl実などない。ただ永遠の順列組み合わせ過程があるl劫、りだ。

    さあ乱数の生み出した夢を今日も見よう」と。

    【作品の多義性について1

    現代作家はr作品は多面的であり、いろいろな解釈があっていい」

    ともっともらしく語り、作品の捉え方を全面的に読み手にゆだねることが、まるで作品の価値を高めているかのように言われている。

    これも擬態の一種である。彼らは神話が多義的であるゆえに、乱数

    (ハブニン列を使って多義性を模倣しているだけだ。ここには責

    任回避する意図しか私には見て取れない。

    _〇・

    本当に優れた作品の多襲性とは、乱軌こよるものではなく、背後

    に存在する高次の構造に由来するものであり、それを先ほど「必然」

    と呼んだのである。そして私たちはその構造の存在を作品を通して

    感知することが出来るというわけである。

    フィクションのリアリティとノンフィクションのフィクション

    サイエンス・フィクションのなかには、最先端の物理学を厳密に

    援用し、それが破綻するぎりぎりのところで想像力を搾り出そうと

    したようなすぐれた作品があるのはたしかだ。

    そうかと思えば逆にノンフィクションを標梼した作品であっても、

    全くリアリティを感じないものは枚挙にいとまがない。下手なノン

    フィクションを銑むぐらいなら、年譜だけ眺めていた方がよほど有

    意義である。

    リアリティ

    フィクション・ノンフィクションの区別は陳腐である。神結もど

    きを作ろうとすることも同様である。

    要するに私たちにとって作品がどのようなジャン川こ属するかな

    ど本来重要ではなく、私たちは何であれ作品の「リアリティ」を愛

    すると言うべきではないだろうか。

    科学であろうが、文学であろうが、神話・宗教であろうが、記号、

    象徴、文体こそ違え、一般にリアリティの強度をこそ私たちは求め

    ている。

    その意味で真実は一つである。「表現の自由」とは、真実としか考えられないことを、いかなる

    権威にも妨事されずに発言する自由であったはずだ。自分で借じて

    もいないことを勝手気ままに発言することではない、というあたり

    まえのことを確認しておこう。

    ●聖書のリアリティ

    次のような餓諭は起こるぺくして起こるだろう。

    科学的事実として、処女懐胎はいくらでも起こりうることはよく

    知られている。 もし新釈聖霊が事実を述べているのだとしたら、

    イエスは肉体的には女性であったはずだ。女性であることによって

    原典である聖書の解釈に支障をきたすことがあるだろうか。

    後世におびただしく描かれ、彫られた髭面の偶像が、そう仮定す

    ることを困難にしている。このことは、どのようにして原典が改鼓

    され、男性優位体制にキリスト教が利用されていったかといった、

    知られざる歴史を浮かび上がらせるかもしれない。

    以上のような仮説に対して予想される当然の反応として、まず神

    学者はrイエス・キリストはジェンダーを超越した存在なのだから、

    性を間矧こするなど不睦槙である」と音うだろう。また、キリスト

    教徒でない人も「聖書の大半は神括(おとぎ話)であり、それが物

    理法則に反しても繁くに当たらない」と言うことだろう。

    皮肉にもキリスト教徒がこの仮説を否定すればするほど、聖書の

    虚構性が彼ら自身によって暴かれるというジレンマが生じる。

    安易にフィクションのレッテルを貼ることは、むしろその作品の

    ‖ANIFOLD#05,Juh2002

  • 本当の価値を見過ごし、官凍することにもなりかねない。私たちは

    それがフィクションであると証明されるまで、フィクションではな

    い可能性をあくまでも吟味すべきではないだろうか。

    作家がやむをえずフィクションに頼らざるを得ないときは、そこに明確な意国が存在すべきである。

    故むに値するフィクションとはこのような緊張感の上にあってこ

    そだろう。

    なぜ男として描かれねばなら無かったのか。

    あるいはなぜ処女懐胎でなければならなかったのか。

    周知のようにシュリーマンは、ほとんどの人がギリシャ神話をお

    とぎ拓としてしか扱っていなかった時代に、独りそれを事実と借じ、

    実証的な調査をしたのだった。そして彼はトロヤ遺跡を発見できた

    のだった。

    繰り返すが、妃速とは何であれ現実であるか現実でないかのどち

    らかである。r現実」よりすぐれた「現実でないもの」など存在しない。私たち

    は現実だけを見てゆくことにしよう。括りうべきことのみを請って

    ゆこう。

    メレンコリアI

    ●天轍について

    さてデューラーのメレンコリア(図1)について、秤学的事実や

    透視図法の原理からどのような事実が括れるかを検証してみよう。

    彗星の尾の方向から、太膿は既に沈んでいるか、あるいは昇る前

    であることがわかる。したがってここに描かれている虹は太膿のも

    のではない。虹は半円を形成していることから、観察者の背後の地

    平線上にある月によって作られた虹である。

    月光によってかかる虹とは、ただならぬ現象だし、私も生きてる

    うちに一度でも見られればと思っていたが、意州こもしばしば目撃

    されているようだ。(文献r色々な色」光琳杜出版)

    ●方位の情報

    この作品の横国は徹底した一点投視図法によって描かれている。

    したがって国学の知磯を駆使すれば、作品の中の様々な関係を逆算

    することができる。

    たとえば建物の奥行き方向と、立体の辺abは平行で、それらの稜

    線を延長すれば粍確に一点に集まる(図2)。ここまでは少し透視図

    HAN昨OLD#○与,Jlll,2002

    ~ ぷ戌 ミミシー・、′寝; ノ撃LL‾ 畑 ��� ��� � �� �丁十 �

    ′ヽ1 ��� �� � � �� ��

    空圭濯・~・′∴一丞賦 ��� ���+十 ノ二㌢て � � � �ぎ ‡・

    測二・エ � �鵠塗■ざ禁 �ヽ▲■‡.m � ���.】、よせ 旨く:ぢ � �還犠 � �暮 �二■~イ

    法の知敵があれl灘でも容易に気づくところであろう。

    梯子の3段目を通して見下ろす遠景の建築群も一部を除いてこれ

    に従っている。

    ヨーロッパの教会はおおむね兼を向いている。遠景にみられるロ

    マネスク教会の方向がわかれば、方位の有力な情報となるが、残念

    ながら確定不能である。

    仮に画面の消失点l劃隋確に東を向いているとしよう。版画なので

    原画と作品は鏡像となり、どちらが本当の見え方かとの議論が分か

    れるが、文字が鏡文字でないので、完成作を真と考える。

    彗星は南東へ10度の方向、高度は4.5度にある。(具体的な角度

    の算出は、後で述べる。)

    太陽はまもなく東南へ14度以上の地平線上から現れるであろう。

    月は背後、西北へ3.2度の地平線上にぎらぎらと輝いているはずで

    ある。言うまでもなく月はほぼ満ちている。

    もし消失点が真西の場合、状況は反転し、夕刻を描いたものとな

    る。

    消失点が纂北あるいは真南の可能性もないわけではない。その場

    合この作品は緯度の高い地方の白夜を措いたものということになる

    だろう。

    1514年に、何らかの彗星が地上から解された記録があるかどう

    かに興味が持たれる。

    近景の影は太陽のものでも月のものでもなく、画面右上方からか

    がり火が灯されていると考えられる。

    ●近景の分析

    さらに近景の様々な構造物に対して詳しく分析してみよう。ここ

    で以下の前提を掲げる。

    立体は切頂菱形6面体とする。

    実寸24.3×18.7の図から起こす。

    透視図とは本質的にスケールを問わないものであるが、拡大縮小コピーが容易にできなかった時代の作品であることを考えれば、あ

    くまで実寸の上で考察することの意味は大きい。

    ●観察と帰結

    言及したように、立体の辺abと建物の奥行き方向は水平で平行

    であり.その平行線の消失点は厳密に股定されている。

    立体を真上から見下ろした平面図は図3のように正六角形型にな

    _7_

  • 盲面

    1r\ � � � �…    /つ11

    t �

    餌の韻失点鵜失点    ● ��   消失点 喝′

    図3 艶点

    るから、餌度、30度の方向の消失点も作図によって求まるはずなの

    だが、稀確に一点に集まらない。したがってデューラーは棟数の消

    失点を利用しなかったとしか考えられない。そのような技法は当時

    はまだ一般的ではなかったと思われる。加えて複数点透視を使った

    場合、広大な製図板を必要とするので非現実的である。このことは驚くにあたらない。なぜなら完全な平面園と立面匪さ

    えあれば一点透視の技術だけで透視図を厳密に措くことができるか

    らである。

    立体が理恵的な切頭平行六面体だとすると、底面の3点はどうし

    ても微妙こずれるが、あくまでも平行六面体として話をすすめよう。

    作園によって立体の農開国は簡単に得られる。

    作図から算出したところ、図4のような素数の平方根に基づく比

    率の5角形と正3角形で作られていると判断した。

    a:b:¢:d=√2:√3:√5:18=39.230

    ・●.

    ところがこの作業の後で知

    ったのだが、この立体の比率

    に関して、横山正氏の先行す

    る研究があった。P】

    奇しくもほぼ同様の手法に

    よる解析にもかかわらず、値

    は違っていた。

    どちらの案も実測値に対し

    てほぼ同等の近似である。し

    かし私の案には不均等な切頭

    位置の根拠があるのに対し、

    横山案にはない。この五角形面の形は、私の

    案の場合4×4の格子から図6のように作図できる。もっ

    とも、横山案も図7の様に簡

    単に作図できる。

    l8 蔓 b �t G‡ �d

    実測値 �1.71 �2 �2.87 �1.18 �39,90

    横山案 �√3=1.73 �2 �√7=2.糾 �√7/2=1.32 �40.890

    さ �b �C �d �β

    実測値 �1.45 �1.69 �226 �1 �39.90

    日穂案 �√2=1.41 �√3=1.73 �√5=224 �1 �39230

    ≡≡

    図8ふ叫蓬無廷吏恩讐欝誓禁長…■

    円筒形の石臼は壁に平行に立てかけられていることが作図上明ら

    かになる(図8)。

    しかし背後の段と一節交差しているようだ。この石臼が天使の衣服

    に隠された建物の奥行きを決める根拠となった。

    ●梯子と球

    梯子は透視図法と著しく矛盾する。

    手前にある球体も透視図法を守るとすれば縦長楕円になるlげだ

    が、真円に描かれている。

    どちらも精確に透視図法を括こうとするあまり生じる、画面周辺

    部でのひずみを嫌ったと思えなくもない。この種の掛ま画面が平

    面である限り避けられないものである。

    だがそれを加味しても梯子I地に付いた安定感に欠け、磯もス

    ケールもおぼつかない居心地の悪さを感じる。

    ここにあえて不協和を犯してまで梯子を書き込まねばならなかっ

    た、デュラーの特別な意園があったことは明白である。したがって

    ここに関しては想像力を自由に働かして良いだろう。

    階段は7段あり、その第3段目に当時の素朴な教会社会(現世)が見下ろせる。そして僻者の主たる視線はその1段上の位階に殴

    定されており、そこからr期待(恍惚?)と不安」を象徴する虹が

    立ち上がっている。

    天使の視線も消失点を構確に見据えており(少なくとも2つの眼

    球を通る直線は消失点に収敢する)下界(現世)に注意を払ってい

    る気配はない。

    同様lコ桑体にも特別な意味が盛り込まれているのだろうか。

    球体に関しては作図上の重要な意味を指摘できる。

    HANIFOLD#○与,Jlll,2002

  • というのはこの円の中心と消失点は画面上精確な鉛直線上にある。

    この事実から推測される唯一の機能は、この円の中心を作凰上の「視

    点」としたのではないかということである。透視図を描く際に、視

    点に釘を打って作図することはよくされることでもある。

    ●デューラーの机

    デューラーはまず平面図と立面図を作図したはずである。

    そしてr視点」を設定し、「画面」は立体の休心を通る鉛直面に投

    定したと想定される。こうすることによって作図が柵擢払\つ簡噺こ

    なることは、一点投視を措いたことのある人ならば知るところであ

    る。すなわち、図9に示すように、透視図の立体に、平面図、立面

    図の縮尺と同一の断面園が得られる。

    「視点」とr画面」までの距離(視甜)は図10のようにして

    作図によって逆算できる。【司

    球の中心が視点に設定されていたとすると、下書き状態のメレン

    コリアは、図11仏3折り込み画面)のようであっただろうと推測

    できる。このように平面図、立面図、透視図すべての情報が一枚の

    紙面にコンパクトに収まる。透視図の作画にそれほど広い机は必要

    なく、A3版ほどの面積で足りる。

    人体の大きさから判断して、平立断面図の砲尺は、ほぼ1/10に設

    定されたと考えられる。1/10の縮尺は10進法を使用する文化風な

    らば尺貫法がいかに異なろうと、もっとも使われやすし嘲沢であろ

    う。

    平面国、立面園、縮尺、そして「視点」と「画面」の位置がいっ

    たん分かってしまえば、描かれた事物のすべての寸法や関係を知る

    ことが出来る。読者も手近な物差しで実際に計ってみると良いだろ

    う。

    組剛直/10の場合、天使の座高は約75センチである。また地面

    に置かれた定規の長さABは、約45センチ。視点の高さは地面から

    約97センチとなる。

    建物の奥行きは約42センチで、城壁の厚さ租酷内部空間がつく

    れる厚さではない。

    石臼の直径はほぼ60センチである。

    虹の占める視野角を測ると、わずか31度しかない。現実の虹は

    80度から85度の幅で見えるから、この絵の虹は完全にフィクショ

    ンである。

    天勧ヽら見ると、立体の頂部はほぼ水平紗こ拝して見えているこ

    とだろう。

    遠景のロマネスク教会から、視点の位置する海抜も概算できる。

    葡病者は海抜60メートル前後の高みにおり、教会を見下ろす角はほ

    ぼ4.2度なので、教会lわk平距I馳こして約820メートル彼方にある。

    たびたび星は膿として描かれてきた。ふと私は、彗星lガ良であり、

    こちらを眺めているのではないか - ひょっとしてこの透横国の

    視点から見下ろし角 4.5 度のところに、僻者も含めた近景の縮

    図が、海辺の町に描かれているのではと探したが、そこまでエッシ

    ャーぼりの策術はしていないようだ。

    注釈

    【1】宮崎興ニ『かたちと空間』朝倉暮房1醇3.

    匹】坂根厳夫『イメージの回廊』朝日新聞社1987.

    闘 この報告義をまとめて半年後、松本夏樹氏から次の文献を教えていただいた。

    レイモンド・クリバンスキー、アーウィン・.くノフスキー、フリッ

    ツ・ザウスル、『土星とメランコリー 自然哲学、宗教、芸術の歴

    史における研免蜃田中、模本、尾崎、加藤駅、晶文社、1991.

    この本に視座触算出に関する先行研究があった。Gニーマン教授の

    視座離算出法lよ60度方向の消失点を利用していた。この算出法自

    体は誤りではないが、言及したように、デューラーはこの作品で複

    数点透視国法を使っていないわけだから、この方法は適用すべきで

    はないだろう。さらに、ニーマン氏は「画面」が作品に措かれた水

    HANIFOLD削与,Jlll,2002

    平線に設定されていなければならないとアプリオリに思い込んでい

    るようだ。圃面位置は本来任意であり、水平線と同一視することが

    多いのは単に作図上の便宜にすぎない。

    Gニーマン氏のような方法で、たとえ視距離(「画面」とr視点」

    との胤が算出できたとしても、透視図において全ては相似牌係

    にあるわけだから、配置国のスケールが合わせて考慮されないと、

    それ自身でl嬢意味な値である。写真に写った見かけの寸法にどれ

    ほどの意味があるだろうか。

    したがって私の横座離算出方法がより直拷的である。

    (7)

    ■ihl

    ポ職

    楓 臣 畦 � ��禎点 �図10

    日活案の原寸模型(1997.尉18於松本邸)

    監修:松本夏樹

    撮影:二宮知子

    .●■

  • - 10 - MANIFOLD #05, Jul. 2002

    Hexa-Twitor triangular section

    ©2002 Akio HIZUME

    媒介変数θ、φの定義域

    {θ|0≦θ≦π/5}

    {φ|0≦φ<2π}

    変数

    R:トーラスの半径

    v:トーラス断面の水平半径

    h:トーラス断面の垂直半径

    s:チューブの半径

    t:螺旋トーラスの周波数

    データ

    R :7.27

    v :2.49

    h :2.49

    s :1

    t :1/5

    X 60 X 6

    訂正

    前号MANIFOLD#04, p.7, 図11に誤りがありました。

    右図が正です。

    お詫びして訂正いたします。